震災前後で変化したSNSのあり方

──「中の人」から遠く離れて

宇野 今年の2月から「遅いインターネット計画」というものをはじめたんですね。これは、かいつまんで言うとインターネットとの付き合いかた、情報との付き合いかたを見直そうという運動です。
 具体的にはSNSのタイムラインの「潮目」から離れたあたらしいウェブマガジンをスロージャーナリズムの仕組みを参考につくることと、僕の「発信する」ノウハウを共有する講座をやっていこうと思います。この計画のマニフェストになる本も書きました。
 浅生さんはかつてNHK_PRのTwitterの「中の人」を務めていたわけですが、NHK_PRといえば、ある意味、東日本大震災前後に爆発的に普及したTwitterの象徴的なアカウントだったわけです。だからこのタイミングで、あらためて、僕らは情報の流れにどう付き合っていくべきかということを軸に、お話をおうかがいしていきたいと思っています。

浅生 よろしくお願いします。

宇野 さっそくですが、ちょうどNHK_PRのTwitterが有名になっていった震災の前後でインターネットにどういう変化があったように思いますか?

浅生 震災の前後で大きく変わったのは、SNSを使う人が爆発的に増えたっていうことだと思うんです。震災以前は、SNSって遊びの、サブカルチャーの一端で、そういったものを面白がれる、一部のリテラシーのある人たちが使っていた。それが震災以降、あまりリテラシーのないような人までもが使うようになって、世間そのものになってしまった。そうなると、当然、使いかたがガラリと変わるし、それまでは通用していたはずのことが通用しなくなっていった。

宇野 ちょうどそのころ、「あれ、おかしいな」って思ったことが僕にもあったんです。僕があるトークショーに出て、村上春樹の話をしたときです。僕は、「村上春樹のこういう考えかたは、ちょっとどうかと思う」と村上春樹の考えかたについて批評したんです。当時は「ダダ漏れ」や「Tsudaる」という言葉で、Twitterでのトークイベントの実況が流行っていた時期だったんですが、来ているお客さんがつたない要約の仕方をした結果、僕が批評した村上春樹の意見を、僕自身の意見だと勘違いして受け取っちゃった人がいて、「宇野はこんなことを言っているのか、けしからん」と怒ってしまったことがあった。さすがに、「これは責任取れないな」と思ったんです。
 ただ、これは実況した人の責任でもあるけど、そのツイートの内容の真偽も確かめずに、相手に文句言うような人にも問題がある。これは明らかにTwitterのように時間を共有するサービスが出てきたから発生しやすくなったトラブルで、当時の僕は、これがインターネットのコミュニケーションの基本になるとキツイなと思ったのを覚えているんです。そして実際に、今ではそれが当たり前のことになってしまった。

浅生 インターネットって、ビジュアルの部分で、本当に書かれるとちょっと正しいようなものに見えちゃうのが恐ろしいところで。もしそれが手書きで、ガリ版で配られていたら、まず裏を取ると思うんです。インターネットにはいろんなことが書いてあるけど、それが本当のことであるとは限らない。でも、そこに真実があると無自覚に受け入れてしまうような人たちが急激に増えたのが、2010年、11年ぐらいだったような印象があります。

宇野 だから今は、宣伝とランニングの記録とコレクションの自慢ぐらいしかSNSに投稿していないんです。浅生さんはすごく独特なSNSの使いかたをしていると思うんだけど、その経緯というか、自分のSNSとの向き合いかたがどう変わっていったかという話をお聞きしたいんですが。

浅生 NHK辞めたあとは、面倒くさいし、SNSはやらないでおこうと思っていたんです。

宇野 しばらくやってなかったですよね。

浅生 そうしたら、小説を出すタイミングで、出版社から「宣伝にはやっぱりSNSですよ」って言われて、しょうがないなと思いつつアカウントを作りまして(笑)。だからといって、積極的に毎日なにかをやりたいというわけでもない。とりあえず、どこまでくだらないことが書けるのか、いろんなものに水差したいなっていう思いがあって書いています。
 もうひとつやっていることは、書いたらすぐ消すことです。

宇野 投稿したツイートを定期的に消してますよね。あれっていつごろから始めたんですか?

浅生 2〜3年前からやっているんですが、専用のツールを使って消していて、いまは3日経つか、ツイートが30件を超えると消えるというような設定にしてるんです。
 ツイートの画面を見ると、「いまどうしてる?」って書いてある。だから今なにしてるか、今なにを感じているか、なにを思ってるかを書く。つまり、Twitterは今のことだけを書くツールだから、道具として本来求められている使いかたをすると、2日後にそれが残っているのは、なんか変だなって。だから消してます。

宇野 自動的に消えるツイートに切り替えてから、なにか変わったことってありますか?

浅生 僕はマルチスタンダードなので、コロコロ意見が変わるタイプなんですが、それが出せるようになったんです。書き込んだ内容がずっと残っていると、人間としての一貫性をキープしなければならないというような変な無言の圧力がかかってくる。「今日は左翼ですけど、明日は右翼です。そのあと尾翼で」みたいに、コロコロ変えられるようになった安心感がありますね。

宇野 特にTwitterはこの傾向が顕著で、140字の粗をいかに探して相手にマウンティングするかっていうゲームを、みんなやりすぎてる。いいじゃないですかね。意見が変わったって。それで具体的にあなたが被害を受けたわけでもないのに、相手を責める理由になんかなりたくない。

浅生 そうです。意見は日々変わるし、変わらなきゃおかしい。なにかに接して、新しくなにかを学べば、アップデートされて意見も変わっていくはず。意見が変わらないというのは、アップデートされてないってことですから、むしろ変わって当たり前なんです。

宇野 きちんと自分の名前を出して、責任のある情報発信をやっている人ほど、過去に対して責任をとらなきゃいけなくなっている。それに対して、書き捨てている人であればあるほど、自分のことは棚に上げて、その場の揚げ足取りでちょっと賢く見せることができるっていう、すごい不均衡な状態になっていて。それをイーブンな状態に戻して、もう少し情報とつきあいやすくするための知恵が、すぐ消すってことだと思うんです。

浅生 初期のTwitterは、サーバーの容量の問題もあるんでしょうけど、24時間以上さかのぼれなかったんです。そこが変わったことで、いろんなところに変な影響を及ぼしているという気はしますね。

宇野 いわゆる「テレビっぽい」ものというのは、多くの場合は1980〜90年代前半のバラエティのセンスのことを指していて、それが誉め言葉や悪口になっている。それと同じように、この10年で「Twitterっぽい」ものができた。例えば、「大まかにはAである」って言ったことに対して、「いや、それにはBという例外的なケースのことが欠けている」と言って、実はまったく反論になっていないんだけど、反論になったかのようにドヤ顔をするようなコミュニケーションがそうですね。140文字の限られた中で言うんだから、大まかにはAである、という視点をとりあえず述べただけなのに、そのことを責められてしまう。このロジックで行くと、宇宙のすべての知識体系を140字に詰めこんでツイートしない限り責められてしまうことになる。

浅生 最近はTwitterに限らず、テレビのニュースも、ネットニュースもほとんど見ないんです。つまり、世の中の情報をほぼ遮断して生きてる。そうすると、世の中の情報が遅れて入ってくるんです。でも、遅れてくるころには、ある程度の過熱が終わって、どうでもいいことが削り取られて、出し殻みたいなものだけが落ちてくる。この状態がすごくよくて、熱すぎなくて処理しやすいんですよね。
 本当に大事なことは、電車の中で誰かが話してたりとかで自然と入ってくる。いらないことにみんな夢中になりすぎてるんです。もっと自分のこととか、家の猫のこととか、本当に身の回りのことを考えたほうがいい。

宇野 もともと僕は、インターネットが議論や対話に向いていると思ってはいないんです。特にTwitterを中心としたひとつの村では、みんな同じことを話していて、外側がない。その閉じた人間関係の中で、大喜利的に、いちばん気の利いたことを言った人が座布団をたくさんもらえるという相互評価のゲームをしていて、その外側に一歩も出ていない。震災からのこの9年間、この空間からは新しいものは一個も生まれないとずっと思っていたんです。

浅生 僕がNHKのアカウントやってたときも、何度も「Twitterは本気で使うものじゃない」と書いていたんです。書くたびに「だったらおまえなんで使ってるんだ」って、すごく怒られたんですけど、今でもそう思っています。SNSはしょせん人間を拡張しているだけで、のめり込み過ぎてはいけないんです。ただ酒場の隅っこで話していたことが、遠くに届くようになっただけで、内容が立派になったわけじゃない。
 ところが、届く範囲が拡張されただけなのに、自分の話している内容までが、語り口までがレベルアップしたと無自覚に勘違いしてしまう。

宇野 多くの人にとって、SNSになにかを投下することによって、自分の自己像を確認することができる快楽がすごく大きかったんですよね。
 これは恐ろしいことだけど、自分が情報ネットワークに発信することによって、自己確認していくことは、当たり前になって、否定しても仕方がないことになってしまった。それを受け入れた上で、じゃあどんなジャーナリズムがありえるかとか、どんなクリエーションができるかということを考え直さなければいけないんですよね。

浅生 コメント欄とかリプライって不思議で、あれは結局、誰かが発信したところを基準に書いているじゃないですか。つまり、自分発信ではなくて、他人の意見がまず存在して、そこで初めて自分の言いたいことが出てくる。でもそれは、自分で考えたことじゃないと思うんです。それって楽しいのかなって。ゼロから自分で書いてるほうがおもしろいと思うんですよ。

宇野 そういう人たちは、「ちょっと一本取ってやったぜ」みたいなことで溜飲を下げて、自分が賢くなったようになる快楽に取り憑かれてしまってるわけです。ただ、その卑しさに正面から向かって「それは安易なコミュニケーションで、むしろあなたをどんどんバカにしていますよ」って言っても、納得はしてもらえない。そうではなくて、「もっと楽しいことがある」とか、「もっとあなたにとって長期的に利益のある発信がありますよ」ってことを、肯定的な言葉で教えていくってことしかないのかなと思っています。

「正気」を強いるインターネットを

「狂気」でハックする

宇野 ちなみに、Twitter以外にも使っているSNSってありますか?

浅生 Instagramとnoteをやっていますね。Instagramは食べ終わったご飯をアップしています。

Instagram(@aso_kamo)より

宇野 なんかこれ良いですね。すごくきれいに食べてる(笑)。

浅生 そう、これが撮れるのは、完食できたときだけなんですよ。だから、僕はけっこう残すタイプなので、完食を促すために頑張ってるんです。

宇野 確かに飯粒とか残ってると、ちょっと「お百姓さんごめんなさい」って気分になりますもんね。

浅生 こういうことをやっていくうちに「日本の器は素晴らしい」みたいなことを言い出す海外の人とかも出てきたりして。芸術だと思っている人がいる。これなんかは、崎陽軒のシウマイ弁当のただの食べ殻なんですけどね。

▲崎陽軒のシウマイ弁当の空き容器(Instagramより)

宇野 でもこれ、超頑張れば現代アートとして展示できるかもしれない。「日本における食と器の関係を、空虚な中心を設定することで表現した……」みたいな超適当な理論武装で。

浅生 で、こっちはnoteですね。これは渦巻状に読むと読めるというものです。

▲「線を入れてやるだけで」(noteより)

宇野 すごい手が込んでますね。

浅生 下のほうに解答が書いてあって、「こういう順に読みます」みたいな線をつけてあげてたりして、ちょっとやさしくしてるんですけど。もうちょっと狂気に走りたいんですが、まだ狂気が足りないかなという感じです。
 いまnoteは爆発的にユーザーが増えていて、アクティブユーザーが2000万人とかいるんですけど、その多くがエッセイを書いていて、毎日何百万というエッセイがnoteの中で生まれている。そう考えると、僕はエッセイじゃなくていいなって思ったんです。最近は、もちろんエッセイも書きつつも、こういう変なものもやっています。

宇野 そう、noteのエッセイはだいぶレッドオーシャン感ありますからね。

浅生 あと、今度やろうと思っているのは、ゲームブックみたいに分岐していくリンクを使ったなにかですね。

宇野 あー、ゲームブックはやりたい。それこそ昔、大学ノート9冊分のゲームブック作ったことあるんだよね。そんなことやってるから浪人してるんだけど(笑)。

浅生 僕もゲームブックは相当作り込んたタイプなんですよ。高校くらいのときに流行ったじゃないですか。実は最初、Twitterでゲームブックをやろうと思ったんですけど、あれって非公開でリンク作れないから先に全部ネタバレしちゃうんですよ。でもnoteだと、非公開状態で全部リンク作り終わって、「せーの、どん!」で公開できるので「あ、ゲームブックができるわ」って思って、いま密かに準備してます。
 そうやって、プラットフォーマーが本来想定していないかたちでプラットフォームを使うことに最近は気分が向かっています。

宇野 プラットフォームのハックって、すごいおもしろいですね。でも、プラットフォームから離脱したところにある純粋なテキストの快楽みたいなことも逆にやりたくなりませんか?

浅生 なります。だから、小説は紙ベースで書いているし、だれも見ていない、自分しか見ていないただの画用紙に、ずっとレタリングしてます。

宇野 テキストの分量が制限されず、いくらでも書くことができて、書いた瞬間に世界中に参照させられるという、テキストを自由にするものが本来のインターネットだったんです。でも今はTwitterだったら僻みっぽいクソリプ、noteだったらエモいエッセイ、Facebookだったらリア充自慢、インスタだったら映える写真みたいに、プラットフォームによって逆にテキストが規定されてしまっている。

浅生 そうなんですよね。

宇野 字数制限などのアーキテクチャ以上に、内容までなんとなく引っ張られてしまうことに対してどう対抗していくかというと、1つはハックすること。もう1つは完全に離脱して自由なものにしてしまうこと。

浅生 インターネットって、人を正気にしようとお節介してくるじゃないですか。そうやってハックすることで狂気を保っているというか。僕はどこかに狂気をずっと持っていたいと思っているので、僕の狂気を剥がそうとするものからは距離を置きたい。

宇野 インターネットは、ほとんどの人は個性らしい個性を持っていなくて、考えることはあんまり変わっていないという、ものすごく残酷な現実を突きつけた。そのことによって、本当に狂った人を見つけると、お前もそういった我々と同じ凡俗の徒のひとりに過ぎないのだということを認めろという感じでノーマライゼーションしてくるんだと思うんだよね。

浅生 そこはやっぱり、少なくともなにかモノを作って生きていこうと決意した人間としては、ノーマライゼーションされないためにもどこかに秘密の小部屋を持って、そこでコソコソとレタリングをするみたいなことをね。

宇野 レタリングって、手書きでフォントを書くアレですか? 中学の美術の授業の時間でやらされて以来、久々に聞いた気がします。

浅生 そう。最近は「カルロス・ゴーン」みたいな文字を、ひとり画用紙に明朝体で書いたりとかゴシックで書いたりとか、コツコツ家でやっています。誰にも見せない、自己満足のためだけにやってることですが。

宇野 なるほど。プラットフォームをハックするか、それとも離脱するのか。

浅生 そういうことをコソコソとやっている感じですね。だから2016年には「浅生鴨のホームページ」というのを作ったんです。最初は「これ、どこの1995年ですか?」みたいな七色の文字がチカチカして移動していく酷いやつにしてて。今はもっとシンプルに、Mosaicとかでかつてみんながネットサーフィンして見ていたような、ただのグレーのホームページにしちゃってるんですけど。

「浅生鴨のホームページ」

宇野 僕たち世代には懐かしい「ザ・ホームページ」ですね。いまの大学生にとっては覚えてないというか、生まれる前の歴史が突然ブラウザに現れる、みたいな感じじゃないですか。

浅生 別にひねくれてるつもりはないんですけど、なんかもう、あらゆる物事に対する距離のとり方を頑張らないことにしたので。まあ、noteとかについては、ある意味ずれた方向に頑張ってると思うんですけどね。
 だから、最初にスクロールが長くできるようにnoteの仕様が改良されたタイミングで、ただの白いページを作ってみたんです。ずーと延々とスクロールし続けていくと、途中で一瞬、不安になるような文字がところどころに出てくる……とか。そういう初期インターネットのテキストサイトみたいな遊びの余地があるのはおもしろいですね。あくまで僕にとっては、ですが。

「プラットフォームの色」から

いかに自由になるか

宇野 僕もnoteのアカウントも持っていて、フォロワーもある程度いる。だから、「遅いインターネット」のウェブマガジンを作るなんて面倒なことはせずに、noteで良質なテキストをいっぱい書けばいいじゃないかって実は周囲からは言われていたんだけど、僕はそれを拒否してきた。別にnoteが嫌いなわけではないんだけど、この1年、自分のオリジナルのプラットフォームをnoteの外側につくることにすごくこだわってきたんです。いま話していて、その理由は、やっぱりプラットフォームから離脱しないと本当に自由にはなれないからだと思った。

浅生 そうなんですよね。プラットフォームにはプラットフォームの色があって、その色に染められてしまう。もっと言うとインターネットにはインターネットの色があって、インターネットの色に染められてしまうんですよ。

宇野 僕と浅生さんはほぼ同世代なんだけど、浅生さんは1980年代後半〜90年代のテレビや広告代理店カルチャー、いわゆる「テレビっぽい」ものの良質な部分をすごく吸収している人だと思うんです。でも、同じようなものを受け継いだ人のほとんどが、その力を旧態依然としたマスメディアのシステムの中で、お茶を濁すような仕事に疲弊していてそのせっかくの力を発揮できていない。それと、1980年代のテレビ的なもの、広告的なものって、本来は既存の支配的になっているプラットフォームをどう内側から相対化するか、どう引っ掻き回すかという勝負をしていた先輩たちが作り上げたものなのに、その継承者たちはいまの現実を変えていくためにでなく、変化が起きていない古い世界でお茶を濁すためにそのノウハウを使ってしまっている。それがもったいないですね。

浅生 1980年代半ばに、当時特に勢いが良かったフジテレビが、深夜放送で無茶苦茶なことをやりだして、それまでテレビというものを見ていた人たちが眉をひそめていた。それはやっぱり現状に対するカウンターだったんですよね。ところが、それが一般化しちゃった後には、さらなるカウンターが生まれなかった。

宇野 だからそれと同じで、いまnoteという優れたプラットフォームができて、そこにある程度の複雑性をもった長文を読ませることができるというネットエッセイの文化が乗ってきて、みんながエモいエッセイを書くという文化ができた。そこまではいい。それは結果的に、震災後に拡大したTwitter世間の同調圧力を中和するテキストの置き場にはなっていて、確かに現状に対するカウンターとしては機能していると思うので。だからこそ、noteにこんな使い方があったんだ、と思わせるような人がたくさん出てきたら面白いですね。

浅生 そういったコミュニティの中にどっぷり浸かってしまうと、外側に対して閉じてしまう。そこから自由に抜け出せる軽やかさを得るためには、コミュニティの外側に、自分が本来立つべき位置っていうのを自分で確保しなきゃいけない。それは多分、外側と言いながらも自分の内側にある、秘密の小部屋なんだと思うんです。

宇野 みんな、コミュニティの相互評価のネットワークの中で他人の顔色やタイムラインの空気ばっかり見ているせいで、なにかを書くときに本来必要なはずの、自分の内側の秘密の小部屋を覗くことを忘れちゃってるんですよね。

浅生 自分の中を覗き込んで、そこと向きあうというか。その作業を丁寧にやらないと、自分が書いていることは、本当の気持ちなのか、微妙に受けを狙った文章なのかがわからなくなる。

宇野 誰かの顔を見て書くのではなく、自分と向き合って書くべきですよね。

浅生 そこに尽きるかなと。本当の気持ちを本当に書こうと思ったら怖くて書けなくなるはずなので、それでも書かねばならぬなにか、強い衝動っていうものがある人とない人が、そこで分かれると思うんですよ。

「つながり」の外にある

発信の欲望を見つけなおす

浅生 「遅いインターネット」っていう言葉から、ちょっとだめなロボットを想像したんです。物事の主導権をインターネット側に全部渡さないぞ、というおもしろさを感じます。

宇野 そう、「遅いインターネット」って言葉が強烈で、いろんなイメージを喚起していると思うんだけど、やっぱりインターネットを否定していないってことがポイント。ネットワークに開かれている。ただそこに対しての速度の主導権を僕らが持っているだけなんだと。そこは外したくないんです。
 いまのSNS状況を批判するのってすごく簡単で、ネットワークから完全に切断しろと言う人もいるけど、もうそんなことはできない。僕はあくまで人びとの発信したい欲望を受け入れた上で、そこにどうコミットするかのほうが大事だと思うし、ネットワークによって繋げられて外部がなくなってしまった世の中を受け入れた上で、それをどうおもしろくしていくのかってことのほうが重要だと思うわけです。

浅生 ずっと内部にいると、その中のことが見えなくなるっていうのは間違いないんです。宇野さんがおっしゃるとおり、つながらずにはいられない、外部がなくなってしまった時代に、速さと広がりを求められている中で真逆の価値をもう一回考えてみるっていうのは、「なるほどそうきたか」みたいな感じはありますよね。
 インターネットが登場したときって、全世界がつながることで、ひとりひとりの手に民主主義がやってくる、みたいな感覚があって、熱狂した人びともいた。でも、結局それはやってこなかったっていう、諦めと絶望がどこかにある。いま、インターネットとの付き合い方や使い方をもう一度考え直すことで、かつてインターネットに抱いていた希望を取り戻せるのかなって思います。

宇野 つながること自体の奇跡に回帰したいんですよね。本来、インターネットは、東京でも沖縄でもバンクーバーにいても一瞬でつながるみたいな、本来つながらないはずのものがつながって、しかもそれが基本0円みたいなところに奇跡があるわけであって、そこにどう回帰するかなんだよね。

浅生 自分ひとりでコツコツやってる人が遠くでコツコツやってる人とお互い連絡をすぐに取れることが本当に嬉しかったんですよね。
 インターネットの黎明期に、ソ連の原爆を解体するっていうプロジェクトをやっていたんです。今だったらそんなのすぐできるのかもしれないけど、全世界のアーティストがお金を出し合って、メールで連絡を取り合って、現地にいる人にお金を渡して原爆を解体してもらうっていう。インターネットがないとできないことをインターネットが始まったころにやっていたんですよね。

宇野 結局、相互評価のネットワークの外部に価値を作ることができていなくて、承認を集めることが自己目的化していることが、すごく世の中をつまらなくしている。それは、コミュニケーションのためのコミュニケーションにすぎない。例えば、企業の中で実際に仕事ができる人や、外からお金を引っ張って来てくれる人ではなくて、社内政治がうまい人だけが生き残っていくっていうのはずっとあるわけです。いまはあらゆるSNSで、それに近いことになってしまっている。コミュニケーションのためのコミュニケーションではなくて、なにかのためのコミュニケーションであるってことを担保して、相互評価のネットワークの外側で決定的な価値を作っていく。そういう運動を僕はやりたいんです。

浅生 いまは変に溶け合っちゃっているけど、つながりから自立して、自立した者同士がもう一度ネットを使ってつながり合いましょうってことですよね。

宇野 みんなが、おもしろいことを生み出す人ではなくて、おもしろいことを解説できたり、紹介できたりする、回しのうまい人になろうとしている。でも、それって世の中がどんどんつまらなくなっていくシナリオなんだけど、そのことに気付いていないし、残念なことに、メディアや情報発信に関心がある人ほどそうなってしまっている。でも、インターネットって、もっと他のことを語るツールだと思うんです。

浅生 本来、ちゃんと価値あるものを紹介できるツールでもあるから、みんなが相互評価のネットワークの外側でひとつ価値を作ったりしてそれを紹介し合うっていうなんか普通のことができるとおもしろいんですけどね。

宇野 かつて、テレビカルチャーも、雑誌カルチャーも、受け手側が送り手の予想外の反応をして、それがフィードバックして進化してったものがすごくいっぱいあって、それが1980年代の爆発期を支えてたわけです。それはゲームで言えば、コミュニティ内のルールに適応することじゃなく、デバッガーの視点でバグや裏技を見つけていくことに近い。例えば浅生さんがツイートしたら3日以内に絶対消えるようにするとか、インスタにわざと映えない食後の写真上げたりとかしているのは、うまい付き合い方の知恵じゃないですか。
 本当はそうやって自分が付き合うプラットフォームごとの距離感を考えた上でやらないと、どんどん振り回されちゃう。そういう視点がない人間は、どこまでいってもプレイヤーでデザイナーにはなれない。無意識のうちにインスタには映え画像を投稿してしまうし、noteには無意識のうちにエモいエッセイを書いてしまうだけで終わる。次のゲームは作れないんです。

浅生 もっと言うと、やっぱりSNSに限らずインターネット系のプラットフォームって、F2Pのソシャゲと同じで本質的には商売でやってるので、僕たちは射幸心をすごく煽られてるんですよ。僕はむかしゲーム会社でメダルゲームとかを作っていたからわかるんですが、使い続けざるを得ないようなデザインを向こうは徹底してきてる。例えば、つい押したくなるような赤いポッチのUIとか、色とか大きさとかフォントとかも触りたくなるようなデザインをしてきてるとか、なにかあると逃れにくい通知音が鳴るとかは当たり前のことですね。
 そういうことをわきまえた上で、それが本当に自分が書くべきことなのか、書かされてるだけじゃないのかということを見つめ直していくことが、いまのタイミングでは特に必要だなという気がします。

[了]

この記事は、2020年1月31日にPLANETS CLUB定例会で行われた対談を、柚木葵と中川大地が再構成したものです。4月20日に公開しました。