3.2.3 ゲームをやっている感覚はずっと保たれるのか?

3.2.3.1 三目並べが退屈になるとき:徐々に消失していく楽しさの感覚

 「遊戯的態度」はプレイヤーの内的な理解と心的志向性に関わる論点だった。では、ルールやゴールを理解し、それに臨むということができていれば、プレイヤーはゲームに十分参加していると言えるのだろうか?遊び手の心理としても、ゲームをやっているという感覚が維持されつづけるのだろうか?

 この論点を論じるうえで、しばしば挙げられるのが三目並べ(⚪︎×ゲーム)である。

 三目並べはルールも、ゴールもはっきりとしている。しかし、三目並べを初めて遊ぶ子どもと、あらゆる局面を理解しているプレイヤーとでは、体験が全く異なっている。初めて遊ぶ子どもにとっては、どこに印を置けばよいのかを探す遊びになっている。相手の手を見て、次に何が起こるかを予想する。自分の印を並べることに気を取られ、相手が二つ並べていることを見落とす。負けたあとで、どこに置けば防げたのかを知る。そこには、探索、予測、失敗、修正といった試行錯誤がある。

 ところが三目並べは、一定の段階まで理解されると、両者が適切に打つかぎり引き分けになる[1]。最適な応答を知っている者どうしであれば、盤面には新しい問題がほとんど現れない。ルールもゴールも変わっていない。しかし、探索し、失敗し、理解を改める余地は小さくなっている[2]。

 ルールとゴールの形式としての三目並べは維持されている。だが、三目並べを試行錯誤し、考えるという余地は徐々に減少せざるを得ない。この試行錯誤をするという感覚が消え失せてしまったプレイヤーは、ルールもゴールも受け入れているようなプレイヤーであったとしても、ゲームを楽しむことは難しくなっていく。

 初心者が遊ぶ三目並べも、熟練者が機械的に手を置く三目並べも、同じルールとゴールを備えた同じゲームではある。ただし、そこには試行錯誤をして、上達をする楽しみがあるかどうか、という点で大きな隔たりがある。この楽しみがなくなってしまった状態を「遊んでいる」とどこまで言えるのだろうか。

 この一見地味な問いは、じつはゲームを論じるうえで、ゲーム研究者の多くがとりあげるメジャーな問いである。この違いをどう捉えるかが、「ゲーム」という概念の捉え方そのものを大きく分けることになる。

3.2.3.2 AIどうしの三目並べをゲームだと感じることはできるのか?

 もっと特殊な例を考えてみよう。たとえば、AIは複雑なルールに遵守して、さまざまなトレードオフを評価し、意思決定らしきものをする能力がある。つまり、鶏とは違って、複雑なルールを理解し、考えることができる。しかし、AIには試行錯誤を楽しむという現象が生じているのかはまったくよくわからない存在でもある。もちろん、AIは、ゲームの対戦相手としては、まったく問題なく受け入れられている。それは、いまあるビデオゲームの多くが対戦相手の挙動をAIで制御していることからも、明らかだろう。

 では、人間対AIではなく、AI対AIの三目並べの場合はどうだろうか[3]。そこには、人間のプレイヤーはおらず、ルールを遂行する主体だけが存在する。こういった状況は、ゲームとして成立していると言えるのだろうか?[4]

[5]

 AIどうしの将棋や囲碁の対戦のようなものであれば、観戦者の観点からそれをゲームだと受け止めることはできるかもしれない。そこではAIが最適解を計算しきれない状況のなかでリスクをとっていく状況が展開されうる。しかし、AIどうしの三目並べとなると、観戦者の視点からすら、そこで「ゲーム」が行われていると思うことは難しくなる可能性が高い。あえて性能の低いAIに対戦をさせるのでもしない限り、相互に最適解を打ち合いゲームがはじまるや否やすぐに思考を終えて、引き分けに至る高速処理を観戦者は見せられることになるだろう。

 AI同士の対戦は、ルールもゴールも明確に設定されており、ゲームのエージェント [6] 同士のインタラクションも存在する。

 しかし、ここにはトレードオフもなければ、リスクをとった意思決定もなく、努力もない。ただ、簡単に可能な計算が行われているのを見せられるだけの風景である。なんの不確定性もない状況を「ゲーム」だと感じることは、ほとんどの人にとって難しいだろう。

 AIが心をもたない行為者であることは了解しているはずだったとしても何の試行錯誤の形跡も感じ取ることの難しいものに対して「ゲーム」という感覚を抱くことの難しさがある。

 つまり、ここでは「理解し、考える」ということだけでなく、それを主体的に楽しんだりするような「感情」をもった主観がそこに存在しているかどうか、ということも問題になっている。

3.2.3.3 ルールを知らなくても遊べる――あとから立ちあがるルールへの理解

 三目並べは、ルールを完全に知ることでゲーム経験が失われる例だった。しかし、反対に、ルールを十分に知らない知らないままで「理解し、考え」それを「楽しい」と感じる主観が立ち上がることはあるだろうか?

 たとえば、初めて『スーパーマリオブラザーズ』(1985)を遊ぶ場面を考えてみよう。プレイヤーは、あらかじめゲームのルールをすべて説明されてから、操作を始めるわけではない。どの敵を踏むことができるのか。どの穴に落ちれば失敗になるのか。キノコを取ると何が起こるのか。土管には入れるのか。説明書を一時間以上かけて読み込んでから、ゲームをはじめるプレイヤーはほぼいないだろう。ゲーム内でなされる判断の多くは、実際に動かし、失敗し、画面から返ってくる反応を見るなかで理解されていく。

 つまり、ビデオゲームのプレイヤーは、しばしばルールの全体を知らないままにゲームを遊んでいる。ゴールだってよくわかっていないことが多い。しかし、それでもゲームができてしまっている。さらに言えば、かなり長く遊んだあとでも、そのゲームを動かしている規則の全容を、言葉で説明できるとは限らない。敵や地形やアイテムの挙動について実践的には知っていても、それをルールの条件文の集まりとして列挙することは難しい。

 では、マリオのようなビデオゲームには「ルール」が無くてもよいのか、と言えば、多くの場合は、そんなことはない[7]。ほとんどのビデオゲームでは、ルールは「機能している」。ただ、その「機能している」という仕方が、ビデオゲーム以前の時代にスーツが考えたようなあり方とは異なっている。

 プレイヤーは確かに、ルールの全体像を事前に把握されているわけではない。むしろ、ここでは、ルールはゲームをはじめた後に段階的に把握されていく。クリボーに横から触れれば失敗し、上から踏めば倒せることを、プレイヤーは知るようになる。助走をつければ遠くまで跳べることを、遊ぶうちに知るようになる。ビデオゲームでは、そのようなプロセスで、うまくゲームを遊ぶことができるようになっていく[8]。

 これは、アナログゲームをはじめる前にプレイヤーがルールをしっかりと理解しておかなければならないのとは、まったく別の事態である[9]。ビデオゲームでは、ルールの相当部分をコンピュータが保持し、実行している。プレイヤーが不可能な行為を試みても、プログラムがそれを受け付けない。プレイヤーは、ルールを事前に完全に理解していなくても、そこで描かれている事態や、コンピュータの反応を手がかりにして何となくの理解で行動できる。コンピュータがルールを理解する仕事の多くを引き受けるため、プレイヤーはルールを明示的に知らなくてもゲームを遊べてしまう[10]。すると、ルールはたしかに存在している。しかも、そのルールは厳密に作動している。だが、プレイヤーは、それをルールとして意識していないことになる。ルールの存在と、ルールについての明示的な理解とは一致しない。

 三目並べのプレイヤーが創意工夫によって、適切な戦略(定石)という書かれていない法則を理解していく過程を楽しむよう。一方で、マリオのプレイヤーは、実は説明書を注意深くよめば書かれているようなルールを理解していくプロセスをはじめに楽しむことになる 。そして、説明書にかかれているようなことを理解したあとに、説明書に書かれていないようことを考えるという段階を踏んでいる。

 プレイヤーが遊びながら細かなルールを覚えていく、というここの過程は、ビデオゲームの歴史の比較的はやい時期から意識されていたことでもあった。たとえば、マリオシリーズを作った宮本茂は、ひとつのアイデアには「覚える場所、実際に遊ぶ場所、応用する場所、極める場所」があり、一つの仕掛けを四回は使うのだ、と語っている[11]。谷を跳ぶという一つの動作を、そのつもりで追ってみればよい。最初の面には、まず小さな谷がある。跳びこえられれば得だが、しくじって落ちても、下に地面があるので死にはしない。ここで跳び方を覚える(1)。すぐ先で、同じ谷が、こんどは落ちれば死ぬ谷として現れる。覚えたばかりの跳躍を、今度は失敗の許されない場面で実際に使う(2)。さらに進めば、上下する床へタイミングよく乗り移る跳躍で、その動きが応用され(3)、終盤の面では、幅の広い谷を正確にこえる跳躍で、極めが試される(4)。覚え、遊び、応用し、極める。同じ跳躍が、四つの場所に、難しさを変えて置かれている。だからプレイヤーは、ただマップを走り抜けているだけで、知らず知らずのうちに跳び方を身につけていく。


 ジャンプに関わる詳細なルールは、文章として明示されるより先に、感覚・技能として会得されていく。

 ここで、さきほどのスーツの「遊戯的態度」を思い出してみたい。それは、ルールとゴールを、それが可能にする活動のためにこそ引き受ける、という態度だった。ところが、初めて『マリオ』を握った子どもは、そもそもルールもゴールも十分には知らない。知らないものを、進んで引き受けているとは言いにくい。この子どもが受け入れているのは、せいぜい、コントローラーを握って右へ進んでみる、という程度のことだろう[12]。

 スーツの遊戯的態度は、受け入れるべきルールとゴールが、あらかじめ理解できる場面を想定している。だが、ルールが明示されないまま動いているようなゲームでは、プレイヤーがルールを「受け入れている」かは曖昧である。受け入れているのは「ゲームをする」という事態まで、だということは多いだろう[13]。

 むしろ、手を動かし、失敗し、画面の反応を確かめるという試行錯誤のなかで、何が起こり、何が起こらないかが、しだいに身体でわかってくる。ここで前面に出てくるのは、規則を承知して受け入れるかどうかではなく、感覚のほうだ[14]。

 ゴールやルールは、「プレイヤーの行為を方向づける仕組み」として要請されていた。しかし、それは明示的なルールや明示的なゴールという形をとらなくても機能させられる、ということをビデオゲームは成立させてしまったとも言える。マリオやテトリスを、何時間も飽きずに遊びつづけるということに、一貫性と持続性を与えているのは、試行錯誤と上達のループである。少し上手くなり、次の課題が見え、また試す――この学習の連なりが、行為を一貫したものにしている。ルールを明示的に参照しなくても、段階的な学習の設計によって行為は方向付けられている。

 ビデオゲームのプレイヤーは、実のところ、スーツが事例にあげた走者スミスに近い性質を持ちやすい。競走のルールを理解して、走りはじめるのではない。後ろから迫ってくる岩や虎などから逃げたり、爆弾の解体という問題を提示されたりしているうちに、いつの間にか走り方がうまくなっていくように導かれている。個別のルールやゴールへの合意ではなく、「このゲームにしばらく従ってみる」という程度の同意でも、成り立ってしまっている。これは、スーツの「遊戯的態度」よりも、だいぶ緩いものだ。スーツの挙げた、ランナーのスミスは競走をする意図自体がなかったが、ゲームにとりあえず参加をするという意図さえ、最低限あれば、あとはコンピュータのほうがどうにかしてくれてしまっている。

 かつて、ルールやゴールは、人の行為に方向性や一貫性を与える、と考えられてきたことを述べた。しかし、マリオのように上達をベースとするゲームでも、ルールの理解によらずに成り立ってしまうのだとすれば――プレイヤーが行為を形づくるとき、ルールの理解は完全になくても良いものなのだろうか?


[1] ここでいう最適解とは、単に最善手という意味ではない。「双方が最適解を打ちつづけたとき、どちらが勝つか(あるいは引き分けか)が、開始時点で決まってしまうような手」を指す。三目並べは双方最適なら引き分け、初期ルールの五目並べは先手必勝、六×六のオセロは後手必勝になる。
[2] 前掲 Koster (2004), pp. 38, 44–46。ゲームプレイを技能の改善をともなう学習経験として捉える議論としては Juul (2005), Introduction, p. 6 および Ch. 2 も参照
[3] せっかくなので、実際につくってみた。Akito Inoue(2026) “AI Tic-Tac-Toe”, itch.io, https://hiyokoya6.itch.io/aitictactoe
[4] Björk, S., & Juul, J. (2012). Zero-Player Games. In Philosophy of Computer Games Conference, Madrid.
[5] 遊びの概念から主体を消去したモデルを考えるという観点では、オイゲン・フィンク/千田義光訳(1976)『遊び―世界の象徴として』せりか書房(Eugen Fink, 1960, Spiel als Weltsymbol, W. Kohlhammer Velag,)も重要なものだが、フィンクの想定する遊戯(Spiel)はゲームの概念論であるという以上に、世界をゲームとして捉えるという点についての議論であるため、ここでは扱わない。
[6] 本稿では「プレイヤー」概念を人間主体であることを前提としているが、Björk らは「プレイヤー」概念を人間に限定していない。そのため、AIエージェントも「プレイヤー」概念によって整理される対象として議論がすすめられている。Björk らの整理では「プレイヤー」概念は5つの特質に持つものとして整理される。(1)持続的なエージェンシーとしてのプレイヤー (2)人としてのプレイヤー(3)時間的な有限性をもった存在としてのプレイヤー(4)意図をもった存在としてのプレイヤー(5)選好を有する存在としてのプレイヤーの5つである。本稿での議論でいえば、(2)(5)が認知的観点として重要な部分であり、(1)(3)(4)は行動的観点にも重要な部分だということになるだろう。(4)はややわかりにくいが、AIに組み込まれた目的関数のようなものも含めて「意図」だとみなしうるという前提でこの整理はなされているため、(4)は行動的観点に属するといえるだろう。ただ、これは定義の線引次第で変わりうる部分ともいえる。Björk, S., & Juul, J. (2012). Zero-Player Games. In Philosophy of Computer Games Conference, Madrid.
[7] 『everything』や、『太陽のしっぽ』のようないわゆる「アートゲーム」では、しばしばルールやゴールといった側面が意図的に排除されたビデオゲーム作品もあるが、ここでは『テトリス』や『スーパーマリオブラザーズ』のような、ビデオゲームのイメージを代表するような例について述べている
[8] Sniderman, Stephen (1999). The Life of Games 1: 2–7. Sniderman は、記録された規則だけでは実際のプレイを説明できないことを論じている
[9] もっとも、Sniderman(1999)は、この点について三目並べのような例であっても「妥当な時間内に打つ」といったような「暗黙の時間制限」などが存在していることを挙げており、アナログゲームであっても、こなした書かれていないが運用されているルールが多数存在していることを指摘している。コンピュータによるルールの自動実行はどこまでなされるか/なされないかは程度問題であって、アナログ/デジタルな論理的な差異であるとは言えないだろう
[10] DeLeon, Chris (2013). “Rules in Computer Games Compared to Rules in Traditional Games” Proceedings of DiGRA 2013: DeFragging Game Studies, pp. 6–7.
[11] 『週刊ファミ通』2003年2月21日号(エンターブレイン)p. 130、岩谷徹『パックマンのゲーム学入門』(エンターブレイン、2005年)p. 154
[12] 綾茂勝太郎「クッパはなぜ溶岩の海に落ちて行くのか スーパーマリオブラザーズ」(2001年初出、2020年 note 掲載)https://note.com/aysgstr/n/ncf7b646166d0。
[13] なお、アナログの遊びであっても、事前に設定されたルールの了解がなくても遊び続けられる例外的な事例をもって、Suitsに対して批判をしている例もある。たとえば、Frank McBride, “A Critique of Mr. Suits’ Definition of Game Playing”, Journal of the Philosophy of Sport, 6(1), 59–65, 1979. DOI 10.1080/00948705.1979.10654151がある。スーツはこれに対する応答もしている。Suits, Bernard (1981). McBride and Paddick on The Grasshopper. Journal of the Philosophy of Sport 8 (1):69-78.
[14] 松永伸司『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会、2018年。ビデオゲームにおける「感じ」(操作を通じた手ごたえ・感触)とも接続する論点だろう。

この記事は、2026年10月15日に公開しました。本連載では、書籍に掲載される内容とは別に、連載としてはゲームに関わる多様なトピックを扱っていきます。概念間の関係性についての詳細な議論はぜひ書籍刊行をご期待ください!
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