僕(宇野)がいま中高生向けに書いている本『ひとりあそびの教科書』の草稿をこっそり公開する連載の2回めです。1回めはこちらから読めます。

 さて、これからこの本はひたすら僕がこれまで実践してきた「ひとりあそび」の方法を教えていく。この本を読んでいる君たちには中学生と高校生が多いと思うのだけれど、いまから僕の話すあそびは基本的に明日から始められて、大人になっても続けられる「あそび」だ。もちろん、大人になって知識や自分で自由に使える時間やお金が増えるとどんどんやれることも増えて、どんどん面白くなっていく。
 ただ、このひとりあそびにはコツがある。君たちの中には、なんだかんだ言って「ひとり」であそぶより「みんな」であそぶほうが楽しいんじゃないかと考える人も多いと思う。でも、それはたぶんひとりあそびの「コツ」がつかめていないだけだ。「コツ」さえつかめば、ひとりあそびはどんどん面白くなる。そして基本的に人生が退屈しなくなる。他の誰かに頼らなくても、楽しい時間をいくらでも過ごせるからだ。僕はものごころついてから、ほぼ毎日やりたいことがたくさんあって寝るのが勿体ない、と思いながら生活している。

 ここではそのコツをとりあえず3つのルールにまとめてみた。具体的な「あそび」を紹介する前に、この3つのルールを覚えておいてもらいたい。これはこのあと取り上げるどんな「あそび」にも当てはまるルールだ。

【1】人間以外の「モノゴト」にかかわる

 最初のルールは基本的に「ひとりあそび」は人間以外の物事とかかわることだ。「モノ」というのは動植物や石ころのような自然物や、服やおもちゃのような人工物のことで、「コト」というのは走ることや食べることなどの行為のことだ。

 たとえば、君が友だちの誰かと海水浴に出かける約束をしていたとしよう。そして仮にその一緒に出かける相手は、君がもしかしたらこの先付き合えるかもしれないと思っている相手だとしよう。そうすると、実際に海水浴に出かけても、君はほとんどそこで出会える海の自然──きれいな砂浜とか、色鮮やかなオレンジ色のヒトデとか、魚屋ではあまり見かけない魚とか──はほとんど目に入らないと思う。たとえ目に入ったとしても、それは二人のこれからの物語を盛り上げるための背景にすぎないだろう。気持ちよく泳ぐことよりも、相手の水着姿をこっそり目で追うほうが大事になるはずだ。もちろん、それはぜんぜんダメなことじゃない。しかし、ここで悲劇が起こる。その彼、もしくは彼女が当日の朝起きて寝ぼけまなこで冷蔵庫を開けて、何も考えずに手にとってゴクゴクと飲み干した牛乳が実は傷んでいて、その直後から猛烈な腹痛に襲われたのだ。彼(彼女)は震える手で君にメッセージを送るだろう。「ほんとうにゴメン」と。君は目の前が真っ暗になるはずだ。しかし、絶望する必要はない。君に「砂浜」や「魚」という「モノ」そのものや「泳ぐ」という「コト」そのものを楽しむ知恵があれば、その相手が来れなくても、その日を十分楽しむことができるからだ。

 だからこの本では、たとえひとりで出かけたとしても十分楽しくなる方法を教えようと思う。もちろん、こうしている今、好きな彼(彼女)がベッドの上でのたうちまわっていると思うと、気が気でないかもしれない。しかし、この方法を知っていれば、君は逆に誰かと出かけていると感じられなくなってしまうその土地や、そこにあるものやできることの魅力に目を向けることができる。ひとりで出かけたからこそ、それまで気づかなかった海の自然の美しさや、泳ぐという行為の楽しさに気づくことができるはずだ。僕たちは、実は他の誰かの顔ばかりを見て、モノやコトにしっかり向き合っていない。人間ではなく「モノ」や「コト」を見る目をもつこと。それがこの世界を楽しむコツなのだ。

 ただしひとつ、ここで気をつけてほしいことがある。せっかくひとりで「モノゴト」に向き合っているのだから、その「あそび」はあまり見せびらかさないほうがいい。FacebookやInstagramを見ていると、見せびらかすためにモノを集めていたり、見せびらかすために美味しそうなものを食べたり、いい景色の場所に行ったりしている人が多い。そういう「見せびらかすためにやっている」人は、いつのまにか他人の目を気にしてあそぶようになる。FacebookやInstagramで「いいね」がたくさんつきそうな場所を選んであそびにいって、「いいね」がたくさんつきそうなものを食べて写真を撮るようになってしまう。それじゃあ、本当にその「モノゴト」に向き合って、味わい尽くすことはできない。あくまで自分のために楽しむこと。人、つまり他の人間ではなくモノゴトに向き合うこと。これを、忘れないで欲しい。

【2】「違いがわかる」までやる

 次のルールは「違いがわかる」までやることだ。
 これから僕はいろいろな「ひとりあそび」を教えることになる。僕が取り上げたものをそのままやってもいいし、その方法を自分がやってみたい他のことに当てはめてみてもいい。しかしどのあそびを始めても、もしこれは面白いなと思ったらとことんやってみるといいと思う。一つのことをとことんやる。とことんやると、より深い面白さがわかるようになる。一つのことに詳しくなっていくと、より深い味わいがわかるようになっていく。どんなあそびでもいいので、一度「違いがわかる」までやってみること。これがコツだ。

 たとえば僕は子供の頃に、プロ野球の試合の中継をテレビで見るのが好きだった。最初は父親が見ているのを退屈だなと思っていたのだけれど、あるとき毎月買ってもらっていた雑誌の付録にプロ野球のオールスター戦を題材にしたカードゲームがついてきた。そのゲームが結構面白くて、結果的に僕は野球のルールを覚えた。そのうち「打率」とか「防御率」といった概念もだんだん理解してきて、投手交代やバントといった戦術についても吟味できるようになっていった。そして気がつけば新聞のスポーツ欄を眺めながら試合の中継を見るのが面白くなっていた。これはごく入口の話で、どんなことも詳しくなればなるほど、面白くなる。逆に入口で引き返していたら、どんなことをやってもその面白さはわからない。特に、この本で取り上げる「ひとりあそび」はそうだ。「みんな」であそぶことなら、その相手といい関係でいられるなら、たぶん何をやってもある程度は楽しくなる。けれどひとりであそぶときは、本当にその「あそび」が楽しくないといけない。そして「ひとりあそび」を楽しむためにはその「モノゴト」に詳しくなって、「違いがわかる」までやらないとダメだ。だから、一度始めたことは、それが「面白いな」とか「もっとやってみたいな」と自然と思えるあいだはしつこく、ちょっとやりすぎじゃないかと思えるくらいやってみるといいだろう。

【3】「目的」をもたないでやる

 そして3つ目のルールは「目的」をもたないでやることだ。僕は30歳になったばかりのとき、自分でも気がつかないあいだにとても太ってしまっていて、あわててダイエットしたことがある。このとき僕は半年で20キロ以上痩せることに成功していて、実はそれで一冊本が書けるくらいいろいろな話があるのだけれど、それは置いておこう。僕はこのダイエットの一環としてジムに通って運動をしていた。なるべく毎日通って、1回につき400キロカロリーの消費をノルマにしていたのだけど、これがものすごくつらかった。僕は昔から身体を動かすのが好きじゃなくて、やっぱり運動は苦手だな、と痛感したものだった。
 しかしそれから何年かあと、これはこの本でも取り上げるのだけど僕は完全に趣味で、つまりダイエットや筋トレとか一切目的を持たずに単に楽しみのためにランニングをするようになった。いまでは、だいたい1回のランで10キロくらい走るので、一度走ると600キロカロリーくらい消費する。とても疲れるけれど、走ること自体が楽しいのでぜんぜん苦痛じゃない。ジムはダイエットに成功するとすぐにやめてしまったけれど、ランニングはもう何年も続けていて、今となっては僕のいちばん大事な楽しみだと言えると思う。

 この違いはどこから来るのだろうか?

 それは要するに何かのために、つまり目的を持ってやっているか、そうじゃないかの差だ。僕はジムに通っていたころ、ダイエットという目的のために運動をしていた。なので、運動それ自体を楽しもうとは考えもしなかった。痩せるためにこの苦痛を我慢しようと、そればかりを考えていた。ランニングマシーンの消費カロリーのメーターが早く400キロカロリーにならないかな、早くこの時間が終わってほしいなと、そればかり考えていた。
 ところがいま僕は何の目的も持たずに、ただ走ること自体が面白いのと、気持ちよく汗をかきたいのでランニングを続けている。消費カロリーはもちろん、タイムも一切気にしていない。好きな時間に、好きなコースを好きなだけ走っている。そうすると、運動量的には1.5倍くらいになっているはずなのだけど、まったく苦痛じゃない(むしろ楽しい)。これはつまり、ダイエットという「目的」が僕に走ることの、身体を動かすことの面白さや気持ちよさを気づかせなかったのだと思う。ダイエットという「目的」に気を取られすぎるあまり、走ることの楽しさに気づくチャンスを見落としてしまったのだ。
 君たちの身の回りの大人たちにはなんだって「目的」を定めて計画的に行動することが「いいこと」だという人の方が多いと思う。もちろん、そうすることが大事なこともたくさんある。けれど、それと同じくらい「目的を持って何かをやる」ことがその「何か」について、しっかり受け止めることを邪魔してしまうことがあることも覚えておいて欲しい。

 そもそも「あそび」とは「何か」のためにやることじゃない。それ自体が「おもしろい」「楽しい」からやるものだ。何か目的を持ってしまった時点でそれは「あそび」じゃない。だから僕はさっきたしかに他の人にかかわらずひとりでモノゴトに向き合って、違いがわかるまでやることがひとりあそびのコツだと述べたけれど、苦痛なことを我慢してやる必要はない。「あそび」は「それをすること」そのものが目的だから面白いし、楽しいのだ。そしてあくまで、結果的に「あそび」からたくさんのことを学ぶことができる。いや、いつの間にか身についてしまうのだ。

[続く]

この記事は、「よりみちパン!セ」より刊行予定の『ひとりあそびの教科書』の先行公開です。2020年9月3日に公開しました。
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