工芸から茶へ

 僕は現在、茶づくりをしています。とはいえ自分が作るのではなく、信頼できる仲間と会社を作り、オリジナルブランドを手掛けています。そもそもなぜ茶に関する事業を始めようと思ったのか。それは、もともと本質的なものを伝えたいという思いがあったからです。
 前回述べたように、工芸が日常をハックする手段として、ある程度適しているのは間違いありません。僕はそれを、表層的なものに留めず、たとえ難しくても文化の本質を探求したいという気持ちで形にしてきました。そういう意味で茶は、僕の伝えたいものをより細かく伝え、隅々まで行き渡らせて共有するツールになりうると感じています。しかも最終的には茶を飲むツールを通して工芸の存在も肯定することにつながり、同時に工芸の魅力を最大化することで、茶の価値もそれに準じてアップグレードできるという相乗効果も生みます。
 たとえば自動販売機やカフェだけでなく、オフィスや自宅でも飲む場面が多い茶は、世の中にタッチポイントが無数にあることが、工芸との大きな差です。工芸はやはり質が良くなればなるほどタッチポイントが少ないし、オンラインで売っていくことも大変難しい。個体差もあるし、手触りや重みのような触覚も情報としては重要です。
 茶は再現性をきっちり担保してあげればそれ自体がすごく雄弁に語ってくれるし、一人歩きしてくれるものだと考えています。特に日本人は味に対しては全世界の中でもうるさい民族です。たとえば海外旅行にでも出かけたら、基本的に口に合わないものが出てくるのを覚悟しなければいけないわけで、そこをいちいち論じません。だからこそ、美味しい、不味いといった話から始められたらいいなと考えました。茶は本来は飲んでいて単純に美味しいと言いやすい。けれど、その「美味しい」「不味い」を通じて、僕の中で工芸を通じては伝えきれなかったところまで伝えられるフォーマットとして、茶というものはスゴく優れているなと感じています。多くの場合、プロダクトの良さを共有するには前提となる知識や経験則が必要ですが、茶はそういった前提を共有していなくとも、味覚を通してその良さを受け取れるので共有しやすいのです。
 そして、茶も工芸も同じ悩みがあります。どちらも同じようにおかしい状態になっている。工芸が、雑貨になる、あるいはアートになることで本質を見失っているように、茶はペットボトルで飲まれることが主流になり過ぎたため、茶の本質的な楽しみから離れてしまいがちです。だからこそ、工芸と同様に、茶もその本質を継承するためにこそアップデートされるべきだと考えています。
 僕自身、茶を手がけることで気持ちが前向きになりました。工芸は売れるものを作ろうと努力するほど、廃棄物を生み出してしまうというジレンマがあります。工芸の人たちの一部は残念ながら「自然を愛している」と言う一方で、廃棄物を作っています。たとえば、焼き物で言えば、一度焼いてしまったら、今の技術では絶対に土に還せません。1000〜2000年経てば小さくはなるけど、自然には戻らない。人間の手によって作られたキティちゃんのマグカップは1000年後も残ってしまう。
 もちろん、だからといって工芸を捨てるというわけではなく、ここには工芸の精度を上げていくための道筋として、いったん茶という経路に着目しようという意図があります。 焼き物が大量生産のモデルになってしまうと、産業としては僕が関われる余白は小さい。職人の一家や数人の工房で作り続けるぶんにはいいけれど、無理やり僕やその周りの人たちを養える経済規模にするためには、どうしても大量に廃棄物を生み出すしかなくなります。

▲GEN GEN AN幻 in 渋谷

茶師・松尾俊一との出会い

 そんなことを考えていたときに同世代の茶師、松尾俊一と出会ったのは大きな転機となりました。茶はちゃんとしたものを作れば作るほど、物質的にも経済的にも良い循環が生まれてサステイナブルになっていきます。そういうこともあって、茶に出会ったとき、とても興奮しました。

▲茶師・松尾俊一さん

 そもそものきっかけは、パリのミュージアムの依頼で日本文化を展示するというお題をいただいて、その際に松尾を紹介してもらったことでした。ミュージアムからは、「茶道は素晴らしいが非日常である。私たちが興味を抱いているのは、日常にある茶と日本人の関係性だ」とリクエストがあったのです。そこで知人を通じて彼を紹介してもらいました。
 松尾は、もともと佐賀県の嬉野市で6代続いている茶業家の息子で、医療機関で言語聴覚士として言語に障害がある人のリハビリをする仕事をした後に、実家へ戻ったそうです。本人曰く、分析癖があるので日本茶の産地の地質などを調べて分析し続けた結果、農家へ転身してから4年目で出した茶が大臣賞を取りました。僕から見ると、確かに分析力も高いんですが、それ以上に鼻と舌に才能がある人でした。
 彼の言っている微妙な味の違いは僕にはわからないこともあります。言われて初めて気付くくらい精妙なものです。最初に彼と話をしたとき、僕は「茶を入れる道具は急須じゃないとダメなんですか?」と日本茶に関する疑問をぶつけたんですね。それに対して彼は「極論すると皿が2枚あればできますよ」とすごくクリアに返してくれました。この答えを聞いて、「この人、面白いな」と思いました。
 そのプロジェクトを終え、僕が帰国したときに佐賀まで松尾に会いに行ったときのことです。すごくアットホームな雰囲気の民家に通されたんですが、なぜか制服の女子高生が通り抜けたりするので、ここで何が行われるのかなとドキドキしました。そうしたら彼が「今のは娘です」とか「独立した」と言うので、「いつ独立したんですか?」と聞いたら「今日です」と答えるんです。「えっ、茶は?」と聞いたら、後ろにちょこっとあるだけ。彼の抱いている才能も大きいけど、ここただの普通の居間じゃん……みたいな(笑)。
 それで今度は茶畑にも連れて行ってもらったんですが、そこも耕作放棄された雑木林みたいな場所で、畑じゃないじゃん! という状態。そこからがスタートです。でも、運命的な出会いでした。九谷焼のときもそうですが、結局のところやっぱり人だな、と思います。
 佐賀の嬉野は、昔の肥前国にあたり、緑茶が初めて日本に伝来したエリアの一つ。まだ茶が舶来品で「日本茶」という言葉すらなかった時代、仏教と一緒に中国から伝来してきた飲茶の文化を、どうやって自分たちのものにしようかと、あの土地の人たちは悪戦苦闘したはずです。まだノウハウがなかった時代に選ばれた土地は、結果的にもっとも適性のレベルが高くなる。その原点に戻れるということが僕にとっては一番大きな理由かもしれません。

▲佐賀県・嬉野の茶畑

茶には五感を刺激するパワーがある

 茶はハードでもあり、ソフトでもある。モノでもありコトでもある。そこが面白いと思っています。茶は、飲むことで自分たちのコンセプトを体内に取り入れてもらえることも魅力でした。まさにインストールですよね。さらに、茶には中毒性もある。それも原点回帰の要素の一つです。
 なぜ仏教と共に茶が輸入されてきたのかと言えば、五感のすべてを中毒にする作用があるからだと思っています。初期の仏教は音を非常に大事にしていて、念仏には脳の状態を良好にする効果があると言われていますが、それと共に、味覚を刺激するものとして茶が選ばれた。それくらいパワーがあるものだと思います。僕は松尾と一緒に茶を開発して、いろんな人に茶を飲んでもらったんですが、その時の反応から、茶が人を惹きつける力はとてもあると感じています。
 「あえて人に言うほどのことでもないけど、茶が好き」という人は実はたくさんいると思います。でも、会話の中で「コーヒーが好きなんだよね」 と言うとポジティブな印象になりますが、「茶が好きなんだよね」と言うと「こいつ、めんどくせっ」と取られかねないイメージが世の中にある気がします。
 その一因は茶の一部で起きたことにあると思います。本来なら日本文化の最高峰だったはずの茶が、一部の形骸化された所作によって、閉鎖的なものになってしまった。その一例が、茶の淹れ方がアップデートされてこなかったことだと思います。急須は400年くらい前からあって、当時は最先端で便利なものだったかもしれないけれど、いまだに当時の形から多様化していません。草鞋だってスニーカーに置き換わっているのに、よく考えてみると変ですよね。お湯を沸かすのはポットを使う。だけれど急須だけはほぼそのまま。時々茶がアップデートされた姿を見かけますが、それらの多くは便利さを追求するためのものです。僕が言いたいのは、草鞋の素晴らしさを伝えることと、アップデートをすることは別軸であるということ。そして、楽を求めての改良は、本質的なアップデートにはならないということです。
 これはちょっと別の話にもなりますが、ティーバッグも「手抜き」のイメージが強く、良いイメージがない。だけど、僕はティーバッグってすごく可能性があると気づいています。だから、うちのティーバックは茶の美味しさが一番出るようにとめちゃくちゃ作り直していて、本来のアップデートとはそうあるべきだと思っています。これが自然の行為だと思うし、今の当たり前が本質的でないというのは良くあることです。

形式美の結界を乗り越え、日常をちょっと豊かにする茶を作るために

 日本にはコーヒースタンドがたくさんありますが、それに比べると美味しい緑茶を提供するスタンドはまだまだ少ないのが現状です。でも、コーヒーは一度にたくさんは飲めないけれど、茶であれば、目が醒めるようものから低カフェインなものまであるので何杯でも飲みやすい。そういった点からも、茶の需要はあると思います。
 「茶に高いお金を出す人がいるの?」とよく言われますが、美味しいものにお金を出すのは飲み物でも食べ物でも同じです。埋蔵されている市場はまだいくらでもあるんです。でも日本茶の市場には、形骸化され閉鎖的な一面があるのも事実なので、これまで誰も掘ってきませんでした。だからこそ、そこを起点に工芸を含めてやってきたことの価値、魅力を最大化していきたいと思いました。
 ただ、僕が「茶を始めたんですよ」と言うと、習い事を始めたと思われてしまって、「どの流派ですか?」と聞かれたりします(笑)。これは「料理を作るのが好きなんですよ」と言ったときに「どこの割烹料理屋が好きなんですか?」と聞かれるくらいおかしなことで。お茶の世界は、それくらい結界が強力だったということですよね。それに気がついている人は結構いましたが、そこに触れずに新しい茶を提案する道があることには誰も気づかなかった。工芸もそうですが、伝統を履き違えて自ら身動きが取れなくなっている人は、その呪縛に悩んでいる。しかし同時にその存在に強く依存しているというジレンマがあります。

場に合わせて時間をコントロールする力を持つ茶

 従来のお茶と僕がプロデュースしている茶の違いは、まず再現性がすごく高いことです。コントロールが効くし美味しく飲める時間が長い。それは伸びしろがあるからです。茶葉やお湯の量、温度等々、色々な組み合わせでも楽しめる、自由度の高い抽出が可能となります。
 喫茶は時間のコントロールであり時間の演出であって、単に、味や香りの良い茶を作ればいいという話ではありません。それについては茶師の能力の高さを信じています。そこまで相手に合わせられるのは日本人らしいあり方かもしれません。茶は西洋のような「この状況ではこうあれ」というストロングスタイルとは違うと思っています。昔の農耕民族は自然に近しいリズムで、同じサイクルの1日を過ごしていましたが、現代人はどうしても生活が不規則になります。そうするとシーンも複雑化するので、それに合った商品群が必要です。だから、美味しそうな匂いを演出するというよりも、シーンに合わせた茶を作りたいという気持ちが強いです。ブレンドやフレーバーティーが生まれたのも、そういった意味での必然性からです。しかもフレーバーティーは本来、香りを出すためというよりも、漢方と漢方を混ぜるような感覚で作られたものです。
 たとえば議論が白熱してテンションが上がっているような状況では、究極的に飲んでいるのがコーラなのか茶なのかは気にならなくなってしまいます。そういう時は、茶の個性を強くしなければなりません。
 チームラボとパリで開催したエキシビション『Espace EN TEA x teamLab x M&O Flowers Bloom in an Infinite Universe inside a Teacup』や、佐賀県武雄市で開催した展覧会で展示された『WASO Tea House – 小さきものの中にある無限の宇宙に咲く花々』のときに出したお茶が、良い例です。

▲『Espace EN TEA x teamLab x M&O Flowers Bloom in an Infinite Universe inside a Teacup』
▲『WASO Tea House – 小さきものの中にある無限の宇宙に咲く花々』

 あれだけビジュアル的にインパクトのある場だと、意識が味覚ではなく視覚の方にばかり向かってしまうので、味わって飲めなくなります。それでも茶を楽しんでもらうためには、かなり味をコントロールして、決して「濃い」ではなく「はっきり」させなければなりません。だから僕が嬉しかったのは、あれだけ暗くて茶にとってはアウェイな場所であったにもかかわらず、「美味しい茶だ」と言ってくれる人がたくさんいたことでした。特別なシチュエーションに合う味を高い再現性で淹れるのはかなり高度なことです。
 茶も、工芸と同じく、タイムレスという概念を象徴しています。つまり、長尺を感覚値で体感できる。ホッとして茶を飲んでいる時間って、1分がすごく長く感じられますよね。これは、茶を使うことによって、1分を10分にできるということです。「これから戦争をしに行きます」という人が飲む茶であれば、1分を10分にするどころか、一生分の時間に拡張できてしまう。たとえば、「一服」という言葉がありますが、それは世の中の流れや他人の時間に自分が合わせるのではなく、自分の時間を取り戻すことを意味します。僕たちは今こそ、この意味をあらためて問い直す必要があると思います。
 茶をめぐる有名なエピソードで、石田三成が豊臣秀吉を迎えるとき、茶を3回淹れたという話があります。最初はすごく暑がっていたから、冷たい茶を多く注いで出した。次はちょっと温かくして心を和ませる。最後はすごく少量の温かい茶を出した。その時に秀吉が三成に「お前は良くわかっているな」と言った。
 この話を日本人が聞けば、「確かにすごく気が利いているな」と、わかるはずです。そういう状況だと、器も活きてくると思います。結局どんなにいい器を作っても、そこに何かを入れることによって初めて完成します。たとえ職人がひとつひとつ人生観を込めて作っても、そこに手間を省いて育てられた茶を入れてしまったら、総合芸術が壊滅してしまいます。
 ざっくり言うと、茶とは人生がちょっと豊かになるもの、いろんなシーンでパフォーマンスを上げる薬のようなものだと思っています。エナジードリンクは興奮したいときにしか使えませんが、茶はあらゆるシーンで使えるところがミソです。それだけではなく、僕は茶を通していろんなものがつなげられればいいと思っています。人との出会いや、自分の感覚値が広がっていくこともそうかもしれない。この二つを見つめ直すことこそ、古来の日本人が茶と触れたときに感じた純粋な気持ちに立ち返ることになり、研ぎ澄まされた感覚を持つことができるようになるのだろうと思います。

[了]

この記事は、PLANETSのメルマガで2018年1月から配信している連載「ボーダレス&タイムレス──日本的なものたちの手触りについて」を再構成したものです。2021年2月22日に公開しました。