20代の頃、バイトで浜松町付近によく通っていた。
 大学を卒業しても就職はせず、金はないけど暇だけはあったので、バイトが終わるとこの辺りで遊んでいた。
 とはいえ、浜松町は当時からビジネス街だったので、20代フリーターの私が遊ぶような場所はそれほどなかった。
 駅前にはサラリーマンの集まる飲食店はたくさんあったが、そういう店に入るのもなんとなく気が引けた。一つ向こうの駅である田町には、90年代バブルを象徴するかのようなディスコ「ジュリアナ東京」もあったが、あまり興味もなかったし、そもそもそんなところに行けるような金もない。
 JR浜松町駅前にある世界貿易センタービルに入り、地下にあった飲食店街でカレーを食べ、2階にあった大型書店「文教堂」で本を物色し、お金に余裕があるときはビル40階にあった展望台シーサイドトップに登り、夜の東京をボーーっと眺めてもしていた。
 しかし、貿易センターに通うのも限度がある。そこで、金はないが暇と体力が余っていた私は浜松町を中心に歩き回り、人の流れや街の景観を観察するようになっていった。
 そういうことを始めてみると、街並みや建造物の背後にいろんな歴史や都市計画者の意図があると認識し始めた。特に浜松町から芝地区は、東京の中でも歴史的なものが密集している地域なのでそういう歴史や意図が読みやすくて面白い。
 20代の私はやがて都市観察に熱中するようになっていき、こういう連載をやるくらいにハマって、今に至るという訳である。
 そう考えると、浜松町は私の街歩きの原点であるような気がする。
 そこで久しぶりに芝界隈を歩いてみることに。

 JR浜松町駅を降りる。目前には浜松町のランドマークであった世界貿易センタービルが見える。前述したように、このビルの展望台にはよく通ったが、今は昇ることが出来ない。

 1970年に完成し、当時は日本一高さである40階建て152メートルの超高層ビルであった世界貿易センタービルは、この地区が都市再生特別地区(自由度の高い開発が土地利用が行われる地区)に指定されたことにより再開発が始まり、新たなビルを建設するために現在の建物は解体工事が行われているためである。
 超高層ビルの解体としては日本最大になるらしく、超大型のジャッキで持ち上げて一階づつ壊しては下げていく「だるま落とし」のような「鹿島カットアンドダウン工法」が採用されている。
 かつては高層ビルの解体は非常に難しく、期間も長くかかり、周辺に大きな影響が出るのでは? と言われたが、この工法だと穏やかかつ効率的に解体ができるらしい。
 その証拠に貿易センタービルの隣にある「日本生命浜松町クレアタワー」(2018年竣工、地上29階、地下3階、高さ156m)との距離も結構近い。この近さでも解体ができるのか! という感じ。

 かつて、何度も訪れたビルがなくなるのも悲しいが、こういう大規模で最新の高層建築物解体技術が見れるのも面白い。
 そこから第一京浜(国道15号線)を渡って東京タワーや増上寺方面に向かうと、何やら地面にめり込んだ怪しいものが。

 瓦屋根でかなり瀟洒で和風なデザインの公衆便所である。
 正式な名前は「大門脇公衆便所」。こうした半地下型の公衆トイレはけっこう昔の形態で、昭和の頃にはあちこちにあったが、最近は姿を消しつつある。ここはその数少なくなった地下公衆トイレの一つである。
 地下に造ることで臭いを多少なりとも封じめるためであったと聞いているが、事実、このトイレが建設されたのは昭和7年とのこと。その頃は「大門通不動銀行前街道便所」と呼ばれていた。
 そして、このトイレがある芝大門交差点には、この地区を象徴する建造物である増上寺大門がある。

 区道の上に立脚するという都内でも珍しい門で、当然その下を自動車が行き来している。車二台が並んでも余裕ある広さだが、ドライバーの中にはちょっとこの狭さに恐怖を覚える人がいるかもしれない。
 しかし、この大門、実はこれでも新たに大きく広くして作り直されたものなのである。そもそも現在の大門は、徳川将軍家の菩提寺であった増上寺の惣門(敷地の外郭にある最も大きな入口の門)があった場所に造られている。

▲江戸時代の増上寺惣門。大門脇の案内板より撮影

 江戸時代に徳川家と関係が深かった増上寺は広大な敷地を有していたが、明治維新後はその徳川家の関係故に寺領の多くが上地(土地の没収)を命じられている。
 それまで広大な寺領を有していた増上寺だったが、これにより経済的に厳しい状態という事情もあり、明治11年頃に東京府にこの門の寄付を行ったらしい。
 寄付後もこの旧惣門は昭和11年までは残されており、大正・昭和に活躍した川瀬巴水が昭和11年ごろの門を描いているが、これを見ると現在の門よりも小さかったことがよく分かる。

▲案内板より。著者撮影

 しかし、昭和に入ったことで自動車が増え国道整備が始まると、この門は通行上のボトルネックになっていると判断されてしまう。そのため、昭和12年に道路拡張のために門は撤去、両国の回向院に移築されることが決定したのである。
 この両国に移築された増上寺の旧門は戦争で焼失し、見ることが出来ない。現在の回向院には、新たにコンクリート製の門が造られている。

▲現在の両国回向院の門

 しかし、門は当時から芝のランドマークであり、観光名所であったため、従来のデザインをなるべく踏襲する形で東京市土木建築課が設計し、安藤組が施工。高さと幅を1.5倍にした鉄筋コンクリート製の高麗門として新たに作り変えることになったのである。

  門の下には、これまで成立経緯などの案内板や改修工事などの記念プレート板が貼り付けられているが、中でも「大門沿革広碑版」というプレート版に注目してみる。

 ここを読むと、この新たなコンクリート門建設の建設総工費は2万円だったが、特に不動貯蓄銀行の協賛の元に多くの市民の寄付もあったと記述されている。そして、このプレート自体が昭和33年に全国不動会という組織が設置したとある。
 先ほどの「大門脇公衆便所」も、元々は「大門通不動銀行前街道便所」と呼ばれていることも記したが、この大門の周りには「不動貯蓄銀行」という銀行の名前が散見できる。
 そういう場合はまず古い地図で周囲を見るのがいいだろう。
 昭和16年の「大東京區分図」の「芝區詳細図」を見ると、道路上に立脚した大門の道路向こう側に銀行の地図記号(江戸時代の両替商の分銅を使った秤の図案化)、横に「不動」と書かれていることが分かると思う。

 現在はこの場所に昭和電工株式会社の本社があるが、かつてここには一世を風靡した庶民金融の雄である「不動貯蓄銀行」の本店があったのである。
 「不動貯蓄銀行」は明治33年に設立、預金者に対して外交員が積極的に勧誘を行う営業スタイルで、全国規模で展開した銀行である。戦後に他行と統合を繰り返したが、現在の「りそな銀行」の源流の一つである。
 この銀行のユニークさは、そのバックに財閥などが存在せず、頭取であった牧野元次郎という怪人物のユニークでカリスマ的な経営で成り立っていたことだろう。
 他の銀行とあまり繋がらず、有価証券などの保有も国債がほとんど、外交員が毎月預金者を個別に訪問し預金や貸付などを相談し、徹底した庶民金融に全ての力を注ぐという、当時としてはかなり独自な経営であったらしい。
 しかし、それでも当時の巨大銀行に負けない貯蓄額を誇ったというから、相当なものだろう。頭取の牧野元次郎は、大黒信仰から発した「ニコニコ主義」「ニコニコ宗」と称している貯蓄や勤勉を良しとする運動を展開しており、定期積金を「ニコニコ貯金」、貯蓄額を上限とした無担保貸付を「ニコニコ貸付」、「ニコニコ」という雑誌を刊行し、自ら「ニコニコ倶楽部」なる組織を設立していた。

▲国会図書館デジタルコレクション (出典

 一貫した「ニコニコ」づくしの怪人物。
 しかし、この「ニコニコ」な銀行頭取は、かなりの経営手腕の持ち主で、庶民金融第一主義を貫き通したことで知られている。関東大震災後に政府が銀行に対して預金払い戻し猶予を命じ、自らも大きな被害を受けていた銀行のほとんどが預金の払い戻しを停止したが、ただ一行だけ、この牧野率いる不動貯蓄銀行だけが払い戻しに応じために庶民から圧倒的な信頼を得たという逸話も残っている。
 例えるならば、マイクロクレジットで有名なクレジットノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスのグラミン銀行の先駆けのような経営で、大銀行に並ぶような成果を上げていたと言えるのかも。
 この日本銀行史の中でも、かなり特異な銀行家であるこの牧野元次郎は、銀行本店のある地元のため、 新たな大門建設の総工事費2万円に対して、その半分以上の1万千円を寄付したのである。
 つまり、予算の半分以上を出したということになる。そう考えると、この芝の大門は、かつての徳川将軍家の菩提寺であった増上寺の往時の隆盛を偲ぶ建造物と言えるかもしれないが、庶民金融を貫いたニコニコ銀行王である牧野元次郎の心意気を示すモニュメントと言えなくもない。
 ちなみにこの牧野元次郎と不動貯蓄銀行の痕跡は、芝にもう一つ。 この大門の通りから離れるが、芝大神宮の石段下にある「貯金塚」という石碑である。

 牧野が推進した「ニコニコ主義」の根幹だった大黒様が描かれ、作家である武者小路実篤の筆で「根気根気何事も根気」という文字が刻まれている。
 この石碑の由来書がその横にあり、震災時に払い戻しを断行した不動貯蓄銀行と牧野の故事が書かれてる。最後の「倉は焼けても貯金は焼けぬ」が、貯金を一貫して推奨した牧野の「ニコニコ主義」を感じさせる。

 こちらも大門の「大門沿革広碑版」と同じく、不動会という組織が設置したものだが、不動貯蓄銀行のOB行員たちの集まりであるとか。
 港区の芝は増上寺を中心に寺院が並び江戸時代の匂いを残した土地と言われるが、こうした牧野元次郎の痕跡を見ていくと、芝は日本の近代庶民金融の歴史が濃厚に残った土地とも言えるだろう。

(後編に続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2022年4月19日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2023年3月2日に公開しました。
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