橘宏樹さんが、「中の人」ならではの視点で日米の行政・社会構造を比較分析していく連載「現役官僚のニューヨーク駐在日記」。
今回はジョンソン・エンド・ジョンソンの社内体制から、アメリカ企業のイノベーション・エコシステムについて分析します。
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端的に言うとね。
おはようございます。橘宏樹です。2023年も2月(執筆時)に入りました。昨年末は寒波に襲われたかと思えば、1月は雪ひとつふらない暖冬でした。そのくせ今月に入ると、体感マイナス20度級の極寒日が続きました。なんとも寒暖差が激しく、体調を崩しやすい日々です。
年末年始は育休を取得しており、更新が少し滞りました。子育て経験がおありの方はよくご存知のとおり、毎日毎日、ミルク、おむつ替え、寝かしつけの無限ループが続き、夜中も2時間おきに対応せねばならず、慢性的な寝不足で毎日朦朧としていました。
妻の「手伝い」ではなく、父親として、当然子育てをしているという主体的な意識を持ちつつも、やはりこの局面では、父は母の指揮命令下に入った方が合理的ですし、夫としては、妻の基準で妻のやりたいようにできること、また彼女の負担を最大限減らすことが重要だと考えまして、なるべくサポート業務に従事するようにしました。例えば、赤ちゃんの風呂上がりにバスタオルを敷いて周りにパウダーやクリームやら蓋を開けておいて待ち構えるとか、次の次のミルクの下ごしらえをするとか。おむつ替えや授乳や寝かしつけといった「基幹業務」も妻の2/3くらいはできたかと思います。特に、心がけていたのは、判断を都度都度仰ぐのは鬱陶しかろうと思って(この涎掛けでよいか、とか、靴下は必要かとか。)、妻の望みを毎瞬先読みしつつ、自分の裁量で動くようにしていました。自分の生活リズムを完全に崩され、常に気忙しく、クタクタでした。日中も本当に朦朧としていて、役に立たない時間や、至らないことも多かったと思います。
現在日本に一時帰国している妻からは、僕がおらず大変だ、育休期間は助かっていたんだなと今はよくわかる、という言葉をもらいまして、ちょっとは癒されている今日この頃です。ともかく、赤ちゃんは可愛いどころの騒ぎではない存在ですね。親になるとはどういうことか、こういうことだと言葉で言い表すのは難しいですが、なにかしら実感が胸の奥でふつふつと醸成されてきているのは感じます。
さて、本題ですが、今号から3回にわたって、ニューヨークのイノベーションシーンについて取り上げたいと思います。
1 ジョンソン・エンド・ジョンソン(JLABS@NYC)からの学び
皆さんはジョンソン・エンド・ジョンソン(以下J&J)という会社をきっとご存知だと思います。バンドエイドやベビーパウダー、コンタクトレンズ、そしてコロナワクチンで有名ですよね。1886年創業の同社は、初期はもっぱらガーゼや包帯をつくっていましたが、約150年経った今、ご存知の通り、コロナワクチンをも製造する最先端の医薬品メーカーになっています。この成長力の秘密はどこにあるのでしょうか。それは、戦争のたびに売上を増やし、資本力をテコに買収を繰り返したからだ、と片づけてしまう方もおられるかもしれません。それはそれで否定されないと思いますが、先日、J&Jのインキュベーション施設「JLABS@NYC」を見学する機会を得まして、どのように買収の目利き力を養っているか、買収先との関係を築いているか、に関するあたり、もうちょっと高い解像度で、J&Jの発展の秘訣を見つけられたような気がしましたので、簡単に共有したいと思います。
▲JLABS @ NYCの紹介動画
JLABSは、J&Jのライフサイエンス関係のインキュベーション組織です。米国を中心に欧州やアジアなど世界13カ所に拠点があり、JLABS@NYCはそのひとつです。残念ながら日本にはありません。これまでに、全世界で約800社以上のベンチャー企業がJLABSに所属・卒業し、そのうち約50社はIPOを実施、約40社をJ&Jが買収しました。また、日本を含む数えきれないほどの世界中の研究機関や医薬系関連会社や公的機関との連携ネットワークを有し、イノベーション・エコシステムを形成しています。
対日投資成功事例サクセスストーリー Johnson & Johnson Innovation(JETRO 2021年8月)
阪大と米J&J、健康・医療で連携事業展開(日刊工業新聞 2017年9月22日)
京大とJ&J、医療機器・創薬で連携(日経新聞 2018年7月2日)
JLABS@NYCはマンハッタンの南部の、ファッションやアート、フードなど、何かにつけイケてるエリアとして有名なSOHO(ソーホー)エリアのど真ん中にあります。新薬開発、MedTech等の分野で起業した約60社が所属しています。
上の写真のとおり、実験設備がひととおり用意されていて、事務作業するデスクもあるので、極端な話、入居しているベンチャー企業では鞄ひとつでこのオフィスに来て、研究や仕事をして帰ることができます。
もちろん研究や会社経営について助言をくれるJ&Jのスタッフが張り付いており、研修やマッチングイベントも提供されています。
J&JのR&D(研究開発)への投資額は2021年で約150億ドルに達しており、医薬品業界ではトップ3に入っています。2010年には約70億ドルだったので10年で2倍以上になっています。また同社の2021年の総売上は約940億ドルなので売上の約1/6は投資に回っているということですね。(僕は収入の1/6を自己投資に使ってるかなあw)
・帝国としてのイノベーション・エコシステム
さて、施設がある。たくさんの会社や研究所等とネットワークがある。ベンチャー企業には育成担当も張り付けている。エコシステムを形成している――。そういう話は日本でもたくさん聞きます。なんちゃらプラットフォーム事業といった国の政策もよく聞きます。それらの成否の評価についてはさておきつつ、今回JLABS@NYCを訪問し関係者のお話を聞いていて、圧倒的に悟った、非常にシンプルで当たり前な、普遍的な真実についてお話ししたいと思います。
それは、J&Jは、これらの膨大なエコシステムの運営を、自分が儲けるためにやっているということです。だから、儲けのタネは見逃さないし、投下コストをガチで回収するためにも、儲かりそうな子飼いのベンチャー企業の世話は徹底的に焼くわけです。そして、育った頃に買い上げたりするのです。
入居中のベンチャー企業の研究が進展して、JLABSの設備では不足だということになれば、必要な設備を持っている機関や組織に、J&Jが紹介して繋げてくれます。それも、極めて主体的に。また、協力を頼まれる側の関係機関や組織も、J&Jから投資を受けていたり、MOUを結んでいたりするので、頼みは聞き入れてもらいやすい状況になっています。もちろん企業秘密は厳密に管理されたまま。イノベーションの主役はベンチャー起業家ですが、全ての主導者はやはりあくまでJ&Jなのです。成長に必要な資源を注ぐ存在。まさしく、プロデューサー、という感じです。
換言すると、J&Jにとって、会社説明資料に出てくる「約〇〇社とのネットワーク」という数字は、契約関係があるだけの「対等な」取引先がそれだけあります、という意味だけではなく、J&Jの頼みはかなりの程度聞き入れてもらえる、ある種「支配下にある」取引先の数を意味しているのです。多分、日本の会社が説明資料に出す取引会社数は、普通、契約関係があるということだけを意味していて、大きければ大きいほど社会的な信用力は表現できるでしょうが、思うままに振る舞うために強制動員できるリソースの数を表しているわけではないと思います。
今回JLABSを訪問して、どのようにベンチャー企業を育成しているのか、尋ねたところ、「ネットワークを活用して云々」とか、「□□に紹介してもらう」「△△に支援してもらう」とか、まだもののよくわかっていない新社会人が研修で披露する班の発表のように、さも簡単なことのように話しているのが、妙に気になりました。でも、違ったのです。担当者と色々質疑応答を重ねるなかで、どうやら、みんなJ&Jの言うことを聞くから、簡単なんだな、ということがわかってきました。つまり、彼らの言うイノベーション・エコシステムとは、それ自体、「J&J帝国」とも呼ぶべき、資本力をベースにした上下関係的権力関係があるんだなあと察した次第です。もちろん、説明者がそのように明言するわけもありませんし、もちろん、実際は口ぶり程には簡単ではないでしょう。しかし、聞いていて、言葉の端々から、ああ、この人たちは、帝王の目線で話しているんだ……と感じ取ったわけです。帝王J&Jの子飼いだからこそ、入居するベンチャー企業は、自分は弱小でも、成長に必要なリソースに半ば自由にアプローチすることができるわけです。「虎の威を借る狐」という言葉がありますが、言うなれば、虎側が、積極的に自分の毛皮を貸し出して、狐が育ったら食べちゃう?!という感じですね。
この点、日本のベンチャー企業を取り巻くイノベーション・エコシステムはどうなっているでしょうか。日本のVCやCVCは、自分が支援するベンチャーを成功させるために、ネットワーク上の関係各社に対して、どのくらい強い要求を行える関係性を持っているのでしょうか。膨大な子会社群を持っているような日系企業グループは、支援するベンチャー企業の育成のために、融通無碍に資源を動員しているでしょうか。もちろん、動員しているかもしれません。でも、狐が虎に毛皮を貸してくれと頼みに行っても、リスクだとかコストだとか色々言って貸してくれない、ということの方が多そうな印象はぬぐえませんよね。
また、当たり前ですが、エコシステムとは元来、関係者を一堂に集めれば勝手に回り出す、などというような、都合の良いものではありません。日本では、役所が旗を振り、音頭を取って、大手企業も含め何百社もメンバーを集め、プラットフォームをつくりました、補助金もつけました、だけど、集められた企業は、どうしたものか、お互い顔を見合わせている、なんとなくやれと言われたことは委託先に投げる、そのあとは鳴かず飛ばず…。そんな話、よく聞いたりしませんでしょうか。うまくいかないのは何故か。この「J&J帝国」との比較で考えるならば、このエコシステムを回すことで莫大に儲ける会社、命運を賭している主体がいないから、ということになるのでしょう。官が旗を振ってくれなくちゃ民は動けない、それならばということで、官が仕組みをつくってくださいよ、とか。官側も、仕組みはつくったから、あとは民の方でどうぞ、とか。そんなふうに、官も民もお互いに他力本願な構えではイノベーション・エコシステムが機能しないのも道理だ、ということになるでしょう。もし圧倒的・持続的に駆動力を提供する主体的なリーダーシップが日系プラットフォーム系事業内にも存在していればだいぶ違うのでしょう。かといって官が主体になってしまっては、共産主義国になってしまうので、ここが経済振興政策の歯がゆく難しいところです。
もちろん、J&Jのように帝国的でなくとも機能しているイノベーション・エコシステムもまた、世の中にきっとあるだろうと思いますし、そういう例も探していきたいと思っています。
とにもかくにも、僕としては、今回のJLABSの訪問で、J&Jのイノベーション・エコシステムは、帝国的であるからこそ、機能しているのだなという印象を持ちました。少なくとも、イノベーション・エコシステムをめぐるシーンを考えていく上で「帝国性」という観点を学ぶことができました。
そして、帝国型イノベーション・エコシステムは、構築されたら自ずと循環していく、上手くできた生態系なぞではないのです。生態系上の生き物たちを、多かれ少なかれ、主宰者自身が儲けるために、自ら権力的に差配し、自らぐいぐい回す、手動のメリーゴーランドなのです。
実際、有名なJ&Jのクレド(Credo:社訓)を見ると、最後の段落には、
「私たちの最終的な責任は、株主に対するものです。ビジネスは健全な利益を上げなければなりません。私たちは新しいアイデアを試してみなければなりません。研究を進め、革新的なプログラムを開発し、将来のために投資を行い、失敗を償わなければなりません。新しい機器を購入し、新しい設備を提供し、新しい製品を発売しなければなりません。また、不測の事態に備え、蓄えも必要です。このような原則に従って事業を行えば、株主は公正な利益を実現することができるはずです。」
と書かれて締めくくられています。ガンガン開発に投資する姿勢、投資をガチで回収する気合、を株主に誓約しています。言われてしまえば、何のことはない、全てここに書いてあるなという感じが漂いますね…。
次回は、日米が手を携えて、世界最先端の研究を行っている事例についてお話ししたいと思います。
(了)
この記事は、PLANETSのメルマガで2023年2月21日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2023年3月16日に公開しました。
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