ひとり旅のすすめ

 この文章を書いているのは2020年が終わりかけたころだ。世界はいま、新型コロナウイルスの流行で大きく混乱している。各国の政府は感染予防のために渡航制限をかけ、特に国外への移動は思い通りにはできなくなっている。そのせいで、今年はここ数年と比べてほとんど東京から離れなかった。なので、いま、とても旅に出たくなっている。

 いつも暮らしている街から離れることで、普段目にしないもの、耳にしないものに触れることができる。そうすると、普段は考えつかないようなことをふと、思いついたりする。ひとりで長時間移動すると、自分の意識は自分自身でも、ほかの誰かでもなく、世界のほうに集中していく。
 そして僕は旅先ではなるべくいつもと同じように過ごすことにしている。いつもと同じように仕事をして、本を読んで、食事を取り、ランニングをする。それでも、場所が違えばその体験は違ったものになる。いつもと違う仕事の仕上がりになるし、心に響く文章も変わる。おいしいと感じる食事も違うし、いつもと違う街を走る楽しさは説明したとおりだ。この「違い」を楽しむのが旅の面白さだ。そしてこの違いを味わうには、誰かと行くよりもひとりで行くほうがいい。誰かと行く旅も、もちろん楽しいのだけれど、それは多くの場合、その人とのコミュニケーションを楽しむための「旅」になる。でも、もし君が僕がいま述べた「違い」をしっかり味わいたいなら、絶対にひとりで旅に出たほうがいい。

 僕がこんなふうに考えるきっかけになったのは、何年か前に、大学での講演と本の翻訳の用事で台湾にひとりで出張したときの経験だ。そのとき半日ほど空いた時間があって、僕は台北の学生街のスターバックスで、東京にいるときと同じように、午前中いっぱい仕事をすることにした。周りにいた学生たちがとても賑やかで、どのテーブルも2人か3人で集まって本やノートパソコンを広げて授業の課題について話したり、議論したりしているようだった。外見こそ日本のスターバックスと変わらないものだったけれど、店の中の壁面には、学生たちが貼り付けたらしい、勉強会やサークルや課外活動の勧誘やイベントの告知の張り紙がびっしりと貼り付けられていた。これはちょっと日本ではまずあり得ないことだと思う。
 このとき僕がいた地区は、台湾の有名大学が集まったかなり大きな学生街で、街には書店とスポーツショップと、夜遅くまで開いている若者向けのカフェがほかにもたくさんあって、街全体が活気に溢れていた。そして僕はこのとなりの国の若者たちから、ちょっとこれは負けていられないな、とやる気をもらったものだった。
 そして、ここでの数時間はとても集中できて、それまでずっとうまくまとまらなかったアイデアをひねり出すことができた。それは結果的に仕事の役に立つことになったわけだけれど、そんなことを超えてとても気持ちのいい、新鮮な体験だった。僕がこのとき痛感したのは、人間は周りの環境を変えるだけで、こんなに気持ちが切り替わるのかということだった。

▲台北の学生街のスターバックスからの眺め
▲台北の学生街の夜カフェ

 このとき僕は思った。もしこのとき僕が他の誰かと、たとえば親しい友人たちと来ていたら、きっと空き時間に台北の名所旧跡を回る観光に出かけていたはずだった。ワイワイと大はしゃぎで出かけた先で写真を撮り、そしてWikipediaを引いていただろう。それはそれで、きっと楽しかったと思うのだけれど、もしこうしていたら、僕が学生街のスターバックスで体験したような出来事には出会えなかったと思うのだ。誰かと行くとその人とのやりとりのほうに気を取られてしまうし、何かを観にいくとか、しにいくといった「目的」があると、自分が叶えたいことは叶うかもしれない。でも、その「目的」に集中しすぎると、それ以外のことはあまり目に入らなくなってしまって、その土地に立つことではじめて気がつくことには鈍感になってしまう。だから僕がここで紹介したいのは、「みんな」でワイワイと観光するのとは違った、もうひとつの旅のかたちだ。ひとりでいつも暮らしている街とは違う場所に足を運び、そこでなるべくいつものように過ごすことで、はじめてその場所が僕たちに与えてくれるたくさんの気づきに触れることができるのだ。

夏には丹後に旅に出る

 僕がこの数年間、ほぼ毎年夏に訪ねている場所がある。それは、京都府の北部の丹後という土地だ。僕は東京に引っ越してからも京都が好きで、京都について書かれた記事や本をよく読んでいた。そしてある日手にした写真集で、丹後半島の伊根町の写真を目にした。伊根は丹後半島の北東部にある古い漁村で、日本でもっとも美しい集落のひとつと言われている。深い緑色の海沿いに、舟屋という1階が船のガレージになっている漁師の家が並んでいて、中には江戸時代の建物まであるというのだから驚きだ。僕はこの写真を見た瞬間に、夏休みはここを訪れようと心に決めていた。古い友人が一緒に行きたいと言ってくれたのだけど、ひとりで行きたくて適当にごまかした。伊根町には舟屋を目的に訪れる観光客が多い。日本三景のひとつ、天橋立が近いのでその「ついで」にやってくる人がほとんどだ。だから、なるべく観光客のいない平日を選んで、僕はその年の夏の終わりにひとり伊根を訪れた。

▲伊根湾の風景。
▲舟屋から伊根湾をのぞく。

 高田馬場の自宅から東京駅まで行き、新幹線で京都へ。そして特急列車に乗り換え、さらにバスを乗り継いでざっと7時間——その日の丹後半島は曇り空、というよりも今にも雨が振りそうな灰色の空だった。しかし、それが良かった。平日だったせいもあって、その日の伊根にはほとんど人気がなかった。僕は舟屋の並ぶ伊根湾に沿って一人で歩いた。このとき印象的だったのは、目当てだった舟屋の建物ではなくてむしろその小さな集落の佇まいのようなものだった。そこは、いまも人々が暮らす場所であるにもかかわらず、どこか時間の止まったような感じがする場所だった。海はただただ静かで、緑色に揺らいでいた。僕が子供の頃のなつかしい昭和の匂いのようなものが街のあちらこちらに残っていて、ときどき目に入るガレージに止まっている自動車のデザインだけがひどく現代的で、明らかに周囲の景色から浮いているように感じた。そのうち雨が本当に降ってきたのと、少し離れたところに宿を取っていたのでその日は早めに引き上げることにした。しかしバスは1時間に1本もなく、僕が乗ろうとしている6時の便が最終バスだった。バスに揺られながら、僕はこれからできるだけ毎年この場所に来よう、と決めていた。

▲伊根町のメインストリートに佇む「高梨」のバス停。なぞのウルトラマンらしきキャラクターがジワる。

 それからほぼ毎年、僕はこの伊根に足を運んでいる。ここ数年で主に中国からの観光客が少し増えたためか、週末は避けて訪れるようにしている。そのうちいくつかの小さなカフェがいつのまにかできた。ちょっと一休みするのも大変で、一応は観光地のはずなのに、ロクに休憩所もなくて旅人にあまり優しくないそれまでの伊根が好きだったような気もして、勝手に複雑な気分になったりもしている。

 僕は伊根を訪れると、少し離れた岩滝温泉のあたりに宿を取る。それは翌朝、海沿いを走るのに丁度いい場所にあるからだ。そして翌朝は天橋立まで、10キロ近く走る。左手に海(阿蘇海)を見ながら走るのは、天気にもよるけれど、とても気持ちがいい。

▲夏の朝の阿蘇海を眺めながらランニングをする。最高の気分。
▲阿蘇海は湾になっているので、対岸の工場が近くに見える。
▲海に沿って、丹後鉄道宮舞線が走る。昼間はこれに乗って移動する。
▲沿岸の工場(?)の入り口に設置されたド○えもん的な何か。
▲10キロ走って、ゴールは天橋立のビーチ。観光地だけれど、早朝に来ると誰もいないので。この絶景を一人占めできる。

 翌日はだいたい、丹後鉄道という小さなローカル線に乗る。宮舞線の車窓からは夏の日本海がよく見える。平日の昼間だと、夏休み中でもほとんど人は乗ってこない。僕は1年に1回、この列車に揺られながら考え事をすることにしている。そう大したことを考えているわけでもないのだけれど、うっかり行きそびれた夏はなんだかとても物足りない気分になる。1年に1度、小さな電車の、普段とは違うリズムに揺られながら、僕は落ち着いて自分のことを見つめ直しているのだと思う。

▲丹後鉄道宮舞線の小さな車両。毎年夏は、この列車に揺られて旅をする。
▲某駅のホームからの風景。まるで、世界の果て。
▲宮舞線の車窓から、澄んだ海を覗く

毎年同じ場所に行ってみる

 こうして毎年、同じ季節に同じ場所を訪れると、ちょっとした変化に気づくことがある。たとえば、ここにあったはずのコインランドリーがなくなったな、とか、ここにあった木が切られているのは、このあいだの台風で倒れたからかな、とか、そういった小さな変化に気づくことが積み重なって、その場所の味わいも僕の中で変化していく。その変化にがっかりすることもあるのだけれど、さまざまな小さな変化に気がつくことそのものが、その土地と対話しているような気分になる。
 人間は普段の生活の中で、身近にあるものにはあまり注意を向けない。むしろ、遠くの土地に足を運んだほうが、無意識にその土地のことをよく見ている。遠くに旅をすると、普段は気にもかけないような、たとえば道端にある看板とか、生えている花とか、そんなものまでが目に入る。そして、こういうことを毎年繰り返していると、自分が普段住んでいる場所のこともよく見えるようになってくるのだ。
 この本を書いている2020年の末は世界中が新型コロナウイルスの影響で旅はもちろんのこと、街に出て遊ぶのも難しくなっている。いまここに書いたようなことを僕は今年はほとんどやっていない。物足りない気持ちはものすごくあるのだけれど、僕はその場所に行きたい気持ちをぐっとこらえて、溜め込んでいる。溜め込みながら、きっと今頃あそこはこうなっているだろうと想像している。そのほうが次に行ったときにぐっと楽しくなると思うからだ。

[了]

この記事は、「よりみちパン!セ」より刊行予定の『ひとりあそびの教科書』の先行公開です。2020年12月3日に公開しました。
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