勇者シリーズ(1)「勇者が剣を取る前夜、神を超える人」

前回ではビーストウォーズというシリーズを通じて、動物というモチーフにどのような想像力が与えられていたのかを扱った。もともとトランスフォーマーは、日本の玩具を自動車/銃をリーダーとして再編集することで、そこに理想像としてのアメリカン・マスキュリニティを託したのであった。ビーストウォーズでは、動物というモチーフを導入することで、エコ思想をはじめとする90年代のトレンドに対して、新しいかっこよさを提案することに成功した。しかし特にアニメーションの脚本については、旧来の価値観の重力から完全に自由になることは難しかったと、いったんは結論づけた。

ビーストウォーズが内包していた芳醇と混沌は、世紀末におけるアメリカン・マスキュリニティのひとつの到達点であり、20世紀という時代における限界を露呈するものだ。考え方によっては、この想像力をうまく21世紀に接続できなかったことが、映画版トランスフォーマーにおけるアップデート不全の遠因とも言えるかもしれない。
我々は80年代から21世紀に至るまで、トランスフォーマーがどのようにアメリカン・マスキュリニティを変奏させてきたかを確認してきた。ここからは、日本においてトランスフォーマーの想像力が――人間と機械の関係がどのように変化していったのかを見ていきたい。

少年とロボットの8年間

日本ではこの想像力は、一般に「勇者シリーズ」と呼ばれる別のシリーズへと受け継がれた。これは1990年の『勇者エクスカイザー』から1997年の『勇者王ガオガイガー』まで8作品が制作されたタカラの玩具シリーズで、サンライズによるTVアニメシリーズと手を組んだ企画だった。これらの作品の権利は現在ではバンダイナムコホールディングスへと引き継がれており、30年が経過した現在でも商品がリリースされ続ける人気シリーズである。

 

▲勇者シリーズの主役ロボ一覧。8作品8体が並ぶ。 『勇者シリーズデザインワークスDX』(玄光社)p2

前提として、全8作品作られた「勇者シリーズ」は基本的に世界観の繋がりを持たず、すべてが独立した作品となっている。登場人物とロボットの関係や、敵対勢力の位置づけもそれぞれまったく異なっている。一方で、「少年」と「ロボット」の関係というおおまかな主題は共通している。20世紀末の日本における理想の成熟の物語という本連載の主旨に照らして、勇者シリーズはその完成形のひとつといえるだろう。

勇者シリーズの8作品は「少年」と「ロボット」の関係をさまざまに展開していった。その関係を追っていくことで、成熟のイメージにまつわるバリエーションを網羅していくことができるだろう。まずはその前日譚として、80年代末におけるトランスフォーマーの日本独自展開を整理しておきたい。

頭からエンジン、知から魂

この時期、トランスフォーマーは日本独自の映像作品を用いて、日本市場向けの再ローカライズを行っている。1987年の『トランスフォーマー ザ☆ヘッドマスターズ(以下『ヘッドマスターズ』)』、1988年の『トランスフォーマー 超神マスターフォース(以下『マスターフォース』)』、1989年『戦え!超ロボット生命体 トランスフォーマーV(以下『トランスフォーマーV』)』の3作品がアニメーション作品として制作された。この後1990年に『トランスフォーマーZ』も展開されているが、こちらは映像がOVAであること、また物語的にも人間とのかかわりが希薄であることから、いったん例外として置いておきたい。これらの作品は、徐々にアメリカ的な想像力──トランスフォーマーという一定の人格と身体を持つ異星人──を離れて、日本的な独自の創造力を表出させていく。

『ヘッドマスターズ』はすでに扱ったように、小さなフィギュアが頭部に変形して合体、ひとつのトランスフォーマーとなるシリーズである。物語的には、地球を代表する人間と異星人としてのトランスフォーマーの交流を描く従来のトランスフォーマーに近い構造となっている。

『マスターフォース』は人間を中心に据え、人間がトランスフォーマーと合体することで戦う設定である。これは基本的には人格を持ったロボットであり続けてきたトランスフォーマーとしては異色の作品と言えるだろう(従来型のトランスフォーマーもある程度登場する)。しかし明確な主体と身体を持つ異星人、という想像力自体がアメリカ的なものであったとするならば、これは変身ヒーローなどの成果を取り入れた、日本的な想像力への回帰とも言える。家族や天地人といった要素も導入され、人間こそがもっとも強い、という価値観が全面に打ち出された点は、トランスフォーマーとしては画期的であった。

▲『トランスフォーマー超神マスターフォース』 DVD-SET1(出典

1988年の超越、引き継がれる偉大

実はマスターフォースが展開された1988年は、ロボット玩具史的には極めて重要な年である。なぜならそれは、1号ロボに2号ロボが合体して強化される形式が本格的に確立された瞬間だからだ。
この年、マスターフォースにて発売された商品「ゴッドジンライ」は、トランスフォーマーにおいて主役的な活躍を見せるスーパージンライと、その支援ロボットであるゴッドボンバーが合体しゴッドジンライになるというものだ。

 

▲スーパージンライ、ゴッドボンバー、ゴッドジンライ。エポックメイキングな玩具。 トランスフォーマージェネレーション デラックス ザ・リバース:35周年記念バージョン(メディアボーイ)p42

同じ1988年、東映の特撮ドラマ「スーパー戦隊シリーズ」においても同様の構成で、ライブロボに別のロボットであるライブボクサーが合体する「スーパーライブロボ」が発売されている。あるロボットが分解された別のロボットを「着込む」という形式は、前年である1987年に発売された「聖闘士聖衣」の大ヒットに影響を受けているとも言われる。本当にゴッドジンライが初出であるかは議論の余地もあるものの、ともあれこうした形式のロボット玩具が広く人気を集めたのが1988年であったことは間違いないだろう。

またスーパージンライが海外で発売された商品の日本向け仕様変更品であり、ゴッドボンバーは日本側で付け加えられたものであること、ライブロボの合体も玩具設計段階では予定されていなかったものであることは奇妙な符号として述べておく。

こうした「1号ロボと2号ロボの合体」は後に勇者シリーズにも取り入れられ、ひとつの様式として定番化していくことになる。この形式についてはさまざまな一般的呼称があるが、ここでは勇者シリーズとの関連に重きを置いて「グレート合体」と呼ぶことにしたい。

どこまでも続く「ジンライ」と魂のありか

グレート合体に宿った想像力を考えるために、まずはスーパージンライとゴッドジンライの玩具について整理していきたい。

前提として、「スーパージンライ」という名称は日本独自のもので、海外展開では「パワーマスターオプティマスプライム」となっている。かつてのオプティマスプライム=コンボイが時を経て復活したという設定は重要なイベントではあるのだが、トランスフォーマーを主体としてそこに別人である小さな協力者=パワーマスターが合体することで力を貸すという解釈については、ヘッドマスターズの段階ですでに論じたものとそれほど大きく異なるわけではない。よってここでは日本版の解釈に注目していきたい。

用語がいささか複雑なので、まずは玩具の仕様から確認しよう。ゴッドジンライという玩具は、一種の入れ子構造になっている。小フィギュア(ロボットのように見えるが設定的には人間の強化スーツ)である「マスターフォース」が変形し、エンジン状の「アイアコーン」となる。これが車両前部(トラクタに相当する)に合体することでロックが解除され、「ジンライ」という人形ロボットに変形することが可能になる。そしてジンライは車両後部(トレーラに相当する)と合体し、さらに一回り大きいロボット「スーパージンライ」を形成する。そしてこのスーパージンライに、ゴッドボンバーが分離したアーマーを組み付けることで完成するのが「ゴッドジンライ」である。

『超神マスターフォース』の作中においては、「マスターフォース」を着用したキャラクターが変形する「アイアコーン」は「魂」と位置づけられている。この言葉遣いは、本連載における「魂を持った乗り物」という概念と結びつけられる。

「魂を持った乗り物」とは、主体を拡張していく過程で、拡張部分が分離し徐々に主体性を獲得していくこと、そしてその結果複数化した主体が曖昧に相互作用して大きな主体として振る舞うことを、日本的な主体観・身体観として指摘した概念だった。主体とその拡張部分の距離感と関係を見ていくことで、日本の世紀末に発展した玩具的想像力をよりよく理解することができると本連載では考えている。

その視点から、ゴッドジンライについて考えていこう。まず特筆すべきは「ジンライ」というキャラクター名が、明確な主体を持った人間であることだ。先ほど小ロボットを指して「マスターフォース」と呼んだが、これはジンライという人間がまとった強化スーツであり、カテゴリ名である。仮面ライダーにたとえるなら「本郷猛」が「ジンライ」に相当し、「マスターフォース」は「仮面ライダー」ということになる。そう考えれば、マスターフォースをまとったジンライがアイアコーンとなって車両に合体、人型ロボットとなった姿もまた「ジンライ」と呼ばれることは、かなり興味深い呼び方であることがわかるだろう。

ヘッドマスターズの時点で論じたように、西洋的な価値観において、主体と身体は基本的に一致している。身体は神の似姿であり完全なものなのだから、それを分割したり拡張することはできない、という感覚が根底にある。それゆえに、海外展開では、トランスフォーマーという人型身体と、パワーマスターというもうひとつの人型身体には、別個の主体が与えられなくてはならなかった。

しかし日本展開におけるジンライはそうではない。人間であるジンライ、ロボットとなったジンライ、そしてそのロボットをさらに拡張したスーパージンライおよびゴッドジンライは、すべて「ジンライ」という主体として違和感なく扱われる。そしてそのアイデンティティの核にあるのは、アイアコーン=魂なのである。

人と魂

アニメーション作中においても、魂の存在は重要なものとして描かれる。

『超神マスターフォース』において重要な概念のひとつが「超魂」という概念だ。このパワーは作中最大の力を持つものとして描かれており、「天超魂」「地超魂」「人超魂」の三つが存在する。このうち「人超魂」は純粋なトランスフォーマーには扱えず、人間のみが発揮することができるため、このすべてを使うことができるのは人間だけである。ゆえに人間こそがもっとも強い──というロジックが展開される。

実際に、本作最大の敵である「デビルZ」は強大な力を持った精神エネルギー体であるが、「天超魂」と「地超魂」を持ちながらも「人超魂」を持たないゆえにゴッドジンライに敗北する。デビルと名付けられてこそいるものの、作中では神と関連付けられる超越的存在だ。その意味で、『超神マスターフォース』は人間による神殺しの物語であり、「超神」「ゴッドジンライ」といったネーミングには、こうした人間を中心にした強力な価値観が反映されているといってよいだろう。

一方で、『超神マスターフォース』における「魂」の概念、またトランスフォーマーにおける魂的な概念であるところの「スパーク」、そして本連載における魂の定義には差があることも明確にしておかなくてはならない。

このことは、ゴッドボンバーの扱いを例に取ることで理解しやすくなる。スーパージンライを強化する「2号ロボ」であるところのゴッドボンバーは、アニメーション作中では意志を持ちながらも言葉を発さない存在として描かれていた。設定としてジンライの超魂パワーがなくては駆動できず、その意味では「魂を持たない」存在として扱われている。作中でも、ジンライからの超魂パワー供給を受けられなくなった際は行動不能となっており、別のキャラクターが乗り込み超魂パワーを与えることで動くことができる展開が描かれた。そう考えれば、スーパージンライをゴッドボンバーが強化しゴッドジンライとなった際も、魂はジンライのものであるわけだから、あくまでジンライが強化された姿であることもスムーズに納得できる。『超神マスターフォース』の世界観においては、どこまでも主体は「魂」が持つものなのだ。

また、後にトランスフォーマーにおいても魂的な概念は「スパーク」というかたちで確立された。これは海外側から提出されたもので、スパークに主体の本体があり、これが身体と分離可能にであることを示した概念だ。しかしスパークを介した主体と身体の描かれ方というのは、例外もあるにせよ(たとえば愛し合うふたりのスパークがひとつの身体に入った『ビーストウォーズメタルス』におけるタイガーファルコン)、基本的には身体の「交換」や「転生」であって、主体そのものの拡張や、主体同士の相互作用はあまり描かれない傾向にある。これはやはり西洋的な主体観がベースになっていると言えるだろう。

そう考えれば『超神マスターフォース』の世界観には、和洋の概念が入り乱れていることに気づく。人間中心の世界観や神(デビルZという名称も含めて)への反逆といったテーマは西洋的なニュアンスを持ちながら、魂の概念は日本的であるし、天地人はもともと古代中国に端を発する考え方だ。トランスフォーマーというブランド自体が、日本の玩具を海外の文脈で捉えるという「和才・洋魂」であったとしたら、『超神マスターフォース』は日本文化と西洋文化を改めて統合した「和魂・洋魂」であった、という言い方もできるだろう。トランスフォーマーを支配していた「神=西洋的スキーム」を超える「超神」は、そのふたつの魂を人の営為として統合してこそなる──というのは、さすがに牽強付会にすぎるかもしれないが。

『超神マスターフォース』はかなり多面的な作品で、本来であれば聖闘士星矢との関連性や、家族というモチーフについて、また国際色豊かなキャラクターと特に敵陣営の立体的な描写なども論じる必要があるのだが、いったんはゴッドジンライという玩具を中心にした想像力の範囲に議論を留めておきたい。

これから「勇者シリーズ」について、グレート合体における1号ロボと2号ロボの主体の位置と距離感を、要素のひとつとして論じていくことになる。

まずはゴッドボンバーの状態――曖昧な意志を持ちながらも言葉を発するほどの明確なコミュニケーションができない、という主体の明確さのレベルと、1号ロボの主体との距離感を、基準点として覚えておいてもらいたい。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2022年8月29日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。
あらためて、2023年2月23日に公開しました。

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