「遅いインターネット」と速度からの
自由

西野 「遅いインターネット」って、いいタイトルですね。

宇野 うん。僕も自分ですごく気に入ってる。

西野 スピード勝負でババッとやって、自分の利益だけ確保して「勝ったぞ!」っていうのを繰り返していると、空しくなっちゃうんですよね。何やってんのかなって思っちゃう。

宇野 それって長い目で見たら負けていくことになるというか、目の前の「勝ち負け」で考えることで、一番大事なことを置き去りにしてしまう。一晩のお祭りのあとに何も残らなくなってしまうじゃないですか。
 僕もここ数年で少し考えが変わってきていて、瞬間最大風速を上げて大きな波を起こすことよりも、何が起きても、あるいは自分の中の欲望が変化してやりたいことが変わったとしても、走り続けられる足腰の方が大事なんじゃないかと考えを改めつつあるんですよね。

西野 今はすぐに結果を出さないといけない雰囲気がありますよね。確かにそれだとしんどいもんなぁ。でも、宇野さんがそうなってるのが面白いですね。そこから一番遠い人のイメージがあるので(笑)。何がきっかけで変わったんですか?

宇野 変な話なんですけれど、ランニングが好きになったことですね。走るのが習慣になると下手に大会とかに出て走れなくなるのが嫌だと思っちゃうんです。タイムを伸ばすために無理をして怪我をすると2〜3ヶ月走れなくなるから、タイムは気にせず自分のペースでひたすら走る方向に行く。でもそういう考え方が、僕の核となる仕事でも大事になると思ってるんです。

西野 本当にそうだと思います。そうでもしないと世界は変わらない。昔からパフォーマンスで「世界を獲る!」みたいなことは言ってたんですが、どこかのタイミングで、具体的に獲りに行くぞってなったときに、オンラインサロンのみんなで新刊を一斉に注文してAmazonランキング総合1位を取るようなことは、やろうと思えばいつでもできるんです。ただ、それを繰り返しても、中国の人は知らないしパリの人も知らない。だったらやるだけ時間の無駄だと思って。本当に世界をひっくり返そうと思ったら、町を作って畑を作って、攻めるにしても好きなときに戻ってきてご飯を食べられる状態を作っておかないと、結局バテて負けてしまう。戦のことばかり考えてちゃ駄目なんです。

宇野 僕は加速度的に物事を成し遂げるインターネットを全否定したいとは思わないんです。実際それによって生まれたイノベーションが世の中を変えている側面は良くも悪くもだけど確実に存在している。ただ、このイノベーションの連鎖を活かすためにも、一方では自分のペースを守る知恵も絶対に必要だと思うんですよ。要するに誰もが同じ速度で動いてしまうと、それはそれで多様性が失われる。単に「速い」「遅い」ではなくて、世の中の設定した速度から自由であることのほうが大事だと思うんですよね。
 だからこれからは日常の暮らしの中で、半径5メートルの世界に埋没しないように、でも天下国家のことに夢中で足元が見えなくならないように、くらいの距離感や進入角度を読者と共有していきたいんです。

「文化の四象限」とディズニーの倒し方

西野 それってすごく大事だと思っていて。宇野さんと以前に対談したときにも、そういう話題になりましたよね。その話がむちゃくちゃ面白かったので、最近は自分のスタンスを説明するときによく使わせてもらってます(笑)。

宇野 「文化の四象限」の話ですよね。「日常−非日常」と「自分の物語−他人の物語」の2軸を交差させて現代文化を四象限に分類すると、僕はこの中で「自分の物語×日常」の領域以外はもう全部押さえられていると思うんですよね。比喩的に言うと「非日常×他人の物語」はオリンピックやディズニーのアニメに、「日常×他人の物語」はYouTubeとNetflixに、そして「非日常×自分の物語」はディズニーランドと(オーバー)ツーリズムにもう押さえられちゃっている。

西野 「ディズニーを倒す」と言ったときに、そこをやらなきゃ何の勝ち目もないだろう、ということですもんね。

宇野 20世紀前半に一番力が強かったのが「非日常×他人の物語」で、当時普及を始めたラジオや映画を通じて戦争やオリンピックのような非日常を大衆に疑似体験させるものが支持されていた。20世紀後半は、それがテレビの普及で「日常×他人の物語」に進化していった時代で、要するに『笑っていいとも!』を昼休みに毎日見ていると、自分もテレビの中の芸能人たちの「友達の輪」に入ったような錯覚を覚えるようになっていた。
 それが21世紀になり、インターネットが普及して誰もが発信能力を手に入れると、それがどんなに凡庸なものだと分かっていても「自分の物語」を語ることのほうが「他人の物語」を見るより面白いことに気づき始めた。だから、「非日常×自分の物語」の領域ではみんなCDは全然買わないくせにフェスに行った写真は大はしゃぎでシェアしている。
 そうなると、僕らに残されているのが「日常×自分の物語」しかない。僕の考えではいまここに一番アプローチできているのは、Googleというか、Googleから派生したナイアンティックのゲームですよね。つまり『Ingress』や『ポケモンGO』のことですけど、このゲームでも『ポケモンGO』は通勤途中とか通学途中とか、そういった隙間の時間をハックすることはできているけど、メインの日常そのものはまだハックできていないですからね。

西野 無敵のディズニーの弱点って何かってことを考えたとき、僕らにチャンスがあるとすれば、あれが現実世界から乖離しているファンタジーだということなんですよね。ディズニーランドとか映画館とかに出かけて会いに行かなきゃいけない。そういうふうにデザインされてると思うんですけど、逆に朝起きてから夜寝るまで、ディズニーに触れてない時間も結構ある。だからファンタジーのような夢の国を作るんじゃなく、日常生活の中にファンタジーというか自分たちの世界観を練り込んでいって、触れざるをえない状況を作ってしまうしかない。
 僕たちが作った『えんとつ町のプペル』という絵本に登場するえんとつ町も、建物の造形は全部日本家屋なんですよ。つまり、実在の日本家屋にえんとつを付けたらそれっぽく見えるようになっていて、最初からある町をリノベーションする前提で絵本を設計している。だから今、僕の地元の川西市にも日本家屋が並んでるんですけど、そこにえんとつ一本立ててみんなで実際にえんとつ町を作ろう、ということを始めていて。
 「町を作る」と言い出すと面白いのが、僕だけの物語では終わらなくて、こういう活動を面白いと思った人たちが実際に土地や建物を買ったりして、全国からわざわざ移り住んできたことなんです。
 僕一人でえんとつ町を作ろうと思ったら資金的にも設計的にもむちゃくちゃ大変なんですけど、今ある町にみんなの日常を持ち寄って「住む」というかたちで作り替えていけるようにすることで、最終的にディズニーランドよりでかくなるかもしれない、という可能性が見えてくるんじゃないかって。

「 ひとつ決めていることがあって、
それは一人も見捨てないということ」

宇野 西野さんのコミュニティって、デカいこと言っている割にはなんというかカッコよくないですよね。そこがいいなあって。カッコよくないところがカッコいいというか、見ていて気持ちよくて。

西野 ひとつ決めていることがあって、それは一人も見捨てないということ。僕のオンラインサロンには、普通の主婦もいれば、上場企業の社長もいるし、ホームレスもいる。いろんな職業や世代の人が一通り揃っているので、非常に難しいことではあるんですが。
 たとえば、地方の主婦を見捨てないためにどうすればいいかを考えたときに、フライヤーのデザインレベルを落とすんですよ。僕はよく地方で講演会をやりますが、そこで「西野の周りの人たちはイケてる」ということにしてしまうと、「自分なんかで大丈夫なんだろうか?」「私、ついていけないかも……」と思われかねない。
 最近、スーパーのチラシを勉強していて、昔からダサいと思っていたんですが、あれはダサいことに意味がある。ウチのサロンメンバーで地方でイタリア料理屋をやっている人がいるんですが、親から継いだお店をリフォームしてオシャレにした途端、集客が落ちたそうなんです。お客さんを緊張させてしまったんですね。それではダメなんです。実家の近所のダイエーのチラシはダサかったけど、お客さんに安心感を与えることには成功していて、ウチの母ちゃんはダイエーに入るとき一度も緊張していなかった。あれを戦略的にやらなきゃいけないんですよ。僕が地方で配っているチラシは本当にダサいんですよ。「元気が出るぞ!」みたいな感じになってます(笑)。

宇野 この前、高円寺で有名な小杉湯という戦前から続いている銭湯の三代目と話したんですが、彼は西野さんと考え方が似ていて、祖父から引き継いだ銭湯を今の人に合わせた、中距離の関係性が手に入る場として展開しているんですよ。全人格的に承認し合った「何があっても俺は絶対に味方だよ」というような熱いコミュニティじゃなくて、単に追い出されないだけとか、いつもいる人と目礼するかしないか程度の、本当にミニマムな承認だけが存在する場を設計している。それは昔は自然発生的にあったのかもしれないけれど、今の時代は設計しないと成立しない。人間には個として自由に振る舞える空間か、あるいは味方で固めたコミュニティが必要だと思われているけど、本当はそんなことはなくて。それよりも、相互理解や仕事に対する評価は全くないけど、ゆるく承認し合っていられるような場が求められていると思うんです。

西野 そういう街は居心地がいいから住みたいですもんね。なるべくそういう空間が生まれるようにはしていますね。そうですね……意識高い系のコミュニティにありがちな、「動いてナンボ」みたいなマッチョな感じにはしないようにしています。それが向いてるところもあるかもしれませんが、ウチには合わないので。

宇野 僕らはいつの間にか、ただそこにいることを許されている感覚を忘れている気がするんです。我関せずか、あるいは自己実現を目指して相手をマウンティングしてでも成果を上げるかの2パターンで成り立っている。それって「いいね」を押すか押さないか。デモに来るか来ないか。一緒に気に食わないあいつの悪口を言うか、言わないか。そういう見方なんです。でも本来「排除されない」というのは、人間にとって必要な感覚です。単に排除されないだけの場所って気持ちよくないですか?

西野 むちゃくちゃ気持ちいいですね。最近はそれを実現できている感じはありますね。

宇野 自分で選んだ場所に単に排除されずにいられる。その距離感って今まであるようでいてなかった。意外と人間を長期的に支えてくれるのは、単にそこにいることを咎められない、そういう感覚だと思うんですよね。

西野 それをつくれると本当に大きいですね。そういうコミュニティは誰も辞めないもんなぁ。

宇野 たとえばディズニーランドは偉大だけど、ときどき首根っこを掴まれて「楽しめ」って言われている感じがするんですよね。せっかく舞浜まで来たんだから、アトラクションをいくつも回って、グッズを買って、インスタ映えする写真も撮って、なんとしても楽しまなきゃいけないみたいな。ガツガツしない距離感の趣味や娯楽の場が、今は不足している気がするんですよね。

西野 確かにディズニーランドは、それなりに結果を出さなきゃいけない雰囲気はありますね(笑)。

宇野 どうしても取れ高が気になりますよね。西野さんのコミュニティにはディズニーランドというよりは、銭湯や床屋に行くような感覚でコミットしている人が多いと思うんです。銭湯や床屋での雑談に、全人格的な承認や思想の肯定を求める人はいませんよね。

西野 確かに、たまたまそうなっていた。でも、考えてもいたのかな……。あとはイベントやコミュニティをつくるとき、タイトルで釣ったり、内容とかけ離れた過大な表現で煽るようなことはしないようにしています。たとえば、イベントの写真でも、一番よく撮れたものは使わない。インスタ映えする写真で一時的には集客できても、期待され過ぎると後でガッカリされてリピーターにならない。

宇野 タイトルや見栄えのいい写真で人が釣れても、それは一過性でしかないんですよね。お祭りの縁日のリンゴ飴屋みたいなもので、場の雰囲気でお客さんの合理性を麻痺させて、デカくて不味いリンゴ飴を買わせている。あれ、ほとんどの人は食べ切れずに途中で捨ててると思うんですよね。

西野 確かに。口の周りがベチャベチャになるし。

宇野 インスタ映えがなかった時代から客を騙して売っていたわけで、あれと同じロジックですよね。ただ、そういったことは冒頭で話したように、20世紀の文化産業がやり尽くしていて。今の人々が求めているのは、やっぱりハレよりもむしろケの場の面白さだと思うんです。

「ごめん、間違った」と表明することの威力

西野 今、僕たちが仕掛けているのは50年単位の戦争であって、1〜2年の勝負ではないので、一時的な効果しかないやり方は意味がないんですよね。革命を起こすには時間がかかりますから。

宇野 よく「誰も排除しない」と口では言うけど、実践できた人はほとんどいないんです。「誰も排除しない」は、いろんな人を受け入れることだと思われているけど、それだけでは不十分で、むしろゆるく承認することのほうに力点がある。何かを成し遂げないといけないとか、真剣に対話しなきゃいけないとか、そういう場ではないことが大事なんです。分かり合えない人同士を一生懸命に対話させようとするのも間違いで、対話なんてしなくていい、相互理解なんてなくていい。ただお互いがそこにいることを肯定し、それ以上踏み込まないことのほうが大事なんです。そこで具体的な意見の一致とか、同じイデオロギーの信奉といった話になってくると、友敵の論理が生まれてくる。これは、僕自身がイデオロギッシュな人間なので、なかなか難しい。ヘイトスピーカーとかがいたら多分本気で怒っちゃう。でも、西野さんはそこにチャレンジしていて、それは貴重な試みだと思うんですよね。

西野 結論を出し切らないというか、論破し切らない。最近そんなことばかりやってますね。あと、メンバーのリアクションが一番大きいのは、僕が「ごめん、間違った」と言ったときなんです。

宇野 西野さんはしょっちゅう「ごめん」「間違えました」「撤回します」って言ってますよね。

西野 最近は誰も言わなくなりましたよね。ネットで間違いを認めると叩かれるから、立場のある人ほど言わなくなっている。「ごめん」という言葉は実はすごくて、皆がその言葉を待っている感じがありますね。間違っていいんだと、ちょっと救われている部分もあると思います。

宇野 ごめんなさい、意見撤回します、やっぱり変えますというのは、失敗への追及から逃れることではなくて、この先も信頼関係を築いていきたいという意思表示なんですよね。だから短期的には「コイツ浅はかだな」と思われるかもしれないけど、長期的には信頼を獲得していると思うんです。

西野 むちゃくちゃ評判いいんですよね。謝ったとき。

宇野 あとはストーリーテリング的にも、自分は間違っていた、別のやり方が正しかったとなったときには快感が発生する。悪役が仲間になる瞬間、たとえば『ドラゴンボール』でピッコロが悟飯を育てていくうちに愛情が生まれて、悟飯をかばって死ぬとき、すごく感動しますよね。それは価値転倒が人の心を動かすからなんです。だから、自己主張はするし価値判断もする、いわば線は引くんだけれど、その線を絶対に譲らないのではなく、何度も何度も引き直すことによって、逆に信頼を獲得していくことのほうが大事な気がする。

西野 あと、謝るときにはキュートさが必要ですね。箕輪さんの謝り方はちょっとかわいいですもん。「ごめんなさい」というのは、めちゃくちゃいいんですよね。「失敗しました。でも、絶対に取り返します!」と言っているときの方が、いいことを言ったり、正解を出しているときよりも、コミュニティがまとまる感じがします。

宇野 そういう長期的に読者やお客さんと信頼関係を築いていくためのコミュニケーションと、単にそこにいることが否定されない距離感って近いと思うんですよ。「あなたのことを信じています」という関係性の先には、「あなたの命令なら飛行機に乗ってビルに突っ込みます」があるし、それだと謝った瞬間に殺されかねないんですよ。でも、中距離のゆるやかなコミットメントならそうはならない。

「午後4時」くらいの距離感で

宇野 だから、「遅いインターネット」も、日曜日の夜に『サザエさん』を観るのに近い感覚で、どうすれば「今日は○曜日だから宇野のサイトを読もう」というふうに日常に埋め込めるのかを考えていかなきゃいけないな、と思うんですよね。ただ、テレビと違って「みんな」じゃなくていい。一度「みんな」と考えると、逆にどこからどこまでが「みんな」なのか線を引かないといけなくなる。だから、僕たちのやっていることに偶然触れてくれた人が何割かの確率で読んでくれたらいいなと思っています。

西野 面白いですね。今の環境でウェブサイトをどうやって生活の中に織り込んでいくかを考えるのはすごく楽しそう。テレビ番組の強みは時間が決まっているところでしたけど。

宇野 決まった時間にテレビの前にいるのは現代人のライフスタイルとしてはありえないので、そうではない生活への入り込み方を考えないといけない。僕が最近考えていることは、読者の「書く」ことへの欲望にアプローチすることですね。「自分も書きたい」という思いを抱えている人に呼びかけて、そこを入り口に、他人が書いたものを「読む」ことの面白さを伝えられたらと思っています。

西野 サイトが読まれなくてもサイトのことを思い出してもらえる時間帯があるといいですね。たとえばイスラム教の豚肉が食べられない教義は最高だと思っていて。皆でごはんに行って豚肉が並んでいて、「これちょっと食えないな」ってなったとき、信仰のことを考えるわけですよね。これは宗教からの発信ではなく、食卓が信仰について考えさせたんです。禁止をひとつ作ったことで、信仰に思いを巡らす時間が生まれた。そういった日常に潜んだ仕掛けがあると、発信していないときも「遅いインターネット」について思い出してもらえる。

宇野 そういう意味でのタッチポイント、引っかかりをどこかに作るべきなんでしょうね。最初に「遅いインターネット」構想を打ち出した『PLANETS vol.10』で佐渡島庸平さんや箕輪厚介さん、家入一真さんと議論したときにも、いろんなことを考えたんです。例えば朝の2時間しか見れないとか、ひとつ変なルールで引っかかりをつくる。前田裕二用語で言うところの可処分精神をどうハックし、アプローチしていくか。単に面白い記事があるとか、いい写真が載ってるとか、そういうことじゃない。入口としてそういうものが欲しいんですよね。

西野 日常の中にあるといいですよね。トイレとか、ゴミとか、爪とか、髪の毛とか。日常的に必ず触れるものをハックできると凄くいい。トイレとかめっちゃいいですよね。未だに相田みつをくらいしか取ってないから、トイレで絶対に思い出すものになったらデカいですよ。そういうのを皆で考えるのはお題としてむちゃくちゃ楽しいですね。

宇野 やはり「読むこと」よりも「書くこと」に引っかかりをつくった方がいいのかもしれない。「読むこと」の発展形としての「書くこと」ではなく、「書くこと」がベースでそのオプションに「読むこと」があるように。僕自身が古い出版業界出身の人間だから切り替えは難しいんだけど。「遅いインターネットを読まなきゃ」よりも「書くときにはコレを気を付けなきゃ」って思ってもらうほうが簡単だし有効な気がする。

西野 Twitterやインスタで発信するときに、何かメッセージが目に飛び込んでくるといいですね。いったんブレーキがかかりますもん。

宇野 豚肉の話が面白いのはその不自由さにあって、100人いたら5人か10人くらいは「なんでそんなルールを守ってるんだろう?」ってことに関心がいくはずで。それは不合理さへの引っかかりなんですよね。自分が豚肉が食えないわけじゃないから実害はないんだけど、「なぜだろう?」って思う。それぐらいの感覚がいいんだろうな。

西野 ダウンタウンさんが『4時ですよ〜だ』をやってたとき、午後4時という時間設定は天才的だと思ったんです。走って帰らないと間に合わないから、あの頃の中高生は3時を過ぎると「やばい、急がないと」と考え始める。当時のダウンタウンさんは午後4時という、めちゃくちゃ不便な時間帯を奪っていたんですよ。部活動をやってる奴はそのために練習を断らなければならない。「ゴメン『4時ですよ〜だ』見たいから帰るわ」って。それでちょっと急いで帰れば間に合うっていう絶妙な時間なんです。

宇野 いいですね。髪の毛や爪のように、あるいはトイレのように、そして午後4時くらいの距離感で。不可能じゃないけれど、ちょっと頑張ったり、何かを都合しないとたどり着けない、午後4時のような距離感。今はハードディスクレコーダーがあるから、テレビでそういうアプローチはできなくなっている。でも、インターネットの世界なら新しい知恵で可処分精神を奪いにいけるんじゃないか。「午後4時の距離感」は、ネットの世界でなら実現できるのではないかと思います。

西野 「午後4時の距離感」すごくいいですね。宇野さんたちの「遅いインターネット」が、そういう「頑張れば辿り着ける」っていう感覚をどうやって見つけ出していくのか、僕もとても楽しみにしてます。

[了]

この記事は、菊池俊輔と中川大地が構成を、小野啓が写真撮影をつとめ、2020年2月17日に公開しました。
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