日本のインターネットの失敗を認める
ところから始める

宇野 家入一真さんには『PLANETS vol.10』巻末座談会にも参加いただいて、「遅いインターネット」を実現するための具体的な施策について議論しました。今日はあの場では語りつくせなかったビジョンについて話していきたいと思っています。よろしくお願いします。

▲『PLANETS vol.10』

家入 よろしくお願いします。僕、東日本大震災の後、「はしゃぐのは不謹慎だ」といった閉塞感を打破するのは「祭り」のパワーなんじゃないかと思って、高木心平とアメリカのバーニングマンっていう祭りに行ったり、日本各地の祭りを見て回ったりしてたのね。
 今回起きたことって、ある種の「祭り」のようなものが良くない方向に行ったってことですよね。事実とか、それによって傷つく人の存在はどうでもよくて、今宵は祭りだから、みんな楽しければそれでいいみたいな。いま自分たちが感じているこの感情が最高であり正義である、今ココこそが真実、みたいな風潮がありますよね。
 僕は「祭り」というものでこの世界は変わっていくんじゃないかって思ってたんだけど、最近では、数年前に自分が思っていたものと違う方向に行っているなってすごく感じます。

宇野 あの頃僕らはまだインターネットの祭りというか、インターネットポピュリズムでマスメディアポピュリズムと戦おうと思っていた。
 まだ僕らは少数派かもしれない。でも、Twitterのようなツールをうまく使えばテレビのポピュリズムに対抗できるかもしれない。そこには当然、ネトウヨのヘイトスピーチや反原発系のデマなどの副作用もあるけれど、正しく使えばこれは世の中を変える武器になるんじゃないかと信じていた。
 でも、そのこと自体が間違っているんじゃないか? そう思って言い出したのが「遅いインターネット」なんだよね。だからそこに関して、僕は明確に転向している。

家入 僕は、インターネット黎明期って言われる時代に「ロリポップ」というレンタルサーバを立ち上げたんだけど、当時、レンタルサーバを使って、ホームページ立ち上げるようなことをしていたのは、法人かギークな男性だったんですよね。
 でもこの先、値段はもっと安くなり、若い人たちが自己表現の場としてホームページを作ることができる時代になる。個人が発信する表現が従来のメディアを壊していくという思想がインターネットによって拡がっていくと思っていた。
 国境や言語、肌の色を越えて、みんなが仲良くつながれる世界が、インターネットによって訪れるっていうことを信じてたんです。でも、ここにきてどうも違うな、みたいな。
 いま、理想と現実の間でインターネットの進化が訪れていると思うんです。うちにインターンで来た若い男の子がある時、「家入さんはインターネットが好きだと言うけれど、その感覚が本当にわからない」って言うんですね。彼にとってインターネットはハサミのようなもので、便利でよく使うけど、わざわざ「ハサミが好きだ」と言う人はあまりいないって。それを聞いて、確かにそうだなと思ったし、すごくハッとさせられたんです。
 僕はインターネットに思想や理想を持って生きてきたし、体現してきたという自負もある。でも、若い子からするとインターネットは生まれたときからあって、ツールのように存在しているものなので、「それが好き」ってことの意味がわからないわけです。
 面白いのがここからで、このエピソードをFacebookに書いたんです。そしたら、僕と同世代の昔からの友人たちが、コメント欄ですっごい怒ったんです。「若造がインターネット業界で働こうとしているなら、先人が作ってきたこのインターネットにもっと敬意を払うべきだ」みたいな。「ハサミ職人に対しても失礼だ」なんて言っているやつもいて、我が友人ながら、何を言ってるんだろうって。

宇野 インターンの子が言っていることのほうが正しいよね。自動車だって昔はすごいものだった。なんだったら自転車だって昔、教習所があったわけだよ。自転車が走っているのを見て、「なんか、すごい!」と言っていた時期があった。でもいま、ママチャリは完璧に街の風景になっている。彼が言っているのは、そういうことだよね。それはインターネットが世の中を変えた証拠でもあるから、インターンの子の発言をアラフォー世代のインターネット事業者は誇るべきだよ。
 彼が言っているインターネットって、世の中を変えるテクノロジーではなくて、僕ら世代が信じていたインターネットなんだと思うんだよ。テクノロジーではなく文化。匿名で斜に構えていて、時にはポピュリズムで炎上するけれど、トータルではそれが世界をプラスに変えていくっていう。テキストサイト、BBSの時代からTwitterポピュリズムまでの15年間くらいにあったインターネット的な文化のことを指しているんだと思う。

家入 友人たちは、それをちょっとけなされたみたいに捉えちゃったのかな。

宇野 たぶん、自分たちが国内のインターネット普及者であったことにすごく誇りを持っているんだと思うんだよね。ただ、功罪はやはりある。いまのインターネット社会をこうしてしまった責任が僕らの世代にはあるよ。そう思わない?

家入 たしかに。

宇野 僕はひろゆきさんのことは尊敬してるけど、2ちゃんねるはなかったほうが良かった。はてな創業者の近藤淳也さんのことは、直接は知らないけれど偉大な経営者だと思っている。それでも明らかにはてなブックマークはないほうが良かった。2ちゃんねるは日本の匿名の陰口文化の源流だし、はてなブックマークは日本のいじめ袋叩き文化の源流じゃない。

家入 なるほどね。そう言われたらそんな気もする。

宇野 僕らの世代、正確には僕らのひとつ上の世代である堀江貴文さんとかの団塊ジュニア世代が中心だったと思うけれど、そのときに作られた日本のインターネットの一周目は間違いだった、失敗だったというところから始めるしかないんじゃないかな。

家入 それを総括している人はあんまりいないかもね。日本独自のインターネットカルチャーみたいな語りでは、「いろいろあったけど良かったよね」って話ばかり。一旦「これは間違いだったね」っていうところから始めるのは、あんまり考えたことがなかったですね。

宇野 僕はそこから始めたほうが良いと思う。もちろん、すべてが間違いだったと思っているわけではないけれど、自己反省を込め、トータルでは間違ってる部分のほうが多かったんじゃないかと。
 僕自身、2ちゃんねるとかニコ動を悪くも言うけど、そこから生まれてくる素晴らしい文化もある、みたいなことを言って擁護していたんだよ。
 でも、間違いだった、僕が愚かだった。

家入 そう思うようになったのは最近ですか?

宇野 やっぱり震災後だね。インターネットもまたポピュリズムなんだけど、テレビとは違うポピュリズムで、世の中が多極化している証拠なんだから良いじゃないか、というのは、ギリギリ震災の前くらいまではロジックとして成立していたと思う。
 でも、文春砲が出てきて、ベッキーの報道あたりからインターネットもテレビも完全に一緒になってしまった。さぁベッキーを叩け、乙武洋匡を叩け、荻上チキを叩け、みたいな感じでさ。テレビや週刊誌が指定したターゲットでTwitterが湧く。逆もまた然りで、Twitterで炎上しているものをテレビが取り上げて視聴率を稼ぐ。完全に一緒になってしまって、いまの日本のインターネットはないほうが良いものになってしまったとすら思った。あのあたりで、日本のインターネットはトータルで擁護することは無理だなって。

プラットフォーマーが見誤った発信の
副作用

家入 僕はCAMPFIREやBASEといったプラットフォームを運営している立場ですけど、かつてのプラットフォーマーはあくまで「場の提供者」という立場だったんですよね。そこで起こるユーザー同士のいざこざやヘイトスピーチ的な発言に対して関知しませんというのがまかり通ったし、そうあるべきという時代だったと思います。
 でも、TwitterやFacebookも含めてですけど、どんどん変わってきてますよね。完璧ではないにしてもTwitterはヘイトを認めないという立場だし、プラットフォームとしての責任は出てきていると思っています。
 2ちゃんねるとかはてブを例に挙げて宇野さんが言いたいことって、プラットフォーマーとしての責任を放棄して自分たちは場に徹するというのは、あまりにも無責任な態度ではないか、ってことですよね。
 僕自身、この数年で価値観も変わってきたし、そういうことが求められる時代になってきたなって思う。

宇野 言い換えると、WELQ/MERY問題だよね、WELQのほうが100倍悪質なので一緒に語るのは良くないと思うけど、極端な言い方をすると、あのときにGoogleの責任は本当になかったのか? って話だよね。
 いま、GoogleやFacebookってちょっとした国家よりも大きいわけだよ。でも、その影響力は、インターネットとか情報テクノロジーが嫌いな人たちによって過小に評価されている。それによって野放しになっているのが逆に問題で、影響力が強すぎるのだからもっと責任を取ってもらわないとだめなんだよ。
 言ってしまえば規制が必要だということ。かつては「プラットフォームの思想」が席巻していた。つまり、イデオロギーにもコミュニティにも干渉しません、単にインフラを与えるだけです、というね。「環境を整備する、後は好きに遊んでくれ」っていうのはインターネットの強みではあったんだけど、いまそのしっぺ返しを世界的に食らっているんだと思う。

家入 そう考えると、グローバルに展開するプラットフォームを断絶して、国内の事業者を育てるという中国の政策は、ある意味正しかったとも言えますよね。僕らは理解できなかったけれど、いま振り返ってみると、中国国内でアリババが生まれ、WeChat Payみたいなものが出てきているわけで。
 一方で、日本はどんどんオープンにしていった結果、楽天とかはあるけど、基本的にはGAFAのサービスが席巻している。国のインターネットを閉じるという方向性は、可能性のひとつとしてあったのかなって思いますね。

宇野 そこに関しては、僕は若干、懐疑的だな。たとえば、2ちゃんねるとかニコ動とかドメスティックだけど、やっぱりダメじゃん。Twitterは世界でも主に日本で使われているけれど、諸悪の根源になっている。
 たとえば僕、先日もTwitterで集団的な嫌がらせを受けたんだけど、デマの流布や名誉毀損に対してもう少し厳しい規約を設けていたら起こらなかったと思う。Twitter社は法的な手段に訴えない限り情報開示はしないし対応しないという方針だから、日本のTwitterが嫌がらせ天国になっているわけだよ。国境の問題ではなくて、プラットフォームの思想の限界なんだと思う。
 西海岸のやつらが考えたことは、環境さえ整備すれば、あとは確率的にクリエイティブになっていく人々が生まれる。受信するだけだった一般の人々が発信するようになると、みんな考えが深くなって人類全体がニュータイプに近づくみたいなことだよ。
 ところが、ほとんどの人間は強化人間になってしまって、フォースの暗黒面に落ちて人に石を投げるようなことばかりやるようになってしまった。今ココ、なんだよね。
 単に人々に発信させれば良いというものではない。誰もが情報発信できる世界は素晴らしいのかもしれないけど、その副作用をあまりにも低く見積もりすぎていたと思う。

家入 なるほどね。

宇野 単に発信させれば良いということではなくて、発信の過程でいかに深く考えさせるかが重要なんだよ。アクティブラーニングもそこに重心をおいている。ただ、それをTwitterやFacebookのSNS系は全然考えずに、とりあえず発信させれば良いという方向に行った。結果、人々はより考えなくなってしまった。
 発信して誰かを叩く快楽をゲットしたいから、事実関係の把握や論理的思考なんかは捨ててとりあえず石を投げよう。なぜなら、みんな投げているから。マジョリティ側に立てて気持ち良いみたいなことで、みんな、石を投げるわけだよね。
 発信することによって人はより考えなくなるってケースがあることを、あまりにもSNS系のプラットフォーマーは軽視していたと思う。

「情報社会」ではなく「社会」そのもの
になったインターネット

家入 僕、最近あまり炎上してないんですよ。それは発言をしなくなったからなんだけど、数年前までいろいろ叩かれて思ったことがあるんです。
 僕自身のことではないのだけれど、ある匿名アカウントで叩いてる人の素性──職場や本名が明らかになると、その瞬間にアカウント消して逃げるみたいなことってあるじゃないですか。そういうケースを見ていて、むしろ匿名であることがリスクになってきてるのかなって。
 また、最近、考えさせられることがふたつあって、ひとつはhagex氏が刺殺されたことで、もうひとつが箕輪厚介さんと水道橋博士のケンカなんですね。hagex氏については、僕、会ったこともないし知らない人なんですけど、昔、彼のブログでめちゃめちゃ叩かれてたんです。嫌な書き方、叩き方をする人だなって思いましたけど、刺されて亡くなったと知って、殺されるほどのことじゃないだろうって。
 もうひとつの箕輪さんと水道橋博士のケンカは、僕、よくわかってなかったので、最初は詩のバトルみたいなものだと思ってたんですよ。
 Twitter上で起きたものが、リアルの場のガチの殴り合いになったわけですよね。このふたつって、すごくリンクしてるなって思ったんです。
 僕はこれまでに石を投げられもしたし、叩かれもしたけれど、フィジカルには何もない。ある意味では開き直っていた部分はあったんです。炎上の最中に講演をやってもアンチは来ないし、なんなら煽って「文句あるヤツは来たらいいじゃん」くらいのことを書いていた時期もあった。だって結局、来ないから。だから、全然問題ないって思っていたんだけど、このふたつの件はTwitterから起きた出来事が結果的にフィジカルに影響を及ぼすという点で、僕の中でズシンときているんです。

宇野 それはもう情報社会とは言わないよね。ネットって実は社会そのもの。この感覚が、僕らみたいなインターネットの発展とともに青春を送ってきた人間には一番ないんだと思う。
 たとえば、最近Facebookを始めて部下から「いいね」がつくのを待ってる56歳の団体職員にはその感覚はないと思う。一方で、グループLINEで「学校帰りにマック寄ろうよ」とかやっている、いまどきのデジタルネイティブにもない。僕らの世代だけがインターネットを虚構だと思っている。
 僕たちの世代だけが、インターネットは何かを演じる空間だと思っている。でも、そんなことはないんだよね。特に日本のインターネットは半匿名の文化だから、逆にそのまやかしにハマりやすいんだと思う。
 僕たちの世代だけだよ、「リアルとネット」みたいなバカなこと言ってるの。

家入 僕らの世代が取りうる選択肢はふたつあって、ひとつは宇野さんみたいに徹底的に戦い続ける。もうひとつはネットから離れることだと思う。

宇野 それは僕も考えてる。ネットから離れるカードはいつでも切れるようにしておきたい。

家入 これまで残してきた素晴らしい実績を、Twitterでの言説によって毀損しちゃっているオジサンはたくさんいて、そういった人たちはTwitterを使わなければいいのになって思う。

宇野 Twitterはピンポイントにだめだと思うよ。半匿名のカルチャーが染み付いた結果、いじめカルチャーが棲み着いてしまっている。
 一度炎上すると、捨て垢をたくさん作って攻撃してくるやつがいるわけ。そいつらが攻撃対象にとって不利な、事実を脚色したTogetterとかを作るわけだよ。でも、そのやり口は別に彼らが考えたものではなくて、Twitter上におけるいじめの手法、嫌がらせの手法というのが確立されちゃっているんだよね。
 これは明らかにTwitterとかTogetterの運営が悪いと思っていて、だから同じように、はてブも悪だと思ってる。死人まで出してしまったわけだし。
 でも、戦いか離脱かについては、僕は二重戦略でいいと思ってる。本当に面白いことや生産的なことは、もう今のインターネットでは無理なので、僕らは一旦撤退します。ただ、もう一回インターネットで夢を見たいから「遅いインターネット計画」をやります、っていうことなんだよね。これが「離脱」と「戦い」。
 離脱はつまり、オンラインサロンと紙の本。いままでコミュニティは意図的に作ってこなかったけれど、今までのインターネットに関する僕の思想は間違っていた。震災以前の自分は本当にバカだった。そこはしっかり反省して、コミュニティを作り、閉ざされた世界で充実した空間を作って、しっかり人を育てる場にする。育った仲間たちと一緒に、もう一回インターネットで面白いことができないかをやってみる。それがPLANETSと「遅いインターネット」の関係。二重戦略でいこうと思っている。

メディア思想かプラットフォーム思想か

家入 僕はここ数年、「インターネットは閉じていくだろう」ということを言っているんだけど、「閉じるインターネット」みたいなものと「遅いインターネット」は近い部分があるのかな?

宇野 近いんじゃないかな。でも、「遅いインターネット」は閉じるわけではなくて、もう一度、開かれたメディアをやろうという試みなんだ。
 SHOWROOMの前田裕二くんは「プラットフォームの時代ですよ」って、すごい美しいウィスパーボイスで言うんだよね(笑)。彼は職業的にプラットフォーマーだし、まだプラットフォームの可能性を信じている。
 でも僕はプラットフォームから一度撤退して、ちゃんとしたメディア+コミュニティでもう一回やってみた上で、プラットフォームとしてどういうものがあり得るかを考えたいと思ってるんだ。最終到達点は僕も前田くんもあまり変わらないんだけど、アプローチの違いがあるんだよね。
 メディアかプラットフォームか。ぜひ、家入さんにも聞いてみたい。もちろん二者択一ではなくて両方あって良いし、それぞれのアプローチが良い相互作用を生んでいけば良いと思ってるんだけど。

家入 メディアかプラットフォームか。

宇野 メディアは読むもので、プラットフォームは発信するものだよね。

家入 CAMPFIREは2011年に立ち上がって、今年で8年目になるんですが、その間、僕自身は都知事選に出馬したり、BASEを作ったりしていて、CAMPFIREは共同代表だった石田光平くんに任せてたんです。
 2年前に僕が戻ったとき、石田くんは退いたんですが、彼と僕の思想の大きな違いは、彼はメディア思想で僕はプラットフォーマーだったってことなんです。
 要はクラウドファンディングというものに対して、彼はメディア的なアプローチをしていたんです。CAMPFIREのトップページに載るプロジェクトは、すべてイケてる必要があるし、基本的には全部サクセスしなきゃいけないし、話題になるものじゃないといけないと。
 だから、投稿は受け付けていたけれど、基本的にはこちらからアプローチしてプロジェクト化するものしか掲載したくない。結果、月に1〜2件しか掲載されないので流通額も全然増えていかない、みたいな感じだったんです。
 一方で、僕はプラットフォーマーとしてどうあるべきかを考えるんですよね。プロジェクトがイケてるかイケてないかを僕たちが審査するのはおこがましい。もちろん法律的にどうか、公序良俗に反してないかとかはあるんだけど、基本的には投稿されたプロジェクトはすべて掲載すべきだと。そのハードルは低ければ低いほど良いし、1千万円を集めたいとかでなく、5万円を集めたいというプロジェクトで溢れるべきだと僕は思っていたので、結構意見が違ってたんですよ。
 僕がCAMPFIREに戻って、手数料を下げたり審査基準を見直したり、キャッチコピーを「小さな火を灯しつづける」にしたり、全部ガラッと変えたんです。そんな中、彼がフラッと会社に来て、僕がホワイトボードに書いた今後のCAMPFIREのビジョンを見て言ったんです。「自分だったら絶対に格好悪くてやりたくなかったことがここに書いてあるから、むしろ家入さんに代わったことはすごく良いと思います」って。
 メディアとプラットフォームの明確な線引きはわからないけれど、石田くんと僕の違いはメディア思想かプラットフォーム思想かにあった。

宇野 僕の身の周りって、家入さんとか前田裕二くんとかけんすうさんとか、プラットフォーマーばっかりなんだよね。だからこそ、僕はメディアをしっかりやりたいって思うわけ。僕はメディアとプラットフォームって、じゃんけんのパーとチョキみたいな関係で、普通に戦ったら絶対にメディアが負けると思ってる。
 メディアは所詮「他人の物語」で、プラットフォームは「自分の物語」。「他人の物語」を読むことより「自分の物語」を生きることのほうが面白いよ。受信するより発信するほうが楽しいに決まってるんだから、メディアは絶対に負けるわけ。
 でも、僕が主宰しているPLANETSくらいの、つまり数千~1万くらいの規模だったら、メディア+コミュニティのほうが良いんじゃないかって思うんだ。
 プラットフォームって、分解するとメディア+コミュニティになる。これくらいの規模だったらオープンなプラットフォームである必要はなく、オープンなメディアとクローズドなコミュニティで回していくことが可能なんじゃないかと思ったわけ。小さいけれど熱量は高いコミュニティだよね。
 今はまだ、その「バズり力」はヤフトピほどには高くないけど、5年後、10年後、「あの頃、PLANETSってユニットがあって、面白いコンテンツがいっぱいあって、10年、20年読みつがれる本がいっぱい生まれた」って言われたら勝ちかなって思った。

家入 オープンとクローズのバランスはどういうふうになるんですか?

宇野 メディアは徹底してオープンにする。いまはメルマガやインターネット放送は閉じているけど、この先にやる「遅いインターネット計画」は無料のウェブマガジンで、そこは開かれている。PLANETSの本誌も言ってみれば、誰でもお金を出せば買えるわけだよね。
 ただ、これを作っている人たちのコミュニティというかグループは徹底して閉じる。そこでは僕なりのやり方で徹底してノウハウを共有してスキルも伝授し、何を考えてどう作ったかみたいな体験もシェアしていく。コミュニティは「自分の物語」でいい。一方のメディアは「他人の物語」に開いている。このバランスで良いのかなって思っている。
 これは規模の問題で、たとえば10万、20万、さらに100万って規模を狙うなら、Google、Facebookとは言わないまでも、ニコ動やSHOWROOMのようなことを考えるべきだと思う。ただ、それは横に拡がるか縦に拡がるかの違いであって、規模を求めるのは、いまこの瞬間に残ることを重要視しているからなんだよ。でも、長いスパンで考えるなら、閉じたコミュニティと開いたメディアというアプローチが良いんじゃないかって思い始めてる。
 その延長線上で、僕はもっと僕以外の考え方にも触れてほしい。単に自分が本を書くだけじゃ満足できなくて、他人の考えもたくさん載せて、自分の思想やメッセージだけでなく、世界観を伝えたいんだよね。「僕はこうした人たちの仕事を見てワクワクしてます」「彼らの仕事からいつも刺激をもらってます」ということまで、読者に共有してほしい。

若い世代を送り出すという遺伝子の
残し方

宇野 僕は第二、第三の落合陽一を出したいのね。それは、テクノロジーだ、イノベーションだでバズるという意味ではなくて、20代でその専門の業界では注目されつつあって、この先、世の中に対してインパクトのある仕事をしていく人の背中を押したい。
 僕自身、落合くんとの出会いは衝撃的だったんだよね。彼の考えていることはこれからの世の中を考えていくときに、とんでもなく大きな意味があると。ただ、そのことを理解して、しっかり世に送り出せる人間は、申し訳ないけどいまの出版業界で自分以外いないだろうなと思ったの。それで、当時まだ暦本研(東京大学大学院学際情報学府 暦本研究室)の大学院生だった彼に、「本を書かないか」って話をしたんだよね。
 彼の言っていることは僕が本にまとめないと、この才能があんまり良いかたちで世に出ないんじゃないかというある種の焦りというか、変な使命感があった。
 僕も40歳になるし、落合くんみたいな若い才能を送り出すことを、これからの仕事としてやっていきたいなって思ったんだよね。これはそれまでなかった欲望なんだけど。

家入 僕も今年の12月に40歳なります。

宇野 同い年だからね。僕は今年の11月に40歳。

家入 やっぱりそうなっていくのかな。僕もここ1、2年くらいでそういう責務みたいなことを感じるようになった。下の世代に対して何ができるかって意識は急に生まれたものではないかもしれないけど、本当に思うことが増えた。

宇野 自分の本や雑誌を作ることは前提として大事なんだけど、若い世代を送り出すという遺伝子の残し方もあるって思ったわけ。その方がより多様なかたちで世の中に対してポジティブな影響を与えることができるんじゃないか。それは、落合くんと出会って学んだんだよね。

家入 それはいつぐらいですか?

宇野 2014、5年かな。2014年にPLANETSを法人化して、メルマガをもっとメディアっぽく使っていこうと思って、いま僕の知っている一番トンガッてる人にインタビューしようと呼んだのが落合くんだった。そこで「魔法の世紀」って言葉が生まれて、メルマガの連載につながっていくんだよね。

▲『魔法の世紀』

プラットフォームが消えても
言葉とコミュニティは残る

宇野 家入一真が今後、どうするのかを聞いてみたい。家入さんは、どこかのタイミングで「インターネットはお金に結びつかなければ脆弱だ」と思ったはずなんだよね。

家入 うーん。

宇野 インターネットって人間の意識を結ぶだけのもの。でも、家入さんは、先に意識が結ばれて、お金が結ばれていないことに対して違和感を覚えていたんじゃないかな。お金がつながらないと自分の信じるインターネットは実現できないと思ってやっていたはずなんだよね。

家入 たしかに。僕は「お金をなめらかに」という言い方をよくするんだけど、「なめらか」ってどういうことかを考えると、たとえば、困ってる誰かを助けるとき、あるいは誰かの「やりたい」という気持ちを応援したいとき、銀行振込でお金を送ると手数料がかかりますよね。10円送るのに300円かかったら意味がないし、遠くに住んでいると手渡しも難しい。
 僕には「お金は質量を失った瞬間、コミュニケーションとともに流れる世界になっていく」という思想があるんです。それが「お金をなめらかに」って話なんですね。クラウドファウンディングもそうだし、それをもう少し先鋭化したアプリ「polca」だったり。挨拶くらいの感じでお金が飛び交う世界をどう作るか。それが思想としてあるんですよ。
 ただ、僕らが企業体としてそれを提供する以上、なにかしらのマネタイズが発生せざるを得ない。もちろん従来より全然安い手数料でやれるんだけど、そのためにもっと大きな経済圏を描かなくてはならないというジレンマもある。
 コインチェックの事件でブームは落ち着きつつあるけど、ブロックチェーン、ビットコインなどの仮想通貨が本質的に実現しようとしていたのは、プラットフォームを解体する動きなんですね。
 どういうことかというと、クラウドファウンディングひとつとってもそうで、たとえば宇野さんがこういうことやりたいって言ったとき、CAMPFIREを介して手数料を取る必要なんてないわけですよ。
 宇野さんを応援したい人たちが直接、宇野さんとつながって、宇野さんの試みを応援する。あるいはまだつながってはいないけれど、試みが伝播して「面白いから自分も支援してみたい」と、個人と個人が直接つながってお金が行き交う世界ができれば、プラットフォームなんて必要ないんです。
 メルカリだってそうですよね。「こういうものが欲しい」って人と「こういうものを売りたい」って人がいるなら、プラットフォームを介さず直接つながり合えばいい。
 その実現は、たぶんもうちょい先だと思うんですが、プラットフォームがいまだに存在するということは、まだまだ旧態然とした古臭い状況にあるということは事実なんです。本質的には、僕らみたいな存在が消え去ることが一番いいんだと思う。

宇野 僕もプラットフォームは過渡期のものだと思っている。Google自体がそのことを象徴してると思うわけ。Googleがやったのは、重要なサイトとそうでないとサイトをアルゴリズムでランク付けすることによって、本来分散的であるインターネットを、無理やり中央集権的であるように見せかける装置を作ったわけだ。Googleがあることによって、インターネットを中央集権的に利用することができる。近代的な発想で生きている僕らにとっては、それが一番見やすいんだよ。ところがGoogleは本来、人工知能の企業であって、検索はその使い方のひとつに過ぎないんだよね。
 今後はIoTなどと絡むことによって、インターネットは媒介を経由せずに直接つながるようになっていく。一回モニターの中のものを経由する発想自体が、メディアドリブンで社会が動いていた20世紀後半の考え方だよね。経由せずに直接的につながるのがインターネットの当然の進化というか未来像であって、プラットフォーマーの代名詞であるGoogleは、そのことをよくわかっている。
 つまり、プラットフォーマーの行き着く先にあるのは、プラットフォームの自壊だと思うんだよね。いずれプラットフォームは見えなくなり、ハサミどころか水や空気のようになっていく。だからこそ、僕はプラットフォーム万能論に対して懐疑的なの。

家入 僕らみたいな存在が消え去るであろう未来に対して、自分たちはどう向き合うべきかを考えていきたいなって思ってます。

宇野 プラットフォームが消え去ったあとも、言葉とコミュニティは残る。だから僕はしばらくそこでノウハウを溜めようと思ってる。ただ、プラットフォームがどういうかたちで消え去るのかわからないし、どれくらい時間かかるかもわからないから、前田くんの仕事にもすごく意味はあると思う。
 あと今日、家入さんに言おうと思っていたことがひとつあるんです。安易に言えることじゃないんだけど、家入さん、金融やりなよ。保険とか共済とか。僕はクラウドファウンディングが行き着く先ってそこだと思う。
 たとえば、PLANETS CLUBのメンバーは月に5千円近くのお金を払って、学びや趣味の領域でいろんな体験ができ、情報をシェアできるといったサービスを受けている。こういったものが基盤となって、最終的には保険・共済になっていくようなものがでてきたら面白いと思う。システムを介することによって、特定の個人に恩義を感じることなく、ちょっと困ったときのセーフティネットになるというかたちに発展していくべきだと思うんだ。
 これだけ世の中が複雑化すれば、日本人同士で支え合うことにリアリティがなくなるのは仕方がないし、民主主義をやっている限り現役世代に優しい社会には絶対にならない。だから民間からそういった動きが出てくるしかないと思ってる。

家入 僕が投資している先で、Gojoってアプリをやってる子たちがいて、そこはそういう思想でやってますよ。
 昨今、Fintechみたいな流れが生まれてますよね。たとえば海外だと、SoFiという適正な金利で学生ローンを組める仕組みがあって、ソフトバンクが出資したりして、いい感じで進んでいた。でも、いまどうなっているかというと、ちゃんと借りたお金を返すのは学歴が高い人たちで、確かにその人たちは従来の金利より安く借りられるようになった。でも、彼らが国の奨学金を利用しなくなったことによって、家が貧しくてあまり学歴も良くない子たちが利用できる学生ローンの金利が上がっちゃったんです。保険の仕組みと同じですが、それまでは、ちゃんと返す人たちが割を食って、返せない人たちの分をカバーしていたわけです。
 評価経済の話も一緒ですけど、一人ひとりの信用とか評価を適正に見ていくと、「この人はちゃんと返すだろうから金利0.1%でいいです」となって、その分のしわ寄せが必ずどこかにいくんですよね。
 このままFintechが突き進んでいくと、個別の最適化が行われた結果、救われない人たちがどんどん出てくる。二極化が激しくなっていくディストピアしか描けないんじゃないかって思っています。だからこそ、保険みたいなお互いにどう支え合っていくのかという仕組みは、もっとテクノロジーによってアップデートできる部分はあると思いますね。

宇野 それは思想の問題だよね。最適化するところは最適化して、浮いたお金を本当に必要な人たちに無条件で配るシステムを作っていかなきゃいけないよね。

オンラインかリアルかではなく
コミュニティは主体的に選び取る

家入 僕の原体験としては、中学2年生から引きこもりで登校拒否で、10代後半はほぼ家で過ごしました。当時はまだインターネットがなく、パソコン通信の時代。そこの文字だけしかない世界の向こう側にいる謎の人たちとチャットをすることで、救われた部分がすごくあったんです。たとえば、10代の僕の相談にのってくれる50代のおっさんや、対等に会話をしてくれる人がいて、それに救われたりしたんですね。それが原体験としてあるので、オンライン上でのコミュニケーションが全然ダメだとか思うことはないけど。えー……どうなんだろうな。

宇野 僕はもうオンラインかリアルかって、意味のない問いだと思う。だってもう情報社会じゃなくて、単に社会だから。PLANETS CLUBでも、地方在住で1回も定例会に来たことがなく、一度も僕に会ったことのない人はいると思う。でも、彼らと今ここにいる人たちとの間に精神的な差があるかっていうと、そんなにないと思うんだよ。むしろ大事なのは、自分が主体的に選び取ったコミュニティかどうかということ。もっと別のパラメータで考えたほうがこの問題は整理できる気がする。
 初期インターネットやパソコン通信の持っていた理想が、必ずしも日本的な匿名カルチャーとかハンドルカルチャーとかオンラインで完結する必要はないと思う。よく使う例えだと、将来的にタバコはなくなると思う。でも、喫煙所的なコミュニケーションってかたちを変えて残ると思うんだよね。それと同じようなことじゃないかなと思う。

家入 猪子寿之くんが言っていて、なるほどなって思ったことがあって。かつて、コミュニティはリアルの場から生まれたと。公民館なり教会なりのリアルの場から生まれ、それがオンライン上で連絡が取りやすくなって、便利になったよねっていうのが前世代。いまは逆の現象が起きていて、むしろオンラインのコミュニティがリアルに落ちていく時代だと。それはたとえば、オンラインサロンだったり、ニコニコ超会議だったり。宇野さんが言う「自分で自分のコミュニティを選び取る」っていうのは、リアルだろうがオンラインだろうが、あまり関係ないことなのかもしれないですね。

宇野 インターネットって空気だからさ。「空気を使って呼吸してます」って、わざわざ言わないよね。単に「呼吸してます」って言う。そういうことだと思うんだよね。

[了]

この記事は鈴木靖子が構成し、PLANETSのメルマガで2018年12月4〜5日にかけて配信した対談記事を再構成したものです。あらためて、2020年2月17日に公開しました。
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