私のような昭和生まれの東北出身者の中には、上野駅は東京の玄関口というイメージが強い。
 現在、東北新幹線は東京駅が起点になっているが、1991年までは上野駅が起点であり、東北から東京に行くときに上野駅に降りることが多かった。岩手出身の石川啄木が「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく」と詠んだくらい上野駅と東北の結びつきが強かったのである。
 そのためだろう、私は上野よりも新宿に近い中野区に20年以上も住んでいるが、今でも上野駅の方が親しみを感じる。なんとなく故郷が近い感じがするのだ。
 この感覚は私だけではないだろう。上野駅周辺、少し離れた稲荷町などには東北の郷土料理の店が結構並んでいたし、東北から出張に来る人の定宿などがたくさんあり、東北出身者が多かったイメージがある。東北から東京に出てきた人が、なんとなく故郷と繋がっている安心感から、上野駅周辺に住むこともあったと思う。
 こうした鉄道と駅が自分の故郷と繋がっているという感覚は、上野と東北人、いや日本だけには限らない。例えば、パリにはフランスの四方に伸びる鉄道路線の起点として、パリ北駅やパリ東駅、リヨン駅、オステルリッツ駅などの六つのターミナル駅があるが、それぞれの路線沿いの地方出身者がその駅の周辺で料理店などを開くことが多かったという。
 少し前にフランス北部に伸びる路線の起点となっているパリ北駅を見に行ったが、国際列車のユーロスターや高速列車のTGVがプラットフォームに停車する雰囲気は、なんとなく東北本線や東北新幹線の並ぶ上野駅に近いものを感じた。
 パリまで来て「ここは上野駅だなぁ」などと夢想するのも変な話だが。

▲パリ北駅(著者撮影)

 しかし、それと同時に上野は、地方人にとって東京という異空間を味わう場所でもある。子供の頃に上野動物園や博物館を訪れた人なら、その興奮と非日常感を抱いたのではないだろうか?
 東北人にとっては、上野は故郷を感じさせ、その上、非日常の祝祭のような雰囲気も味合わせてくれる稀有な土地である。
 そんなわけで前回はパンダの話が長くなってしまったので、今回も上野の続き。
 国立博物館や科学博物館がある上野台は、武蔵野台地の先端の舌状台地で、かつては「忍岡」(しのぶがおか)と呼ばれていた。前編にも書いたが江戸時代初期に天海僧正が東叡山寛永寺を建てた場所で、江戸っ子は「上野のお山」という言い方をよくしている。
 今回はこの「忍岡」から降りて、その下に広がる都内有数の広大なオープンスペースである「不忍池」(しのばずのいけ)の方に歩いていく。

 この池はかつて日比谷入江と呼ばれる、江戸湾の入江があった場所。それがだんだん土砂の堆積と埋立で、縮小していき、現在のような池になったのである。
 都内のオープンスペースに面した場所ではお馴染みの高層建築が周囲に並んでいる。特に池の西側にある池之端には30階を超える高層マンションがニョキニョキと生えている。
 前にも書いたが、建築物の高さ制限が緩い公園沿いなどには高層建築が建設される傾向がある。加えて、ここは東京では珍しいカワウのコロニーがあるという鳥獣保護区でもある。
 近年では、水の富養化でアオコなどが発生するなど水質悪化が懸念されているが、その原因の一つである野鳥への餌やりが禁止され、ボランティアによるビオトープが設置されるなど、環境をなんとか復元しようという試みも行われており、都心では珍しい生態系が形成された場所なのは間違いない。

 こうした環境が前面に広がり、見晴らしも良いというのであれば、不忍池周辺に高層マンションが立ち並び、そこに住みたいという人が多いのも分かる。現在のこの辺りではいくつかタワーマンション建設が計画がされている。
 ただ、明治期くらいに撮影された不忍池の弁天堂を撮影した絵葉書を見てみると、忍岡から上から本郷台地の緩やかな傾斜が広がっている風景が見れたようで、こうした眺望が望めないのは地形マニアとしては残念ではある。

▲著者蔵の絵葉書より

 しかし、この池とその周辺は、人間の手によって風景が改変され、多くの建造物が現れては消えるという歴史を辿っている。明治17年(1884年)から明治25年(1892年)までは池の周りは不忍池競馬場として競馬が行われていたし、戦時中には食糧不足を解消するために池が埋立てられ「不忍田圃」が作られた。
 実行されなかったが、戦後も野球場を建設する案や、池の下に地下駐車場が建設される計画などもあったくらいである。
 東京という新陳代謝の激しい都市では当然かもしれないが、そうした変化を繰り返しながらも、なんとか不忍池という水辺の空間だけは一時消滅しつつも復活し存続している。
 こうした池を高層マンションが囲むような風景もいつまで続くのかは分からない。
 そう考えると、不忍池の歴史の中で、現れたり消えたりしたものを追ってみるのは面白そうである。今回は実際に不忍池を歩きながら、そうしたものの痕跡を探ってみよう。
 そもそも不忍池の代名詞と見える弁天堂にしても、東叡山寛永寺を建てた天海僧正が、上野の山を比叡山に見立てて、この不忍池を琵琶湖に見立てたが、琵琶湖の竹生島に相当する島がないので、わざわざ人工の中之島を作らせ、そこに弁天様を祀ったことからの始まりである。
 不忍池は江戸時代から有名な観光地だったが、その始まりはこの天海の人工島であったと考えると、その風景の改変と消失の歴史の幕開けとしてはふさわしいかもしれない。

 しかし、この人工島の弁天堂にしても、昭和20年の東京大空襲で焼失し、現在の建物は戦後に復興した鉄筋コンクリート製のものである。

 戦争で消えて無くなったものは、御堂だけではない。
 大正の不忍弁天堂を撮影した絵葉書だと、参道に大きな中国風の門があるのが見えると思う。

 

▲著者蔵

 現在の参道を見ても、この門の痕跡すら残っていない。

 この門は大正3年に建設された「天龍門」。建築の鬼才と言われた伊東忠太の設計した近代建築の門である。

▲国会図書館デジタルアーカイブより(出典

 近代日本の建築家の多くが西洋に留学し建築を学んだが、伊東忠太は西洋の建築を熟知しながらも、日本建築のルーツを探るべくアジアを歴訪し、アジアを意識した建築を目指した人物である。そのアジアに目を向けた思想は、彼が設計した両国の震災慰霊堂(東京都慰霊堂)や築地本願寺を見れば、すぐに感じることができる。

▲東京都慰霊堂(筆者撮影)
▲築地本願寺(筆者撮影)

 寛永寺からの依頼を受けた伊東は、中国風の、それでいて近代を感じさせる門を設計し、彼自身もこの作品をかなり気に入っていたらしい。
 しかし、戦争で焼失。わずか数十年しか存在しなかった幻の門となり、その後も再建されていない。
 伊東忠太の建築のファンなので、なんとか残ってほしかったと思うが、こればかりは致し方ない。不忍池の現れて消えた建造物というと、私はこの「天龍門」が思い浮かぶ。

 戦争による焼失以外でも、不忍池の周辺から消えた建造物はまだまだある。
 前回も書いたが、明治以降の日本では上野公園と不忍池周辺は国家的なイベントの開催地であった。咋2021年のオリンピックでも分かると思うが、国家規模のイベントはある種の祝祭であるから、国家の威信をかけたような大きな建造物が作られるが、祝祭が終われば、それが取り払われてしまうことも多い。
 下の鳥瞰図は明治40年(1907年)に開催された「東京勧業博覧会」のもの。

▲著者蔵

 公園や池の周辺には展示会場や売店の建物などが多く立ち並んでいる様が分かるが、池の西側から弁天堂にまっすぐ伸びる橋があるのが見えると思う。上野公園に設置された案内地図を撮影したので並べておくが、現在の地図で不忍池を見ると、弁天堂の後方には馬蹄形の堤が築かれている(埋立で池自体も小さくなっているが)。しかし、鳥瞰図に描かれているような橋は見当たらない。

▲著者蔵

 この橋は鳥瞰図では「弁天橋」と書かれているが、博覧会のために建設された「観月橋」という、当時としてはかなり大規模な橋で、これで不忍池を初めて横断できるようになった記念碑的な建造物であった。

▲著者蔵

 この橋は「東京勧業博覧会」の中でもシンボル的な建造物の一つらしく、同博覧会各所の風景を描いた「東京勧業博覧会各館乃風景」にもイラストが載っている。

▲著者蔵「東京勧業博覧会各館乃風景」より

 このイラストを見ると、橋で不忍池を横断する見物客が、池の周囲に建てられた大きな博覧会の建物の威容を望みながら入場できるように計画されたのではないかと思う。イベントを盛り上げるために、最適なビューポイントを作ったのかもしれない。
 この「観月橋」があった場所は現在ではボート池になっているが、まったくそんなものがあった痕跡も感じられない。

 この「観月橋」も昭和4年(1929年)に池を四つに分割する計画が始まり、現在もある馬蹄形の堤の建設工事が行われるために撤去されてしまった。
 これも不忍池から消えた建造物の一つである。
 同じく博覧会のための建築だと、大正3年(1914年)に大正天皇即位を奉祝し東京府が主催した「東京大正博覧会」で建設された「不忍池中大噴水塔」も面白い。
 下の博覧会絵葉書で、「観月橋」の向こうに巨大な噴水塔を見ることができる。

▲著者蔵

「東京大正展覧会実記」によれば、「不忍池中の噴水は場内で最も偉観を呈するものの一つ、八角鏡形外径百五十六尺、大水盤の中央には、同じく八角形双盤段付は十七坪五合五勾総高さ池の水面より中央大火炎球まで百三十尺、噴水口の周囲には硝子で飾られ、夜間は之れにも紅緑の彩燈を点ずる仕掛で、実にその美観壮観」とある。

▲著者蔵

 高さ約39mの巨大な噴水塔で、噴水口にはガラスで飾られ、夜にはカラフルなライトが灯って見物客を楽しませていたようだ。相当にド派手な噴水塔であったのだろう。
 この噴水塔があった場所は現在は動物園に隣接する「鵜の池」と呼ばれる場所である。先に書いた鳥獣保護地域に指定された理由の一つである、カワウのコロニー、繁殖島が形成されているのである。

 コロナによる入場数制限で動物園側からカワウのコロニーには近づけなかったが、見る限りでは派手で巨大な大噴水があったような形跡は見つけられない。
 今ではハスが覆う自然豊かな池というように見えても、ずっとこの風景だったわけではない。

 そして、不忍池といえばハス、東京でハスの名所といえば不忍池というくらいだが、実はこのハス自体も、実は消えて現れたものの一つではある。

 不忍池のハスは江戸時代から有名であり、浮世絵の題材にもなっている。

▲著者蔵

 しかし、ハス研究で有名で大賀一郎博士の著作『ハス』(昭和35年)には、不忍池のハスはそもそも江戸時代初期に移植されたものではないかという見解が記してあり、博士が調べた昭和11年時点で10種以上(おそらく20種はあったという可能性も示唆)のハスが不忍池に存在していたとある。博士は「江戸不忍のハスの品種の尋常でないこと」と評しているが、これは違う品種のハスを度々移植した結果ではないかということである。

 つまり、不忍池のハス群は人的要因によって誕生したものというのだ。
 しかし、江戸時代から多くの数の品種が咲き乱れた不忍池のハスは、先にも書いた戦時中の食糧増産を目的にした田圃への転用時に撤去されてしまっている。
 戦後に池が復元された際に、大賀博士たちの尽力によって再びハスが移植されたが、戦前の多くの品種の咲き乱れるというハスの群生地ではなくなったのだ。
 こう考えると、ハスですらも不忍池では現れたり消えたりした人工の産物と言えるかもしれない。
 そんなことを考えながら、不忍池の周囲を歩いていると、細長いものが足元を通り抜け、ハスの下に滑り込んでいく。慌てて見てみる。

 シマヘビか? アオダイショウか? 1m弱の体をくねらせながら、ハスの間を池の奥に泳いでいく。
 そういえば、ここ不忍池にも祀られている弁天様は蛇身で表現されることもある神様である。
 弁天堂の御本尊は秘仏なのだが、堂前にも蛇身の弁天さまの石像が設置されている。インドから伝来した弁天様は、日本では民間信仰の宇賀神と神仏習合し、とぐろを巻く蛇として表現されるようになったが、これは水神信仰や龍神信仰がなどが合わさったためだろう。
 異形と言えば異形だが、なんだか愛嬌ある風貌でもある。

 江戸に不忍池に潜む大蛇の昔話もある。
 そう思うと、足元をすり抜けた蛇は弁天様の使いか、不忍池の主の使いかで、「不忍池から消えるものもあるけれど、また現れるよ」とお告げをしにきたような……。
 ちょっと不思議な気持ちになりながら、今回のそぞろ歩きは終了。

[了]

この記事は、PLANETSのメルマガで2021年10月25日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2022年1月27日に公開しました。
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