「モノ」よりも「コト」のほうが人を惹きつける時代だと言われています。でもだからこそ、人と「モノ」との関係を考え直してみたい。そう考えてこの連載をはじめました。登場するのは、日本の伝統工芸のアップデートに取り組む丸若裕俊さん(EN TEA代表)と、日本国内の陶磁器の魅力を世界に発信するプロジェクト「CERANIS」を手がける沖本ゆかさん。骨董の域に到達しそうな工芸品からジャンクな日用品まで、さまざまな「モノ」の魅力を語り尽くす対談をお届けします。第1回は、丸若さんは九谷焼の箸置き、沖本さんは朝日焼の湯呑を取り上げました。
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端的に言うとね。
愛用品のある生活への憧れ
丸若 今日ぼくが持ってきたのは、九谷焼の箸置きです。上出長右衛門窯という、百四十二年続いている窯元のもの。紙風船に似せた模様、雪や鳥のあしらい。箸置きなのに、ちょっとした小ネタがあるのが面白いですよね。このちょっと和やかな見た目が、ぼくは大好きなんです。
沖本 素敵ですね!
丸若 日常で何気なく使うものを自分のお気に入りで構成していくことに、昔から強い関心を持っています。昔の人が遺品や愛用品を残したりするのって、洒落ているじゃないですか? 箸置きのように、使いだしたら空気みたいな存在になるものに、「なんかいいな」という感情を抱きたい。
上出長右衛門窯は割烹食器を得意としているので、道具としても優れています。たとえば、この箸置きは、箸が絶対に落ちないんですよ。とても使い勝手がいいから、可愛いだけじゃなく使い続けています。
沖本 たしかに、どれも真ん中がしっかりとへこんでいますね。
丸若 でしょう? それから、九谷の箸置きはプレゼントにもいいんですよ。ふだん、箸置きってなかなか意識して買わないですよね。だからこそ、洒落た箸置きを贈ると、意外と喜んでもらえます。
沖本 わたしはどちらかといえば、食器を真剣に買うほうの人間だとは思いますが、箸置きはなかなか意識して買わないですね。プレゼントされたら嬉しいと思います。
丸若 器と比べて箸置きは、相手の生活習慣をそこまで想像せずとも、プレゼントしやすい。小さくて、あまり迷惑にもなりませんしね。正直、迷惑なものをもらうことってあるじゃないですか(笑)。「ありがたいけど、これどうしようかな〜」「熱意は伝わってくるけれど、自分の生活習慣にまったく関係ないぞ」みたいな。そうならないものをプレゼントしたいなという気持ちが、ぼくにはあって。その意味で、箸置きは優れものなんですよ。
ものに触れば、歴史とつながれる
丸若 沖本さんは、九谷にどんなイメージを持っていますか?
沖本 なんだろう……繊細な線で描くアートみたいなものもあるし、一筆書きみたいな身近な感じの絵付けのものもある。とにかく表現が多様です。あとは、色合いが鮮やかですよね。緑、紫、黄色、赤と、京都よりも彩りが華やか。
丸若 九谷は品を残した遊び心と可愛らしさを出すのがうまいんです。伝統工芸と聞くと雅すぎると感じるときもあるかもしれません。でも、九谷はそこまで肩肘を張っていない。とはいえ料亭で使われたり、魯山人が初めて焼きものを経験したのが九谷だったりと、聖地ではある。
歴史をひもといても、九谷焼ってとても不思議で。始まってから七十年ぐらいのときに、一度途絶えていて、そこから百何十年ぐらい経ってから発掘されているんです。そのとき、昔の九谷焼に関する文献が、何も残っていなかったんですよね。埋もれていたものを「古九谷」、それを解明復興しようとしたものを「再興九谷」と言います。
沖本 へえー! 何も残ってなかったのですか。
丸若 古九谷は謎が多くて、いまだに完全な再現はできていないんですよ。こういうミステリアスなところも、ぼくが九谷焼に惹かれる理由の一つです。しかも、それが手にとって使えるものだということが、とてもいいなと思っていまして。歴史の映像は画面の中で終わってしまいますが、ものなら自分が触れて、歴史につながることができる。
一方、いまの九谷焼のベースとなっている再興九谷は、いろいろ細分化していて、窯元によって得意なものや好きなものが違います。昔の伝統をすごく大切にしているのだけれど、次世代に伝えるために絶えずアップデートしようとしている姿勢も、触れていて楽しいんですよね。
ものには窯元を超えた「相性」がある
丸若 九谷は、ぼくが伝統工芸に関わるきっかけとなった窯元でもあります。十年以上前、あるプロジェクトで九谷焼を使うことになり、いくつかの窯元さんや関係者の方にお会いしたのが最初でした。
二十代の頃は、福島武山さんや徳田八十吉さんなど、一応いろいろな九谷を代表する人間国宝の方々を見ていましたね。その中でも特に「これからの人生で一緒にいろいろなキャッチボールができたらな」と思ったのが、上出長右衛門窯なんです。
沖本 すごい、最初が九谷焼だったのですね。敷居の高さは感じませんでしたか?
丸若 当時は若くて、何もわかっていなかったのでしょうね(笑)。でも、たしかにいまはいい意味での品格や敷居がある感じがして、それが好きなポイントでもあります。「なんでもする」というスタンスではなく、しないことが明確にある。
沖本 明確なアイデンティティがあるということですね。
丸若 スタンスが明確だと、他の窯元との相性も明瞭になりやすい。以前、朝日焼の当主が「自分はほとんど器を買わない。でも、上出長右衛門窯の焼きものは自分のところにはない良さを感じられて、久々に欲しいと思った」と言っていまして。同じ品格、同じ客層を狙って作っているところは、全然違っていても相性が良い。トーンが合っていると、全然違ったもの同士でも違和感がなく、喧嘩しないんですよね。それ以外でも、唐津焼などの陶器とも洗練された食文化とともに育った共通点があり、相性が非常に良いです。
沖本 丸若さんはいろいろと網羅的に見られているからこそ、そうしたミックスができるのかもしれません。
丸若 器のプロの人たちって、洋服にたとえると、フォーマルの専門の人やアウトドア専門の人なんです。その人が洋服全部を語れるかというと、違うんですよね。ぼくはもう少し全体的なところを見ていて、料理屋さんに「合わせ方」の可能性をお伝えし、考え方を吸収していただくのが仕事です。
そういう意味では、九谷から入ったのがとてもよかったと思います。上出長右衛門窯が割烹料理食器だったからこそ、器の良し悪しや取り合わせ方を、いろいろな場面で体感できたのではないかなと。
豪華さではない、「添えるだけ」の美しさ
沖本 丸若さんご自身は、この箸置きにどんな箸を置いているのですか?
丸若 昔から好きな蕎麦屋ととんかつ屋があるのですが、そこの割り箸を持ち帰ることを習慣的に行っています。素材として吉野杉を使っていたりとかもありますが、好きな店舗の道具を自宅で使えることがシンプルに好きで、この九谷の箸置きに置いています。
あとは、京都の公長齋小菅で求めた、煤竹のとても繊細なお箸も大好きです。粗末なものを食べるときでも、九谷の箸置きと合わせて使うと美味しくなります。
沖本 わたしも煤竹の細いお箸を買いましたが、いいですよね。でも、使うには集中しないといけないので、在宅勤務中のお昼とかには使いにくい。もう少し丁寧に、休日にゆっくりものを味わうときに使いますね。そうやって、ものが動作をつくるっていうのも日本独特で面白いな、と思います。
丸若 ぼくも家で道具を使うときは、けっこうシンプルなものを使うことが多くて。たとえば、永平寺などの禅寺に行くときに「これだけは持っていっていい」とされている、応量器という器を使っています。重ねの椀なのですが、基本的に漆で塗ってあってフォーマット化されているから、どんなものを乗せても、これ一点置いておくだけで完璧な美しさになるんですよ。
ただ、これは仏事の道具の意味合いが強いので、より日常的には応量器の仕組みを応用した漆の椀も使っています。古道具屋で状態のいいものを買ってきたのですが、とてもコスパがいい。一人暮らしでも完璧だし、家族がいても人数分あれば、食器棚にかなり余裕を作れると思うので、めちゃくちゃおすすめです。
沖本 わたしも一セット持っています。たぶんそこまで高級なものじゃないのですが、生活骨董屋さんで買いました。この一点があると、すでにバランスが取れているので、美しく整っていいですよね。
丸若 素焼きの箸とか、利休箸みたいな綺麗な箸があるだけで、自信につながる。日本の様式美は、豪華一点式ではなく、無駄なものをなくしてシンプルにして、何かを添えるというものだと思うんです。床の間に花を一輪挿すように、主に何をしたいかだけを定めて、あとはできるだけナチュラルな状態にする。
それから、一個ワンポイント的に入れるなら、ちょっと華奢なほうが品がいい。ちょっとだけ小さいものは、人間にとっていい違和感を感じさせてくれると思うんですよ。最適化しすぎているものから、ちょっとだけずらす。
石は最良志向、土は地産志向
丸若 そろそろ、沖本さんが持ってきたものについても聞かせてください。
沖本 わたしが持ってきたのは、朝日焼の湯呑みです。月白釉の椀で、二時間くらい悩んで決めました(笑)。
丸若 いいですね!
沖本 ですよね! 初めて見たとき、「なんだ、この美しい色合いとバランスは」と思いました。朝日焼って、この鹿の背中みたいな鹿背と呼ばれる模様が、ぽつんぽつんと出てくるのが特徴です。なので、その特徴をもっているものにするかすごく迷ったのですけど、最終的にはこのほうじ茶椀にしました。
丸若 朝日焼は、もともとお殿様が自分の窯元として運営していて、そこから独立していった経緯があります。いろいろなターゲットに向けて作っていったブランドじゃないから、「この人が好むもの」というスタンスが明確で、世界観がとてもしっかりしているんですよね。キレ味があり、シャープさやモダンさがあるものをよしとしているから、ちょっと凛とした感じが出る。土の器やお茶道具って、ぽてっとして野暮ったくなりやすいんですが、朝日焼にはそれがなく、全体的にエレガントなんですよね。
沖本 突き詰めた人が出すシンプルさってすごいですよね。数年前に開化堂カフェで、玉露を飲むイベントに参加したのがきっかけで、宇治にある窯元で朝日焼と出会ったのですが、とても普遍的な美しさを持っていると感じました。まさに一目惚れでした。
遠州七窯の一つであることや、侘び寂びに美しさや豊かさを加えた「綺麗さび」という言葉も教えていただいて、感動しましたね。「侘び寂びっていいよね。でも、もう少し色合いがあってもいいはず」と感じたことがある人も少なくないと思うのですが、それを一瞬で昇華させてくれている。まさに霧が晴れたような気持ちになったことを記憶しています。
それと、朝日焼さんは宇治の土で作られているところも素敵だなと思いまして。最近なかなか土もとれなくなって、他の産地のものを使っているケースもあるじゃないですか。でも、朝日焼さんは頑なにそこを守られている。
丸若 磁器(石物)と陶器(土物)はまったく違っていて、土は地産がベストという考え方が根底にあります。磁器は「世界中の最良な石を用いる」という考え方。もともとの発想が違うんです。
土物は使えば使うほど「育つ」
沖本 実は最初は、鹿背が出ている朝日焼らしさも備えて、かつモダンな別のものを買ったのです。でも、わたしはそれを使いこなせなくて。お煎茶椀だったので、コーヒーを飲むには高さが足りなくて手を添える部分が熱くなってしまうし、煎茶は本当においしいものを淹れようとすると温度管理が難しい。わたしの生活スタイルでは、毎朝湯冷ましをつかった美味しいお茶を淹れて一服する、ということができなかったのですよ。
お茶をいろいろ飲んで思ったのが、コーヒーの代わりみたいな感じで、繊細な温度管理を気にせず淹れるにはほうじ茶が一番だということ。香りも強いから、ちょっとリフレッシュしたいときにぴったりで。それで、ほうじ茶を飲む湯呑を探していたのです。お茶なら、お抹茶や煎茶ではないけれど、お茶とともに四百年の歴史を紡がれている朝日焼さんで何かいいものがあればいいなと思って探しに行ったときに、この月白釉のほうじ茶椀に出会いました。
丸若 ほうじ茶に使ってみて、どうでしたか?
沖本 ぴったりでした。他のものは自由に自分の生活に合うような使い方をするのですが、これは別の用途での使い方をしていません。ある意味本当に、もの自体が考えつくされていてパーフェクトなのでしょうね。そして、さきほど指摘されていたようにほんの少しだけ小さいのです。
最近はさらに急須も探しています。岩手の南部鉄器を使っていて、すごく気に入っているのですが、一人で飲むには大きいのですよ。ほうじ茶に適した、一人か二人用の小さめのものがほしくて。
丸若 ほうじ茶には、磁器でもいいのですが、陶器がおすすめです。土でできていることでの柔らかみであったり、使い込んでいくことで土物は育っていくので、ほうじ茶とともに長く楽しめると思います。
沖本 本当ですか? じゃあ、今度は急須を探す旅に出なきゃな。
丸若 お茶もその種類やその日の気分で選ぶ、その面白さに気付くととても楽しいと思います。土の良さ、石の良さなどなど。香りも違ってきます。
沖本 香りに奥深さが出るのが、面白いです。香りって、心を持っていかれますよね。玉露もそうですが、日本料理は基本的に味の合わせを楽しむ文化じゃないですか。でも、もうちょっとリフレッシュしたいときは、香りで持っていくと一瞬なのですよね。忙しい生活には、それがどうしても必要で。それのわたしなりの解が、ほうじ茶だったのです。
ものを通してコトを見る
丸若 ちなみに、ほうじ茶用の湯呑を探しに行ったとき、この器のどんなところに惹かれたんですか?
沖本 宇治の川のギャラリーから見た風景に重なったのです。美しいものを作ろうとすると、意識せずともその土地の風景に似てきてしまう気がします。宇治のふもとにギャラリーがあるのですが、本当に清らかな川が流れていて。宇治に降り立って川の近くに行ったときの、橋からの風景も美しかった。ギャラリーから見た風景の美しさと、この月白釉の美しさが、同じような配分だった気がしたのですよね。あとは、登り窯で焼かれたものだということにも惹かれました。ガスや電気のようにコントロールがきかない分、一期一会な感じがして。
丸若 本当に、理想的なものの選び方をされていますね。「○○がいいと言ったから」とかは関係なく、みんながもっと自分の目線で選ぶようになれば、楽しくなるのではないでしょうか。そのぐらいの楽しみ方や引き感で、みんなが接したらいいのになって、いつも思っているんですよ。そうなったら、自ずとこういうものは残るし、精度を保つための適切な自然淘汰もなされていくはず。
沖本 ものを通して、もの以上のコトを見ているということが広まればいいなと思います。わたしは朝日焼の湯飲みを通して宇治川も見えるし、宇治に行くまでのわくわくした気持ち、綺麗さびなど丁寧に歴史や特徴を教えてくれた窯元の方々を思い出します。ものには、とても多くのコトが詰まっている。
わたしはもともと世界を旅するのが好きでして。歳でフランスの田舎のバカンスを体験してあまりの豊かさに衝撃をうけてから、ものより思い出の精神で体験ばかりを追っていたのですが、それを追い求めた結果、ものに帰っていったのです。実は、もの自体は作り手のコトの集大成だし、そこに私自身のコトを重ねて持って帰ってこれるのは、素敵じゃないですか。
日常の雑器の楽しみをもう一度
沖本 逆にものにこだわりを持つと、コトもさらに豊かになります。出会いと物語の連続なのですよね。この前、山梨の薪窯を見に行ったときも、調べて行ったわけじゃなくて。ゲストハウスに泊まって、たまたま出会った人に器が好きなことを話していたら「あそこいいよ」と薦められたから行きました。SNS上だけでなく、そうした偶然の出会いの機会がもっとあるといいなと思います。ものに出会う前の物語と、もの自体が持っている物語の両方をまるごと味わえるから、楽しいのですよね。そうしたものが家にあると、見るたびにいろいろなことを思い出し、にんまりしてしまいます(笑)。
丸若 昔は、自宅も道具屋よりもものが多い環境でしたが、今は自宅は本当にものが少ないです。だからこそものを手に入れるときは幾度となく頭の中でシミュレーションをします。最近京都で求めた「枕屏風」は、日本家屋において美しさと実用性を兼ね揃えた品です。江戸時代に町人が寝具などを目隠しにするときや隙間風を避けるために生まれたので、冬などの寒い時期には大変重宝する用の美が魅力です。
ただ、いま一番必要なのは、雑器というか、日常の器のようなものを買うことの楽しみ方を、もう一度提示することであるという気もするんですよ。たとえば禅もそうですが、日本の文化はある側面では、誰でも分かるものを良しとしない。双方が対等であって初めてという考えもあり、ある程度リテラシーがあって、さまざまな経験のある人間が次に欲しがる知識として、禅がある。茶道だって、「やりたい、興味ある!」で始められるものではなく、そこに至るまでの心身の準備が伴うものです。
工芸をめぐる現状は、プシュって空ける缶ビールから始まって、その後にいきなりマニアックなウィスキーに手を出すしか選択肢がないような状況だと思います。それらの間にある、自分の日常に持ち帰る家族のような、目線の合った物語を持ちつつ、絵空事でない知識を持ち合わせる必要があると思うのです。
この記事は、2021年9月刊行の『モノノメ 創刊号』所収の同名記事の特別公開版です。あらためて2022年9月22日に公開しました。
本稿や特集「〈都市〉の再設定」が掲載された『モノノメ 創刊号』は、PLANETSの公式オンラインストアからご購入いただけます。
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