実は免許を持っていない

 自動車にそれほど興味がある子供ではなかった。そのせいか、いまだに免許も持っていない。大学にいたころ、両親が就職に有利だからと送ってくれた取得費用は、仲間たちとの旅行の費用と本代に消えた。大人になって、趣味の模型をそれなりに本格的に集めるようになったとき、ミニカーにも手を出した。このころに僕は自動車という「モノ」のことが気になりはじめていた。具体的にはプロダクトデザインに興味があって、カーデザイナーの本をつくったりもしたので、多少は興味が出てきたけれどやはりそれは外観や機能に対する興味で、自分が運転するつもりはまるでなかった。自分の意志で、好きなところに好きなときに移動する自由に憧れる気持ちはよく分かったし、移動する個室が手に入ると、これまでとは違った旅ができるのではないかと考えたこともあった。けれど、自分が運転したいと思ったことは一度もなかった。車を運転することへの欲望を形成する上で決定的な役割を果たすピースが僕には欠けていたように思う。オートバイから自動車へ、それも安い軽自動車の類からはじまってファミリーカーを経て、いつかはクラウン──片岡義男の小説からトヨタのCMまで、20世紀後半に支配的だったあの価値観に対して、僕はとても距離を感じる少年だった。もちろん、女の子を助手席に乗せたいと思ったことなどただの一度もなかった。

昭和後期のラジコン少年

 僕の少年時代──具体的には小学校の高学年のころ──は第一次ミニ四駆ブームだった。その少し前に日本を代表する模型メーカー「タミヤ」はラジコンカーを小学生向けにも展開しようとしていた。しかし当時の物価でもラジコンを楽しむなら初期だけで数万円の投資が必要で、小学生の趣味としては現実的ではなかった。そこで、タミヤが投入したのが1台600円のミニ四駆──ただ小型のモーターで直線的に走るだけの、コントロールという概念を放棄した「走るミニカー」──だった。要するに、ラジコンは小学生にとって憧れの存在で、ミニ四駆は叶えられない欲望を代替してくれるものとして発売されたものだった。そのミニ四駆がまさに「自走」しはじめて30 年──いまやラジコンよりもミニ四駆こそが小学生のホビーの代名詞として認知されている。
 僕はというと、当時はガンダムや戦車や飛行機のプラモデル作りに夢中でこっちには資金的に手が出せなかった。それなりに興味があったけれど、ここでミニ四駆まではじめてしまったら……と思ってしまったのだ。ラジコンにいたっては、何か遠い世界のことなのだと、児童誌の広告を眺めながら思っていて、それを手に入れようなどと考えもしなかった。いま思えば、ラジコンからミニ四駆への移行はより低価格でとっつきやすい商品の展開であったと同時に、「操縦する」快楽から「自分で手を加える」ことの面白さへの商品価値の移行だったようにも思える。そう、ミニ四駆の魅力は「改造」にあった。もちろん実車も、ラジコンも手を加えることでより自分の求める走りに近づいていくものなのは知っている。
 しかし「操縦できない」ミニ四駆は、自分で手を加えることで進化する楽しみに特化した「車」だった。一度スイッチをオンにしたら、ミニ四駆はただまっすぐ走ることしかできない存在だ。レース中の少年たちはコースを走る自分のミニ四駆がより速く走ることを祈ることしかできなかった。より正確にはたいていのミニ四駆はすでに十分速かった。いや、速すぎた。そのためレースの勝者になるのは、慎重に補助パーツを選びコースアウトしない、安定した走りを見せる「速すぎない」車を作り上げた少年であることが多かった。後に情報技術のもたらす「速さ」に翻弄される僕たちの世代だが、このときはまだ「速すぎるもの」を抑制することで何かを獲得することを、あえて「遅く」することの有効性を忘れていなかった。そして、僕の──つまり最初のミニ四駆ブームの世代──から、この国の男の子たちの「クルマ離れ」は少しずつ進むことになる。大きくて、重たい鉄の塊を自在に操ることに、そのことで何かを証明することにこの国の男の子たちはだんだんと興味を示さなくなっていった。少なくとも僕はそうだった。操縦の技術を競うラジコンよりも、手を加えれば加えるほど速くなるミニ四駆のほうが、当時の僕には魅力的に映っていた。

「働くくるま」を選び取る

 ところが数年前、僕はふと考えた。ラジコンを買って、動かしてみようと。理由は要するに、ここに書いたようなことを考えたからだ。自分は乗り物を操縦したいと考えたことが、これまでの人生でまったくない。だから、ふとやってみようと思ったのだ。意外と面白いかもしれない、と思ったのだ。いきなり免許を取るというのも面倒なので、とりあえずはラジコンからはじめよう。そう、考えたのだ。
 これまでも、いくつか子供向けのかんたんなものを買って触ってみたことはあったけれど、しっかりとした大人から子供までを射程に入れた本格的なものを操縦してみたことはなかった。そこで僕が選んだのAmazonでセール中だった、ウニモグの完成品だった。僕が子供のころ、ラジコンの多くは自分で組み立てなければいけないもので、それは僕の好きなプラモデルとはまた少し違ったノウハウが必要なもので、それが僕を尻込みさせていた要素のひとつだった。しかしあれから30年、僕のような「忙しい大人」のためか、タミヤは多くの完成品ラジコンを発売していた。
 ウニモグとはメルセデス・ベンツで有名なダイムラー社の発売しているトラックの車種で、こうしているいまも世界中で活躍している「働くくるま」だ。このウニモグの輸入と日本における販売を行っている「ワイ・エンジニアリング株式会社」のウェブサイトによると「60年以上の歴史からなる経験と実績が育んだ『多目的作業用トラック』の代名詞」がウニモグであり、そして「複数種類の作業用アタッチメントを用意すれば、それらを付け替えることにより、何通りもの仕事を1台のウニモグで行うことが出来るという、極めて経済的で合理的なコンセプトのもとに開発された、とてもユニークなトラック」なのだそうだ。
 かつてのタミヤのラジコンの主流はグラスホッパーやホーネット、あるいはサンダードラゴンといったオリジナルの車で、僕が昔『コロコロコミック』で読んでいたマンガで主人公たちが操縦していたのもこの類なのだけれど、僕は車に関しては実際に街で見かける、あるいは見かけたことはないがこの世界のどこかに実在している「働くくるま」のほうが好きだった。


タミヤ XBシリーズ(完成モデル)No. 196 1/ 10RC XB メルセデス・ベンツウニモグ 425(CC -01シャーシ)
XBシリーズは買ってすぐ遊べるプロポ付きの完成品のシリーズ。「走る場所を選ばないタフな四輪駆動シャーシ、 CC-01を採用」し、道なき道を走破するウニモグの魅力を再現している。 2016年5月発売。 37,400円(本体価格 34,000円)と定価は高価だがAmazonのセールでだいぶ安かった。

世界の果て

 そして僕はある日、30年ぶんの憧れとためらいを胸に都内の某所に出発した。前日に入念にバッテリーを充電して、部屋でかんたんな走行テストをして、IKEAの青い手提げ袋に車とプロポを詰め込んで、電車に乗った。それは平日の昼間のことだった。目的地は別の記事の取材で知った、埋立地だった。都内で安心してラジコンを走らせることのできる場所は、案外少ない。公園の類では禁止されていることも多いし、禁止されていなくても人が多ければ迷惑になる。そこで僕は平日の昼間を選び、とりあえずラジコンが禁止されてはいないある緑地を選んだのだ。

 高田馬場の自宅から1時間と、少し。電車とバスを乗り継いで、僕は埋立地のある海の見える緑地にたどりついた。そこは高速道路の高架下にあたり、海の向こうには小さく羽田空港が見えた。首都の物流を担うこの埠頭近くのエリアでは、道を行く自動車の9割がトラックだった。このトラックが主役の街で、トラックのラジコンを走らせると思うと、とても不思議な気分になった。僕の訪れたそこは「公園」と地図上では表示されていたのだけど、どう考えても他に特に用途のない場所を、消去法で整備しただけの空間だった。公衆トイレ以外施設らしい施設もなく、近隣の流通拠点たちとは異なって、いかなる都市機能も担っていない、究極的に無用の場所だった。
 緑地は小学校の体育館くらいの広さがあって、僕のほかに二人の人がいた。一人は20代半ばに見える青年で、彼は大きなサックスを持ち出して、ずっと僕の知らない曲を吹いていた。たぶん、彼も僕と同じような理由で、思う存分それができる場所を求めて、離れたところからここに来ているのだろうと思った。
 もう一人は、ちょっとよくわからないところもあるのだけれど50代くらいに見える男性で、海側のベンチに腰を下ろして、ふっくらとした上半身を日光に晒していた。そこは、世界の果てだった。

完全な自由

 そして、この二人サックスを吹く青年と上半身裸で日光浴をするおっちゃんの間には物理的な、そして社会的な距離が完全に取られていた。いや、この二者の間だけではない。彼らは二人とも、ウニモグをセッテイングする僕の存在にも完全に無関心だった。そして、僕はウニモグを走らせた。僕が思っていたよりもずっと、ウニモグは速く、そして柔軟だった。ちょっとした指先の操作に反応してウニモグは器用に曲がり、速度を上げ、そしてその大きなタイヤの四輪駆動で、でこぼこした地面や草むらもぐいぐい乗り越えて走っていた。僕はすっかり楽しくなった。自分の身体ではないものを、それも遠く離れたところにあるものを自由自在に動かすことが、これほど気持ちのいいことだとは知らなかった。ラジコンだけが実現できる快楽があるのだと、僕は思った。自分の身体の延長のような乗り物を操り、自分の身体を運ぶことの快楽とそれは明らかに異なっている。それは自分がいま存在している場所に留まっていても、世界の遠くのものに触れることができることから感じられる自由の快楽だった。
 そして、そんな僕と僕の走らせるウニモグの存在を、サックスを吹く青年と上半身裸で日光浴をするおっちゃんは完全に無視していた。おそらく心のなかでは少しは、それぞれ「平日の昼間から、こいつは一体何者なんだろう」と疑問に思っていたはずだった。実際に僕は少し、自分のことを棚に上げてそう思っていた。僕ら三人にとって、他の二人はまあ、不審者か不審者でないかと言えば確実に不審者だった。
 しかしそのことで、相手を排除しようとしたり、その場を去ろうとする人は一人もいなかった。それはたぶん、それぞれがそれぞれの方法で、孤独に目の前の世界と向き合うことに充足していたからだ。青年は思いっきり大音量でサックスを吹くことに、おっちゃんは思いっきり上半身を露出してその肌に日光を当てることに、そして僕は思いっきりウニモグを走らせることに。
 僕らの背後の道路には、首都の物流を担うトラック群が行き交い、そして僕らの頭上にはときおり羽田に着陸する飛行機が大きな音を立てて通り過ぎていった。このとき、この空間には五つの存在が交錯していて、そして完全に他のプレイヤーに無関心であるがゆえに、共存していた。そこには有用なものと無用なものとが並列に存在し、一つの場所を共有していた。そしてお互いについて決して干渉しなかった。干渉しないことで、許容していた。少なくとも、僕と青年とおっちゃんの三人はこの場所を愛していた。確かめたわけでもなく確かめる術もないが僕はそう、確信していた。きっと、二人も同じ気持ちだと。
 そこは確実に東京の僻地であり、世界の果てに近い場所だった。しかしそこには自由が、それも完全な自由が成立していた。

この記事は、2021年9月刊行の『モノノメ 創刊号』所収の同名記事の特別公開版です。あらためて2022年10月6日に公開しました。
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