NHK出版の編集者・井本光俊さんが「暮らし」や「自然」にまつわるおすすめの本を紹介する連載「井本文庫」。今回ご紹介するのは、野田知佑『日本の川を旅する』。カヤックを使った川旅を日本に広めるきっかけとなり、バイブル的な役割を果たした一冊です。井本さんは、本書の魅力は川旅の体験がもたらした散文的な文体にあると語ります。
端的に言うとね。
この書評コーナーでは、暮らしにまつわる本を紹介しています。アウトドアとか自然とか、そういったものを含めた「暮らし」です。今回は、『日本の川を旅する』という本を紹介させていただきます。いま50歳代以上の人間で、日本でカヤックを使って川旅・リバーツーリングする人間は、だいたいみんな、この本の影響を受けていると言っても言い過ぎじゃないと思いますね。そもそも、カヤックを愛好する人たちこそいまでもいますが、カヤックで川旅をするって人はほとんどいなくなってますけどね。絶滅したスタイルと言えるかもしれない。1980〜90年代には、フジタカヌーとかのファルトボート(折りたたみ式カヤック)を背負って、日本中の川を旅している人たちがいたんですね。この本は1983年刊行で、著者は野田知佑さんという方です。「知ってるわ!」って言われそうですが、知らない人向けの紹介ですので、知っている人はこの先、とくに目新しい話はなにもないです(笑)。あ、でも、自分なりに感じる「文筆家」としての野田知佑の魅力っていうのは昔から思うところがあって、そこは「知ってるわ!」って方にも投げかけてみたいところですね。
で、知ってる人はあたりまえに知ってる野田知佑さんなんですけど、説明しますね。野田さんは、もともと若い頃に雑誌のライターをしていたんですね。それで、競技カヌーの取材をきっかけに、遊びとしてカヌーやカヤックをしている人たちが日本にいることを知ります。学生の時に競技カヌーをしていた野田さんですが、遊びでカヌーをするということに興味を持って、彼らといっしょに川に出かけるようになったそうです。そのうち野田さんは、テントを持って川を下り、河原に泊まってはまた川を下るという、川旅のスタイルをとるようになってきたそうです。そんな川旅の紀行文をまとめたのが、この『日本の川を旅する』です。この本では、日本の14本の川を下った紀行が並んでいます。目次は北から順番になっていて、釧路川、北上川、信濃川、長良川、熊野川、四万十川など名河川が並んでいたり、ちょっと変わり種で多摩川も取り上げられていますね。その年の日本ノンフィクション賞新人賞を受賞するなど、この本は評判を呼び、野田さんが世に知られるきっかけとなります。と同時に、この本は、日本にカヤック川旅をひろめた、記念碑的な本と言えます。この本に感化されて、多くの人たちが、カヤックを背負って全国の川を旅するようになったんですね。僕はそんな人たちよりは世代はちょっと下なのですが、やはりこの本の影響もあって川旅をするようになりました。この本や、書き続けられる彼の川旅の紀行文を夢中で読み続けましたね。野田さんはその後、ユーコン川を中心とした海外での川旅、作家・椎名誠さん界隈との怪しい探検隊、「カヌー犬」たちとの川下り、長良川河口堰反対運動など、さまざまな活動の局面を織り交ぜつつ、今日まで日本の川を旅し、紀行文を発表し続けています。
そんなわけで、彼の川旅は多くの人を魅了したのですが、知ってる人は知ってるとおりです。で、最初にちょっと言った、「文筆家」としての野田知佑の魅力ということなんですけど、僕は、なにより文章の締め方にそれがあらわれていると思うんですね。この本で言えば、たとえば日本でいちばん長い川・信濃川(千曲川)の川旅7日間分の旅の細部をゆっくりと記述していた文章が、フッと、〈漕ぐ手を休め、背もたせをはずして、体をのばし、あお向けになる。/船は渺々とした信濃川を漂いつつ、ゆらゆらと下った。〉(〈〉内引用)と、とつぜん終わったりするんです。魅力的な旅程のディテールを記していたのが、けれどあっさり消えるように終わるんですね。信濃川はまだちゃんと終わっている方で(笑)、この本ではありませんが、魅力的な川旅の紀行文が突然、「疲れたので、ここで川を上がり旅を終えた」で終わるような文とか、衝撃を受けましたね。文章を締めるときに書き手が滲ませてしまうナルシシズムがまったく無いんですね。僕はこれは、川旅の擬態なんじゃないかと思うんです。それが海であれば、あるいは山であれば、また違うのではないかと思います。川旅がもたらしたこの散文性こそ、文筆家としての野田さんの魅力だと僕は思っています。ということで、今回は野田知佑『日本の川を旅する』を紹介させていただきました。
[了]
※この記事は、2019年12月26日に配信されたPLANETSのインターネット番組『水曜解放区』内のコーナー「井本光俊、世界を語る」の放送内容を再構成したものです。石堂実花が写真撮影をつとめ、2021年7月15日に公開しました。
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