デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『”kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。
今回は「谷田部勇者」シリーズ最終作にあたる『伝説の勇者ダ・ガーン』について分析します。ある意味ではChatGPTをはじめとするAIモチーフの先駆けとも考えられる、ダ・ガーンの新規性とは?
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端的に言うとね。
憧れの器となった「隊長」
『勇者エクスカイザー』『太陽の勇者ファイバード』に続く勇者シリーズの3作目となるのが『伝説の勇者ダ・ガーン』(1992年)である。勇者シリーズ全8作品のうち最初の3作品を、アニメーションを担当した監督の名前から「谷田部勇者」と分類できることはすでに述べた通りだが、『伝説の勇者ダ・ガーン』はその最終作品ということになる。
本稿では、トランスフォーマーを日本的にローカライズさせた「トランスフォーマーV」を引き継ぎつつ、勇者シリーズの基礎構造を確立した「エクスカイザー」に対して、「ファイバード」はその想像力を深化させたと考えた。スターセイバーとジャン少年の関係は「父子」であり、エクスカイザーは戦うロボットと少年に相補的な役割を持たせていた。ファイバードにおいてそれが「兄弟」と定義されたことから遡って、エクスカイザーも構造的には兄弟的な関係性と言えるだろう。
一方、ダ・ガーンではこの構造が大きく変化する。主人公の星史少年は、オーリンと呼ばれる不思議な宝玉に選ばれた存在である。そして本作の勇者ロボであるダ・ガーンは、古代から地球にある「勇者の石」に眠っていた超常的な(「伝説の」)存在であり、それがたまたま近くにあったパトカーと融合した結果、ロボットの姿を得る。星史少年は地球の生命力「プラネットエナジー」を吸い尽くそうとする侵略宇宙人オーボス軍と戦うことになり、そのために世界中に眠る勇者の石を見つけ、そこに眠る勇者たちを目覚めさせていく使命を帯びる。
星史少年は勇者たちを率いる「隊長」であり、勇者たちに命令しながら戦うことになる。ここに至って、ロボットと少年の上下関係は逆転する。星史少年は指揮官であり、勇者たちはその指示に従って戦う。星史少年の采配のまずさによって勇者たちがピンチに陥るエピソードもあれば、星史少年が成長していくことによってチームの能力が高まることもある。こうした関係性は、勇者たちが星史少年を「キャプテン」「大将」「隊長」「酋長」などそれぞれ異なる呼び方をすることによってことさら強調される(「酋長」という意外な言葉選びについては後述する)。
「ダ・ガーン」は、ロボットが主体的な任務を帯び、それを少年がサポートするという構造を脱却している。もちろん地球を救うという使命そのものはダ・ガーンも共有しているが、少年の側に主体があり、ロボットはそれを拡張する存在として従属している。
これは星史の造形にも見てとることができる。「エクスカイザー」のコウタ少年は「子供」として描かれていたし、「ファイバード」のケンタ少年が「火鳥兄ちゃん」と対置されていたことはすでに述べた。これまで少年たちが「身近さ」を、そしてロボットたちが理想像として「憧れ」を担ってきた。しかし星史少年は違う。親のいない家にひとりで暮らし、鏡に向かって身だしなみを整え、「よし!」と笑顔を作りさえする。少々やんちゃで軽はずみな性格ゆえにヒロインに世話を焼かれてはいるが、危機となれば自らヒロインを抱きかかえ救い出す。勇者シリーズにおいて星史は、少年そのものが憧れの器となったはじめての主人公なのだ。このことは、ウルトラマンを思わせるヒーローらしい戦闘スーツのデザインや、ひかる・蛍・ピンクといったタイプの異なる美少女たちがヒロインとして現れてくることからも補強されるだろう。
これは想像力の問題である以前に、商品企画の対象年齢の問題と不可分であることは述べておかなくてはならないだろう。一般に子供の成長は速く、従って興味も移ろいやすい。そのため子供向けのシリーズはふたつの選択を迫られる。ひとつは対象年齢を固定し、同じテイストの内容を繰り返すことでユーザーを入れ替えていく方法。もうひとつは対象世代を固定し、子供たちの成長に伴って対象年齢を挙げていく方法である。勇者シリーズは(少なくとも谷田部勇者の時点では)明確に後者の戦略を選択していた。実際物語の中においても、コウタ少年が小学3年生だったのに対し、ケンタ少年は小学4年生。対して星史少年は小学5年生と設定されている。星史少年はユーザーの成長とシンクロし、「身近さ」と「憧れ」を同時に宿した、より成熟した存在として置かれているのである。
プロンプトを待つ生成AIとしてのダ・ガーン
しかし商業的な背景から出発したその設定は、単なる設定を越えて玩具における想像力の記述を更新してもいる。第一話において、覚醒したダ・ガーンを星史は警戒する。ダ・ガーンはそんな星史に命令することを求める。星史はそれを無視するが、結局はダ・ガーンに助けを求める。ダ・ガーンは助けに応じ、敵の状況に対して柔軟に対応、敵を撃破しふたりを救助する。
星史はダ・ガーンに、敵ロボットを撃退するための具体的な指示をしたわけではない。「助けて」というプロンプトを与えた以降は、ダ・ガーンが判断し、さまざまな武装を使い分けながら敵を排除している。これは20世紀的なマスキュリニティからは大きくかけ離れたものだ。乗り物は乗り手の操作を忠実に拡大し、乗り手の主体を拡張する。指示を与えただけで自動車が勝手に動くという事態は、こうした美学に生きる人間にとってかなりの居心地悪さを伴う。それはいわば自分の身体が勝手に意思決定をするような体験だからだ。マジンガーZやガンダムが主体を持たないのは、こうしたマスキュリニティを活用することで、男性的なナルシシズムを記述しているからだ。
本稿では、玩具の想像力の源流に変身サイボーグとサイボーグライダーを置き、「魂を持った乗り物」という概念に世紀末ボーイズトイの想像力を象徴させてきた。そしてエクスカイザーが少年にロボットをサポートさせることと、ロボットの玩具で遊ぶ営みを重ね合わせたものとして見た。
この観点から言えば、ダ・ガーンの構図はロボットのおもちゃによる遊びに対して優れた物語を与えるひとつの発明と言えるだろう。そもそもロボットのおもちゃで我々が遊ぶとき、そこにはスケールの違いが横たわる。我々を基準にすればロボットは小さすぎ、ロボットを基準にすれば我々は大きすぎる。ゆえに、我々が現実からおもちゃの世界に没入していくために、物語においてはロボットと少年、おもちゃと遊び手の関係性をうまく記述することが求められてきた。トランスフォーマーにおいて人間が結局のところロボット同士の戦争を傍観する立場に置かれてしまったこと、そしてエクスカイザーが優れた構図を見出し、ファイバードが若干の齟齬を抱えたのは、まさにこの点だったと言える。
その意味で、ダ・ガーンの設定は遊びを極めてよく記述している。我々はロボットの世界とは分断されており、直接ロボットたちの戦いに参与することはできない。しかしロボットたちを配置し、動かし、戦わせるのは我々である。もちろんマジンガーZやガンダムのような乗り込む形のロボットもまた日常と空想を接続する機能を持っていたと言えるが、しかしこれらと比較したときに重要なのは、「魂を持った乗り物」が別個の人格と主体を持つことだ。自動車のような「乗り物」――乗り込むタイプのロボット――が、純粋に身体を拡張しその精神による意思を拡大するのに対して、勇者ロボは自らの意志を持ち、ときには命令に反発し、ときにはアドバイスを行う。
ダ・ガーンが描かれたのは20世紀末のことであった。21世紀を生きる我々は、このシークエンスに見覚えがある。たとえばChatGPTのような、プロンプトを受け付けるタイプの生成AIサービスを使う体験は、限りなくこれに近い。こうしたサービスは――あえて以降は「AI」と述べることにするが――AIは、人間のプロンプトなくして動くことはない。そしてプロンプトを与えられたAIは、その判断基準や根拠をブラックボックスにしながら、与えられた問題を解決しようとする。人間はそのプロセスそのものを直接的に参照することも操作することもできず、結果のみを得る。
勇者シリーズは「ダ・ガーン」に至って、別種の生命体として戦争を繰り広げるトランスフォーマーと、自身の身体を拡張し社会に参加する装置であるガンダムを接続する、中間の想像力を確立した。そしてその中間性こそがロボットによるおもちゃ遊びを的確に記述し、そして20世紀的なマスキュリニティを超えた、新しい想像力に手をかけたのだ。
パトカー、戦闘機、新幹線、仏像
さて、それではキャラクターの配置についても見ていこう。星史の父親である高杉大佐は地球防衛機構軍の大佐であり、母親はニュースキャスターと設定されている。
これはファイバードと比較するとずいぶん大きな態度の違いに映る。天野博士は民間の科学者であり、政治から徹底的に距離を置くために脱税すら行う人物であった。そして敵となるドライアスは政治と科学の短絡について警鐘を鳴らしていた。もちろん高杉大佐があえて「地球防衛機構軍」の所属とされていることは、特定の国家に与するのではなく、世界全体の秩序を守るという脱政治的なニュアンスが大きいだろう。
では、ロボットについてはどうだろうか。まず、ダ・ガーンたち勇者は地球に危機が訪れたときに目覚める、一種の免疫のようなものとして設定されている。これは90年代のエコ思想とグローバリズムを反映した想像力と見てよいだろう。
ダ・ガーンの小ロボはパトカーに変形し、それが地球防衛機構軍の戦闘機と、新幹線と合体することで「ダ・ガーンX」を構成する。キングエクスカイザーが「キング」、武装ファイバードが「武装」であったことに比べると、「X」は抽象的で、特定の意味を見出すことは難しい。とはいえ、スポーツカーのようなプライベートな存在ではなく、公共的な意味合いを帯びた乗り物が選ばれていることには注意を払いたい。加えてダ・ガーンは仏像から復活することもいったん覚えておこう。
それでは他の勇者はどうだろう。ジャンボセイバー・ジェットセイバー・シャトルセイバーの3体(後にホークセイバーを加えた4体)は空の勇者セイバーズと呼ばれるチームを構成し、スカイセイバー(ホークセイバーが加わってからはペガサスセイバー)へと合体する。そしてビッグランダー・ドリルランダー・ターボランダー・マッハランダーの4体は陸の勇者ランダーズとして、ランドバイソンへと合体する。名称からは少々わかりにくいが、ランダーズはカーキャリアやレースカーなど、自動車をモチーフにしている(ドリルランダーはドリル戦車だが)。
勇者の石は、古代エジプトの棺やオーストラリアの恐竜の化石など、世界中に散らばっている。日本の大仏から出発して世界各地を巡っていく構成は、自分たちの生活する場所を相対化しながら、遊び手をグローバリズムやコスモポリタニズムの担い手として自覚させていく。
そう考えれば、ダ・ガーンXとはひとつの原点として「今ここ」に立つ存在だと見るとこもできる。パトカーというもっとも身近な公共の乗り物を中心に置いて、戦闘機と新幹線という風景の中にありながらやや日常から遠い存在へと拡張される。スタート地点としての生活の風景を象徴しているという意味では、ダ・ガーンは「日本」や「都市」を象徴していると言えなくもない。戦闘機側にさらに拡張していった先に「空」が、新幹線側にさらに拡張していけば「陸」の風景が現れてくるわけだ。そう考えれば、「空」にはシャトルセイバーを通じて宇宙が、そして「陸」にはドリルランダーを通じて地底が視野に入っていることも興味深く思えてくる。
空と陸、そして文明の外側
原点から自身を相対化しながら拡張していく形式は、この後に加わる勇者について考えることでより鮮明となる。セイバーズに後に加わるホークセイバーは、その名前通り鳥の姿をモチーフとしている。旅客機・戦闘機・スペースシャトルの並びに鳥が加わることは、一見不統一なように思われる。ところが自己の生活空間を基準とした世界の拡張と考えれば、これは別の理解ができる。すなわちホークセイバーが象徴しているのは鳥の世界だ。スペースシャトルは宇宙の領域までを射程に収めるが、ダ・ガーンは地球を単なる空間としてではなく、さまざまな存在を内包する「世界」として描く。それはこの世界に生きる人間である自身を相対化し、鳥もまたこの空に暮らしている――という星史少年の認識そのものの拡張だ。ホークセイバーはスカイセイバーと合体し、背中に翼を備えた人馬の姿を持ったペガサスセイバーとなる。玩具としても珍しい傑作ギミックであるが、人と鳥が一体となったその姿は、まさにこうした想像力の象徴として適切だろう。
さらにこれはガ・オーンへと至る。ガ・オーンは本作における「2号ロボ」であるが、そのモチーフは独特かつ複雑である。まず、第一のモチーフは見るからにライオンであり、物語上もガ・オーンが眠っていたのはアフリカのキリマンジャロと設定されている。ホークセイバーが星史少年の鳥への思いやりから復活したのに対して、ガ・オーンはアフリカの大地に生きる獣たち――具体的にはゾウやキリンなど――の祈りを受けて目覚める。百獣の王たるライオンというモチーフは、獣の守護者として神格化されるにぴったりだろう。黒・赤・白・黄・緑というコントラストがはっきりしたカラーリングもアフリカ的だ。
一方で驚くべきことに、ロボット形態のデザインは明らかに「インディアン」をモチーフとしている。アメリカン・インディアンあるいはネイティブ・アメリカンと呼ばずにこの言葉をあえて使うのは、ガ・オーンのデザインは明らかにそうした認識のアップデート前、「インディアン」という言葉でしか表せない旧い概念を参照しているからだ。大きく広がったライオンのたてがみはウォーボンネットを思わせるし、顔に施された二列一対のペイントは戯画化された古典的な「インディアン」のそれである。さらに武器には「ガ・オーントマホーク」が含まれ、単語を並べて片言で喋り、挙げ句の果てには星史のことを「酋長」と呼ぶのである。
このことはどう考えればいいのだろうか。こうした描写が現代では差別的と扱われるようになったことに異論はないが、それは本題でないためいったん議論から外すとして、ガ・オーンを通じて描かれようとした想像力はどのようなものだったのだろう。
『伝説の勇者ダ・ガーン』という作品自体が、90年代的なエコ思想を背景としていることはすでに述べたし、それが20世紀的な文明社会の野放図な発展とマスキュリニティを批判する性質を持っていたことも議論してきた。
その観点から見れば、ガ・オーンのモチーフが持つ奇妙な複合――アフリカの動物とインディアンの文化は同じカテゴリに入れることができる。こうした価値観の視点から見れば、アフリカの大自然は人間の活動によっていまだ破壊されざる聖域であるし、自然と深く結びついたインディアンの文化はアメリカの開拓によって民族ごと破壊され失われたものだ。つまりそれは20世紀的なもの――ダ・ガーンが象徴する「都市=文明」と対置される「自然」の概念なのだ。
この連載では、谷多部勇者においてグレート合体は対立するふたつの概念の統合を意味していると読み解いてきた。グレートエクスカイザーが「西洋と東洋」、グレートファイバードが「地球と宇宙」の統合だとするのなら、ダ・ガーンとガ・オーンの合体によって構成されるグレートダ・ガーンGXは「文明と自然」の統合と見ることができる。
遡ってダ・ガーンにおいて戦闘機と新幹線をモチーフにしていたことも、より一段掘り下げて考えられるようになる。上半身を構成するのが単なる航空機ではなく戦闘機でなくてはならなかったのは、それが暴力装置としての「銃」のニュアンスを含んでいなければならなかったからだし、アメリカにおいては「トラック」に象徴されたような都市の生活を支える交通・ロジスティクスは、日本においては鉄道が、そしてその最先端の形式としての新幹線が当てられる。
我々はここで、勇者シリーズがトランスフォーマーの日本的ローカライズから出発していたことを思い起こすことができるだろう。トランスフォーマーが追求したアメリカン・マスキュリニティのルートが、21世紀において行き詰まってしまったことはすでに分析した。そのアメリカン・マスキュリニティを批判的に捉えながらも独自に発展させ、玩具と子供の関係を追求することによって中間性の美学に至ったルートが、勇者シリーズとして90年代の時点で確立されていたのである。
20世紀における悪とその相対性
そう考えると、敵についても興味深い読み解きができるようになる。オーボス軍には4人の幹部(最終盤に5人)が存在するのだが、技術至上主義の軍人であるレッドロンはドイツを、サーカス団の団長にして巨体のレスラーであるデ・ブッチョはロシアを思わせる。レディ・ピンキーが搭乗する人形をモチーフにしたロボットはフランスのハイファッションブランドをモチーフにした名前が与えられている。ビオレッツェは少々手がかりに乏しいが、名前の響きや猫との結びつき(『ゴッドファーザー』におけるマーロン・ブランドなど)を考えれば、イタリアのイメージで見ることもできなくはない。一方でオーボス最大の部下として現れ、UFOの姿からドラゴンの姿へと変化するシアンは、ほとんど暴力性そのものの具現化であって、こうした枠組みに収めることは難しいだろう。
彼らダ・ガーンの悪役たちは、ほぼ完全な悪だったエクスカイザーやファイバードの悪役たちと違ってそれぞれの事情を抱えて戦っており、最終的には改心していく。例外はシアンとレッドロンで、シアンはオーボスの名代として振る舞い続けるし、その命令を受けたレッドロンは改心することなく戦いにこだわり戦死する。
つまりこういうことだ。20世紀的な力学に基づいて発展していく先進国は、油断すると容易に侵略者となってしまう。しかしその本性が常に悪とは限らない。戦いをやめれば、悪である必要はなくなる。現実における国際社会の利害関係が常にそのように解決できるとは言えないが、ダ・ガーンが描き出している理想像はイメージできるだろう。ダ・ガーンは冒険と出会いを通じて少年の世界を相対化しながら拡張してきたわけだが、その想像力は敵の扱いにおいても貫徹されているのである。
ちなみにこの視点からは、ボーイング(ボーイング747=ジャンボセイバー)とノースロップ・グラマン(F14トムキャット=ジェットセイバー)とNASA(スペースシャトル=シャトルセイバー)、そして合衆国の国鳥(ハクトウワシ=ホークセイバー)を擁するセイバーズはアメリカのイメージを宿していると読むこともできるかもしれない。日本から出発したダ・ガーンが真っ先に味方とするセイバーズにアメリカの要素が込められているとしたら、戦後日本との関係性を踏まえていてなかなかに興味深い。とはいえ、身近な航空機を選定したらそれがたまたまアメリカ産であった(それは日本との国際関係と最先端の航空産業を持つことによる)という可能性も当然あるだろう。
ではランダーズはどうかといえば、この点については複合的である。作中ではビッグランダーとドリルランダーはオーストラリアの地下で、そしてターボランダーとマッハランダーはイギリスのモータースポーツにおいて復活する。赤いスポーツカーとイエローのF1カーはフェラーリ(イタリア)であるし、ターボランダーに印象的に配され合体後も強調される牛のモチーフは、スーパーカーの文脈では猛牛をロゴにあしらったランボルギーニ(スペイン)を思わせる(が、ターボランダーのシルエット自体はあまりランボルギーニ的ではない)。一方でバイソンというモチーフや、長く伸びた角がテキサスロングホーンを思わせる牛のデザインは、アメリカ南部的なものとして読めなくもない。おおまかに西ヨーロッパ的ではあるものの、どちらかというと自動車産業全体を記述しているように見え、イメージを限定することが難しい。いずれにしてもそこに「世界」への目線を読み取ることができるとはいえそうだが、いずれにしてもドリル戦車は分類を拒否していることも事実である。
立ち上がれ果てしない未来の光へ
こうしてダ・ガーンは90年代的グローバル意識のもとに地球そのものを視野に収めた。しかしダ・ガーンは、さらに次のステップを用意している。それがセブンチェンジャーだ。
セブンチェンジャーは本体であるロボットを含めた七つの形態へと変形する傑作玩具であるのだが、物語においては地球ではなく異星の勇者である。セブンチェンジャーはオーボスによって滅ぼされたワイルダー星の勇者であり、ダ・ガーンが星史の指令で行動するように、亡国の王子であるヤンチャーの指令で行動する。ヤンチャーとセブンチェンジャーは当初はオーボスに協力していたものの、それはあくまでオーボスに復讐を遂げるための情報収集を目的とした一時的なものであったことが語られる。オーボスに滅ぼされてしまったワイルダー星は、地球がたどりうる暗い未来を予感させる。
物語の最終局面において、セブンチェンジャーを含めたすべての勇者は、エネルギー体となってグレートダ・ガーンGXと一体となる。対するオーボスは力を求めることに固執するが、倒される瞬間には「これで死ねる」とつぶやく。すなわちオーボスは、侵略的に版図を拡張していく一種の帝国主義の象徴として読むことができ、それが持続可能なモデルではなかったことが90年代的な20世紀への反省の結論であった。自らの立ち位置を相対化しながら世界を拡張し続けてきたダ・ガーンは、とうとう地球そのものを相対化しつつ、暴力と侵略を退け、「風の未来へ」――サステイナブルな未来への意志を宣言するのである。
ここまでの議論を整理しよう。「谷田部勇者」の最終作となる『伝説の勇者ダ・ガーン』は、少年が隊長として主体を持った勇者に指示を行う形式を確立し、少年をナルシシズムの器として記述しながらも、子供がロボットの玩具を操作する遊びを極めて精確に記述することに成功した。同時にダ・ガーンは90年代的なグローバリズムを背景にして、日本の都市に生活する子供の等身大の目線からスタートし、世界中を旅して復活させた勇者たちとの出会いを通じて「今ここ」を相対化しながら世界を拡張していく。その過程を通じて、最終的に20世紀的な美学を反省してグローバリズムとサステイナビリティの概念を導入し、そしてはからずもテクノロジーと相補的に機能する中間性を持った、21世紀的な主体のありかたを予言した。
これは玩具の販売という意味でもたいへん意義深い。子供たちにとって、一体一体の――いや、あえて「一人ひとりの」と言い直そう――勇者ロボたちを手元に揃えていくことは、まさに世界の拡張を意味することになるからだ。それはもはや単なるプラスチックと金属の塊ではなく、乗り物と人型を往復するからくりであることさえも超越する。勇者ロボとは理想の成熟の姿であり、世界そのものであり、ひとつの思想を宿したアイコン――言うなれば「仏像」なのだ。
この連載では、谷田部勇者最後の作品として、『伝説の勇者ダ・ガーン』が勇者シリーズの美学をいったん完成させたと考える。そして以降の勇者シリーズは、メタフィクショナルな仕掛けを通じた自己言及と、さらなる美学の実験へと歩みを進めていくことになる。
(続く)
この記事は、PLANETSのメルマガで2023年10月24,31日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。
あらためて、2024年2月15日に公開しました。(バナー画像出典:「勇者シリーズトイクロニクル」(ホビージャパン)p17)