この書評コーナーでは、暮らしにまつわる本を紹介しています。アウトドアとか自然とか、そういったものを含めた「暮らし」です。今回は、難波匡甫『江戸東京を支えた舟運の路~内川廻しの記憶を探る』についてご紹介します。この前(2019年放送時)、Twitterで「江戸川区の公表している水害ハザードマップが自虐的すぎてやばい笑」みたいな話題が盛り上がってたんですけど、ご存知ですか(笑)。洪水や高波が来た際の避難場所なんかが記されたものなんですが、江戸川区の結論としては「とにかく江戸川区を離れろ」っていうことが書いてあって(笑)。〈どうなるの? 区のほとんどが水没〉っておっきく書いてあるんです(以下、〈〉内は引用)。荒川や江戸川の河口に位置する江戸川区は、液状化が懸念される埋め立て地も多いし、区の7割がゼロメートル地帯だそうで、そういう有事の際にはすべて水没するらしいんです。江戸川区だけではなく、〈江東5区のほとんどが水没〉と警鐘が鳴らされています。

▲江戸川区水害ハザードマップ(参考

 それで思い出したんですけど、僕もあのエリアをカヤックで漕ぐことがあるんですよね。今回紹介する『江戸東京を支えた舟運の路』では、このエリアがたいへん重要なものとして紹介されているのでちょうどいいかなと思い、ご紹介する次第です。江東5区とは、江戸川区、墨田区、江東区、足立区、葛飾区なんですが、このあたりは単に隣接してひとまとめにされているわけではなく、ある歴史的な一体感のあるエリアだっていうのが、本日の話の一つです。「江東」の「江」は隅田川のことで、江東エリアというのは、隅田川より東のエリアという意味になります。江東区のサイトでは名前の由来として、江東という言葉が、〈すでに古くは江戸時代から使用されており、当時の江東という地域は、本所地区または深川地区を指す意味と、広く隅田川の東部を指す意味があ〉ったと紹介されています。この『江戸東京を支えた舟運の路』によれば、江戸初期には隅田川より東は江戸の町に組み込まれておらず、橋もほとんどかかっていなかったそうなんです。それがどう変わっていったかということが、江戸の文化にも日本全体の人と物の動きにも影響したという話です。

 『江戸東京を支えた舟運の路』では、江戸時代にあった「内川廻し」という物資を舟で運搬するルートを実際にたどりながら、ルートの歴史が語られています。内川廻しは、東北から江戸へ物資を運ぶ東廻り航路という当時の全国規模の物流ルートの最後にあたる部分です。どういうルートかというと、東北から米や各地の特産物を積んで太平洋沿いを下ってきた貨物船が、千葉県の銚子あたりから利根川を遡ります。上流に関宿(千葉県)というところがあるんですが、ここで利根川は江戸川とつながっているんです。ちなみに、これは16世紀末に徳川家康によってはじまった事業で、東京湾に注いでいた利根川の流れを東に移し替えた結果です。ですから江戸時代に、利根川を河口から遡上して、そこで今度は関宿で江戸川を下っていくルートが可能になったんです。ルートを先に進みます。江戸川を下ると、行徳(千葉県)あたりで江戸川から横に分岐する新川という江戸初期に作られた運河が作られています。このあたり、今も地図に残っていますので、Googleマップとかを開きながら読んでいただけるといいのですが。貨物船は新川をすすみ荒川をまたぐと(ただし、江戸時代にはここに荒川はありません)、今度は小名木川という、これまた江戸初期に作られた運河がありまして、そこを通っていきます。すると墨田区の本所や江東区の深川、本所深川というやつですね、その物資運搬先にたどり着くわけです。これが、「内川廻し」のルートです。

 もともと小名木川は、17世紀の前半に戦略的に重要な物資だった塩を行徳から江戸に運ぶルートとして、徳川家康によって作られた運河です。それが、あるきっかけで、全国物流ルートである内川廻しに組み込まれるんですね。それは17世紀の半ばにあった、歴史の教科書にも載っていると思うんですが、「明暦の大火(1657)」です。この大火事で、江戸の町は広範囲に延焼してしまいます。そこで「家屋がこんなに密集していてはまずい」ということで、幕府は防災のために江戸を拡げて、人口密集を避けるような都市計画を行ったんです。まあ、明暦の大火はひとつのきっかけで、発展する都市・江戸はすでにその規模を拡大せざるを得なくなっていたし、実際、拡大しつつあったのですが。その動きが加速したのがアフター明暦の大火で、上野の寛永寺なんかもその典型的な例です。寺町なんかは、古い江戸の外側に移転していったんですね。そこで江戸を外側に拡張する場合、武蔵野方面の西側は台地の上になるため水源が確保できず、あまり人をたくさん住まわせるわけにいきませんでした。だったら東の方で開発しようということで開発されていったのが、あの江東エリアなんです。たとえば、墨田区に木場って地名がありますよね。あれも明暦の大火以後、幕府の命令で、材木を保管する「木場」が隅田川より東、お察しの通り、地名としての「木場」に集約されて生まれたエリアです。

 では、なぜそんな場所が重要なのかというと、明暦のころの、広げざるを得ないほど肥大化していった江戸の町は、とうぜん日本中からさまざまな物資が集約されるところにもなっていきます。江戸を中心とした全国規模の物流網が整備されていくなかで、さきほどの千葉から江戸に塩を運ぶための運河・小名木川が、東北から江戸に物資を運ぶためのルートとして重要な経路になっていくんですね。当時、東北から物資を江戸に運ぶルートは、まず太平洋を銚子まで降りてきます。そこからは2ルートあって、ひとつが内川廻し、これが川のルートですね。もう一つは伊豆半島の下田まで行ってそこから江戸湾に入る大廻し(外海江戸廻り)です。房総半島沖から直接、江戸湾に入ることは当時の航海技術では困難でした。一度、下田に寄港して、そこから北上する黒潮にのって江戸湾に入る大廻しでも、内川廻しよりは危険なルートだったそうです。だからこそ重宝されたのがこの内川廻しのルートです。〈享保期(一七一六~三六)頃までは、大廻しよりは内川廻しの利用が多〉く、その後、〈銚子沖を迂回する大廻しの比重が増大した〉そうです。

 こうして、内川廻しの終着点として(出発点でもあるわけですが)、江東エリアは発展していきます。単に塩を運ぶためのルートが全国物流ルートになり、川沿いに河岸ができ、人が集まり食べ物屋さんができたりして文化の隆盛につながっていく……ということで、すごく重要なエリアになっていくんです。僕は小名木川も漕いだことがあるので、「ああ、こういう歴史的な背景がある川だったんだな」っていうことがわかって、非常に興味深くこの本を読みましたし、実際、足を運ぶことが、この本を本当に読んだと言うことになるんじゃないかなと思いました。まあ、この本に限らない話ですが。とくにこの本は、本自体が、さきほども述べたように実際に内川廻しのルートに足を運びながら、話がすすんでいく本ですしね。この江東エリアは、本当に川と運河が入り組んでいて、水面から巡ってもらうと楽しいと思いますよ。いまはカヤックやSUPでこのエリアを巡るツアーを主催してるアウトドア・フィッターなんかもありますので。たとえば「閘門」っていう、船舶が異なる水位を行き来できる川のエレベーターみたいな河川施設を、ご存じでしょうか。この本でも、内川廻しだったルート上にある多くの閘門が紹介されていますが、ほんとによくある河川施設です。いちばん有名なのはパナマ運河ですかね(笑)。あれが閘門なんです。太平洋と大西洋は水位が違いますから、船舶はパナマ運河の閘門を使って、水位の違う海を行き来しています。前後二つの扉に仕切られたエリアに船舶が入って、注水したり排水したりすることで上下する仕組みで、小名木川も、その真ん中に扇橋閘門というのがあるんです。隅田川と旧中川(荒川に沿った川。ちなみに荒川と旧中川も水位が異なり、荒川ロックゲートという閘門がある)の水位が違うためです。扇橋閘門はカヤックも利用できますので、川から巡ると閘門体験ができます。川や運河が現在も東京で複雑に張り巡らされ、それが今も管理のもと運用されているんだってことが実感としてわかるんですね。

▲扇橋閘門前で扉が開くのを待つ。扇橋閘門は東京都の管轄で利用料は無料(井本撮影)

 では、内川廻しによって、どのように江戸の文化が育まれたのか。この本で紹介されているものを一つ、挙げます。たとえば、醤油といえば野田市をはじめとした千葉県ですよね。キッコーマンです。醤油も小名木川を通って、東京に来ていました。あとは鮮魚類なんかも、内川廻しのルートで江戸に来ていました。さらに、赤酢、お酢も運ばれて来ている。そもそも、内川廻しのメインで運ばれていたのはやはり米です。とすると、なにが生まれると思います? 醤油、鮮魚、酢、米……そう、握り寿司が生まれちゃうんですよ(笑)! まあそういう感じで、内川廻しがもたらした東京の変化について、この本は記しています。

 もちろん、内川廻しのルート上の発展は江戸にとどまりませんから、その文化的な影響もルートの各地で見ることができます。たとえば、内川廻しは千葉県の佐原という地域を通るんですが、ここは大きな河岸(舟運の荷揚げ下ろし拠点)がありました。そこで舟運を取り仕切るお金持ちの旦那だったのが伊能忠敬、日本地図を作った人ですね。彼は50歳くらいで家業を息子だか甥っ子に譲って、自分は全国を回って地図を作り出します。なぜそんなことをはじめたのかというと、この本に書かれているんですが、当時、舟運に関わっているということは、イコール、物資だけではなく全国からいろんな情報が集まってきていたんだろう、と。で、伊能忠敬は商売をしながら、そうやって耳に入ってくる情報に好奇心をかき立てられ、やがて隠居してそれを裏打ちするように、全国を歩き、測量していったんじゃないか、とこの本では指摘されています。〈忠敬は伊能家に婿養子に入り、酒や醤油の醸造などの商売に才覚を見出すとともに、村のために河岸問屋や名主を務めていた。日本各地の情報が集まる佐原で、有力者として活躍していた忠敬にとって、いつの間にか全国行脚を夢見るようになっていたのかもしれない〉というんですね。内川廻しの生んだ文化の一つの結実が、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』だったってことです(追記:この放送後、佐原もめぐらねばなるまいと、漕いできました。利根川に流れ込む小野川という小川沿いに佐原の河岸はあったのですが、利根川から入って小野川をカヤックで遡ると、江戸時代を再現したエリアが現れます。伊能忠敬邸跡も、このエリア、まさに小野川沿いにあって、当時の舟運による佐原の活況に思いを馳せることができます。有名な観光地ではないですが、別に舟でいかなくても、江戸情緒を演出した川沿いをそぞろ歩くだけで素敵なんで、おすすめしておきます)。

▲かつて舟運の河岸があった小野川沿いは江戸情緒を残して整備されている。(井本撮影)

 江東エリアはその後、造船所をはじめ工場ができたりして近代化を支える場所になったわけですが、そのはじまりに東北の物資が集まるような舟運の要所であったことが大きく刻印されています。舟運は、明治以降、鉄道の発達や、いくつかの理由から消えてしまっているんですが、実は今も残る街の成り立ちに深く影響しているわけです。というわけで、江戸川区は単に水没しやすいエリアというだけではなく、数百年の面白い歴史があるということで、ぜひ本書をおすすめします。「川なんて興味ない」と思います? まして、都会の汚い川なんて。じっさい、小名木川で漕いだ後は、舟を洗うのがたいへんなんですが(笑)。本書では、〈江戸東京が大都市として成立するには川の存在が大きく、川が江戸東京の歴史を物語って〉おり、〈都会人こそ川を意識した生活を送るべきであると唱えたい〉と記されています。以前紹介した『「自然」という幻想』に登場する、大都会シアトルを流れる川の話などを思い出すんですが、ほんとこれは、都会の自然の話であり、私たちの暮らしの話なんです。豊洲のあたりとか、川に面した遊歩道や親水公園なんかも充実しているので、散策にも向いています。川を漕ぐのがいちばんおすすめですが(笑)。この本を読んでから江東エリアに行ってみると楽しいですよ。

[了]

※この記事は、2019年6月6日に配信されたPLANETSのインターネット番組『木曜解放区』内のコーナー「井本光俊、世界を語る」の放送内容を再構成したものです。石堂実花が写真撮影をつとめ、2020年12月10日に公開しました。
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