近代住宅は産業革命から始まった

 今回の研究会でプレゼンテーションを担当したのは、「庭プロジェクト」ボードメンバーで、建築家・明治大学教授の門脇耕三さんです。この夏フランス・オランダ・ベルギー・ドイツで集合住宅を視察してきた報告も兼ねて行われた、ヨーロッパと日本の住宅史を通覧するプレゼンテーションは、産業革命の話からスタートしました。

「ヨーロッパの住まいの話をするにあたっては都市の話、特に産業革命の話をしなければいけません。産業革命が起こるには、人口が一箇所に集積している必要があります。当時は蒸気機関の時代であるわけですが、蒸気機関は機器を落とすともう一度火を入れるのに非常に大きなエネルギーが必要となってくるので、24時間火を動かしています。そうすると、人が二交代、三交代で働く必要が出てくる。そういうわけで、たくさんの人が集まって一緒にごちゃごちゃと住むようになったのです。

当時のロンドンとパリは、大変ひどい状態でした。たとえばパリではまだ下水道が整備されていなかったので、おまるに用を足して、ある時間になるとそれを道路に投げ捨てていた。当時は馬車もいたので、馬の糞尿とあわせて、うず高く溜まっていたそうです。あとはこの頃のヨーロッパの人たちは水に浸かるとペストになるという迷信を信じていたので、基本的に風呂に入らなかったと言われています。また、当時は子どもが保護すべき愛すべきものだという考え方が一般化していなかったので、子どもも大人と一緒にタバコを吸いながら働いていました。よくイギリス料理がまずいと言われますが、その原因として、この時代に12時間交代で男も女も子どももなく働き続けていて、料理する時間も気力もとれないので、伝統的な技法が失われて、焼くか煮るに還元されたから、という説があるくらいです。


住まいについても、一つの部屋にあまり家族の境目なく住んでいたと言われています。男女別寝や親子別寝という考え方は当然なく、複数の家族が一つの部屋に住んでいました。お風呂もトイレもない、日当たりも悪く風も通らないところに住んでいるので、衛生状態が大変悪い。こういうところから近代の都市住まいが始まっていったわけです」(門脇さん)

 そうした状況下において、労働者のためのしっかりとした集合住宅を建てようとした事例として、門脇さんはパリの「シテ・ナポレオン」(1851年竣工)を紹介しました。ナポレオン三世がオスマンとともに進めたパリ大改造の中で建てられた労働者向け集合住宅で、通風と採光のために建物を二つに分け、ガラスの屋根をかけてパサージュが設けられました。一家族に一部屋が与えられ、共有部から入る玄関で家族が分かれるかたちになっていたといいます。

「ただ、ナポレオン三世のこうした努力は、当時は大変不人気でした。特に22時までに設定されていたという門限が大変嫌われて、むしろ人々は不衛生なところを好んだと言われています。それでもこれによって、一家族に区画された部屋が必要だということや、光や風はこのように採ろうというルールが、だんだんと事後的に整備されていきました」(門脇さん)

 一方で同じ頃、そうした劣悪な労働環境に対して、空想社会主義にもとづいたアプローチで対抗しようとしたのが「ファミリステール」(1859年-1883年)です。

「この頃、いわゆるレーニンのような社会主義者の前段階として、空想社会主義者が出てきました。当時の原始的な資本主義が劣悪な環境を生んでいるという考えから、資本家、産業家、ブルジョワで労働者のユートピアを作ろうという試みがなされたのです。

空想社会主義者を代表する人物の一人であるフーリエによる、ファランスフェールという理想郷の構想に感化され、ゴダンという資本家が、パリから車で3時間ぐらいのギースという場所につくったのが『ファミリステール』です。鋳物工場の労働者たちの共同の住まいとして、一家族に一つの部屋があって、それをいくつか連結することによって、家族の大小規模に対応できるようになっていました。住宅の中にお風呂やトイレがないのは当時の技術的な理由からですが、共用部が充実しているのが特徴です。入居者家族が全員で集まって祭りをするような屋内広場があって、大きな家族のようにたまにみんなで一緒にごはんを食べたり、ダンスをしたりしていました。つまりこれは、労働者による新たな人工的な家族をつくろうとした試みでもあったわけです。


設備としても先進的で、フランス人は当時はちゃんとお風呂に入らなかったのですが、ここには共同浴場がありました。工場で出る熱を使ってお湯がつくられていて、これは現在で言うとコジェネレーションという考え方なんですね。たとえば新宿の超高層街区は、新宿パークタワーを巨大なボイラーにして地下のパイプで熱が送られているわけですが、それと同じような考え方です。

そしてトイレやお風呂も共用ですが、男女が分かれていた点も重要です。それによって自然と性別役割分業も発達してきて、女性たちは子育てをしながらケアの仕事をして、男性たちは共同で労働をするようになってくるわけです」(門脇さん)

郊外住宅の誕生と終焉

 その後、「住宅の個人化」がさらに進んでいきます。約半世紀後のドイツ郊外につくられた「ジードルング」(1928年)では、郊外住宅の原型も形成されました。

「これは現代のようなお風呂やトイレを備えた住宅を、各家族かなり独立させたかたちでつくったものです。郊外につくったという点がポイントで、当時都市は非常に煙が出て汚れていたので、住まいと都市は離すべきという考え方が生まれてくるんですね。集合住宅で高密に住むというよりも、郊外ならではの低密さを利用して、家族が独立的に住んでいくという考え方です。

ここではフランクフルトキッチンという非常に有名なキッチンが発明されます。現代のシステムキッチンのはしりのようなもので、炊事の道具や設備を一か所に集めて、女性の家事労働を効率化するというアイデアです。このときには性別役割分業がかなり定着していて、郊外に住宅を構えるので男性は通勤をする必要があり、そうなると女性が家でケアの仕事に従事せざるを得ない。そのための一戸一住宅の設備と、専業主婦というスタイルができてきた時期とも言えるかもしれません」(門脇さん)

 郊外で個別的な住宅ができてくると、今度は家族を独立して住まわせながら、いかにコミュニティとして結びつけていくべきかという発想が生まれてきます。その事例として門脇さんが紹介したのが、オランダ・ロッテルダムの郊外にある「ユスティス団地」(1922年)です。

「ここでは住宅が個別になっているのですが、それをコミュニティとして位置付けていく空間的な工夫が随所に見られます。メゾネットタイプで、2階があるマンションが2個積み上がって4階建てになっていて、その3階に空中歩道がある。面白いのは、この空中歩道がストリートになっていて、一つ一つの住宅が独立した住所を持った街区とみなされているんですよ。戸建て住宅的でもあるし、コミュニティ的でもあるという住宅のかたちが、この時期に試みられていくわけです」(門脇さん)

 ただ、こうした流れは世界大戦によって断ち切られました。第一次世界大戦が起こってヨーロッパは大きく疲弊し、さらに第二次世界大戦が起こると基本的には住宅が足りなくなっていきます。そして戦後にベビーブームが起こると、大量に住宅をつくる「マスハウジング」という概念が生まれました。

「マスハウジングという概念はヨーロッパにも日本にもありますが、アメリカにはありません。アメリカは戦地になっていないので住宅が破壊されていないからです。他方、フランスやドイツは爆撃を受けているので、戦後に壊された住宅を加工し、ベビーブーマーたちに対応するために大量に住宅をつくるようになるわけです。

その嚆矢が、コルビュジエの『ボアザン計画』(1925年)という、パリの再開発計画です。オスマンのパリを全部スクラップして、タワー&パークと呼ばれる広い緑地があって、そこにぽつぽつとタワーを建てていく。アムステルダム郊外には、『ベルマミーア』という、全部ハチの巣型のパターンで広がっていく巨大団地もつくられました。

ただ、戦後1950〜1960年代にかけて形成されていったこうした巨大団地は、1960年代になるとスラム化し、『個性がない、非人間的だ』と嫌われるようにもなっていきました。そうして、マスハウジング的な団地開発ではない方向が模索されるようになっていきます」(門脇さん)

 こうした郊外住宅を延伸していく流れは、1980年代で終わりを迎えます。

「日本だとちょうど多摩ニュータウンの最後の建設として、南大沢や多摩センターがつくられていく頃です。その頃、同じように郊外に非人間的ではない集合住宅をつくろうとして、パリの北につくられたのが『セルジー』(1986年)という団地です。これは原宿のユナイテッドアローズ本店のデザインをしたことで有名なリカルド・ボフィルという建築家の作品です。ただ、住宅を郊外に新しく作るという試みは、この時代でだいたい終わりとなりました」(門脇さん)

「都心回帰」と新たな住宅のかたち

 郊外住宅が下火になった後に起こるのが「都心回帰」の流れです。郊外住宅は専業主婦が前提になりますが、女性の社会参画が重要になるにつれて、郊外住宅はリアリティを持たなくなっていったことも背景にはあります。

「たとえばパリ北駅の送車場、貨物駅跡地につくられた集合住宅があります。日本も同様ですが、モーダルシフトという物流革命が起こったことで、昔は貨物列車で運んでいた荷物をトラックで運ぶようになり、不要になった貨物駅や送車場を新しい用地として開発しようというわけです。たとえば日本で言うと、東京国際フォーラムは送車場跡地につくったものですし、JRのエキナカみたいなものが同じ原理でたくさんつくられているわけです。

ただヨーロッパでは、特にパリのようなグローバルシティだと住宅が投機対象になっているので、だいたい年間の住宅の値上がり率が10%です。お金持ちは都心の住宅に住める一方で、ミドルクラスと言われる中間層が住む場所が都心にないんですね。ヨーロッパの場合はそこを完全に市場に任せないという考え方が一般的で、パリではいま『ソーシャルハウジング』を全体の30%に達成させましょうという目標を掲げています。この『ソーシャルハウジング』は日本にはほぼない概念ですが、日本の公営住宅とは異なり、住まいのセーフティネットとして機能するものです。市場に任せていると中間層が都市に住めなくなっていくので、どうやって住ませるかということで考えられました」(門脇さん)

 サステナビリティやインクルーシブへの意識もヨーロッパでは日本と大きく異なります。

「たとえばフランス人は、大陸間のジェット移動を生涯で二往復までに制限すべきだという考え方に、半分ぐらいの人が賛成しています。10年前はInstagramでジェットセッターで『今日はここにいくぜ』という投稿がもてはやされていましたが、いまそれをやると炎上するそうです。建築で言うと鉄筋コンクリートもCO2をすごく出すので、ヨーロッパではああいう建築をつくると“社会的デビル”と言われます。

そこで流行っているのが木質化です。特にアルプスが近い地区や氷河がある地区は大変な危機感を持っており、建築における木質化が急速に進んでいるとのことでした。高い建物を木造で作る。最近では集合住宅の木造を提案に入れないとコンペに勝てないそうです。

そしてもう一つ、集合住宅をつくるときのキーワードが『インクルーシブ』です。要するに多様な家族形態を受け入れましょうというもので、一人や二人、それから大家族、ジェンダー的な多様性も含む、インクルーシブな住居を用意するということがほぼ標準化している感覚です」(門脇さん)

 そして住宅高騰化への対処として、さまざまな試みが出てきているといいます。

「たとえばアムステルダムでは、建築家が自分自身で不動産デベロッパーになることで、法規上許される最大の床面積を作るのではなく余裕を持ってつくったり、内部の仕上げを居住者が決まってから一緒に決めていくことで金額的な幅を持たせたりしています。

もう一つ注目すべきは、住宅協同組合方式です。住まい手自身がデベロッパーになるという考え方で、市場に任せるのでもなく、政府に任せるのでもなくて、自分の問題にする。友だち同士のメンバーやグループで協同組合をつくり、事業主体となって住宅を建てていく。本当に簡素で、仕上げがほぼなくて木の構造体が丸見えになっている。もし仕上げが欲しかったら追加でお金を出すか、あるいはDIYで組み立てていくという試みが始まっているのです」(門脇さん)

日本の戦後住宅史──団地・マンション・戸建て

 プレゼンテーション後半の話題は、日本の住宅史に移りました。日本にはそもそも集合住宅の伝統がなく、住まいに関して近代化が本格的に始まるのは戦後だったと門脇さんは語ります(参考:イーロン・マスクと里山資本主義とのあいだでーーこれからの「シェア」を考える)。

「戦前までは、住まいに関しては江戸時代とほぼ大差ない暮らしをしていたと思っていいと思います。特に地方に関しては江戸時代の農村とほぼ変わらない暮らしをしていました。日本はまずそもそも集合住宅という伝統がないんですね。長屋はありましたが、縦に重なって住まうという発想がない。これは1950年代の東京です。東京タワーが建っているところなので西麻布、六本木のあたりだと思いますが、そこでも近代的な建物はなくて、みんな木造の住宅に住んでいました」(門脇さん)

 そして日本の戦後が非常に面白いのは、集合住宅と同時に戸建て住宅が並立する状況だったことだといいます。

「日本は第二次世界大戦時に焼夷弾で爆撃を受けました。ドイツの集合住宅は石やレンガでつくられているので、そこに適した爆弾が開発されるのですが、日本の住宅は紙と木なので、燃やすのに効率的な爆弾が焼夷弾だったんです。そうして日本では200以上の中核都市が壊滅的に破壊されて燃えてしまったので、当時の日本人は燃えない都市をつくろうということで鉄筋コンクリートの街を目指すことが決意されました。

まず鉄筋コンクリートが適用されたのは小学校です。子どもが災害に遭うわけにいかないからですね。住宅に関しても鉄筋コンクリートでつくられたものはあるのですが、当時の住宅の不足は300万戸と膨大だったので、足りない分は木造で暫定的につくることになりました。鉄筋コンクリートが設計できるのは大学にいる建築家に限られるので、日本中に建築学科がつくられていきます。ただそれだと戦後復興には間に合わない。日本には大工さんがたくさんいて、大工さんもデザインと建設ができるので、その資源をうまく使いましょうということになりました。それは暫定的なもので、小規模な個人の木造に限ります。そうやって木造の戸建て住宅と鉄筋コンクリートの住宅が併存するという状況になったわけです。

鉄筋コンクリートの団地は自治体、それから日本住宅公団(公団)といった公共的な主体によってつくられました。戸建て住宅は暫定的なもので、国のお金ではなく個人の資産でつくられました。当然個人もお金がないので、ここでアメリカの住宅ローンが取り入れられて、若者の未来を担保に、お金を貸して住宅を建てましょうという話になるわけです。住宅ローンは、みなさんご存じの通り団信という生命保険に入ることが義務付けられているので、30年分のお金を前借して、万が一死んで返済能力がなくなったら生命保険で払いますというシステムです。つまり、政府資金ですべて団地を建てたかったのが本心なのだけれど、それだと復興が間に合わないので、民間資金でローンの仕組みを使って住宅を建てましょうというかたちになったわけです。そうして資本主義的なものと社会主義的なものが併存していたのが、戦後すぐの時代でした」(門脇さん)

 この「社会主義的」な性質を強く帯びており、戦後1970年代頃までの日本の住宅の大きな部分を締めたのが「団地」です。

「団地はまず非常に社会主義的なものでした。実際に団地に住んでいる人たちは共産主義志向がすごく強くて、革新政党の支持者が非常に多い。たとえば中央線上にたくさん団地ができるわけですが、そこに革新自治体がどんどん生まれていきます。主婦の人たちの政治活動も非常にさかんで、団地内で新聞をつくって運動を呼びかけていました。

そして産業構造の転換の受け皿になった点も重要です。日本は農業国から工業国への産業転換を果たそうとするので、農業の次男坊三男坊がサラリーマンや工場に勤めるために都心に出てきて、団地がその受け皿になったわけです。

それから団地は全部同じデザインでできているのですが、これはなぜかというと設計を国が手がけていたからです。標準設計という設計図でやるわけですが、それをコピー&ペーストするように周りにつくっていきます。鉄筋コンクリート技術者が足りなかったからで、大学を出た建築家が国の機関として設計する、それを地方の工務店につくらせる。そうするとそこで工務店は鉄筋コンクリートの技術を学んで、自分たちの力で鉄筋コンクリートがつくれるようになる……そうしてこの時期には同じタイプの団地、小学校が各地にできていくことになったわけです。

ところがこの団地が1970年代ぐらいになると、怪獣映画で壊されたり、あるいは『団地妻シリーズ』のようなポルノもできたりして、すごくネガティブなものとして描かれるようになってくる。そのネガティブさは画一性によるもので、牢屋のようにたとえられていくわけです。それから自治体が団地を嫌うということも起こってきます。たとえば町田に大規模団地ができると、その団地のための小学校や病院、買物施設を自治体負担でつくらなければいけないので、町田市が団地開発を断るということが起こってくる。

1970年代ぐらいには住宅の数も足りてきていたこともあり、団地はその後急速につくられなくなっていきます。1973年、ちょうどオイルショックが起こった年でもありますが、この頃から公共の資本で団地をつくるということがなくなるんですね。それ以前には上皇が皇太子時代に団地を訪れるという華やかな時代もあったのですが、10〜15年ぐらいで終わって、つくられなくなっていくわけです」(門脇さん)

 団地に代わって登場したのがマンションです。1962年に区分所有法が成立し、建物の一部だけを所有できるようになったことが、直接のきっかけでした。

「マンションは『豪邸』という意味ですが、当時は名前からわかる通り豪邸として都心のお金持ちのためにつくられていったのですが、それがだんだん庶民化してくる。非常に社会主義だった集合住宅が、所有できる資本主義的なものに舵を切り出すということが60年代ぐらいから起こってきます。

80年代になるとマンションブームも非常に盛んになり、バブルが起こって『億ション』が生まれてきます。当時23区にはほぼ人が住めなくなり、いまのヨーロッパと同じようなことが起きていたわけです。かといって日本はソーシャルハウジングのシステムがないので、みんな郊外にマンションを買うということが起きていったわけですね。

バブルがはじけた後、今度はマンションは都市再生の手法として使われます。都心を規制緩和することで、それまでは建てられなかった大きな建物を建てられるようにする。そうするとその分床がたくさんつくれるので、建て替え投資が生まれるという理屈です。集合住宅の共用部は床面積に含まないという規制緩和をすることによって都心にタワーマンションがバンバン建って、人口が郊外から都心に戻ってくるということが2000年代から起こります。

さらに2000年代から起こったのが不動産の証券化です。不動産物件を株券のような証券にして、賃貸売上や価格上昇分を証券の保有者に配当として還元する仕組みです。J-REITという手法でアメリカから輸入されるわけですが、これによって不動産が金融商品化して、実情と関係なく都市にバンバンタワーマンションが建つという時代が始まります。たとえば不動産投資効率が高いのは小規模なワンルームマンションで、港区とか品川区にはそれがすごく多いのですが、実際の需要とは関係なくつくられるので空室率も非常に高い。そういうものが建ちだして、海の風をふさいで、都心がめちゃくちゃ暑くなるというのがいま起きていることです」(門脇さん)

 他方、団地からマンションへという流れと並行して、戸建て住宅も独自の発展を遂げていきました。

「戦前まではそもそも持ち家というものはなくて、住民が直接大工や畳屋、地域の職人さんなどにそれぞれ別々に頼んで住宅をつくったり、メンテナンスしたりするものでした。しかし戦後に持ち家が一般化し、ローンで払う一式請負が要請されるようになると、銀行はつくり手に対して責任の一元化を求めるんですね。それまでのように畳屋さんと大工さんバラバラに頼むことができなくなるので、工務店という全部を取りまとめる存在が必要になって、この時代に工務店がものすごくたくさん勃興します。

住宅ローンの貸付機関は、実は銀行ではなくて住宅金融公庫という政府系の金融機関で、住宅ローンのためにつくられたものです。ここが住宅はこうあるべきだという仕様をつくり、その仕様に基づいて住宅をつくるということが行われるようになります。そうなると、日本各地でさまざまな方法でつくられていた民家が一気になくなりました。戦前で言うと武家住宅、あるいは武家住宅をモデルにした都市労働者のための住宅が庶民の住宅になっていくわけです。サザエさん一家は戦後すぐ博多から世田谷に引っ越して平屋の日本家屋をつくるわけですが、当時の世田谷の民家はかやぶき屋根だったはずで、それを駆逐した武家風の住宅が建っていくというわけです。

さらにその後すぐに、住宅生産の工業化が起こります。それまで兵器をつくっていた重化学工業が、住宅にスピンアウトしてくる。その結果、たとえばドラえもんの野比のび太の家はサザエさんの家とだいぶ違っているんですね。まず二階建てになっている。これは都市が過密化していることの証左です。屋根が赤いのはさび止め塗装の色で、つまり屋根が鉄板になっているということです。プラスチックのトイレがあり、アルミサッシになっている。都市が過密化してスプロールしていくのにあわせて住宅が高密化し、工業的な鉄やアルミやプラスチック、ペンキが入ってくるというわけです。

さらに住宅全部一式を工業化しようという発想も生まれてきます。たとえばもともとプラスチックメーカーだった積水ハウスが、住宅産業に参入してくる。あるいはトヨタホーム、パナホームなど、電機メーカー、自動車メーカーが入ってくる。住宅を工業化することによって量産化し、価格を安くしようという試みだったわけです。

しかし、実際には安くならないんですよ。なぜならば広告が必要だからです。間取りが自由になる度合いが大工の住宅より低いことを逆手にとり、平面間取りを高度に練り上げていった。そして、その練り上げたものを特定のライフスタイルとパッケージにして、この住宅を買うとこういう生活ができますよ、というかたちで住宅を開発するようになりました。これが商品化住宅というコンセプトです。ヨーロッパ風の暮らしができますよとか、伝統的な木造の暮らしができますよというかたちで住宅をパッケージしていったものが各地に生まれてきます。これが1980年代ぐらいです」(門脇さん)

 しかし戸建て住宅に関しても、マンションと同じように、バブル崩壊以降は都心回帰が起こってきています。

「規制緩和をして、駐車場の部分は住宅の面積に含まない、あるいは木造で三階建てまで緩和する、といったが起こります。そうすると2000年代ぐらいから、都心の非常に狭小な敷地に戸建て住宅をつくっていき、しかもそれを建築家に頼むというかたちが流行ってきます。都心回帰、ミニ戸建てというものが出てくるのが、だいたい2010年代ぐらいまでの状況だと言えると思います」(門脇さん)

現代日本の住まいをめぐる課題と、勃興する新たなアプローチ

 2010年代以降、カップルが建築家に頼んで都心にミニ戸建てを建てるという時代は終わりつつあります。その大きな原因は、建設費の高騰と職人不足です。

「東西の壁崩壊以降、グローバル経済が進んだことでコモディティが値下がりしていくという現象が1990年代から2010年代に起きました。そこからまた世界は紛争と戦争の時代に突入してしまったので、それぞれが独自経済圏、小さな経済圏で独立して対抗していこうとなっている。そうなるとコモディティは基本的に値上がりしていきます。建築の材料に関しても同様で、たとえばガラスメーカーでは世界中の工場の状況を為替レートと連動させて、今日はここの工場でつくろう、明日はここの工場でつくろうということができなくなってきているので、建設費がバンバン上がっていく。そもそもオイルも上がっているので高騰していく。

それから日本特有の問題として、大工、職人になりたい人が少なくなってきている。大工は昔小学生がなりたい職業ベスト3に入っている職業でしたが、バブル期に『3K』と言われてブルーカラー、エッセンシャルワーカーが嫌われ、ホワイトカラーがもてはやされるようになりました。その結果、いま職人が本当に不足しています。建築家が設計して職人さんが来ると、だいたい60歳から70歳が普通です。18歳人口で推定すると、なり手不足は少なくともあと20年は続くでしょう。18歳を超えて大卒で職人になる人はほぼいませんし、いま大工さんは年間3,000人ベースで減っていっています。一方で日本の建築学科には年間一万人入学しているので、建築家が一万人ずつ増えて大工が3,000人ずつ減っているという状況です。職人の賃金が高くなり、材料費が高くなり、さらに投機によって需要と関係なく建築がつくられるという状況で、建設費がものすごく上がっているわけです。

結果として、東京の都心でさえ新築が事業的に計算が合わなくなっています。事業収支計画をシミュレーション的に計算すると、これからは札幌のど真ん中でも新築は建たない。しかもこの状況は、ブロック経済があと20年続き、大工のなり手不足が20年続くことも確実なので、20年ぐらいのスパンで建設費は高騰していく。現状の新築の建設費が4倍ぐらいになる時代が20年後に見えてきているという状況です。

いま都心23区に住宅を買おうとすると、だいたい1億円は下らないほどになってきています。2010年ぐらいの賃金レベルだと、無産者の共働きカップルが組める自然なローンの額は6000万ぐらいでした。だいたい土地の値段4000万、上物2000万で、23区でギリギリ小さい家が建つかなという感じだったのですが、いま1億円なので、新築で共働きのふつうのカップルが家を買うのはほぼ難しい。少なくとも新築住宅に関しては手が届かないという状況が長く続くだろうと思っています」(門脇さん)

 こうした状況を踏まえ、門脇さんはいま日本の住まいをめぐる課題を3つ挙げました。

「まず第一に、住まいに関する自己決定から疎外されていること。これは住宅の産業化・商業化に伴って起きていることです。コモディティが商品としてパッケージ化されている限り、プロセス、あるいは材料に関する決定が消費者にとっては難しい状況になっています。大工に頼んで手直ししてもらったり、リノベーションしたりするのではなく、ハウスメーカーの窓口に行って、パッケージ化された商品を買うしかないという状況になっています。

第二に、住宅の金融商品化と価格高騰により、生存生活の基盤としての住宅というものが脅かされ、セーフティネットの喪失が起こっています。ジェンダー規範の変革により共働きが前提となったいま、郊外に住宅を構えることができなくなっています。結果として、都心に住まざるを得ないのに、都心には買える住宅がないという状況が生まれているわけです。

そして第三に、郊外や地方に蓄積された莫大な住宅資源が継承されないことも課題です。親世代は郊外に住宅を作って、性別的な役割分業をして住んでいましたが、それがライフスタイルとミスマッチを起こしているので、地方郊外に蓄積した莫大な資産が継承されない。住宅という個人資産だけでなく、道路・下水道・上水道・電気・ガスといったライフライン、そしてそこに投下された膨大な公共投資も含めて、次世代に引き継がれていないことは大きな社会的課題だと思っています」(門脇さん)

 ただし、こうした課題に対して、新たなアプローチも勃興してきています。最後に門脇さんは、こうした状況に対して若手建築家たちが取っている新しいアプローチを、「街中型」「郊外型」「田舎型」の3つの類型で紹介しました。

「『街中型』の事例は、京都の崩れそうな長屋を使ったLUNCH! ARCHITECTSの住宅です。一階部分を自分たちで掘ってコンクリートを打ち、巨大なテーブルをつくり、柱は石をはかせて継ぎをして背の高い空間をつくっています。こうした展覧会に来た人も工事に参加するかたちでのセルフビルドが、若手建築家の中で話題になっています。

『郊外型』の事例としては真鶴が代表的です。ここでは建築基準法上の道路とみなされない細い道に面した建物が、建て替えられないため空き家になり廃墟化していました。しかし、そこに都心からの移住者が来て商売をしながら改装して暮らす、ということが起こりはじめています。

『田舎型』としては京都・京北の事例があります。バスでしか行けない陸の孤島に、フランス人二人組の建築家が住み着いて打ち捨てられた民家を買い、犬や羊やガチョウや馬と暮らしながらセルフビルドで改装しています。鳥小屋も設計してセルフビルドをし、しかも伊勢神宮風につくっています」(門脇さん)

 しかし門脇さんは、これらの試みにはまだまだ課題もあると述べました。

「一つは、みんな気合が入りすぎなんです。セルフビルドは工事費を下げるやり方なのですが、相当気合が入ってないとできないので、これが普及していくかというと難しいだろうなと。

それから地方移住型もいいのですが、どうやってお金を稼ぐかということが一つ大きな課題です。移住者で成功している人たちはたくさんいるのですけれども、万人に共通するモデルになるかというとまだ見えない。

それから何よりもこれらの試みが、たとえば我々庭プロジェクトでも提案を出した藤沢や鎌倉のような、郊外に蓄積された大きな住宅団地にはまだアクセスできていないんですね。ですからこうした新しい取り組みの中にヒントはあるはずですが、まだ決定打にはならなそうだといま思っているところです」(門脇さん)

この記事は石堂実花・小池真幸が構成・編集をつとめ、2026年4月30日に公開しました。