コロナ禍はいろんな所に影響を与えたが、古書業界も相当にきつかったと思う。
 古書屋さんは店舗で営業する場合もあるし、カタログやネットでの注文のみという無店舗で営業する業者さんも多い。
 しかし、忘れてはいけないのは、「古本まつり」や「古書市」などのイベントでの販売である。
 いろんな古書屋さんが集まって、屋内の会場や屋外の広場や通りにブース、本棚を並べて古書を販売するイベントは、いろんな地域で行われている。京都の「下鴨納涼古本まつり」なども有名だが、本の街である神田神保町では毎年10月下旬から行われる「神田古本まつり」が一番規模が大きいと思う。
 下画像は2018年の「神田古本まつり」のもの。これは平日に撮影したものなのであまり人がいないが、土日などには古本を求めにくる人たちで大変な混雑となる。

 こうした「古本まつり」などのイベントに出店して販売を行う古書屋さんも相当に多い。
 しかし、ご存知のようにコロナ禍で各種イベントは中止となり、ここ2年ほどは当然「古本まつり」も見送られることが多かった。
 その影響で古書屋さんがネット販売に力を入れるようになり、思わぬ珍本がネット経由で購入できたりということもあったが、やはり本好きが集まって猟書(本を探して漁ること)する、あの熱気が立ち込める「古本まつり」に行けないのは寂しい。
 だが、このところの感染者の減少もあって、あちこちで少しずつ「古本まつり」が開催されるようになり、2年続けて中止になった八王子市の西放射線ユーロードで開催される「八王子古本まつり」が、今年は開催されることに!
「八王子古本まつり」は東京都内の古本イベントとしては大規模なほうで、八王子周辺や中央線沿いの古書屋さんが一堂に会する。ここで探している本を見つけたり、珍しい本にぶつかったりすることが多く、個人的には相性の良い「古本まつり」である。
 古本好きとしては、待ちに待った時が来た! とばかりに、早速八王子に行ってしまった。
 長い歩行者道路に一直線に並んだ古書店のテントを見ると、2年も「古本まつり」が開催できなかったコロナ禍をいろいろ思い出してしまう。

 なんにせよ、この八王子のように、各地で「古本まつり」が開催できるような状況になればという思いを込めて、今回は八王子を歩いてみることにする。

 駅に降りると、私は構内の売店に置かれているお菓子を見てしまう。
 駅の売店には出張などに行く人がお土産を買っていくことがあるのだろう、その地域の有名なお菓子や名産品などが置かれている場合が多い。
 例えば、新宿駅のキオスクでも、東京のお土産ということで「東京ばな奈」が売っていたりする。

 お菓子以外にもその地域の名産品が置かれていることもある。例えば、千葉の柏駅には地ビールが販売されていて、ちょっと買おうかと思ったこともある。
 こういう「この土地の推しはこれだ!」という熱意のようなものが、駅の売店や駅ナカの店舗に見てとれるので、大変に面白い。
 では、JR八王子駅の推しは何か?

 まず改札内には信玄餅で有名な山梨の代表的な菓子メーカー「桔梗屋」さんが出店した「桔梗信玄餅」、キオスクには地元のお菓子である「高尾ポテト」と並んで、横浜の代表的なお土産菓子である「横濱ハーバー」があるではないか。改札外のスペースには地元多摩地区だけではなく、山梨の生産物も扱う「やまたまや」さんというアンテナ物産店まである。

 他の駅では地元のお土産が並ぶ場所に、八王子駅ではなぜか山梨と横浜のお土産が並んでいるのだ。
 これはJR八王子駅が横浜線と甲府方面に向かう中央線のターミナル駅であるということもあるのだろう。しかし、山梨と横浜の物産が並んだ駅風景というのが、実に八王子の歴史を表しているとも言える。
 その歴史の一端は、駅から出てバスターミナルからまっすぐに伸びる「桑並木通り」からも読み取ることが出来るだろう。
 世界的にも珍しい桑の木を街路樹にした通りだが、これは八王子が「桑都」(そうと)と呼ばれたことに由来している。

「桑都」、つまり桑の木の都という意味である。
 東京の多摩地区や山梨では耕作地が少なく、古くから蚕から繭を取る養蚕が盛んで、繭から作られる生糸、それを機織りで作る絹織物の一大生産地であった。
 八王子はこうした地域と江戸を結ぶ甲州街道の大きな宿場町であったため、毎月4のつく日と8のつく日には市が立ち、取引や集積、仲買などの場所として経済的に栄えた歴史がある。

▲織物商談取引 大正15年八王子市役所編集・発行「八王子」より

 桑の葉はこの繭を生み出す蚕の食糧であり、多摩地区や山梨の山間部には養蚕農家の桑畑が一面に広がっていたのだ。その桑によって栄えた生糸と織物の中心地ということで、八王子は「桑都」と呼ばれたのである。

 明治に入ると、この蚕から作られる生糸や絹は日本経済を支える最大の輸出産業になり、外貨獲得に大きく貢献する。そのため、イギリスから購入した軍艦などの活躍で勝利したことから、日露戦争は蚕によって勝利したと見る研究者もいる。
 八王子は山梨方面から来る生糸を、海外に輸出するために横浜に向けて一時集積する場所としても重要度が高まり、その輸送のために中央線(旧甲武鉄道)や横浜線(旧横浜鉄道)が作られたと言って良いだろう。つまり、生糸の輸出を通して、八王子は山梨や横浜と密接に結びついていたのである。
 八王子駅に山梨と横浜のお菓子が並ぶのも、こうした生糸や織物の歴史を知っていれば、当然に思えてくる。

 続いて、駅から古本まつりが行われている西放射線ユーロードを歩いて、かつての八王子宿の中心である八日町方向へ向かう。

▲国土地理院サイトより(出典

 西放射線ユーロードは、駅から直線500mほどの歩行者専用道路で、「古本まつり」が開催されていない時期の写真を下に。
 そのまっすぐさと長さがよく分かると思う。

 この道は戦後の復興計画の中で生まれた歩行者専用道路。
 八王子は太平洋戦争中の1945年8月2日に大規模な空襲を受け、市街の80%を焼失する被害を受けている。駅の周辺は焼け野原と言っていいほどであったらしい。
 西放射線ユーロードにあるお仏壇の「喜久屋」さんには、この八王子空襲の際にある瀬戸物屋さんの蔵で、何とか焼け残った強運の招き猫が当時のままで展示されている。
 戦後の八王子復興の守護神のような風貌、さすがに戦火をくぐり抜けてきた猫だけになかなかの面構えである。首を垂れて、いくばくかのお賽銭を入れる。

 しかし、駅周辺の大部分が焼失したとはいえ、都市計画でここまで長い歩行者専用道路ができるのもすごい。
 こうした大きな道路には、八王子で隠然たる力を持つ「旦那衆」の力があるとも言われている。
 この「旦那衆」を理解するために、下の明治29年陸軍陸地測量部が作成した地図を見てもらいたい。特に市内の甲州街道沿いの付近である。

▲著者蔵

 前の地図の所有者の書き込みがあるのはご容赦していただいて、右下端の方に「八王子停車場」とある文字が見えると思う。
 まだ現在の中央線はなく、明治22年に新宿―八王子間を結ぶ甲武鉄道が開業したばかりで、「八王子停車場」はこの甲武鉄道の駅である。
 画像真ん中の道に「横山町」「八日町」とあるが、ここが甲州街道(今の国道20号線)で、黒で示されているのは街道沿いに建物が立ち並んでいたのを示している。
「八日町」はその名の通り、生糸の市が毎月4日8日に立った名残の地名で、ここが八王子の養蚕、生糸、織物に関わる商売の中心地であった。近代に入ってもこの甲州街道沿いの「八日町」は織物業の中心地であり続け、そうした問屋や商店の主たちによって八王子経済は支えられてきたと言っていいだろう。
 この織物業の問屋や商店主たちこそが、「旦那衆」なのである。
 織物業は機屋と呼ばれたため、「機屋の旦那衆」と呼ばれることもある。
 特に戦後は衣服が不足していたため、機をガチャンと織るだけで万のお金が儲かると言われ、「ガチャ万」と呼ばれるほど景気が良く、「機屋の旦那衆」たちが所属する織物組合は、八王子の経済や地方行政に大きな影響力を持ち、「機屋政治」と呼ばれたほどであったらしい。

▲織物組合の建物 大正15年八王子市役所編集・発行「八王子」より

 1950年代の戦災復興土地区画整理事業で、こうした「旦那衆」は自らの拠点である「八日町」への移動の利便性から、市役所や市議会などに働きかけ、まっすぐで長い「西放射線道路」が作られたと言われている。地方行政レベルの都市計画では、こういう地元の利害関係が大きく作用することもあるので、あり得る話だろう。

 1980年代を境にこうした「旦那」たちの稼業である織物業は衰退傾向を見せ始め、一部はネクタイなどの別の服飾産業などへの転身もあったようだが、今では織物業は廃業というケースも多い。ただ、旧甲州街道沿いの八日町や横山町を歩けば、看板や店名からかつて隆盛を極めた織物や呉服店の勢いを感じることはできる。

 現在では八王子の商業圏は、甲州街道沿いの商店街と駅周辺の商業エリアは二極化し、甲州街道沿いはかつてよりも小さくなっているが、「旦那衆」たちがいなくなった訳ではない。かつて店舗などがあった土地を利用したビルや商業施設オーナーなどになった者も多く、古くから築いた人脈や政治力を維持し、その影響力は隠然たるものがある。

 その「旦那衆」たちの影響力を垣間見えるものが、「西放射線ユーロード」に隣接する中町で見ることが出来る。

 中町は小さなスナックなどがならぶ、大きな駅前などではよく見かける飲食店街である。

 しかし、通りから路地に入ると、少し雰囲気が違う。
 墨色の塀、「黒塀」が並んでいるのである。

 近代的な防腐剤クレオソートが出来る以前、日本では渋柿に灰墨(煤玉や松煙)などを混ぜたものを木材に塗る「渋墨塗り」(渋柿塗り、渋塗り)という技術が広く普及していた。この渋墨塗りによって染められた「黒塀」は、ペンキのようなものがなかった江戸時代の街の景観を特徴づけるものであったため、江戸情緒を景観に生かそうとする街づくりなどで、「黒塀」を復活させるプロジェクトは全国に多数存在している。
 では、なぜそんな「黒塀」の街並みがここに整備されているのか?
 八王子の中町と隣接する南町は大きな花街(茶屋、料亭、芸妓置屋などがある花柳地区のこと)であり、大正15年に八王子市役所が編集・発行した「八王子」によれば、「待合は中町、南町、元横山町に散在し、藝妓屋は多くは中町に在って現在百二十一人の藝妓を抱へ客の招聘に応じてゐる」と紹介されているほどである。
 つまり、かつて「機屋の旦那衆」が隆盛を誇った時代には、中町でお客の接待饗応などが行われ、花柳界もその恩恵で大きく潤っていたのである。
 しかし、織物業の衰退にともない八王子の花柳界も低迷していき、昭和の終わりには消滅の危機にさらされていたが、平成に入って芸妓衆の中から熱心な再生運動が始まり、復活の気運が盛りがったのである。

 こうした芸妓衆の行動を支えたのも「旦那衆」で、平成19年に民間有志による「中町地区まちづくり協議会」の準備会を発足させ、行政にも条例の制定などを働きかけ、公的な支援を得られる体制を取り付けたらしい。
 古くから続く花町は、独特の建築と路地で形成されているが、その中でも「黒塀」は花町らしい景観であるため、「八王子花街・黒塀通り」として黒塀による景観整備が行われたのだ。
 ただ、現在の建築に全て渋墨塗りの「黒塀」を設置するのは難しい。そのため、ブロック塀や、シャッター、建物の壁面を黒く塗るなどして、なんとか「黒塀」の雰囲気を出そうとしてるところもある。

 私としては、こういう擬似的な「黒塀」の方が面白く感じてしまう。

 伝統と政治的力関係と現実的な町並み整備が錯綜する空間として、なかなか見どころがある。

 しかし、八王子で見るべき「黒塀」は、この中町の「黒塀通り」だけではない。
 西放射線ユーロードを抜け、甲州街道沿いの八日町を越え、さらに北に向かう。

 みずき通りを歩き、北大通りを東へ向かい、元横山一丁目の細い道から北に向かう。
 しばらく歩くと、いきなり大きな幅の道が現れる。

 この道路がある付近の地図を下に。

▲国土地理院サイトより(出典

 地図中央にまっすぐな大きな道が伸びているのが分かると思うが、この道路は大きな幹線道路につながってはいない。周辺に大きな工場や車両が大量に行き来する施設もない。将来的にバイパスなどが建設されるという計画途中の道路でもない。
 では、この道路はなんなのか?
 大正時代のこの道を撮影した写真を下に。

▲かたくら書店新書 「八王子遊郭の変遷」わだち編 平成元年刊

 実はこの道は、明治30年に発生した八王子大火の後、明治32年に甲州街道沿いに点在していた貸座敷の移転先として作られた「田町遊郭」(八王子遊郭)の大門から伸びる大通りだったのである。
 昭和5年刊「全国遊郭案内」によれば、「田町遊郭」は「貸座敷十四軒、娼妓百人位」という規模の遊郭。
 大正元年「八王子町全圖」に記載された「田町遊郭」を下に。

▲国会図書館デジタルアーカイブ(出典

 この図を見ても分かると思うが、四角の区画が堀に囲まれており、入口の大門からまっすぐに大通りが伸びている。そこに貸座敷がびっしりと並んでいたのだ。こうした建物の配置や道の作りは、吉原などと同じ遊郭のスタンダードと言える。
「田町遊郭」は八王子からのお客だけではなく、高尾山観光の客なども訪れる遊郭で、敗戦直後は日本に駐留するアメリカ軍兵士が殺到するなどの数奇な歴史を歩んだが、昭和33年の売春防止法の施行で解体されている。その後は自転車の競技場などが作られたが、今では倉庫や業務スーパーなどがあるが、それ以外は一見静かな住宅地に見える。

 しかし、歩いてみると、いくつか古い建物が残っている。
 現在では貸倉庫や住宅として使用されているようだが、これらはかつて遊郭だった建物と思われる。

 東京で、本物の遊郭建築が残っている場所は、ほとんどない。
 周囲は大きく様変わりしていても、遊郭のランドスケープや建物が残っているのは本当に希少である。
 そして、ここにも「黒塀」が。

 中町の黒塀が、現代の街並みにかつての花街をどうにか再現したいというものならば、こちらの黒塀はすでに消え去った遊郭の痕跡が辛うじて残っているものと言えるかと思う。

 現代的な街づくりの中で復活させようとする「黒塀」と、すでにない遊郭の匂いを残した「黒塀」。
 この二つを見比べるだけでも、八王子を歩き見る価値があると思う。

[了]

この記事は、PLANETSのメルマガで2021年11月18日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2022年7月14日に公開しました。
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