特別企画「オルタナティブ・オリンピック/パラリンピック・プロジェクト再考」、5日目の更新は、障害者スポーツにも詳しい作家の浅生鴨さんによる、パラリンピックの歴史をめぐる寄稿です。
世界最高峰の障害者スポーツ大会、パラリンピック。治療の一環、あるいは社会復帰のための活動として、その歴史を刻み始めたパラリンピックは、回を重ねながら「競技スポーツ」として発展を遂げてきました。
そして、近年は義肢装具の飛躍的な進歩によって、パラリンピックのあり方そのものが変わろうとしています。そこで競われるべきは、鍛え抜かれた身体なのか、装具の性能技術なのか?
パラリンピアンにつきつけられる問題は、障害の有無に関係なく、多様な身体をめぐる社会のあり方に直結します。2020年の先の未来を見据えるため、改めて障害者スポーツの来歴から見えてくる現代的な課題を整理しました。
※本記事は、特集「東京2020オルタナティブオリンピック・プロジェクト再考」の一環として、『PLANETS vol.9』(PLANETS 2015年)収録の同名記事の再掲したものです。
端的に言うとね。
現在の日本で、パラリンピックを全く知らないという人は、ほとんどいないだろう。あえて説明するなら、4年に一度、オリンピックの終わった後に開催される障害者のスポーツ大会だと言えば、たぶん、誰もがすぐにわかるはずだ。2012年に開催されたロンドン大会には、164の国と地域から、およそ4300人もの選手が参加。参加者数だけでなく、競技レベルの高さからも、パラリンピックはまちがいなく世界最高峰の障害者スポーツ大会だ。
とは言うものの、日本では長い間、障害者によるスポーツは福祉政策の対象として扱われてきたわけで、今でもそう考えている人は、案外と多い。走り幅跳びの佐藤真海選手が、東京オリンピック・パラリンピック招致活動の最終プレゼンテーションで心に残るスピーチをしたことから、今はパラリンピックにも少しは関心が集まっているようだし、単なる社会参加やリハビリテーションを目的としたものじゃなく、トップアスリートたちによる本格競技スポーツなのだという考え方も広まり始めてはいるものの、それでも、まだ多くの人には、障害者が足りない何かを補いながら一生懸命にがんばっているスポーツなんだよね、障害者にしてはなかなかやるよね、といった程度の認識しかされていないのが現状だ。実際、テレビ放送の視聴率はゼロに近い数字だし、放送してもほとんど反響はないというのが現実で、まだまだ純粋な競技スポーツとして認めてもらえているとは言いづらいところがある。
確かにパラリンピックは医療や社会福祉を目的として始まったものだし、今でもそういった側面がないわけじゃない。それでも、およそ70年近くの間に、多くの関係者が尽力し、少しずつ競技スポーツとしての地位を確立してきたのだ。本稿では、そうしたパラリンピックの歴史をおさらいしておこうと思う。
障害者スポーツ大会の成立
第1回パラリンピック大会とされているものは、今から55年前、近代オリンピックの開始から半世紀ほど遅れた1960年に開かれた。これは、もともとイギリスのストーク・マンデビル病院の医師、ルードヴィッヒ・グッドマンが、戦争で脊髄などを損傷した兵士たちのために開催したスポーツ大会から始まっている。もちろん、ストーク・マンデビル病院よりもずっと以前から、障害者がスポーツをすることはあった。でも、それはやっぱり社会復帰や治療を目的にしているものが中心で、19世紀後半になるまでは、純粋な競技スポーツとして扱われたものは、どうやらほとんどなかったようだ。
本格的な障害者スポーツ競技の出発点は、20世紀初めのドイツ。聴覚障害者のためのスポーツ団体が創立、以降、ヨーロッパの各国でも障害者によるスポーツクラブや競技団体が数多く作られるようになる。1924年には、現在のデフリンピックの基になった国際ろう者スポーツ競技大会がパリで開かれるなど、国際的な大会も開催されている。
そして、第二次世界大戦後の1948年7月28日、前述のストーク・マンデビル病院で「手術よりスポーツ」という理念の基に、患者たちのためのスポーツ大会が開かれた。実は、この翌日にロンドンではオリンピックの開会式が行われている。わざわざこの日に大会を企画したグッドマン医師は、おそらくオリンピックのことを意識していたのだろう。「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」という言葉を残したグッドマン医師は、後に障害者スポーツの父と呼ばれるようになる。
▲1948年にストーク・マンデビル病院で開かれた車椅子アーチェリー大会
この後、ストーク・マンデビル病院のスポーツ大会は毎年開かれ続けるが、1952年にオランダの選手たちが参加したことから、この年の大会を第1回国際ストーク・マンデビル大会と位置づけることになった。記録によれば、この時には、およそ130の選手が、6種目を競ったようだ。
ストーク・マンデビル大会は回を重ねるごとに参加する国が増え、1960年にISMGC(国際ストーク・マンデビル大会委員会)が創設された。
ところが、ストーク・マンデビル大会は車椅子を使用している障害者だけのもので、それ以外の障害者は参加できなかった。そこで1961年に、他の障害者スポーツのための国際機関の設立が準備され、1964年にISOD(国際身体障害者スポーツ機構)が創られた。車椅子を使うか使わないかによって、二つの国際的な障害者スポーツ機関が存在することになったのだ。
ISMGCは、毎年開かれる大会のうち、オリンピックのある年だけはオリンピックの開催国でストーク・マンデビル大会を開こうという方針を定めた。この方針に則り、1960年のオリンピック開催国イタリアのローマで、第9回国際ストーク・マンデビル大会が開かれた。この大会に参加したのは23か国からの選手、およそ400人だとされている。
このローマ大会が、後に第1回パラリンピックとされるのだが、当然ながらこの大会は、車椅子を使用している障害者のためだけのものだった。
東京大会から始まった「パラリンピック」
だから、そういう意味では1964年の東京大会が、本質的なパラリンピックの始まりだったと言えるのかも知れない。
▲1964年パラリンピック東京大会のポスター(写真提供/日本障がい者スポーツ協会)
東京オリンピックの終了直後に開催された東京大会は、関係者の尽力によって、車椅子の使用者だけでなく、すべての障害者が参加できる「国際身体障害者スポーツ大会」となった。具体的には、第1部を第13回国際ストーク・マンデビル大会、第2部をすべての身体障害者と西ドイツからの招待選手が参加する国内大会という2部制で構成されていた。
ちなみにパラリンピックという名称は、この時に日本人が考えたもので「Paraplegia(下半身運動麻痺者)」と「Olympic」を組み合わせた「パラリンピック」という造語を大会の愛称として用いたのだ。そうした点からも、この東京大会こそが最初のパラリンピックだと考える人も少なくはない。
二部制だったとは言え、せっかく東京大会が全ての障害者が参加できる競技会になったのに、残念ながら、その後も国際ストーク・マンデビル大会は、車椅子使用者だけの大会として続いていく。
この流れに大きな変化が起きたのは、1976年のトロント大会(Olympiad for the Physically Disabled)のことだ。東京パラリンピックから12年後、ついにISMGCとISODが手を結び、脊椎損傷者、切断者、視覚障害者が出場する大会が開かれた。また、スウェーデンでは切断者による冬季大会も開かれ、障害者による競技スポーツ大会は大きな広がりを見せるようになる。
1984年にアメリカとイギリスの2か国で開催されたニューヨーク・アイレスベリー大会(The International Games for the Disabled)では、車椅子競技をストーク・マンデビル病院で、その他の身体障害者競技をニューヨークで実施し、やがて車椅子使用者以外の身体障害者も参加する国際的な大会へと発展していく。
翌1985年、IOC(国際オリンピック委員会)は、オリンピック開催年に行われる国際身体障害者スポーツ大会を「パラリンピックス」と呼ぶことに同意し、1988年のソウル大会からは、ついにパラリンピックが正式名称となった。
ところが「下半身麻痺者のオリンピック」という呼び方では、車椅子を使う者以外の身体障害者も参加している現状には合わない。そこで、パラリンピックの「パラ」を「パラレル(=平行する、同様の、似ている)」の省略と解釈して「もう一つのオリンピック」ということにしたのだ。なお、ソウル大会では、今のように、オリンピックの終了直後にオリンピックと同じ会場でパラリンピックも開催され、二つの大会が連動した最初の大会となった。
IPCの成立と本格競技大会としての離陸
こうしてパラリンピックは「もう一つのオリンピック」となったものの、この当時、大会を運営していたICC(国際調整委員会)は、それぞれの障害ごとに存在する様々な団体の代表などによって組織されていたこともあって、パラリンピックをより本格的な競技スポーツ大会として発展させるには、やや組織力が欠けていた。そのため、もっと競技性を高めたいと願っている選手や関係者たちの間で、ICCに対する不満が溜まり始めていた。
そこで1989年にIPC(国際パラリンピック委員会)が設立。統一された競技スポーツ大会としてのパラリンピックを推進していくことになる。
その後、2000年のシドニーパラリンピック大会期間中に、IOCとIPCとの間で「オリンピック開催国は、オリンピック終了後、引き続きパラリンピックを開催しなければならない」という取り決めが交わされ、また2001年にはIPCからIOCの委員を選出することなど、より密接した協力の合意もなされた。現在、パラリンピック組織委員会はオリンピック組織委員会に統合されており、文字通り「もう一つのオリンピック」として、世界最高レベルの競技スポーツ大会として、その地位を保っている。
半世紀もの年月をかけて、パラリンピックは、リハビリを目的とした身体運動から「機会均等」「完全参加」「障害者のスポーツのエリート性」といった理念を表す象徴となったのだ。
日本でも2014年に、JPC(日本パラリンピック委員会)の管轄がそれまでの厚生労働省から文部科学省へ移った。ようやく日本でも福祉からスポーツへの転換が始まっている。
強化指定選手となれば、ある程度の支援を受けられるオリンピック選手とは異なり、パラリンピックを目指す選手たちは、その選手生活のほとんどを自費で賄っている。特に、常に特殊な装具や専用の医療機器を必要とする選手たちにとっては、単に移動をするだけでも一般の人より費用がかかる場合もあって、金銭面から選手生活を断念する者も少なくはないと聞く。練習場所も自分で確保するしかなく、これまではオリンピック選手との環境差があまりにも大きかったのだ。今回の移管で、こうした選手たちの生活環境は改善されていくだろう。
だが、より本格的な競技スポーツとして発展してきたことで、様々な問題も生じるようになった。そのほとんどは、障害の度合いが様々であることによる競技の公平性に関係している。
パラリンピックでは、車椅子や義足といった器具や装具を使っている選手による競技も少なくはない。ところが、これらの競技では機器の性能が勝負に大きく影響する面もあって、最新の科学技術を盛り込んだ機器を導入できる先進国の選手(とは言っても、日本でも競技用の機器は医療保険が使えないので、多い人では数百万円という、かなり大きな負担額になる)と、そういった機器を入手することが困難な途上国の選手との間には、どうしても条件面での差が生じてしまう。技術の介在する余地が大きなクラスであればあるほど、その差は顕著になっていくわけなので、これはかなり厄介な問題だ。
また、オリンピックと同様、パラリンピックでもドーピングは厳しく検査されているが、実は、選手が日常的に使用している医薬品の中にドーピングの禁止対象物質が含まれていることがある。そのため、選手の中には大会期間中は治療薬の使用を止めて試合に臨む者もいて、これもまた、なかなか大変なことだ。もっとも、除外処置を申請することで、禁止対象から外してもらうことも可能なのだが、そうすると今度は、ドーピング禁止対象物質を使える選手と使えない選手が出てくることになり、ここでもまた競技の公平性が問題になってしまうのだ。
同一の能力、同一の機能で競うことを競技の公平性だと定義し続ける限り、こうした問題はなくならないし、今後も考え続けなくてはならないだろう。
オスカー・ピストリウスが投げかけた波紋
さらに、障害者スポーツを考える時に、どうしても避けることのできない問題が、もう一つある。
それは、障害者と健常者との線引きをどうするのかということだ。平たく言ってしまえば、障害者はオリンピックに出場できないのかという疑問だ。誰よりも速く、高く、強くなりたいという、アスリートであれば当然持つ気持ちを、僕たちは、どのように考えていけばいいのだろうか。
この問題に大きな波紋を投げ掛けたのが、南アフリカ出身のスプリンター、オスカー・ピストリウス選手だ。
▲オスカー・ピストリウス(写真:産経新聞社)
両足に装着した競技用義足が刃のような薄さであることから「ブレードランナー」と呼ばれる、トップアスリートだ。残念ながら、その後、刑事事件の当事者としてメディアを賑わすことになってしまったため、彼の投げかけた問いは、やや霞んでしまってはいるが、これからの障害者競技スポーツを考える上で、とても重要な問題なのだ。
ピストリウスは、2008年の北京オリンピックへの出場を希望していたが、義足による推進力が規定に抵触するとして国際陸上連盟によって却下されてしまう。その後、スポーツ仲裁裁判所は彼が健常者の試合に出場することを認めたため、健常者の競技会へ参加するが、そこではオリンピックの参加標準記録を突破することができず、北京への出場は叶わなかった。それでも、障害者が健常者と同じ競技会で標準記録を突破すれば、オリンピックへの参加資格を得られるという画期的な前例を、この時に彼が作ったのだ。
そして2012年。ピストリウスはオリンピックのロンドン大会に、400mリレーの選手として出場することになる。両足が義足の陸上選手としては初。さらに、オリンピック直後のパラリンピックにも出場。オリンピックとパラリンピック、二つの試合に出場するという快挙を成し遂げる。
今後は、もっとこういった選手が出てくるに違いない。実際、2014年7月には、ドイツ陸上競技選手権で、下腿に義足を装着したマークス・レーム選手が男子走り幅跳びで優勝していて、この先、彼がオリンピックへ出場する可能性は十分にある。
だが、こうした選手たちの活躍に対して、やはり義足の持つ推進力は不当に有利ではないのかという反発も起きている。生体と義足とでは強度も反撥力も異なっているわけで、これを同じ条件だとすると、競技が成立するのかという不満が、健足の陸上選手たちの中から上がっているのだ。
その一方で、競技スポーツの最高峰を極めたいと願うアスリートにしてみれば、パラリンピックという枠の中でしか競えないのは、やはり不満あるだろう。障害者も健常者も関係なく、統合された競技スポーツの世界で頂点を目指したいという気持ちもよく理解できる。
健常者のスポーツ大会に障害者が参加することによって、それまでパラリンピックの中だけで考えられてきた競技の公平性の問題が、ついにオリンピックにまで及び始めたのである。
この数十年間、大きな変化のなかった障害者の補助具は、21世紀に入ってから急激な進化を始めている。人工身体の能力が生体を超えるのは時間の問題だし、科学技術の進歩とともに、競技用の器具や装具もますます性能を高めていくだろう。
極端なことを言えば、選手の肉体的な能力が従来と同じでも、器具さえ高性能になれば、総合的な運動能力はアップするのだから、器具を使わない選手が、それを不公平だと思う気持ちもわからないではない。
動力を持ち、思考で制御することのできるバイオニック義肢も実用化されつつある中、より速さを求める選手が、自らの足を切断して義足に置き換えるといったことも出てくるはずだ。それは、俳優が顔にメスを入れるのとそれほど異なる行為ではない。
僕はこの問題を考える時、いつも眼鏡のことを思う。眼鏡やコンタクトレンズを装着して、競技に参加しているスポーツ選手は決して少なくはない。眼鏡は許されて義足が許されないのは、いったいどうしてなのだろうか。まだ答えは出ていないし、永久に答えの出ない問題なのかもしれない。それでも、アスリートが、自分の肉体を何らかの手段で補完しながら、より高みを目指していくのが究極の競技スポーツなのだとしたら、やはり義肢選手の参加は認めていいんじゃないだろうかと個人的には思っている。
そうは言っても、この問題を解決するのはなかなか難しい。
オリンピックとパラリンピックを統合し、あくまでも、競技・種目としてクラス分けし、その中に両者が競い合うための総合クラス、無差別クラスといった枠を設ける方法も考えられるし、実際にそういった考え方に基づいて、将来的にはパラリンピックをなくそうという主張をする人たちもいる。その一方で、今後、オリンピック・パラリンピックは、できるかぎり生体に近い肉体のみを使うことを条件にした、従来のスポーツ競技に近いものと、科学技術を最大限に利用した、いわばサイボーグによるスポーツ競技の二つに別れていく可能性もある。
鍛え抜かれた究極の肉体と技を見せるオリンピックと、人と機械の融合によって、極限の速度や力を見せるパラリンピック。もしかすると2020年の先には、そんな二つの競技スポーツ大会が待っているのかも知れない。
〈参考文献〉
「パラリンピックの歴史」(公益財団法人日本障害者スポーツ協会・日本パラリンピック委員会)
「Paralympics – History of the Movement」(The International Paralympic Committee)
「History 1952-2012」「ISOD History」「Paralympic Games 1960-1992」(International Wheelchair & Amputee Sports Federation)
『障害者とスポーツ』高橋 明(2004年、岩波新書)
『近代オリンピック100年の歩み』(1994年、ベースボールマガジン社)
『オリンピックの事典―平和と青春の祭典』川本信正監修(1984年、三省堂)
『壁なんて破れる―パラリンピック金メダリストの挑戦』大日方邦子(2006年、NHK出版)
[了]
この記事は、2015年に刊行された『PLANETSvol.9』の記事を再掲したものです。あらためて2020年5月4日に公開しました。
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『PLANETS vol.9』には、今回の特別企画で紹介する「Aパート(Alternatives編):オルタナティブ・オリンピック/パラリンピック・プロジェクト」以外にも、都市開発というアプローチから東京の解体・再編を試みる試案「Bパート(Blueprint編):東京ブループリント」や、文化系でもカルチャーで勝手に盛り上がる「Cパート(Cultural Festival編):裏五輪=サブカル文化祭」、そしてテロリズム側の視点から改めて国家プロジェクトの危機管理を再考するセキュリティ・シミュレーション「Dパート(Destruction編):オリンピック破壊計画」など、様々な角度から2020年の東京オリンピックのオルタナティブを試みたビッグプロジェクトが記されています。気になった方はぜひ読んでみてください。