民藝的な「時間」とはなにか?

 現代社会の抱える閉塞感を乗り越えるため、いま私たちは、いかにして「モノ」と関わっていくべきなのでしょうか? 2020年代を生きる私たちは、「民藝」から何を持ち帰ることができるのでしょうか?
 SNSプラットフォームの速さに流されないための「脱プラットフォームの方針」の一つとして、「人間外の事物とのコミュニケーション」を掲げる「庭プロジェクト」。その第4回の研究会では、ボードメンバーである哲学者・鞍田崇さんのプレゼンテーション、そしてそれを踏まえた参加メンバーの議論を振り返りながら、民藝の現代的射程、そして「モノ」との関わり方について考えます。

 後編記事では、前編記事で紹介した「民藝と庭」と題する鞍田さんのプレゼンテーション(「民藝」の思想的意義──「インティマシー」から考える|鞍田崇(前編))を受けて行われた、参加メンバーによるディスカッションをダイジェストします。鞍田さんの議論にとりわけ共感を示したのは、前回の研究会で来たるべき「創造社会」のビジョンについてプレゼンテーションを行った、パターン・ランゲージ、創造社会論などを研究する井庭崇さんです(参考:独創性を目指さない「創造」の話──来たるべき「創造社会」のビジョンを考える)。

「前回の研究会では、『発見の生成・連鎖』としての『創造のオートポイエーシス』についての話をしましたが、実は最近は『実践』とオートポイエーシスについて考えているんです。私たちは、自分の活動を考えて実践しているので、思考と身体の延長、派生物として実践や仕事があると捉えていますよね。たとえば、味噌汁をつくるという料理の実践は、具材を切って、鍋に入れて、出汁で煮立てて、火を止めて、味噌を溶く、というプロセスから成りますが、これは生まれながらに持っている本能による行為ではありません。私たちは、たくさんの実践がある世界に生まれ落ち、その実践を一つひとつ学びながらできるようになっていく。

それこそが生きていくということであると思うんです。それぞれの実践には論理があって、それぞれの状況に応じてやるべきことがあるが、因果関係のような連鎖とも違って、非常に自由度が高い。そのため、そこに自分なりの何かを加えたり、自分の環境的状況に合わせてそのアレンジをしたりしていくことができる。これが『実践のオートポイエーシス』です。いわゆる身体的行為ではなく実践的行為であり、実践の中で要請される次なる一手のようなものである、と言ってもよいでしょう。そういった実践が次々と生み出されていくプロセスに、僕らが関わっているという考え方をすると、世界は非常に他力的であると捉えることができますし、これは『仕事が仕事をしている仕事』という感覚に近いのではないでしょうか。

それから、暮らしにおける『時間』の話も面白いなと思いました。僕らの時間は、人との約束や決まり事の制度としての時間など、社会的なものによって切り刻まれています。本当は、実践そのものが持っている時間で伸縮してほしいのに、職人の仕事も僕らの研究活動も、締め切りなどによって区切られてしまい、そこに都市的な生活の限界がある。一方で、ミニトマトを育てる時は、自分の思ったスケジュールの通りに育ってはくれないので、それに寄り添うしかなくなる。創造やものづくりはその感覚に近いです。村上春樹さんが出版契約をして締め切りを決定せずに、小説ができたら出版するという方針を貫いてるのは、社会の中で自分の創造の時間をどうにかして確保するためであり、それが実現できた特異な例です。また僕たちも普段の研究活動において、終わり時間を決めずに、時間を伸縮させて実践の時間を大切にしている。そういった時間の感覚が、『スロー』と言われる地方の暮らしに近いのではないかと思いました」(井庭さん)

「行為や実践もそうだと思いますが、プロセスとして物を見ていく、つまり物をstaticな存在ではなく、絶えず動的に流動していくものとして、生成の可能性を見る必要があると考えています。ハイデガーも、従来は存在というものがstaticに考えられてきたことに対する一種の抵抗として、時間的視点を導入しようとした人です。ハイデガーに先立つベルクソンあたりから、『生』の哲学という考え方が出てきますが、それが問おうとしたことは、議論を時間という位相/地平の中で論じ直そうということでもあったと思います。『生』を問う、生活を問う、実践を問うことは、あまねく時間軸で物事を見直すことにも通じているのではないでしょうか」(鞍田崇さん)

哲学者の鞍田崇さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

 この「時間」という論点に関連して、デジタルファブリケーションを専門とする田中浩也さんも、ものづくりやテクノロジーの専門家としての観点からコメントしました。

「モノの側にも時間が流れている、という世界観が大事だと思っています。工芸やセラミックは、一度土を焼いたら、地球には還れない。ある意味で、悠久の時間軸を持っている存在なので、つくった人が死んでも残る、という感じの存在感を持っている。素材で見た場合に生分解するものなのか、地球に還るものなのか、という観点でモノを整理していく必要もあると思いました。

それから今日のような話をテクノロジーと結びつけるのは非常に難しいとも感じます。僕の研究室に、3Dプリンターを使って作業療法における自助具をつくるという活動を行っている博士課程の学生がいるのですが、そうした本来はなにかの行為のために必要な用具そのもの自体にインティマシー的なものが宿るかどうかという問いについて、強く考えさせられました。それまで100均で買ってきていたものを、3Dプリンターで置き換えるという方法は、都市生活の中で民藝的な実践を行う上での一つのやり方ではあると思うので、これから考えていきたいです」(田中さん)

デジタルファブリケーションなどの研究者の田中浩也さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

個と場をつなぐ「インティマシー」を、生活の中で育むために

 一方で、建築家の門脇さんは「近代的主体」という観点から、「つくる」のではなく「生まれる」といった議論の難しさと、それを乗り越えるための「インティマシー」の可能性について指摘しました。

「鞍田さんの話は共同体というより場、すなわち生態系の全体性に近い話であるように感じました。主体のありかを少しずらす、といったことを示唆しているとも言えるかもしれません。つまり、個人からもう少し集団的な、生態系的な視点に移していく議論だという印象を受けたんです。そうなると極論をいえば、近代的主体としての個人の概念を、放棄せざるを得なくなってしまう。そういう議論の延長線上に、人間が動物になるという言い方もあるし、ポストヒューマニティ的に人間を語るという議論も出てくるかもしれません。

しかし終盤で『インティマシー』の話を聞いた時、やはり鞍田さんはあくまで人間側にとどまろうとしているとも感じました。『愛しさ』『親しさ』『悲しさ』といったキーワードは、全て個人の人間から出てきて、人間にも非人間にも向けられて、それらを接着するものである。そのため、鞍田さんの話はあくまでポストヒューマンやポスト市民社会の方に行かずに、我々の生活世界にしっかりと留まろうとしているのではないでしょうか。

いま私たちは、主体的な存在として生きて考えて計算する時間と、日々のゆらぎのの中で個を忘れ、連綿と続く時間の中に個が溶けていくような時間、2つの一見相容れないような世界を生きています。もしかしたら『インティマシー』が、この2つの世界をつないでくれるのかもしれません」(門脇さん)

建築家の門脇耕三さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

「ただ溶けてしまって終わるのではなく、その中での『個』とは何なのかを問うということは、それはそれでとても大事な視点ですし、僕自身も関心があります。一方で、とはいえ没入が自分というものが溶けてしまった状態である場合、本当にそこに自分がなくなってしまっていると言っていいのか、という点に関しては違和感が残るんです。

絶えず何かに没入しながら日々を過ごすということと、個的なものがどこかに溶けてしまうということを、ある種同質に見るとすると、単に個を忘れて没入しているだけではない、あるべき溶かし方のようなものもあるのではないでしょうか。もしかしたら、『溶ける/溶けない』という二項対立ではないところに、一つの落としどころがあるのかもしれません」(鞍田崇さん)

 ここで改めて議論の俎上に上がった「インティマシー」について、鞍田愛希子さんは福祉・ケアの実践者としてコメントしました。

「ケアの現場にいると、『愛おしさ』というより『愛着』、つまり『アタッチメント』の話がよく出てきます。アタッチメントを取り戻すため、人と人だけではなくて、人とモノとの関わりを取り戻していく。生まれる、生きるだけではなく『育てる』ことによって、その人が回復していく。そうした環境を設定するのが、いま私が現場でやっていることでもあります。

私たちは回復を目指して何かを仕掛けていく立場なので、愛着を生む、愛着が生まれる環境をつくります。ただ、民藝の場合は愛おしさが生まれる場があった、もしくはつくったということなのだとすると、最終的なゴールはどこにあったのか。こうした問いは、これから『庭プロジェクト』においても考えていかなければいけないと思いました」(鞍田愛希子さん)

東京都小金井市の福祉施設「ムジナの庭」を主宰する鞍田愛希子さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

「ムジナの庭の活動を見ている中で僕自身がすごく示唆を受けたのは、生活をすること自体がケアになるということでした。特別なことを提供するわけではなく、ある意味当たり前の、たとえば食べるという振るまいのシーンのつくり方は、誰かと食べるとか、誰かがつくってくれたものを食べるとかさまざまにある。そして、これまで誰かと一緒に食べたことがない人とか、つくってくれたものを食べたことがない時には、それだけでも大きなケアの効果がある、といった話も時々聞きます。生活することがケアに結びついていく、生活との関わり方を見直すことがケアにつながっていくと考えるとすると、『生きる』や『生』、『生活』というものへのまなざしをもう一回整え直すことが、それが求められてる現場としてもケアに接続していく上で必要なものなのではないかと思いました。

そして、まだあまり取材できていないのですが、民藝の中でケアの分野に近しい議論として、『妙好人』という晩年に柳が注目した人たちを見る議論があると思っています。全く一般の市井の人々こそが、深い信仰を持っているという議論です。農家のおっちゃんたちがつくったものがなぜ美しいのかというと、その人たちの持っていた素朴、あまりにも素朴すぎる生き様の中に潜んでいる信仰が、深い修行を積んだ学僧、学識あるお坊さんよりもよっぽど信仰の深みを持っていたからだと。それを浄土真宗を中心にしていた妙好人に見て取って、柳は『民藝品は妙好品なのだ』という言い方をするわけです。世間的に尊ばれるような肩書きがあるわけでもなく、評価に値する業績があるわけでもない。その人の中に深いものを見ようとしたということが、もしかすると、ケアの現場で求められてる人や生活への眼差しにもっとダイレクトに結びつくものなのではないかと思ったりしています。

僕が大学生だった1990年代、民藝はけちょんけちょんに批判されていました。その時に急先鋒だったのが、出川直樹さん。彼は『柳は物を論じるのに物を人のように論じていて、物を論じていない。全部人のレトリックで論じていて、民藝の言説が物を正しく見ていない』と批判しました。そういう意味では、僕はもうズブズブに柳の論法に乗っかっていると言ってもいいかもしれない。出川さんはそこを突いて物を見ていない民藝と批判しましたが、物を人のように見ようとしたからこそ、見えたものもあったのではないでしょうか」(鞍田崇さん)

研究会にはボードメンバーのみならず、官/民、社会人/学生入り混じった20名近くのメンバーが参加し、それぞれの専門性から議論が行われました

民藝は「大きなもの」、あるいは「政治」といかにして対峙すべきか

 ここまでの議論を踏まえ、「庭プロジェクト」主催者の宇野は、鞍田さんのインティマシー論の可能性と展望を、主に3つの観点から整理しました。

「僕も基本的に、暮らすことに自分のアイデンティティの基盤を置くことは大事だと思っています。鞍田さんの言っていることにもとても共感します。20世紀から僕たちが学ぶべきことは、政治的なイデオロギーなど大きすぎるものとアイデンティティを結びつけてしまうと、その力に負けて思考停止し、他者に対する想像力やモラルを失ってしまうということです。

一方で、僕たちが考える主体であり続けるために、それをこれからの市民社会とどう接続すればいいかがわからないんです。たとえばウクライナの戦争やリーマンショックなど、僕らの暮らしから完全に遊離したようなスケールの大きさ、距離の遠さ、時間軸の長さのものがあって、そういうものに対する想像力を持たないと、市民社会は成立しないし、政治的なコミットを抜きに自分の生活を守るのは難しいと感じています。土地、自然、モノという三角形があって、私たちに生の実感を与えてくれる。そういったものが今の都市生活に必要であるという点にはとても共感します。しかし、この三角形の中に明らかに入ってない巨大なものや目に見えないものにアンテナを持ってないと、やっぱり何か大きな力に動員されたり、システムに飼い殺されてしまうようにも思うんです。

同じように共同体から生態系へというのも、とても共感できます。僕は基本的に共同体をベースにアイデンティを育むという発想に懐疑的で、お酒を飲まないのもそういったものから距離を取りたいという気持ちが強いから。だから人間と人間だけでなく、人間と物事の関係『も』ベースにこれからの個人と社会とのつながりを考えていくという提案にもとても共感します。

ただ、それは社会的な合意をとるのがすごく難しいのではないかとも思います。実際に、いま都市型のコミュニティをいかにして再編するのかという議論が、都市開発の世界でも、民主主義の未来をめぐる議論でも圧倒的に多い。いやそうじゃないんだ、人間と人間だけでなく人間と物事の世界もちゃんと考えたほうが世界は豊かになる、と主張したときにおそらく今のままでは負けてしまうように思うんです。人間と人間との関係、つまりコミュニティをケアしたほうがコストパフォーマンスよく人間をエンパワーメントできるし、アテンション・エコノミー的にも有利だからです。だから、人間と物事との関係を重視すると主張するときにもう少しそのメリットというか、人間と物事との関係『だからこそ』得られるものをしっかり説明する必要があると思います。

最後に民藝ブームへの批判として、手に馴染むものには毒もある、という問題があるのではないかと思います。つまり、手に馴染むものがあるということは人々は違和感を持たなくなっているということです。暮らしを魅力的な『モノ』でチューニングするのは素晴らしいことですが、市民的な主体としては世界に対する『違和感』というのは重要なのではないかという意見もあると思います。

実際に民藝的なものの生活のチューニングに対して、アート的な生活の外側に対する問題提起の必要性を訴えて、民藝ブームは前者の追求の中で後者の可能性を閉ざすものだという批判があります。僕個人の経験で言うと、オタクという生き物は必ずしも手に馴染むものを求めてはいない。生活のチューニングのためにそのものを集めているわけではない。しかしそのカードやフィギュアはアートのように問題提起のためにつくられてるものではなく、言ってしまえば『下手物』です。しかし僕たちはそういった商品の影響を受けて、強い力を持ったものに心が汚染されてしまって、ライフスタイルや性的嗜好が変わってしまった、変身してしまった人間です。なので、僕はむしろ『手に馴染まない』というか『馴染みようがない』もので、かつ市場のなかで欲望の赴くままに消費されるものに一番可能性を感じています。こういった『手に馴染む』ものができること/できないこと、といった問題も重要だと考えます」(宇野)

評論家 / PLANETS編集長の宇野常寛(「庭プロジェクト」発起人)

「1つ目の話については、確かに難しい問題だなという気はします。僕自身もリーマンショックの時に宮崎の山奥にいて、新聞やテレビでは『リーマンショックで株価がどれだけ暴落したので、これからこういう危機的な状況が起きる』と報道されているのだけれど、僕のいた村のおじさんたちにとっては全然関係ない話だった。彼ら自身はある種いまだに自給自足だから、リーマンショックによる経済的な変容とそもそも断絶されているような世界。そのときに、そこに右往左往しない生活の形がここにはあるということの方にむしろ感慨を覚えたことがあります。分断はされているのだけど、普段自分たちの都市生活の中では見えてなかったそういう生活の形の方に、こんな風に右往左往しないで済むかもしれない、次の形を探るヒントはないのかなという淡い期待を持ってこの間関わってきたところがあります。とはいえ、その分断をどう接続させるかという批判については、一つの課題として受け止めておきたいと思いました。

そして3点目に関しては、手に馴染むものが直ちに民藝かというと、実は馴染まされてるものというところがあるのかなとも思います。柳たちが見出していた世界と、巷に溢れている民藝と呼ばれているものの間にどこか落差がある。本来の生活の中で使われてきた形というよりは、ある種のブランドとしてつくりあげられてきたもの、社会的に『これを民藝と呼ぶんだよね』という約束事の中で消費に結びつけられ、『こういうものが馴染むでしょ』という思い込みの幻想とともにつくられてきたものもあると思います。根っこのところでつくられてきたときには、必ずしも馴染まされているものに尽きない、もう少し生々しいものとしての可能性があるのかなという気がしているんです。

社会性ということに関しては、ある種の楽観主義や理想主義みたいなところが、狙いとしてはあったのかなと思うんです。やっぱりそこは甘いというわけじゃないですが、ある種のカウンターカルチャー性を求めていたところはあるのだと思います。実は去年の安倍さんの狙撃事件の時に、民藝との関わりを感じたんです。というのは、ちょうど 100 年ぐらい前に安田財閥の創設者の安田全治郎が暗殺された事件があって、それが大正デモクラシーのネガだという議論がありました。一方で民藝というのは大正デモクラシーのポジとして、あくまで理想的な楽観的な議論だった。

つまりすごく際際のところで、社会というものとの関わり方において、もう報われないという形で暴力的なテロリズムに走っていく方向と、そっちには行かずに、でも実際社会変革をする力もないままに、理想だけを語っていた民藝というものがあって、100 年ぐらい前にあったこの分裂がいま再来しているような気がするんです。その両者がブリッジされていない状況は今も変わっていない。そこをどうブリッジさせるのかという課題を突きつけられているのだという気がしました」(鞍田崇さん)

そして鞍田さんは、今回の議論を総括し、以下のように締めくくりました。

「民藝と社会との関わりということで、ふと思い出したことがあります。僕の著作『民藝のインティマシー』のもとになった明治大学野生の科学研究所での公開講座では、毎回僕からの話題提供のあとに、所長の中沢新一さんとの対談がありました。2014年のことです。たしかその初回、最初の質問で、中沢さんからこう聞かれたんです。『民藝の源流となったアーツ・アンド・クラフツとマルクスらによる共産主義運動はほぼ同時期に始まったわけだけど、後者が20世紀に潰えたのに対し、前者がいまなお継続しているのはなぜだと思う?』と。

 考えてみたこともない問いで正直戸惑ったんですが、そのとき、こう答えました。いずれもあるべき社会への変革を試みたわけだけど、そのやり方に違いがあったんじゃないかと。一方は政治的な社会変革の試みで、これはときに革命的手法も辞さず、短期間で変革を実現しようとする。対して、他方は工芸的あるいはデザイン的な社会変革といってもよいかもしれない。こちらは短期で成果は出ないけど、ひとつの椅子、ひとつのテーブルをいまよりもいいものにすることが、やがて社会全体をよくすることにつながるという信念のもとに、長い時間をかけてじわじわと変革を試みようとするもの。その試みは、いまなお継続中で、そこにもしかしたら次の社会や生活のかたちを探るヒントはあるんじゃないか、と。今日の議論をふまえて、あらためてそうした点を掘り下げたいとも思いました」(鞍田崇さん)

 その他にも、ボードメンバー以外の参加者も交えてディスカッションが行われ、「デザイン」と「民藝」の比較や、「都市」と「インティマシー」の関連など、それぞれの専門性から多様な議論がなされました。「モノ」と「人」をつなぐ「インティマシー」を、いかにして現代の情報環境や都市空間に取り込んでいくことが可能なのか。その際、近代的な主体を前提とした市民社会といかにして折り合いをつけていくのか。「庭プロジェクト」で「人間外の事物とのコミュニケーション」を重視していくにあたって、重要な問いがいくつも浮上した研究会となりました。

[了]

この記事は小池真幸・徳田要太が構成・編集をつとめ、2023年10月5日に公開しました。Photos by 高橋団。