滋賀県のとある街で、推定築130年を超える町家に住む菊池昌枝さん。この連載ではひょんなことから町家に住むことになった菊池さんが、「古いもの」とともに生きる、一風変わった日々のくらしを綴ります。今回は、前の住民から引き継がれた古道具たちが主人公です。古民家とともに歴史を刻んできたさまざまな「もの」たち。それらを使い続け、時には人に譲り、引き継いでいくことの意味について考えます。
端的に言うとね。
お掃除と手入れ
引っ越して8ヶ月が経ち始めての夏。ここ数年住む人がいなかったこの家もだいぶ風通しがよくなってきた。本来のありようや暮らしの姿を取り戻せてきたのだろうか。エアコンは7月初旬で未使用のまま。玄関から裏庭の走り庭の土間にテーブルを置いて仕事をしていると風が吹くたびに心地よく、団扇をたまに使うくらいでやり過ごせている。地面に近い生活をしているせいかこの時期は特に雨風の予感が身近に感じられる。感じたらすることはふたつ。メダカの様子を見にいくことと、洗濯物干しの確認。梅雨入り以降、室内の湿度は70〜85%を行き来している。24時間換気で湿度50%以下で暮らしてきた東京生活には全くなかった環境でビールのおとも柿の種は開封すると間も無く湿気でベタベタになってしまうくらいだ。油断すると蚊が入ってきたりあちこちにカビも生えてくる。もちろん悪いことだけではなく、醗酵には適していたりいいこともある。いずれにせよ、家そのものが生きている感があり、そのために心がけていることは、掃除をすることだ。家の外と内の境界線に住んでいる自然や爬虫類や虫、菌たちと良い関係を創るべく彼らを観察して、時には謎の液体や他人の助けを借りてアレコレする。家も庭も手入れをして活性化し続けないと生存を許されないのが古民家である。
使い続ける習慣 足るを知る暮らし
引っ越してしばらくは蔵の中のものの洗い物をした。仕事が終わって深夜まで半端ない量を洗い続けて下水の蓋から泡が吹き出したほどだった。長年埃まみれになっていたものを「漂白する、泡で洗う、干す、拭きあげる」の繰り返し。それでひと月が過ぎた。また家のいたるところに刺さっている釘を筋肉痛になるくらい金槌を握りしめて部屋中抜きまくりもした。なぜ釘ばかり打ってあるのかは未だ謎のままだが、同時に手が届くところまでは壁も床もふすまも拭きまくった。古い匂い、カビの臭いなどは敏感な鼻が許さず、今なお私は天井裏の掃除さえすれば臭いが取れるはずだと業者さん選定中である。
全ての古民家に言えることではないかもしれないが、この家は購入したとき建物の不動産価値はゼロで、壊す費用混みでそのまま譲られることになった。なので家も蔵もいろんなものがそのままだった。ただプライベートなもの、たとえば御仏壇やお写真や家の記録に関するもの、簡単に捨てられるものは引き取っていただき、それ以外のものは私が使うなり処分するなりということにした。結果、私は売買する価値はなさそうな古民家の歴史をおおよそ残したのだと思う。たとえば蔵にあった食器、花器、火鉢、簾や蘆戸、テーブルと椅子、勉強机、下駄箱、縁台、布類など。そう、この家は漢方薬を製造していたので試薬瓶や漢方薬の調合に使用したと思われる戸棚や器材、版木、経理用の算盤などもあった。取り壊した納屋には私的には垂涎ものの「石田のバネ計り」が、庭には睡蓮が入っていた石の器が、蔵には梅干しが入った巨大な試薬瓶がそれぞれ放置されていたが、手続きが終わったら捨てられてしまっていた。それは人それぞれの価値観の差なのだ。
そんなことでまず食器だが、数、種類、揃いの数、素材などのバリエーションでこの家にどんな人たちが集まっていたか、どんな料理が作られていたか、スタイルの嗜好が推測できた。蔵には平仮名で「ふきん」と書かれている箱があり、開けたら虫だらけなんだろうと恐る恐る開けると、麻や綿の切れ端がきれいに畳んで入っているではないか。洗って清潔な状態でしまっていたからこそ、虫もつかずにホコリだらけの蔵に良い状態で収まっていたのだ。この家の主だった「敏子さん」は無駄をしない落ち着いた暮らしを心がけていた女性だったのだろうと思う。それはミニマリストとか断捨離とかいう流行りのことではない、使い続けること、季節に合わせた室礼を意識して心身ともに調和よく暮らしていたということだ。
敏子さんというのはこの家の主人だった方だ。御年93歳で数年前にお亡くなりになったとご親族から聞いた。ご近所の話によると、お花を愛していて庭の石楠花(シャクナゲ)が咲くと「見にきて」と声がかかったとか、きちんとした人だったとかいう話である。近江商人が多くいたこの町は製造業として漆器と漢方薬がメインだった。敏子さんの実家は漢方薬の老舗でここは分家だったらしい。今もだがこの街の人々はおおよそ畑と仕事の両方があって、という兼業のライフスタイルを送っている。これを書いている今朝もお向かいのおじちゃまから声がかかり、すぐ傍の畑に連れていかれ「好きなの持ってって」とハサミとピンクのプラバケツを渡された。茄子2種類、万願寺とうがらしと、ジャンボピーマンにすもも。豊かな暮らしをしている。
敏子さんも畑を持っていて、そこではお茶も作っていたようだ。取り壊した納屋にはお茶の葉っぱを揉む籠があったし、裏庭には植木鉢にお茶の木が一本残っていたので、庭師さんが地植えにしてくれた。私はそこに「敏子さんのお茶の木」という園芸ラベルをつけている。
さて、この家には蓋物の和食器が多かった。もちろん明治期の家だから和食が中心だったとは思うが、飯茶碗、煮物碗、茶碗蒸し碗、丼、お茶漬け碗などにも蓋がある。このような対になった器は蓋か実のどちらかが先に壊れてしまうのが常だ。この家には蓋の余分が捨てられずに残されていた。ふきんもそうだが半端物の使い方が私と違った。半端物は蔵に取っておかれていた。またどこかで使えるかもしれないと思っていたのかもしれないし、作った人への敬意かもしれない。それを感じ取って以降は、器の蓋たちは味見用の小皿になり、小盛り用のつまみをのせて使っている。ふきんも洗濯をしてキッチンで使わせてもらっているし、先日はドクダミの花で初の草木染めをしてみた。使い続ける習慣に私も参加したわけだ。戦後焼け野原になって全てを失った大都市と違い「もの」で歴史が続いた安全な場所には古いものがどこにでもあった。
この家の様々なレイヤーに私のレイヤーが新たに加わって日々の食のテーブルや家のいろんなところで混じりあう。
預かっているという精神、循環させていく工夫
こんな自然が身近な、まっとうさがある暮らしができる場所を譲り受けてからジワジワと理解できたことがある。それは京都でいつもお世話になっている古美術商ご夫妻が10年ほど前に教えてくれた、こんな言葉だ。「買ったものは生きているうちの賃料を払って預かっているものであって自分勝手にしていいということではない。器を活かすも殺すも自分次第だ」。私の場合、「捨てるも残すも自分次第」だった。直す意識がなくて段ボール一つ分の器は捨ててしまうという失態を犯したが、定期的に本格的な金継ぎを少しずつ学ぶようになってから、一つずつ修繕し始めた。直して使うと、これまで使ってきた方々の蓄積の上に私のレイヤーがまさに重なって「預かっている気持ち」がさらに強くなる。これは体験してみないとその精神がわからないかもしれない。器に限らず、風速70mの巨大台風でこの家が吹っ飛んでしまうまで預かったもの全てを使い続けることがわたしの目標である。この物たちに次に出会うであろう誰かが喜んで引き受けてくれるように磨けるだろうか。
このことに関して、最近考えていることがふたつある。
ひとつは、信頼できる人に預けたいということ。
春先に、十和田湖畔でコワーキングスペースを経営している友人夫妻が遊びにきた。彼らがこの家の最も大きな火鉢を「使わないなら十和田で使いたい」と、車に乗せて帰っていった。今ではお客様用のお魚を焼いたり暖を取ったりするのに使われているようだ。お蔵入りするよりも使い続けられる方がずっといい。かつてのように地域コミュニティにではないが、私のネットワークに預けたことになる。物の方が人よりも長生きだから、次は誰に預けるかを今から準備していきたい。
もうひとつは、古民家の街並みが残っているものの、古いまま使っている人はそう多くないということ。理由はおそらく住宅としての室温調整の難しさと、家中にバリアがありすぎるためだ。このままだと、いずれ古民家や庭は重荷になってしまう。それを一つずつ「こうすると楽しく心地よく暮らせる」という見本を作っていきたい。
あるとき玄関を網戸にしていたら、ご近所のおばちゃま方が覗いていた。「こんにちは!」と声をかけると、「戸が開いていたからいるのかなと思って」とのこと。中に招き入れてさっそく見学してもらう。そうすると、「ちゃんと使っているんだね」とか「昔ここはこうだった」とか「家に入るのは初めてよ」とか、おばちゃま方のいろんな話が聴けた。いずれ「ちょっとバー」という店名で、街の人たちがちょっとお茶してちょっとお酒を飲んで、無目的に寄り合えるような場所ができるといい。
こういうことって縁なのだと思う。中古住宅として古民家を購入したら歴史と道具に驚き、そうしたら土も微生物も植物も虫や爬虫類などの生物も網目のようにどこかにつながっていて、それらを手入れしつつ、自分の脳も体も手入れされているという今の状況だ。人生の後半にきてこんな日本の文化らしいご縁を預からせてもらって、今のところ幸せである。
[了]
この記事は、PLANETSのメルマガで2021年8月3日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年9月日に公開しました。