停滞の10年の先に、
「遅いインターネット」を始めよう

宇野 濱野さんの著書『アーキテクチャの生態系』が出版されたのは、いまから10年と少し前の2008年のことです。これは、iモード、2ちゃんねる、ニコニコ動画など日本でガラパゴス的に発展したインターネットに、アメリカのそれとは異なる独自の価値と、ひいてはそこには来たるべき21世紀の情報社会の公共性を考える手がかりが眠っていることを示唆した、決定的な一冊だったと思います。

『アーキテクチャの生態系』

 ところがあれから10年経って、いまこの国で「インターネット」について語るのは、ちょっとしんどいところがあるのが現実だと思うんですね。実際に濱野さんがPLANETSのメールマガジンの不定期連載も、もはや「日本の」「インターネットの」ことを考える価値はないという宣言から始まっていて、アメリカ西海岸的なものと何度目かの人工知能ブームという問題設定がされる。それはとても説得力のある指摘なのだけれど、ここはあえてインターネットについてもう一度考えてみたくて……。とりあえず、この10年でインターネットの何が変わったか、から話を始めたいと思うのですが。

濱野 宇野さんから「遅いインターネット」というコンセプトを聞いて、「そもそもこの10年、インターネットはほとんど変わってないんじゃないか」と思ったんです。特にSNS界隈を見ると、あまり新しいサービスが出てきていないんですよね。
 『アーキテクチャの生態系』が出た2008年前後は、2ちゃんねる、ブログ、はてなダイアリー、mixi、Twitter、YouTube、そしてニコニコ動画と、新しい可能性を感じさせるサービスが毎年のように生まれていました。でも、そうしたSNSが次々に出ては盛り上がる状況は、2010年代には訪れなかった。
 その一番大きな要因はスマートフォンだと思います。みんながスマホを見るようになり、TwitterやFacebook、Instagramのようにさまざまなアプリが登場した。けれども、スマホのアプリだとユーザの体験がアプリの内側で完結してしまうんですね。要は1つのサービスの中に囲い込まれる。
 そうすると、ウェブが本来持っていた生態系(エコシステム)としての性質が薄れてしまう。つまり、ハイパーリンク1つクリックすれば別のサービスにジャンプして、また別の体験をして、また戻って……というウェブ環境特有のダイナミズムが生まれにくくなってしまった。もちろん技術的には、APIなり裏側で各種ウェブサービスは連携しているんだけども、ユーザ側の体験として、いわゆるウェブサーフィンと言われていたような雑多ものに出会う体験や機会が本当になくなってしまった。
 かつてであれば、新しいサービスがどこかでポンと生まれ、まず意識高い人たちが集まってちょっと盛り上がり、流行してしまったら次のサービスへ移動する……というノマド的な移住サイクルをSNSの世界で繰り広げることができた。しかし、このサイクルがこの10年ですっかり遅くなった。正直なことをいうと、だから『アーキテクチャの生態系』の続編も書けないんですよ(笑)。

宇野 なるほど、プラットフォームレベルでの更新がない、と。

濱野 国内でも国外でも、少なくとも大きな進化は起こってないですよね。世間的には、いわゆるGAFAのような巨大なプラットフォーマーががっちり市場を握っていて、顧客を逃がさない仕組みができあがっている。新しいサービスが始まっても他社にパクられて終わり、みたいな感じ。最近新しく出てきたのはTikTokぐらいじゃないか。

宇野 つまりこの10年、僕たちはFacebookとTwitterでグチグチ言ってるだけだった、ということですね。プラットフォームの入れ替わりのスピードとしては、それこそ悪い意味で「遅いインターネット」になってしまっていたのかもしれない。
 逆に言うと、その前の10年にあった絶え間ないプラットフォームの更新においては、その度にプラットフォーム上でのコミュニケーションがリセットされていた。それによって、僕らの社会とか文化のレイヤーも攪乱されていた。その機能がなくなってしまったダメージは意外と大きいのかもしれない。

濱野 そう、悪い意味で遅くなっていて、インターネットの新陳代謝が起きない原因にもなっている印象です。2000年代は、まだ「趣味はインターネットです」とギリギリ言えたじゃないですか(笑)。でもそれ以降は、いい意味でも悪い意味でもソーシャルメディアが大衆的なものになった。
 例えばここ数年、YouTuberが話題ですけど、とにかくメディアとして「全然新しくないなあ」と思ってしまう。そもそもYouTube自体が全く新しくないですし、その中身もどこかで見たことがあるようなコンテンツや企画ばっかりだし、なんであんなにテレビでもないのにテロップを入れるんだろう、みたいな印象が強い。それこそ古臭いテレビのマネごとをしているようで、妙なアナクロニズムが起きている。もちろん、僕が知らないだけで、新しい才能を持った人は出てきているんでしょうけどね。ただ、メディアとしてのインターネット全体では進化が起きなくなっていて、僕としてはつまらない。
 それこそ懐かしい言葉を使えばCGM、つまりコンシューマー・ジェネレイテッド・メディア(消費者生成メディア)の発展が起きなくなったのは、自分のなかではちょっと予想外だったんですね。
 それでいうと、アメリカの法学者ジョナサン・ジットレインがずいぶん前に「generativity」という言葉を使って、インターネットの「生成力」に関する話をしています。これは僕の「ニコニコ動画の生成力」(NHKブックス別巻『思想地図vol.2』2008年)という論文の元ネタにもなっているんですけど。
 簡単に説明すると、インターネットでは皆が自由にサーバーを立ててサービスを展開できるから生成力が高いという話です。普通の意味での創造性は「creativity」だけども、それは個々人の才能の話になりますよね。それに対してジットレインは、インターネットは環境そのものに「generativity」があると区別した。でもジットレインはその本の中ですでに警鐘も鳴らしていて、スマホが登場してGoogle Play StoreやApple App Storeのようなプラットフォーマーがアプリを検閲するようになるから、generativityは落ちるだろう、と。

宇野 この本って『インターネットが死ぬ日』?

濱野 そうです。まさに死にましたよね。予言が当たってしまった(笑)。もちろん表面上は生きてます。メールも届くし、検索できるし、特に検閲とかもないし。問題はないように見えるんだけれど、たしかに生成力という意味ではぐっと落ちてしまった。それはなぜなのか。もちろん複合的な要因があると思います。

『インターネットが死ぬ日』

 例えばソーシャルメディアというものに対する、デジタル資本主義の存在は大きい。簡単に言うと、日本ではあまり意識されていないけれど、Twitter社が買収されないまま市場でぽつりと浮かんでいる。誰も大手が買収してくれないわけです。
 なぜなら、日本でしかウケてないから買う必要がない。日本人はTwitterに出てくる広告をうざいなんて言っているけど、あんな荒れた場所に広告を出したいクライアントがいるわけがない。Twitter自体がオワコンになりつつあって、世界的にはFacebookとInstagramで十分、という状況があるんですよね。それこそトランプが暴言を吐くための場所として、彼がTwitterを買収するんじゃないかと僕は数年前から言ってましたけど(笑)。
 昔はインターネットがコミュニティや場を作り、エンパワーメントをするんだって考えがありましたけど、個々人のレベルはいったん措くとして、世界全体として実際そうなっていないのは明らかです。僕もこの対談の話を受けてから理由を考えていたんですけど、答えが出ないんですよね。そういう答えが出ないところを見つめていくのも、このメディアの重要な役割なんでしょうけど。

宇野 僕自身、インターネットが個人をエンパワーメントしていく流れは一周してしまったと感じている。確かに誰もが発信力を持ち、人間関係を可視化してマネジメントして、好きなときに好きな人とコミュニケ—ションをとれるようになった。しかしその結果、どちらかというと人間の空疎な部分が可視化されてしまったようにも思う。だからこそ、これからは「何を語るか」つまりメッセージの内容と「どう語るか」つまり語り口がとても重要になっているんじゃないかと。
 だから「遅いインターネット」に関しても、どんな中身を、どのように伝えるかがテーマ。広告も出さずに、完全にクラウドファンディングとスポンサーからのお金でマネタイズしようと思っていて。

濱野 広告を出すと「ナントカをやるための8つの方法」とか、どうしても数字を求める手法に囚われかねないですからね。その先にあるのは何年か前のWELQ騒動でしかない。それに対する別のビジネスモデルやメディアの魅力を見せていくのは、すごく重要なことだと思います。でも、どんなやり方があるんですかね。例えばサロン的なこととか? PLANETS CLUBって今どれくらいの会員数なんですか。

宇野 いまは500人くらい。

濱野 なるほど、ちょうどAKB48劇場のキャパより少し多いくらい(笑)。

宇野 勉強会が中心の地味な活動をしてるんだけど、そこにコアなファンがついてくれていて。広告ビジネスからは距離を置いて、自分たちが読みたい情報を自分たちで作るようなモデルに取り組んでます。

濱野 王道ですね。なるほど。

宇野 だから、草の根的な運動に回帰していった感じかな。

濱野 インターネットも、最初の最初はそういう草の根的な運動だったんですけどね。

宇野 だからそこに原点回帰して、みんなでおもしろいウェブマガジン作ろうぜ、というところから再出発するつもり。メルマガだとどうしても構造的に閉じちゃうので、開かれたアプローチも両輪で必要だと感じて。

濱野 それこそブログすらなかった1990年代は、テキストサイトと呼ばれるメディアがあって、結構みんなそれを読んでいた。あれはかなりファンジン文化に近かった。でも、今は誰もが読んでるウェブメディアってほとんどない気がする。サイト単位で何かを読む文化自体が薄れたというか。スマホで長文を読まなくなりましたしね。

インターネットが停滞し、
懐古が世界を覆う?

濱野 そういえば先日、中国へ呼ばれて行ったんです。美術系の大学で、メディアアートやデジタル社会の問題を考えるシンポジウムに僕も呼ばれて話したのですが、そこで現地の大学院生たちの発表を聞いたんですよ。例えばTikTok的なライブシェアアプリでは、自然に自撮りするだけで「盛って」撮れるから人々は「オートメイテッド・アディクション」の状態に陥っている、という批判がなされていて、その話自体は、動物化+アーキテクチャによる環境管理型権力という感じでよく分かるんですけど、その学問的なアプローチというのが1990年代から全く変わっていない。
 つまり、懐かしのポストモダンセオリーがいまだに生きてたんです。ジャック・デリダとかピエール・ブルデューとかベルナール・スティグレールとかを皆ヨーロッパとかに留学して学んでくるらしいんですが、僕からしたら、とっくにオワコンのセオリーなんです。や、その手の議論はもう終わったよ、そこから先の話をしないと……とも言えなくて。

宇野 2周目のインターネットをどう生きるか、みたいなことだよね。1周目にできたことはたくさんあったけど、同じくらいできなかったこともある。それを隣の中国では、僕らが体験した10年よりも相当速いスピードで1周目のインターネットを経験していて、部分的には追い越してすらいる、と。何年か前に行った西海岸と比べるとどうだったの?

濱野 西海岸と違うのは、とにかく常に議論が明快にできないことですね。例えば向こうでは一切話題に触れませんでしたが、それこそ今なら香港やウイグルの問題は厳然としてあるわけですよね。インターネットやソーシャルメディアが発達したら、普通はデモクラシーとポピュリズムの話になるじゃないですか。フェイクニュースやポスト・トゥルースの話だってしたくもなる。僕も本当はそういう話題を普通に盛り込もうかなと思うんですが、それでも自主規制をしてしまう自分がいた。中国の場合、どこで何がタブーになるかわからないから、たとえ大学の場だとしても、言論の自由が保障されている感じがしない。いや、といいつつ、「日本では『N国党』という日本型のネットポピュリズムが生まれつつある」的な話はしたりしたんですけどね(笑)。

宇野 ソーシャルメディアにおいて、日本とは明らかに違う環境にあるよね。

濱野 そのシンポジウムでは、東南アジアにおける若者のソーシャルメディアと政治活動の関係についての報告も聞いたんです。曰く、東南アジアでは一般的に若者ほど政治への参入率や意識が低くなっていると言われがちである。だけどLGBTへの意識を高める運動だったり、コンドームを使おうみたいなハッシュタグが流行っていたりと、実際の若者はソーシャルメディアを使って政治的な活動をしていると言うんですね。性/生政治的な意味でのマイクロポリティクスが若者世代では起きている。うん、それはそうだろう、という話。

宇野 そうだね。世代の話にもなるから。

濱野 世代でいえば、つい最近出た田中辰雄さんと浜屋敏さんの『ネットは社会を分断しない』では、こんな風に書かれていたんです。インターネットやソーシャルメディアによって過激な議論が起こり、同じ意見の人ばかりで話し合うからエコーチェンバー化し、分極化が進むと言われる。だけど統計的に10万人規模で調査した結果、若い層では起きていなかったと。

『ネットは社会を分断しない』

 実際には中高年で、インターネットを使っていない層のほうがはじめから分極化が起きている。これは本当にそうだと思うんです。だってたまにワイドショーを見ると、ずっと韓国や中国の話をやってるわけで、こんなプロパガンダを受けてたら嫌いになるよ、と思いますもん。そういう人がちょっと検索してYouTubeなんかを見たら、すぐネトウヨになるはずで。はじめから極端な傾向の人がインターネットを使えば、より過激になっていくのは当然じゃん、と。
 だから『ネットは社会を分断しない』では一応、インターネットの未来はあります、分極化は起きていないです、と結論づけてるんだけど、これには違和感があったんですよね。だからといって問題ないと言えるのかと。もはやインターネット単体をメディアとして扱ってどうこう言える話ではなくなっている。

宇野 総力戦からテロへ戦争の形態が変化したわけじゃない? あれは要するに小人数で小規模な破壊と殺傷で最大限の効果を狙うようになっていったということで、それを可能にしているのはインターネットなんだよね。要するに敵国の都市の中心でテロを起こせば、小規模でも敵国のマスメディアをハックして自分たちのYouTubeを宣伝できる。そうすることで、自分たちのメッセージを効果的に伝える。N国のやっていることもこれと同じメカニズムだと思う。少数だから軽視していい、という単純な議論にはできないね。

ファスト&スロー、
複数の時間を生きること

濱野 そういえば「遅いインターネット」のキーワードを見たときに、ダニエル・カーネマンという心理学者を思い出したんです。彼はまさに『ファスト&スロー』と題した本を出していて。
『ファスト&スロー』というのは要するに、人間の脳の処理スピードの話なんですね。人間の脳はそもそも臓器としてすごくカロリー消費が高いのですが、例えばその中でも、深く言語的に考え込むような「スローな処理」の場合、脳はものすごくエネルギーを食ってしまう。だから、人間は学習を繰り返すことで「ファストな処理」、つまり無意識の行動へと置き換えていく。要は「自転車に乗る」というとき、いちいち頭の中で「まずはサドルにのって、右足をペダルに置いて、その次に……」なんて言語的にマニュアルを確認していたら、ヘトヘトになってしまう。だから人間はそれを無意識で、低カロリーで処理できるように学習していく。これが、行動経済学でいうバイアスなどの源とされているわけですが。

『ファスト&スロー』

 で、いまのGAFAに代表されるようなインターネットは、まさにユーザーを「ファスト」のほうに行かせる研究ばかりをしているわけです。A/Bテストなんかが象徴的ですが、とにかく動物的かつ群集的に、どっちのほうが人はポチりやすいのかをひたすら最適化している。
 まあ最近でこそ「デジタルウェルビーイング」といってなるべくスマホを触らないようにしましょうといったことを掲げるようになりましたが、「スロー」なインターネットメディアそのものを作ろうとするのは、GAFAは決してやらないでしょうね。それ自体がすごく意欲的だし、批評的でおもしろい。だから、どういう形で実現できればいいのか、興味があります。

宇野 「ファスト&スロー」でいうと、一般的には「ファストじゃなくてスローな思考が大事だぜ、もっとじっくり考えてバランスを取ろう」って考えがあるよね。それにはもちろん、僕も賛成なんだけれど。

濱野 それだけではない?

宇野 うん、速度が複数あることのほうが大事だと思う。昔はテレビを見てみんなが同じ話をしていたけれど、インターネットがその状況を破壊した。「テレビでは沢尻エリカの話をしてるけど、俺は仮面ライダーの話をしてるぜ」でもよかったわけなんだけれど、いまはテレビとインターネットがほぼ融合してしまって、またみんなが沢尻エリカの話をしてしまっている。つまり、複数の時間を生きることが難しくなっているんだよね。

濱野 ああ、吉本芸人の炎上とかもそうですよね。Twitterのトレンドなんかによって、興味がなくても情報に触れざるを得なくなっている。

宇野 いまのタイムラインは速すぎるから、速さで勝つことは難しい。だから、その反対の「遅さ」で、複数の流れを作りたいんだよね。
 ポール・ヴィリリオの『速度と政治』という冷戦の頃に出た本があって、「大陸間弾道弾によって戦線と後方のような場所性が無くなり、戦争の概念が変わってしまう」みたいなことが書かれている。いま改めて顧みると、これはインターネットと経済の話にすごく当てはまるんじゃないかと。

『速度と政治』

 GAFAのビジネスって基本的に場所が関係ないし、即時じゃない? おまけに『速度と政治』には「核戦争において、軍隊や組織はもはや必要ない。一人の独裁者と、労働者がいればいい」とも書かれているんだよね。

濱野 GAFAという巨人と大衆って今の構図と完全に同じですね。ポスト・フォーディズムでもいいし、インターネット・コングロマリットの発想でもいいんですが、要はGAFAのような「優しい独裁者」がいて、そこにデータを提供する「流動的なプロレタリアート(プレカリアート)」がいるという現在の構図は、まさに冷戦期から、核戦争時代から変わらないのか。なるほど。

宇野 そうそう、だから冷戦当時の議論って、いまのプラットフォーム論に置き換えてみるとおもしろいんだよ。実際、『PLANETS vol.10』で押井守にインタビューしたのだけど、あの『パトレイバー2』に出てくる、というか引用されている「戦線から遠のくと、楽観主義が現実にとって代わる」ってセリフは、いまの社会では無効化されているわけじゃない。
 なぜかというと、いまの戦争は基本的にテロである。そして、テロは地理性を超えて行われる。例えばロンドンやニューヨークの街中で行われた比較的小規模の殺傷でも、テロの報道でメディアをハックすることによって、メッセージを遠く離れた国で効果的に伝えられる。だから、アルカイダやISの奴らは、YouTubeでドヤるためにテロを起こしている、とさえ言えるんだよね。

濱野 当時『パトレイバー2』の背景になっていたような議論というのが、インターネットとグローバル経済によって上書きされてしまっていると。

宇野 テロという暴力が、地理性を超えた圧倒的な速さを持ってしまっている。だから、この速さに対抗する遅さを考えてもいいんじゃないかなと。
 ちなみにそのとき押井守と話したのは、対抗策は「気にしないこと」だということだった。もちろんテロの犯人は捕まえるし、防犯対策も必要なのだけど、一方では「交通事故のほうがたくさん人が死んでるじゃん」くらいの達観も必要で、市民がテロに慣れることで、テロの報道でメディアをハックされることを防ぐのが一番の対抗になりうる、ということを話した。実際、今年ニュージーランドで起きた銃乱射事件では大勢の人が亡くなったんだけど、徹底して犯人の報道をしなかった。
 こうした現在のテロ対策はまさに、大陸間弾道弾から発達してきた「暴力の速さ」に対する「遅さによる抵抗」だと思う。

読むことの快楽ではなく、
書くことへの関心ばかり溢れている

濱野 なるほど、繋がってきました。だから「遅いインターネット」なんですね。速度の政治学もそうだけど、速度の現象学が必要なのかもしれない。速度をいったんエポケー(現象学的還元)しないといけないな。

宇野 似たような問題を、もう少し違うレベルでも感じている。そもそも、人間は文章を日常的に読みたいと思ってないと思う。でも書きたいという人はたくさんいる。僕は本を読むのも書くのも好きだからこの仕事をやってるけど、それは趣味として文を読むのが好きな人の生き方に過ぎない。

濱野 なるほど、いまは書きたいという人のほうが多いのか……。そこはこの10年で大きく変わったかもしれない。2000年代にブログとかが出始めた初期のインターネット上のコンテンツはテキストしかないし、書きたいモチベーションのある人たちがそこに参入してましたけど、基本的にはみんな本を読んでいるな、って感じの人が多かった印象が強い。

宇野 初期のインターネットにおける喜びって、タダで面白い記事が読めちゃうことじゃない。少なくとも、10代の僕はそう思っていた。もちろんコミュニケーションの快楽もあるんだけど、半分くらいは「読む快楽」だったはず。でも、今は一般的なユーザにとって読む快楽ってほとんどないのかもしれないね。

濱野 うーむ、今はそうなんですね。そういう「読む快楽」に導かれて、我々はデビューしていったわけですけど。

宇野 たぶん特殊なのは彼らではなくて、我々のほうなんだと思うよ。だけど書くことに関心があるくせに、ほぼ読んでない人のテキストが現代のインターネットには溢れていて。そこに問題があると思うんだよね。

濱野 読まないのに、書きたいかあ。……うーん、まあ、人生上のコスパを考えるとそうなるのかなぁ……。まあ自分は、上の世代から「お前は読んでない!」というプレッシャーを感じまくってきたので、あんまり下の世代に「もっと読め!」とか言いたくないんですけど、複雑な気持ちにはなりますね。
 とはいえ、自分がインターネットで物を書き始めた頃と今とは、状況があまりに違う。もっと速く、刹那的に消費されるテキストがインターネットには溢れている。あとはテキストだけじゃなくて、喋りがうまくなりたいって人も多い印象です。YouTuberにもそれを感じる。それに、インプットは軽視されがちですよね。「アウトプットしないとインプットした意味がない」みたいな主義もありますから。

宇野 僕たちはインプットとアウトプットが循環構造になっていると捉えていたけど、これが壊れ始めていると思う。今はそのパワーバランスが変わってしまって、アウトプットの比重が良くも悪くも大きくなってしまっている。これは「ウェブ2.0」の残した弊害のような気もするけど。だから、発信に関心の9割くらいが持っていかれている人たちに、どうやっていい記事を届けて、読む面白さを教えるのかを裏テーマにしていくしかないんだよ。

濱野 なるほど、それはかなり深いテーマですね。そうか、ウェブ2.0的なCGMが普及しすぎると、雑なアウトプットが良貨を駆逐した結果、CGMが自壊してしまったともいえるわけか。

宇野 究極的には、やっぱり他人に関心を持つことなんだろうけどね。読むって他人に脳を侵食されるのが究極的には快感なわけだから。

アーキテクチャから文体へ

濱野 いいですね、「他人に脳を侵食される」というフレーズ。漫画の『寄生獣』じゃないけど、僕は常に書き手として「ミギー」が勝手に書き出すことの快楽を求めてきたなと思いますね。憑依される快楽。そうじゃないと、書く気が起きないんですよ。それこそミメーシス(感染)がないと筆が動かない。
 それでいうと、一昔前には有名な小説家が書いた文章読本ってありましたよね。文章の読み方、書き方をわかりやすく教えるような。

宇野 今はほとんど見ないよね。それに、ライティングや編集を教える専門学校やカルチャースクール的な場所もどんどん減っている。個人やコワーキングスペース、書店が主催するような講座は生まれているんだけど、有名な編集者や書き手を講師で呼んで、彼らと繋がれることを謳い文句にするようなやり方には疑問があるね。それってコンプレックス商法になっちゃうじゃない。
 それってFacebookで繋がれば価値が生まれるって発想と何も変わらない。それで自分が何者か表現者になれるっていうのは間違った幻想だと思う。それを売り物にしちゃうのは違うよね。もっと読むこと、書くことのスキルみたいなことをしっかりと担保する必要がある。

濱野 もちろん人脈も大事だけど、書くことへの自意識ばかり肥大して、内実が追いついてないわけですね。いやー、といっても、僕もあまり書かなくなっているから大きなことは言えないけど。でも、どういう形が可能なんだろうな。

宇野 僕は「文体」の開発が必要なんじゃないかと思う。村上春樹がなぜ国民作家になっていったかと言えば、1970年代末に、当時兆しが見え始めた消費社会にふさわしい新しい文体を生み出したからじゃない。それまでの日本の私小説の伝統をぶった切るために、英語の翻訳体のパロディとして、「偽翻訳体」のようなものをやった。そこから多くの村上春樹エピゴーネンが生まれていくんだけど、その中からインターネットが普及する21世紀に入ると、このときの村上春樹のようなアイロニカルな構えを必要としないフラット化が進行していく。
 例えば伊坂幸太郎みたいな作家は、村上春樹エピゴーネンのひとりとも言えると思うんだけど、そこにミステリーやアクション小説の要素を混ぜていったわけだよね。神戸にくるアメリカ商船の船員からペーパーバックをもらって読んでいたんだ、みたいなかっこいい逸話を村上春樹が語るけれど、それを仙台の郊外にあるTSUTAYAに置き換えると、伊坂幸太郎になっていくんじゃないかな。当時はひたすらフラットにしていけば読みやすくなる時期だったと思うんだよね。村上春樹の文体からアメリカ臭さを抜いて、ドメスティックかつ無場所的にしていった、みたいな。

濱野 そんな風に、現代のインターネットにおける新たな文体が必要なんじゃないかと。

宇野 そうそう、アーキテクチャによって人々が発信能力を持っていくと、本来は散文によって表現されていたコミュニケーションが、「いいね」ボタンみたいな「機能」に代替されてしまった。もちろん、手軽に文章が書けること自体はいいんだよ。でも、その結果、皆がいいねを押すような文章しか書けなくなってしまったと。

濱野 よっぽどAIのほうがうまい文章を書くかもしれない。散文が消えてしまったんだ。

宇野 逆に言うと「機能」のことばは、ほぼアーキテクチャが代替してしまえる時代になっている。それでも文章でないと伝えられないことはあって、それをちゃんと抽出できるような新しい文体が必要だと思うんだよね。それはかつての出版の時代の文体に戻ろうということではなくて、あたらしいものが必要なのだと思う。
 2ちゃんねるの文体や、それほど特徴的じゃないけれどTwitterやFacebookの文体も一応発生してはいるんだよ。でも、ここで重要なのは吉本隆明的に言うと「指示表出」ではなく「自己表出」のことばであって。指示表出のことばがアーキテクチャにほぼ代替される今、自己表出をちゃんと内包できる文体を考えたいんだよね。

濱野 まとまった文章自体の需要が下がっている時代に、新しい文体でレコンキスタを仕掛けるんだと。書き手としては非常に興味深いですね。そう言われると書いてみたくなる。いいじゃないですか。歳を取ってきたから、直感的によくわかりますよ。もう本とかね、文体が合うか合わないでしか読めなくて、最近とか、昔読んだはずの三島由紀夫ばっかり読んでますから(笑)

宇野 定期的に書いてほしいって言ってるじゃん(笑)。

濱野 いやー、すんません。そこはまあ諸事情あって(苦笑)。でも、これはまさに火をつけられたなあ。そうか、今そんな感じなのかと思って。それならやってやんぜ、って気になってきますよ。

宇野 僕もまさに読者の反応を見て、40代は書くことを頑張ろうかなと思った。もちろんメディアを運営したりアーキテクチャについて考えたり、システムをハックしたりすることも大事なんだけど、今は愚直にいい文章を書く大事なタイミングだなと。

濱野 その「いい文章」って散文と通ずると思うんだけど、もっと詳しく聞いてもいいですか。

宇野 必ずしも「機能のことば」だけが伝わりやすいわけではないと思うんだ。比喩を使ったり、メタレベルのことに言及したほうが深く刺さったりすることもある。
 それに、基本的にことばでは言い表せないものを表現するために文学や詩があって、逆にその文学や詩を中心に人間の言語が発達してきた。ことばで論理的に説明できないものをいかに表現するかというアクロバティックな運動こそ、実は言語表現の基本だったりするわけじゃない。そこが意外と共有されていなくて、国語の授業で小説や詩を扱っていたことが活きていない。

濱野 本来、初等教育からやっているはずなのにね。

宇野 佐野洋子の『おじさんのかさ』って絵本の最後で、奥さんが「あら、かさをさしたんですか。雨がふっているのに」と言うんだよ。この一言がなぜ面白いのかは、機能のことばで説明できないわけだから。

濱野 なるほど。ちなみに僕が非常勤講師として大学でメディア論を教えていたとき、「とにかく批評的な文章を書いてこい」って課題を出してたんですね。マクルーハンとか知りたかったらググればいいし、読まなくてもいいから、とにかく批評的になにかを論じろと。すると100人受講生がいて、3人くらいはすっごいマジでいい文章が出てくるんですね。ただ自分は非常勤講師だから、そこからその力を伸ばすことは一切できなくて、すごく残念な思いはしてたんですよ。結局、文体の良し悪しってあくまで確率の問題だと思って、方法論はあまり意識してこなかったんです。

宇野 優れたアーキテクチャがあれば確率は上がっていく、だから環境を整備しようって考えは1万%正しいんだよね。だけど10年も停滞しちゃうとさすがに歪みが大きくなっているから、そろそろ人力でどうにかしなきゃいけないんじゃないかと思う。

濱野 言語表現の文学的機能はなかなかAIには真似できない、というか学習できないでしょうし。なぜなら、人間ですら学習できないんだから。

宇野 そう、人間がまず学習できなくなっていってるからね。

濱野 具体的にはどんな風にやっていくんですか?

宇野 まずは僕の知っているスキルを全部教えた上で、ひとりの文章に赤入れをして、その意図を全部説明するとかかなあ。本当に手探りではあるんだけど、まずはPLANETS CLUBの会員向けに、試験的に始めています。Twitterで募集したらすごく反応もよくて。

濱野 なるほど、面白い。文体の話は、宇野さんが雑誌が好きと言ってた理由ともつながっているでしょうね。雑誌って独特の文体があるじゃないですか。それこそ巻末のコラムなんかで、匿名的な、でも確実にテクニックのある文体に面白さを感じて、僕なんかはファミ通を読んでましたし。
 これがインターネットとなると、たしかに『ほぼ日』や『デイリーポータルZ』には文体がありますから、そういうものとはまた別の何かを作るということになるんでしょうね。うん、僕もこれは火がつきました。もうこの10年くらい、なんとなく、こう「書くぞ!」みたいな火が自分の中でつかなかったんですけど、今のインターネットの状況を俯瞰すると、やってやろうという気になってきましたね。

宇野 村上春樹から伊坂幸太郎で言うと、アメカジからユニクロになってるわけ。でも、ユニクロの次がまだないじゃん。だから村上春樹が日本における私小説の文体を切断したようにね、SNS的な文体をどこかで切断することが必要なんだろうね。

濱野 まさかアーキテクチャの議論から始めて、文体について語るとは思ってなかったです。「アーキテクチャから文体へ」ということですね、この10年は。でも、すごくポジティブな結論だし、着眼点もクリアだと思います。「遅いインターネット」からどんな文体が生まれてくるのか、自分も含めて楽しみにしたいですね。

[了]

この記事は友光だんごが構成し、2020年3月16日に公開しました。
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