ゲーム研究者の井上明人さんによる連載「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。「ゲームや遊びとは何か?」。この問いに答えるべく、ゲームや遊びに関わる多様な現象——ルール、コミュニケーション、非日常など——が興味深いかたちで相互に関係しあっている、その複雑さを論じます。
今回は、多層的に成立する日常行為としてのゲームを「創発」を手がかりに分析します。

「中心をもたない、現象としてのゲームについて」のこれまでの連載記事は、こちらにまとまっています。よかったら、読んでみてください。
端的に言うとね。
2.2.4 ゲームという日常行為が多層的に成立しているということの難しさ
2.2.4.1 日常行為(階層的概念)としての「ゲーム」を考えるということ
遊びやゲームの概念について考えることの困難さをもたらしているのは、その社会的構築物としての側面だけではない。もう一度、ベン図が複数異なるものが書かれる状況があったことを思い出そう。どうしてこれほどに異なる観察が提示されてしまうだろうか。
これには、いくつかの考え方ができる。
もっとも、シンプルな考え方は、ベン図という形式は、複雑な事態の「一つの切り口」しか示せない。観察の範囲や、論理の組み立て方を変えれば、別の図がそれぞれ一定の説得力をもってしまう。三次元以上の立体を、好きな場所で切断して断面図を描けば、断面がいくつも現れるのと同じである。つまり「ゲーム」という概念は、平面図ではなく、立体として捉えたほうがいいのかもしれない。
こうした見方は、実は「ゲームとは何か」という今までの研究者の発想とも近い。たとえば、バーナード・スーツは、ゲームの定義として、「ゲームをプレイすることは、ルールが認める手段だけを使って、ある特定の事態をもたらすことを追求する活動に関わること」[1]という定義を提出した。このためスーツは「ルール中心の定義」として読まれがちである。しかし重要なのは、もう一つ「遊戯的態度(Lusory Attitude)」という概念も同時に立てている点である。スーツは、ルールやゴールといった対象の層と、それを受け入れる心的態度の層を往復しながら議論している。
これはカイヨワなども同様で、遊び-ゲームの定義として6つの条件を挙げるだけでなくルドゥスとパイディアという「遊びの態度」と、アゴン/アレア/ミミクリ/イリンクスといった「遊びの特性」を示した。ここでも、複数の層を組み合わせたモデルが採用されている。
現代的な論者であるユールなどは、より明示的にゲームの多層的な性質に配慮している。既存のゲームの定義をめぐる論点が(1)形式的システム (2)プレイヤー (3)ゲーム外世界のどの層に関わるものかを整理している[2]。
このように、複数の要件が組み合わさって初めて特徴ある創発的な現象が成立する、という観点は多くの理論に共有されている。カイヨワの遊びjeuの定義自体も、単一条件ではなく複合条件を前提としている。
さらに言えば、遊びや、それに類する行為を「複数の層の相互作用」を考えるという発想自体は、もっと古くまで遡れる。たとえば、カントは、美的経験を「構想力と悟性の戯れ(Spiel)」として捉えた[3]。また、フロイトは、意識/前意識/無意識の三レイヤーを前提としつつ遊びの問題を論じている。
こうした多層的な特性は、ゲームという現象のもつ「日常行為」としての特性だと言っていい。ここでいう「日常行為」とは、カイヨワなどが問題にするような非日常(聖なるもの)と、日常(俗なもの)というような区分としてではなく、心理実験などで問題になるような「日常行為」としての性質である。
実験室実験は、日常空間がもつ雑多な要因をできるだけ取り除き、特定の刺激が特定の結果を生むかどうかを確かめるためのクリーンな状況を作る。しかし現実の遊びやゲームは、そのように単純化された場では起こらない。環境、身体、認知、社会関係、偶然の出来事などが同時に重なり合い、その相互作用の中で体験が形づくられる。
こうした、この多層的な日常行為を考えるうえで、議論しておきたいのは「創発」の問題だ。
2.2.4.2 水準をまたぐ説明と、適切な水準の問題:創発
2.2.4.2.1 創発とは何か
創発とは、個別の要素に分解すると、消えてしまうが、それぞれの要素を組み合わせた時に、はじめて比較的安定した新しい性質αが現れる、という考え方である。たとえば人体を考えてみよう。皮膚や骨や筋肉といった部品を寄せ集めても、それだけで「生きている人間」という状態が再現されるわけではない。人間が生きているという現象は、多くの複合的な要因によって成立している安定的な性質である。そこでは、単に要素を足し合わせただけでは説明しきれない性質αが、関係の総体として立ち上がっている。
では、創発の何が問題なのか。問題は、ある水準で観測された変化を、別の水準の結論へと短絡させやすい点にある。たとえば次のような説明がある。「ビデオゲームを長期にわたって遊ぶと、脳波の波形がアルツハイマーの老人に近くなる。だからビデオゲームは危険であり、現代社会の癌だ」という説明である[4]。ここで観測されているのは、「特定条件下での脳波の特徴」である。しかし、その観測から「倫理観の変化」や「実際の行動の危険性」へ飛ぶまでには、多数の未知の経路が挟まる。短期の変化が長期にどう累積するのか、生活環境や教育や対人関係とどう絡むのか、そして行動選択にどう影響するのか。そこには複数の性質が合わさった時に立ち上がっている謎の性質αの影響が何段階にも効いている可能性を考慮しなければならない。創発的現象に無頓着な説明とは、こうしたブラックボックスが組み込まれている可能性を無視して、階層を一気に飛び越えてしまう説明である。
この点は料理の比喩でも説明できる。たとえば、おいしい調味料を沢山混ぜあわせたら、まずい料理ができることがある。ゲームを作るときも一緒で、面白そうな仕組みを全部入れたら、面白くなるというわけでもない。「よい塩」について考えることと、「調味料どうしの関係性」を考えるのは、別々の話である。よい塩について考える専門家であることと、調味料どうしの関係性の専門家であることは別のことだ。いま、「よい塩」の話をしているのか、「調味料どうしの関係性」の話をしているのか。
多層的な現象を扱う時に、創発の問題を考えるとはそういうことだ。
もう少し整理して言えば、創発現象を扱う際の論点は二つに分かれる。第一に、説明にとって適切な水準をどう選ぶか。第二に、どうしても水準をまたぐ必要があるなら、その飛躍をどのように制御するかである。
2.2.4.2.2 適切な水準の説明をどう選び取るか:説明のコストと、ブラックボックスへ配慮
一つずつ考えていこう。
第一は適切な水準の説明をどう選び取るかということだ。すでに述べたように、水準をまたぐ説明にはブラックボックスが生まれやすい。したがって、適切な水準を選ぶとは、ブラックボックスの存在を意識しつつ、説明の粒度を決めることだと言える。
たとえば、あなたが好きなゲーム作品を手に取り、遊び終えるまでの一連の経験を思い出してみよう。作品の広告を見て、作品の価格を見て、その物語を味わい、映像をみて、音楽を聴き、友人とその作品をめぐる会話をし、対戦相手のことを考えたりするかもしれない。
また、その間に、あなたはトイレに行ったり、食事をしたり、家族とケンカしたり、ニュースを見たりするかもしれない。あなたの食事の塩分濃度はもしかすると少し濃かったかもしれない。もしかしたら、食事の時に歯がだいぶ痛かったかもしれない。
では、そのゲーム作品がどのような体験だったのかを説明するときに、あなたの体内で、虫歯の菌がどのように歯痛に作用したかの分析を説明に加えるべきだろうか?
少し風変わりなエッセイを書く人は、あえて歯の話をするかもしれない。しかし、ほとんどの人は、その作品について説明するときに、虫歯菌について分析を加えることが適切な水準の説明だとは思わないだろう。
もしかしたら、人類は数百年後に、人体を構成する素粒子のレベルから個々の心理的変化を語るようなことができるようになる日もくるのかもしれない。しかし、人体の微細なレベルから説明を積み上げていくコストは極めて高い[5]。
「ゲーム」という現象を語るときにも、その都度、その場所ごとに、適切な説明の粒度はある。
実世界のさまざまな現象は実に複雑だが、その複雑性の説明コストという観点からすれば、ある水準での説明でだいたい的確な予測や記述ができるならば、別の水準の説明を借りてこなくてもよい[6]。
2.2.4.2.3 創発的性質を明らかにするための学際的アプローチ
その水準で予測・説明が十分に機能するか(目的適合)、確認したい要素がその水準にあるか(介入可能性)、上位水準に飛ぶときブラックボックスの所在を明示できるか(透明性)、追加説明のコストに見合うか(説明コスト)といった点をまとめて説明したが、以上のような「適切な説明の水準を選び、それを超え出ることに慎重になる」というのは、大学院で研究者としての教育をうける人は大なり小なり指導されることである。複雑性の水準が変わった時に、創発が起こり、ブラックボックスとなる性質αが生じる。そのため、このブラックボックスαのことを考慮したら、水準を超えた説明に慎重になるべきだという発想はごく標準的な研究者の態度である。
しかし同時に、現実の問題を扱うときには、その「慎重さ」だけでは足りない局面がある。たとえば、あるゲーム作品が非常に多くの人に楽しまれているとする。そこで心理学の専門家に解説を求めれば、注意や記憶、報酬系、没入など、心理学として言えることは提示できるだろう。だが、「なぜ売れたのか」の体験全体を説明しようと思ったら、実は経営学的な見地や、コンピュータサイエンス、CGアーティストといった専門家の見地を動員することが必要だということがある。つまり、単一領域の言葉だけで語ろうとすると、説明できる部分が全体のごく一部に限られてしまうことが少なくない。
ところが、研究の世界においては「学問的に誠実であるとは、自分の専門領域の外側には手を出さないことだ」という規範が、しばしば強く働く。たしかに、専門領域を複数超えるとなると、説明の信頼性や妥当性が下がるということは起こる。しかし、だからといって専門性の内側に閉じこもっていればすべての問題が効率的に解決するというものでもない。現実の問題を解こうと思った時に、説明の水準を往復せざるをえないケースは数多く存在する。
では、どのようにして雑になりすぎることなく、創発現象がもたらす未知のブラックボックスの問題に向き合いながら、我々の実世界の複雑さに向きあえばよいのか?この両者には難しいバランスがある。
結論を言えば、複数の学問領域や、専門性を横断するような取り組みの意義が、ここででてくる。筆者は人文学を中心とした学際研究者という立場を名乗っているが、ゲームという現象の全体像に取り組もうと思えば、必然的に新興の学際研究分野として取り組まざるをえない。ただ、学際研究は魔法の手段では全くない。少し気を抜けば、粗雑すぎる説明をうっかりとやりかねないことを意識しつつ、様々なアプローチで取り組んでいくしかないのだが、いずれにせよ、筆者のみならず遊びやゲームの研究者の多くは学際研究者という立場を選び取っている。
おそるおそる複雑性の水準を往復しようとするしかない[7]。
もう少し具体的に言えば本書は、創発的なメカニズムに無配慮な説明を雑にするために多分野の説明を拝借するのではなく、その創発的なメカニズムがなぜ発生するかを明らかにするために、手がかりになるような多分野の参照を、注意深く、様々な限定をつけながら行うことを目指す。
本稿が想定している複雑性のブリッジは、少なくとも二種類ある。(1)第一に、ここまで論じてきたような日常概念としての「ゲーム」と、日常行為としての「ゲーム」の関わりである。(2)第二に、マジックサークル、ダブル・バインド、自発的学習、共同注意などのゲームに関わる個別の現象どうしの相互作用によって生成される構造といったものを想定している。
本書は、哲学、認知科学やゲーム理論、時には動物行動学の知見なども部分的に参照しながら、議論をすすめる。その際、安易に「ハード・サイエンスでこのような論文が出ているのだからこの議論は根拠付けられている」といった論の運びはしない。もちろん傍証として、隣接する水準の議論を確認することには大きな意義があるし、重要な手がかりとして扱っていく。しかし、それによって実証的に根拠付けられているとは考えない。実証的な根拠付けと、仮説の探索と提示の間には手法上の大きな違いがある。本書は、基本的に実証的なものというよりは、探索的に提出される仮説に属する議論である。ただ、それは単なる思いつきではなく、かなり幅の広い様々な議論どうしの整合性を考えながら、一見矛盾するようにも見える複雑なパズルを解くようにして提出される説明であり、単なる思いつきのようなものとは異なる性質のものだ。
2.2.4.3 創発的プロセスはどのように捉えられてきたか
2.2.4.3.1 複合的に成立する事態の説明モデル:ゲーム研究における「創発」概念は「複合+生成」の意味が強すぎる
先に述べたように、遊びやゲームを扱ううえで、多層的な説明や複数の要素の相互作用のモデルはしばしば用いられてきた。(1)ゲーム研究における「生成」の文脈、(2)子供の発達モデルにおける状態変化(3)ゲーム理論による「近郊」の3つのケースからどのような「相互作用」を想定するのかを確認していこう。
まず、扱いが難しいのはビデオゲームにおける「相互作用」の結果としての「創発」概念の語られ方である。ゲームデザインでよく用いられるMDAモデルなどでは、ゲームを遊ぶときに生じる多様な事態が、ゲームのルールと、プレイヤーの主観との相互行為の結果として理解される。それは、確かに、複数の要素の相互行為の結果として現れている。現代のゲーム研究や、ゲームデザイン論に関わる文脈で「創発」という言葉が使われるとき、このようにして、「新たな状態が多様な形で生成されること」を呼び表すことが多い[8]。
しかし、この意味で「創発」という表現を使うのは、ゲーム研究やゲームデザイン論の文脈を離れると、あまり一般的ではない。むしろ、ゲーム研究やゲームデザイン論の文脈では、特殊な意味で「創発」という概念を使うという慣習がいつの間にか根付いてしまっている[9]。哲学一般[10]、複雑系や、社会科学やシミュレーションの文脈では、単に現象の背景に複合的な事態があるということではなく、複合的な事態の相互作用を通じて、安定した性質・秩序が現れていることに目を向ける。対戦ゲームなどでいえば、「対戦の展開のバリエーションが多様に生成される」というような意味と、「非常に強力な定番の戦法(定石)があるので、ほぼ皆確実にその戦法を使う」というようなことはいずれも複合的なルールセットと遊び手の相互作用によって発生する現象だが、話の力点は全く異なっている。本書では、多様な状態を生成することではなく、安定的に新たな属性が獲得されることを創発と呼ぶ。「その都度ごとに生成される」という意味ではなく、「複数の要素が同時に成立しているときに、単なる累積によっては成立しない新たな属性αがあらわれる」という意味――である。本書内では「その都度ごとの多様な生成」という意味で使われるemergenceの訳語としては「発生」「生成」という言葉をあて、「創発」とは区別する。
単に「複数の条件による生成的現象」という意味ではなく「安定的に成立している」という創発的な世界観に近い理解を前提とすると、現象の説明として複合条件を設定している説明のすべてが該当するとは言えなくなる。たとえばローグライクの自動生成のようなものをゲームデザインの文脈では「創発」と呼ばれがちだが、本書ではこの文脈で「創発」を使うことはない。
こうした世界観によって、組み立てられたものとしては、たとえば、クルーハによる没入についての説明[11]などは、かなり「創発」の説明に近いものだろう。また、チクセントミハイによる「フロー体験」も一体的な状況がある程度まで安定的に発現するものを捉えた理論とも言ってもいいかもしれない[12]。
複数の認知の機構や、モノとの関係が複合的に組み合わさった結果として、比較的安定的な状態が示されるというのが「創発」という概念を使うことの強調点となる。
2.2.4.3.2 幼児の発達変化と遊び
この観点から、遊びに関わる論点を扱いつつ、層的な構造性を仮定し、創発的な状態の獲得の説明を構築した重要な人物の一人に、20世紀の発達心理学の最重要人物であるピアジェがいる。ピアジェは、子どもの認知発達が段階的に変化していくことを前提に、その複合的な現れとして遊びを観察しようとした。認知の組織化が変わっていく過程として捉えようとした点で、ピアジェの視点は複合的な機能の水準変化を強く意識していたと言える[13]。
幼児の遊びを思い浮かべてほしい。幼児は、家のなかにある様々なものをひっくり返して遊んだり、ティッシュをひたすらに箱から引っ張ることに楽しみを覚えたり、とらえどころがない。幼児は自分のまだ知らない、世界のあらゆるものに触れるという、そのこと自体を楽しむ側面がある。その行為にはあまりさだまった形式はない。
これが成長するにつれて、好まれる遊びの傾向に変化が生まれてくる。表1は、4歳から10歳にかけての子どもの好きな遊びが、どう変化していくかを調べたものだ。まず、ティッシュ箱をひっくり返すような遊びをしていた幼児は、少し育つと、ままごとや、人形遊びといった遊びをはじめる。これらは、行為の虚構性を理解しなければ、そもそも遊ぶことができないものだ(表の■薄い灰色部分)。さらに、5歳~7歳ぐらいの年齢の子どもになると、野球やサッカー、トランプやデジタルゲームなど、かなり複雑なルールをもち、組織化された遊び(表の■濃い灰色部分)を遊びはじめる。バットでボールを打つという行為は、それ自体では完結した遊びではなく、攻守・点数・ヒット・ホームランなど、その遊び全体を構成する一連の行為の一部として、理解される必要がある。
質問文:今、好きな「遊び」はどれですか。いくつでも教えて下さい[14]。

表:子どもの遊びの変化
こういった、楽しみをめぐる行動が組織化されていくプロセスをもとに、行為がまだ十分に秩序だった複雑な構造をもっていないものを「あそび」と呼び、虚構性や行為の多層性といった状態を備えたものを「ゲーム」と呼ぶという用法がある。
子供の発達プロセスについて、このような区別がなされるとき、(論者によって多少のバラつきはあるが)基本的には、行為の最初にまず世界との関係を探るような自由な「あそび」があり、そのうちの一部が徐々に秩序形成されていく、という図式になっている。とくに発達心理学などの領域で「あそび」が論じられる場合、実際の子どもの行動変容にあわせて、こういった議論構造になるのは、ごく自然な観察といってもよいだろう[15]。野球やチェス、テトリスといったゲームとされる行為にはしばしば、「これは虚構の行為である」現実感覚の階層性の理解や、各々の行為間のネットワークが、複合的に組み合わせて理解することが要請される。確かにそれは幼児の遊びよりも、いくつかの意味で複雑だ。ティッシュ箱をひっくり返す幼児は、大人が遊ぶような感覚でゲームを経験することができない。ゲームを遊ぶためには一定の「成熟」を必要とする側面がある。ここには、赤子と大人との間で前提となる認知の構成が違うということを前提とする必要がある。単に現れている観察可能な行為だけを見ればいいのではなく、その行為を支えているであろう要素と、行為の関係を考えることこそが分析として重要なのだという観察がある。
2.2.4.3.3 ゲーム理論による均衡の説明
また、秩序の創発的な生成プロセスの説明としてもっとも成功している分野の一つはビデオゲームではなく、数学的な文脈での「ゲーム理論」を用いたものにも触れておこう。
ゲーム理論では、安定的な協力や対立の形が、プレイヤー同士の利得の配分状況の差や、意思決定の順序等に規定されて説明可能なモデルを作り上げている。この理論は様々な人間社会の秩序の説明モデルに使われてきた。
平等のような価値を重視するかどうか、なぜ誰にとっても不本意な妥協のまま状況が固定されてしまうのか。生態系の説明、道徳の正当化、法と経済の関係性、市場の説明、組織の説明、政治行動の説明etc…。ここ数十年の多様な学問分野における猛威を振るってきた学際的ツールの一つである。
ゲーム理論による均衡のような説明モデルは、創発プロセスの理想的な説明の一つといっていいだろう。
主に楽しみとしての「ゲーム」をめぐる議論は、こうしたゲーム理論とはいくつかの概念を共有しているが、直接的には異なる問題を扱っている。また、楽しみとしてのゲームは創発的プロセスを説明するためのツールというよりは、それ自体が創発的に現れているような<説明される対象>という側面が強い。とはいえ、ゲーム理論的な観点はゲームという現象の全体を捉える上での強力なツールである[16]。
以上、ゲームや遊びについて考える上で、「多層性」を前提とする分析が当然のように重要で、強力たりうる。そして、創発(≠生成)、発達による変化、均衡といった概念は多層性に関わる関連概念として重要だということを確認してきた。次に、ゲームや遊びの階層性の具体的にはどのような想定が可能なのかを考えていきたい。
[1] バーナード・スーツ/川谷・山田訳(2015)『キリギリスの哲学』ナカニシヤ出版, p.29
[2] Jesper Juul, 松永訳『half real』pp.42-45
[3] カント『判断力批判』 第九節第四段落(篠田英雄訳(1964)『判断力批判(上)』岩波文庫p.62-67)にて主に語られる箇所である。美学研究者の小田部胤久はこのSpielを「戯れ」や「遊び』ではなく、「活動」と訳すことを提案している。この点については、小田部胤久(2009)『西洋美学史』第12章「遊戯と芸術――シラー」pp.148-150を参照
[4] 森昭雄(2002)『ゲーム脳の恐怖』NHK出版。
[5] 要素が組み合わされ、高度に複雑になってしまったものを、もう一度より単純で、物理的要素に近い要素にむかって分解していこうとする分析は、創発の逆で「還元(Reduction)」と呼ばれる。強い還元主義者のなかには、すべての科学は物理学の用語で記述できるという立場の人もいる
[6] その説明で事足りるなら、それはそれでよいという立場は、コスト的にみて妥当だということは多い。先の例でいえば、常に素粒子さかのぼって議論しろとか、数理的根拠を引っ張ってくるべきだという議論は、過剰なラディカル還元主義だと言えるだろう
[7] 「創発」という概念の捉え方にもいくつかのバリエーションがあり、さらに創発概念のさらに細かな概念分類にもいくつかの定義がある。ピエル・ルイジ・ルイージ『創発する生命』(2009,NTT出版)では、創発によって発現する性質αについて、「究極的には論理的に計算可能でありうる」とする立場が弱い創発主義とされ、「新たな性質は計算不可能である」という立場が、強い創発主義を想定した立場とされている。筆者のここでの説明は、ルイージの言うところの弱い創発主義の立場によっている。 また、徳田英幸(2005)「創発システムについて」,http://www.soi.wide.ad.jp/class/20050003/slides/09/32.html<二〇一七年三月二九日閲覧>によれば、弱い創発システムは「ミクロな要素の動きが集まって全体にわたるマクロなパターンが創発するシステム」とされ強い創発システムは「環境変化に適応できる創発するシステム」と定義されている。本稿で扱う論点は、おそらく両方のタイプのシステムを含む。たとえば、ゲームを介して生じる環境への学習プロセスはまさしく後者のものだが、「過剰適応」などといった形でも呼ばれる依存の問題は、前者の問題として整理されることになるだろう。細かく言い直せば、徳田のような分類をするのであれば、ゲームの場合は(1)創発システム自体が系の周囲の環境を認識せず変化しない化学反応による創発のようなケースと、(2)周囲の環境に反応し、再帰的にうまく自己変容を遂げ周囲と適合するシステムの場合と、(3)再帰的な変化自体はしているが変化自体がうまく機能しておらず周囲と衝突を起こしているようなシステム(依存プロセスなど)のような場合との、3つに区別したほうがよい。そのうえで(1)~(3)の全てのケースについてゲームでは扱う必要があり、(2)(3)の間の区別は事後的・社会的に決定されるしかない。
[8] Salen&Zimmerman(2003)という意味で使われることが多い。たとえば、や、Adams, E., & Dormans, J. (2012). Game mechanics: advanced game design. New Riders.などはこういった意味で、emergenceという用語を使っている
[9] ゲーム研究やゲームデザインにおける「創発」は概念と、複雑系やシミュレーションにおける文脈との差異を強調し、ゲーム研究の文脈を批判しているもの議論としては、Soler-Adillon, J. (2019). The Open, the Closed and the Emergent: Theorizing Emergence for Videogame Studies. Game Studies, 19(2).などを参照されたい。ここでは、ゲーム研究における議論は「オープン性」opennessの話と混同しているのではないかとされている。(ただ、Soler Adillonは、新たな性質αが「自己組織化される」ことを創発概念の論点としてより強調している。Soler-Adillonの「自己組織化」までを創発概念に取り入れるのは、標準的やや踏み込んだ定義であるようには思われる。自己組織化は創発を生じうる機構の一つではあるが、創発概念の部分集合と思われる)。
[10] たとえばスタンフォード哲学百科辞典の「創発特性」を見てもこの立場からの記述となっている。O’Connor, Timothy, “Emergent Properties”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2021 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/win2021/entries/properties-emergent/>.(2025年9月1日閲覧)。
[11] G.Calleja(2007)
[12] ただ、フロー体験の安定性はそこまで強固なものではないため、これを一つの秩序の成立と見るべきかどうか、という点については別途、細かな検討を必要とするだろう。この点については第三部において「依存」概念などとの関係を検討している
[13] 清水武. (2004)はピアジェの議論を、特に重要な遊びの構造モデルとして取り上げている。
[14] 出典:CESA『2001CESAキッズ報告書』2001を元に筆者加工。なお、発達心理学系の遊び研究のデータだと、ビデオゲームの遊戯傾向を含めた集計になっているデータが少ない。このデータはその点において、やや貴重なデータとなっている。
[15] たとえば理論的な主張としては、G・H・ミード、河村望訳(1995)『精神・自我・社会』人間の科学社、などを参照されたい。また、遊びの発達プロセスにおける変化はそもそも統計的にも研究としての蓄積がある。ピアジェ以前にもParten, M. B. (1932). Social participation among pre-school children. The Journal of Abnormal and Social Psychology, 27(3), 243–269.などは古典的研究である。子供の発達プロセスに応じて、子供の遊びの傾向が変化し、ルールを伴う社会的な遊びが増加する傾向は、国際的な比較研究でもほぼ確かめられているといってよい。ただし、近年のメタレビューによれば単に発達プロセスだけで幼児の遊びの傾向を説明できるだけではなく文化、環境、社会、経済などの側面が個別の子供の状況には関わっていることが指摘されている。この点については次の論文を参照されたい:Xu, Y. (2010). Children’s social play sequence: Parten’s classic theory revisited. Early Child Development and Care, 180(4), 489–498.
[16] この論点については第三部の「駆け引き」などを扱う際に改めて扱う
この記事は、2025年12月25日に公開しました。本連載では、書籍に掲載される内容とは別に、連載としてはゲ
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