いま、この原稿を20gに換装したgateronクリア軸にしたzincで書いている。
 配列は、飛鳥配列を40%用にセルフカスタムしたものを使っている。
 ………こう言われても、何のことか理解できる人は中々いないだろう。これはキーボードと、キーボードの配列の話だ。
 私はここ半年ほどキーボード配列関連の「沼」(マニアのコミュニティ)にはまっている。ここから、沼関連の鉄板ネタを展開することもできるのだが、今回、書きたいのはこの沼の「居心地の良さ」がどのような仕掛けによって成立しているのかについてである。
 キーボード配列についての沼は、おおまかに3つぐらいに分かれている。物理配列沼(自作キーボード沼)、ソフト配列沼、タイパー沼の3つである。どの沼もゲーム、マンガ、アニメなどのオタコミュニティより参入障壁が高い。
 とりあえず、そのことだけわかってもらえれば、下記は、いささかオタトーク気味な話になるので、次の小見出しまで、進んでもらってもいい。
 この沼に入る動機として一番わかりやすいのは、タイパー(高速タイピング)の沼だ。高速入力ができたらいいな、と考えたことのある人は多いだろう。最近は、音声入力が扱いやすくなったため、かなり速く入力できるようになったが、固有名詞や専門用語が多い話になると、まだまだ、物理キーボード入力のほうが早い。究極レベルのタイパーは、テレビの字幕放送などの速記者たちで、彼/彼女らは、StenoWordという特殊なキーボードを用いて、恐ろしい速度で文字入力を達成している。たとえば、「コミュニケーション」と打つのに、QWERTYローマ字ならば、「komyunike-shonn」と15回ほどキーを打たなければならない。親指シフトやカナ入力なら9打。それが、StenoWordならば、たった一回の打鍵で打てる。StenoWordは、頻度の高い数千の単語を予めシステム的に登録してあり、複数のキーを同時押しすることで一発で打てる。ただ、このレベルのタイパーになるには、学習コストが半端ではなく、数年間の修行が必要になる。ここまでいかなくともQWERTYや、カナ入力でのタイピングの大会でランキングに残るような成績にいる人々は、かなり熱心なトレーニングを日々積んでおり、これはかなり、eスポーツ的な世界になっている。タイピングの国内大会である、Realforce Typing Championshipなどは、決勝動画をYouTubeで見られるが、e- Sportsの世界の一種だと言ってしまって問題がなさそうな雰囲気が漂っている。
 2つめは、物理的にキーボードの配列を設計・自作する沼である。エルゴノミクスキーボードなどでイメージされるような変わった形状のキーボードを設計したり、作りたい人たちが集っている。この沼が盛り上がりはじめた直接的な理由は、技術プラットフォームの構造変化のためだ。メカニカルキーボードの世界的企業だったCherry社の特許が切れたことで、2010年代中盤から安価な中華系キースイッチが登場しはじめ、「自作キーボード」や「自キー」というキーワードで、日本では、特に2018年ぐらいから本格的に盛り上がっている。個人が設計したキーボード組み立てキットを、ネット経由で簡単に手に入れられるようになった。この沼に入ることによる、即物的な御利益がなにかあるかというと、肩こりがよくなることが多い。ちなみに、下記は、マイ・キーボードの写真である。

 沼住民は、自分でキーボードを設計するのであれば、回路図を読めて、簡単なプログラミング能力が必要となる。他人が設計したキーボードを組み立てるだけでもハンダ付けと、ファームウェアの設定はできなければいけない。そのため、沼住民は圧倒的に理系が多い。沼に入るのを躊躇う物理キーボード好きは、HHKBやRealforceを買うぐらいがせいぜいで、それよりも明らかに深そうな、この沼には入ってこない。
 そして最後の沼は、ソフト的にキーボードの配列を設計・自作する沼である。QWERTYローマ字入力ではなく、親指シフトを使用してする人は物書きには多いが、親指シフトのような特殊配列も、実は様々な人がその改良版を発表している。この沼が成立している理由も、技術的なプラットフォームによる影響が大きい。「やまぶき」や「DvorakJP」といったフリーソフトを導入することで、QWERTYではない、好きな配列を自分で導入・修正できる。
 自分で親指シフトに変わる新たな配列を作る場合、だいたいの配列設計者は、テキストの解析知識などをもっている人が多い。また、自分で配列をつくるにせよ、人の配列を使うにせよ、QWERTYローマ字入力を棄てて、ゼロから文字入力を学び直さなければいけないので、少なくとも数ヶ月かかる。単純な時間コストから言っても、この沼に入るには、相当の覚悟がいる。ただ、スポーツ的なトレーニングまでせずとも、一度ある程度の水準までマスターしてしまえば、原理的に確実にQWERTYローマ字入力よりも高速に打てるようにはなる。
 ちなみに、下記の画像は、筆者が飛鳥配列(親指シフト配列の一種)を大幅に改造したセルフ配列である。

 私は、まだタイパー沼には属しているとは言えないが、自作キーボード沼には単に組み立てるほうではそれなりに深く浸かってしまっているし、配列沼に関しては自分で設計もしていて、かなりどっぷり浸かっている最中であると言っていい。
(▲ここまで、読み飛ばしてもらってもいい)

 そして、沼の居心地は、ざっくりといえば、参入障壁が高いほど、印象がよりよい。これは、個人的には、驚くべきことだった。私は、インターネットでコミュニケーションをするということが、だんだんと億劫な、煩わしいものになってきている側の人間で、SNSから引退ぎみである。しかし、キーボード関連の沼は、居心地がまったくわるくない。まるで、2000年代はじめぐらいのインターネットのようなものを改めて感じた。

配列沼の居心地の良さ

 上記の沼は、厳密に言えば、さらに細分化は可能だが、要するにどの沼も深く、参入障壁が高めである。
 沼の居心地がいい、というのは、対象が複雑でやりがいがあるというよりも、おそらく、その沼の住民が本当に濃い人しか残らなくなるので、コミュニケーションで嫌な思いをすることが少なくなることに拠っている。
 自作キーボード沼は国内コミュニティの治安はとてもいいが、英語圏についていえばその限りではない。人がかなり多く、かなり組み立てやすいキットも多いせいか、口の悪い書き込みもそれなりに目立つ。配列沼に関しては、言葉や情念が強い人もいるにはいるが、基本的には、日本語配列の沼住民は、国内のみで完結しており全体的にかなり穏やかである。
 特に、配列沼が印象的なのは、その界隈で発言する人のほとんどが、自分で設計した配列をもっており、「一国一城の主」の感があることだ。他人の作ったものを変に妬んだり、一方的に作り手に要求するような人をほとんど見ることがない。
 大きな理由はおそらく3つある。
 第一の理由は、もし他人の作った配列に気に入らないところがあれば、自分ですぐに配列を書き換えることができる。その変更はかなり簡単になっている。この性質からか、作り手と、使い手の間の非対称性が限りなくゼロに近い。とはいえ、我々は、「ユーザーであり、クリエイター」みたいなことを謳ったサービスは、この十数年で、いくつも見てきた。ニコニコ動画でも、YouTubeでも、インスタグラムでも、マインクラフトでも、そういうものだったはずだが、多くのサービスは、メジャーになっていくとともに、そのコミュニティは殺伐としていったり、妬みが生まれたりしてきた。しかし、いまのところ、配列沼には、それはあまりない。
 第二の理由は、強者がいないことだ。配列沼にとっての敵があるとすれば、デファクトスタンダードとしてのQWERTY配列である。「今日はいいお天気ですね」ぐらいのノリで、「QWERTYは、本当にだめですね」と、QWERTYだけはカジュアルにけなされる。飛鳥配列、新下駄配列、月配列、薙刀式など、マイナーメジャーな配列は、あるにはあるのだが、たぶんいずれも全世界で利用者数が1000人を越えていない。そしてまた、配列にせよ、キーボードにせよ、5年も10年もずっと居続ける「古参の常連」もあまり多くはない。
 第三の理由は、リテラシーが高くないうちは、話に入りようがないことだ。たとえば、「<と>をホームポジションの中指に置くべきか、どうか」みたいな話に、基礎知識のない人が入ってきて何かわかったようなことを言うという可能性がそもそも少ない。
 結果として、配列沼は、かなり特殊な沼になっている。いま、配列沼で発言量が一番多いのは、映画監督であり、配列「薙刀式」の作者でもある大岡俊彦である。Ruby作者として知られるまつもとゆきひろなども自作配列「きゅうり改」を公開しており、なんだか、何かを設計する力がやたらと高そうな人々が多い。
 こういった参入障壁の高い「沼」のありようは、ゲームのコミュニティ設計とは、真逆のように見える。マス向けのゲームを設計するとき、とくに序盤では様々なユーザーが遊びやすいように、導入の設計をごく丁寧に行う。ユーザーが参入しにくい設計は、まったくゲームのノウハウとは真逆のもののように見える。
 だが、このコミュニティに「ゲーム」っぽさを感じないかと言えば、そんなことはない。むしろ、極めて居心地のよいゲームのような感触すらある。

拡ってきたハッカー・コミュニティ

 配列沼にせよ、自作キーボード沼にせよ、自分がつくったものの良し悪しというのは、少し動かしてみるとわかる部分が多い。とくに配列を一つだけ入れ替えた場合や、キースイッチのカスタムをする程度の場合には、そのフィードバックは5分もかからずに理解できる。
 すなわち、フィードバックが速い。
 そして、その要素と要素の間には、さまざまなトレードオフがあり、複雑で、奥深い。
 こういった性質は、何かのゲームに習熟しているときに体験する現象と、ほぼ近似している。
 しかしながら、これがマス向けのゲームと違うのは、その参入障壁の「高さ」にある。フィードバックを受け取るループに入るための基礎スキルセットの要求水準の高さは、生半可なユーザーを受け付けない。
 参入障壁の高いこうしたPCまわりの沼というのは、一言でまとめてみれば、ハッカーコミュニティー的なものだと言っていい。ハッカー論の古典『ハッカーズ』(スティーブ・レヴィ著/松田信子・古橋芳恵訳 工学社 1987)の中で、スティーブン・レヴィは、ハッカーたちの行動原理を、楽しさに駆動されて高度にマニアックで生産的なことをやる人々であるとして描きだしている。
 コンピュータを設計することは楽しく、プログラムを書くことは楽しく、ゲームを設計することも楽しい。高度なSTEM教育を受けた人々の戯れが、コンピュータや、インターネット文化の土台を作った。
 つまるところ、キーボードまわりの「沼」は、少なくとも70年代のカリフォルニアにはすでに存在していた伝統的なハッカーコミュニティの派生したものの一形態である。
 我々の生きる世界には、複雑で、奥深いものは無数にある。そして、その複雑さがどのようなものかを理解していくことは、我々の知的好奇心を満たしてくれる。
 ハッカー文化の対象になっているような「沼」は、そうした、複雑で、奥深いものに、明確で高速なフィードバックをつけて、自らそこにコミットすることができ、やめることもできるような環境を構築することによって成り立っている。
 これらは、参入障壁そのものを低くすることによって隆盛を保っているメジャーなインターネットのプラットフォームの戦略とは、明確に異なるものだ。メルカリも、TikTokも、インスタグラムも、メジャーなプラットフォームのほとんどは、いかに多くのユーザーに、簡単に利用してもらうのか、ということに心を砕いている。これらは、言ってみれば、2000年代中盤以後のCGMが全面化した以後のマス向けのインターネットだ。
 キーボード関連の沼にハマった場合にアクセスするのは、そういったマス向けのCGMプラットフォームではなく、メジャーとは言えもう少しだけ参入障壁を感じるプラットフォームである。たとえばDMM.make、GitHubといったものだ。よく知られているサービスではあるが、利用したことがないという人も多いだろう。
 どちらのサービスも、開かれたサービスではあり、日常的に利用している人にとっては当たり前に使われているプラットフォームだが、利用するためには隠れたハードルがある。
 あたりまえだが、GitHubはプログラムを学んだりいじったりすることのない人にとっては縁遠いサービスだし、DMM.makeも自分で3Dプリントをしようと思ったことのない人には、触ることのないサービスだ。
 そして、マス向けのサービスも、ハッカー的なサービスも、これらはどちらもゲームとしての性質をもったコミュニティ形成のあり方を助けている。
 我々は、インターネットの中に、複数の「ゲーム」のあり方を見ることができる。ここまでの議論をまとめれば、次の表のようになる。

 TwitterやFacebookなどのマス化したインターネットのプラットフォームでも、技術的な仕組みとしては書き手と、読み手の間に差がない。とは言え実質的には、ユーザー間の感触の格差は大きい。リビングでだらだらと、テレビに向かってぐちぐちと言っているような感覚でニュースにコメントするような「書き手」は、大量に存在している。
 今のTwitterやFacebook、特に時事ニュースなどについての反応は、こうした大量の無責任な書き手たちによって、辛い状況となっている。それに比べると、キーボード関連コミュニティは、初期インターネットから続くインターネットの幸せな「夢」の風景を維持しているコミュニティだと言っていい。
 こういったコミュニティは、人数が増えれば、腐っていく危険はもちろんある。たとえば、MMORPGのコミュニティなどは、ほとんどのコミュニティで「運営はクソ」というような批判が飛び交っていて、こういった批判をみるのはあまり気持ちのいいものではない。しかし、MMORPGのコミュニティは、はじめからこういうものだったわけではなく、MMORPGが技術的にも本当にあたらしかった90年代中盤には、こういった「運営批判」は、それほど多くなかった。
 MMORPGを90年代中盤にやっていた層は、かなりITリテラシーの高い層に限られていたし、MMORPGにきちんと接続して、安定したプレイ環境を構築するということ自体がプレイヤーにとっても挑戦だった。それを乗り越えて、プレイヤー層と、2000年代中盤以後のプレイヤー層は、同じような構造をもったMMORPGだったとしても、その体験を成立させている構造そのものが違っていると言っていいだろう。

複数のインターネット、複数のゲーム

 我々はインターネットのなかでハマることのできる「沼」のなかにいくつもの、異なる構造をもった「沼」を観察し、選びとることができる。
 ほとんどの場合、どのインターネットのプラットフォームがどういった偏りをもっているのかについて、意識することがないが、この偏りについて、我々は、もう少しそれぞれの行為の構造を言語化し、明示的に理解することを意識できるためのツールを手にすることを真剣に考えたほうがいいだろう。
 宇野は「遅いインターネット」が重要だと述べているが、プラットフォームの「速度」に関わる問題もその一つだろう。
 もし、「速く」て「参入障壁の低い」サービスが作り出すコミュニケーションの均衡が社会的分断や、エコーチェンバーの増幅に致命的に寄与してしまうのであれば、そこに規制を設けることもできるだろう。

[了]

この記事は、PLANETSのメルマガで2019年11月25日に配信した井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』番外編「並列するゲーム的コミュニティ」を改題したものです。あらためて、2020年2月20日に公開しました。
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