ウイルスと放射性物質――21世紀のパラダイム

 年初から全世界の話題が新型コロナウイルス一色となるなか、2020年3月11日に東日本大震災および福島第一原発事故から9年を迎えた。この二つの出来事が重なったのは、さまざまな意味で象徴的である。

 そもそも、ウイルスと放射性物質は好一対の存在である。原発事故においては、人工物である放射性物質が自然の空気や水に入りこんで拡散する。そのため、われわれの生存環境そのものが命を脅かす凶器に変わってしまうだろう。それに対して、パンデミックにおいては、自然物であるウイルスが人工の商業施設や交通機関に入りこんで拡散する(※)。そのため、日ごろは経済を潤す観光やビジネスがウイルスを広げる温床となってしまうだろう……。パンデミックと原発事故は「自然と人工の合作」だからこそ、制御するのも、そこから逃げ去るのも難しいのだ(ついでに戯言を言えば、コロナと原子力はともに太陽を連想させる)。

 さらに、ウイルスのメカニズムと地震のメカニズムの発見はいずれも比較的新しい話である。つまり、どちらも古くから人類のそばにありながら、その実態は100年ちょっと前までは正確に知られていなかったのだ。ウイルスは細菌と違って光学顕微鏡では観察できないので、20世紀後半に電子顕微鏡によってようやくそのイメージを徐々につかめるようになった。他方、地震についてもやはり20世紀後半にプレートテクトニクス理論が現れて、そのメカニズムが徐々に知られるようになった。しかし、いずれにしても、その複雑な全貌を解明するには到っていない。

 ウイルスもプレートも(あるいは放射性物質も)その正体を五感によって知覚することはできない。これらをとらえるには、日常の知覚からの大幅なジャンプを必要とする。ふだんは「見えないもの」が、技術や理論の補助によってようやく「見えるもの」に変わる――このミステリアスな特性がひとびとを不安に陥れ、ときに魅了するのだ。人間社会は今や、抽象的な知識や概念でしかとらえられない極小の存在(ウイルスや放射性物質)と極大の存在(プレートや気候変動)に挟み撃ちにされている。それこそが21世紀のパラダイムだと言えるだろう。

 パラダイムということで言えば、今回のパンデミックは政治的に見ても、グローバルな開放性への大きな挑戦となるに違いない。GAFAのような現代のグローバル企業は「国境のない世界」を、商業的なプラットフォームのなかで作り出そうとしてきた。さらに、ドナルド・トランプ大統領や極右政治家のように民族や人種のあいだに「壁」を作ろうとする風潮に対抗して、リベラルは「越境」や「融和」にこだわってきた。1990年代以降、右と左、ナショナリストとグローバリストの争いはおおむね「境界」への態度と関わってきたと言ってよい。

 しかし、それは所詮、人間どうしの争いにすぎない。皮肉なことに、ウイルスと放射性物質は「境界のない世界」の夢を悪夢として実現してしまった。この両者はいわばラディカルなリベラルであり、過剰なまでに越境的であり、だからこそ危険なのである。特に、ウイルスは国境を超えるばかりか、人間と動物、生物と無生物の境界も超えてしまう。しかも、その度重なる越境のなかで「変異」を起こして、新たな能力を獲得することもあるのだ。

 このようなウイルスの振る舞いには、われわれの時代のパラダイムが凝縮されている。例えば、先日韓国のポン・ジュノ監督の『パラサイト』がアカデミー賞の作品賞等を獲得したが、宿主の細胞にとりついて増殖する――しかもHIVのように逆転写酵素をもったレトロウイルスの場合は、宿主のDNAも書き換えてしまう――ウイルスとは、まさにパラサイト(寄生者)そのものである。現代の表現者たちは今回のパンデミック以前から、すでにウイルス的存在によって現代の社会構造を照らし出そうとしていた。

 しかし、ウイルスや放射性物質という過激な「非人間的リベラル」は、それが現実のものとなると、かえって「人間的リベラル」を恐慌状態に陥れてしまう。例えば、香港は長らく自由で開放的なグローバル・シティとして栄えてきたが、2019年の大規模デモと今回のパンデミックを経て、対中国の免疫系をいっそう強化したナショナリスティックな都市になっていく可能性がある――だが、それは下手をすれば「都市的なもの」の自己否定を招きかねないだろう。

 しかも、都市の自己閉鎖は今やどこでも起こり得る。かつてカミュは『ペスト』(1947年)で、アルジェリア海岸のみすぼらしい街が、ペストのために「監禁状態」に置かれるさまを克明に描いた(いわば今回の武漢のように――といっても武漢は一千万都市であり、そこは『ペスト』と根本的に違っている)。しかし、このグローバル化した21世紀においては、どこにいようと、ウイルスや地震や気候変動やテロリズムから完全に逃れる術はない。つまり、地球そのものが一個の恒常的な監禁システムなのであり、その内部にそのつどの危機に応じて、一時的な監獄都市が出現すると考えたほうがよい。われわれは原発事故やパンデミックに呼応して、認知地図を新たに書き換えねばならない。特にウイルスは、現代の健康や生命への挑戦であるばかりか、知への挑戦でもある。

(※)もっとも、今や天然痘ウイルスのように、人工的な合成が可能なウイルスもある。天然痘そのものは1980年に根絶されたが、その再発が懸念されている。万が一、人工合成された天然痘ウイルスがバイオテロの道具として使われれば、人類への被害は計り知れない。

リスク社会では知識が存在を生み出す

 それにしても、震災と原発事故を経験したにもかかわらず、今回の日本社会のコロナ対応はその教訓を活かせなかったと言うほかない。行動経済学者のダニエル・カーネマンの言う「速い思考」である恐怖や不安は、未知の災厄があらわれたとき、「遅い思考」である理性をあっという間に脇に追いやってしまう――かつてビート世代の作家ウィリアム・バロウズは言語を「宇宙からやってきたウイルス」と評したことがあるが、言葉というウイルスはときに現実のウイルスよりも急速に、社会を蝕んでいく。したがって、言葉の感情的感染を少しでも「遅くする」ための適正な情報公開が、本来は何よりも重要であった。

 この点に関して、原発事故に関する基礎文献であるウルリッヒ・ベックの『リスク社会』(邦題『危険社会』)は、パンデミックの時代に改めておさらいしておく価値があるだろう。ベックによれば、階級社会では「存在が意識を決定した」のに対して、リスク社会では「意識(知識)が存在を決定する」。つまり、知識のあり方次第で、リスクという「存在」そのものが生じたり消えたりする。だからこそ、知識の公共的なコントロールが必要なのである。

 これはパンデミックの時代にもそのまま当てはまる。微量の放射性物質がそうであるように、新型コロナに対する評価もひとによって大きく変わってくる。このリスクのあいまいな伸縮性こそがわれわれの判断を狂わせ、行動の尺度もバラバラにしてしまう。特に、ウイルスと放射性物質は五感を超えていて、抽象的な知識でしか把握できないからこそ、その傾向に拍車がかかる。放射線量はシーベルトという無味乾燥な数字で測るしかなく、ウイルスの蔓延は増え続ける感染者数で測るしかない。しかし、そこには具体的な手応えがない。リスクはわれわれの知識のなかで増えたり減ったりするのだ。

 さらに言えば、今回の新型コロナウイルスは、表象文化論的に言ってもきわめて特徴的である――というか目立った特徴がないという不思議な特徴をもつ。例えば「黒死病」と言われるペストが人体と社会のおぞましい変容を伴うのと違って(ロシアのプーシキンはその劇的な変化を逆手にとって、陶酔と悦楽で燃えあがったペスト礼賛の詩を書いた)、新型コロナウイルスは症状の出方も軽症のケースが多く、死因の多くは肺炎であり、おどろおどろしい表象とは無縁である。この奇妙な自己隠匿性、つまり表象レベルの凡庸さが、結果として日常生活に広く静かに浸透し、そのリスクの測定を難しくする、一つの原因となっている。私自身、鳥インフルエンザや豚インフルエンザは前から危険だと思っていたが、コロナウイルスからパンデミックが生じるとは想像していなかった。

 いずれにせよ、ふつうは知識があれば、ひとは不安を抑えて大人になれる。しかし、リスク社会においては、知識は必ずしも不安を打ち消さないどころか、かえってパニックの原因にもなる。不安はしばしば人間の振る舞いを幼児退行させる。「知識が存在を生み出す」ことの危うさは、まさにここにある。知が不足すると「存在」の実体をつかめずに大惨事になる。しかし、知が過剰だと今度は「存在」が異常に膨れ上がり、これまたパニックになるだろう。

 例えば、すでに過去の出来事となりつつあるダイヤモンド・プリンセス号でのウイルスの蔓延は、知識の公共的なコントロールがうまくいかなかった、その典型である。船内をウイルスの培養器にしてしまった政府の対応には大いに問題があるが、マスメディアの報道姿勢にも私は強い疑問を覚える。テレビは連日トップニュースで横浜港のクルーズ船を取り上げ続けたにもかかわらず、出てくる映像はツイッターの引用画像ばかりで、あとは「大本営発表」を伝えるだけ――こうなると何のためのジャーナリズムかわからない。感染リスクはあるとはいえ、エボラ出血熱クラスのヤバい感染症ではないのだから、是が非でも内部の取材に行くべきであっただろう。

 その後、船内に入った医者がその医療体制の無秩序ぶりを告発し、別の医者がそれに反論するという事態も起こった。しかし、こんな水掛け論が生じるのもクルーズ船の内部を客観的・俯瞰的に記録したメディアがなかったことが大きい。しかも、視聴者がこのような報道姿勢に対してクレームを入れたという話も聞かない。マスメディアは当然のようにツイッターからの伝聞情報に依拠し、視聴者もそれを奇異に思わない――巷はクルーズ船の話題で持ち切りであるにもかかわらず、判断の出発点となるプライマリー(一次的)な情報はきわめて貧弱なままであった。政府もメディアも、クルーズ船の内部に、乗客・乗員とともに知識まで「監禁」してしまったのである。

 中国は閉鎖的な権威主義ゆえに、知識の共有が遅れ、ウイルスの拡散を止められなかった。逆に、日本は一見して情報が民主的でオープンなようでいて、肝心のプライマリーな知識は「言葉のウイルス」の煙幕のなかで遠く霞んでしまっている。これは震災直後に比べても、ひどい状況だと言える。

 そのひどさは政府の対応も変わらない。今回、安倍首相は学校の一斉休校をはじめ自らの「政治的決断」を誇示したが、それは知識の適正なコントロールには役立たない。現に、そのヒロイックな決断の結果として、各地に過度の自粛ムードが広がり、深刻なリセッションが現実のものとなりつつある――このままいくとコロナの死者を不況の死者が上回りかねない。政治的決断に到るプロセスや医学的な根拠を公開性・透明性・可読性の高い状態で示し、自制が必要なものとそうでないものの線引きを明確にするほうが、ずっとよかっただろう。そして、それは本来、原発事故のときに学んだはずのことである。

 新型コロナウイルスは持病をもつ人間にとって脅威となるが、それは社会についても同じである。世界各国のナショナリストやレイシストは、これを機会にいっそう活気づくだろう。というのも、ベックも言うように、深刻なリスクに直面したとき、ひとびとはスケープゴートを不安の「避雷針」としてでっちあげ、狂信的な反応を示すものだからである(「新型コロナは中国のウイルス兵器だ」「いや、それは米軍が中国に持ち込んだものだ」という風説はその典型である)。ウイルスは社会がどんな欲望をもち、どんな欠陥や病状を抱えているかを暴き立てる。パンデミックは地震と同じく、一種のアラームとして了解されなければならない。

われわれは正しくもないし、美しくもない

 もっとも、惑星全体を見渡せば、強力な感染症そのものは新型コロナに限らず、現在進行形で存在している。例えば、コレラによって今でも年間数万人単位の死者が出ている。今回のパンデミックが華々しい「世界内政のニュース」(ウルリッヒ・ベック)となったのは、ひとえにグローバル化の先端を走る先進国で流行したからである。ここに大きな認識の偏りがあることは指摘しておくべきだろう。

 いずれにせよ、パンデミックはテロリズムと同じく、グローバル化した社会にとっての「内なる敵」であるには違いない。未知のウイルスに襲撃された社会は、戦時下と同じく高揚した状態に置かれ、メディアもいわば「負の祝祭」を加速させる――現に、全世界の報道は、時々刻々と状況の移り変わるリアリティ・ショーの様相を呈しているのだ。このとき、ひとびとは被害者の立場から、みんなでがんばろうというメッセージを留保なく語ることができる。「ウイルスとの戦争」にはカタルシスがある。

 日本も震災直後にはそのようなムードがあった。しかし、今はどうか。復興事業には(今後の日本ではたぶん二度とないような)莫大な予算が組まれたが、すでにハード面の復興はほぼ終わり、今後は予算も急速に減らされていく。そのハードの復興にしても、本来は人口縮小を前提にして、たんに震災前に戻すわけではないグランドデザインが必要であったにもかかわらず、総じて土木中心の過大な復興になってしまった面は否めないだろう(※)。そして、その半面、震災についての報道は情緒的なものが目立っている。

 しかし、本来われわれが直面しているのは、もはや何のカタルシスも呼ばない、そして「収束」という概念も無効化されるような、地味でつらい膨大な事故処理が福島第一原発においてこれからも続くことである。トリチウムを含んだ汚染水の廃棄にせよ、デブリの保管や処理にせよ、これからの日本人はやりたくないこと、つまり「嫌なこと」を延々とやり続けなければならない。

 しかも、当たり前だが、そのような震災絡みの仕事はすべて日本人自身が引き受けなければならない。タンクの汚染水を海洋放出すれば、日本は諸外国から「加害者」と見られかねない(その意味でも、対外的な公開性や透明性はきわめて重要である)。国内的にも、特に首都の人間は、地方のフクシマに再び風評被害という重い負債を背負わせることになる。だが、震災直後にはあった負債感覚が、その後も引き継がれているとは思えない。震災について日本人はすっかり回顧モードになっているが、今必要なのはセンチメンタルな物語ではなく、むしろ汚染水や原子炉のリスクに関する「新たな啓蒙」だろう――何度も繰り返すが、リスクは知識なしには「存在」しないからだ。そのような社会的な啓蒙がなければ、首都は再び無自覚のうちに、国内植民地に「嫌なこと」を押しつけるだけである。

 にもかかわらず、結局のところ、われわれは嫌なことを引き受ける力を獲得できないまま、この9年間を過ごしてきた。それは震災後の言説状況からも明らかである。インターネットはポリティカル・コレクトネスという「正しさ」に熱狂し、文学者も「悲しみの美しさ」という類の美辞麗句を弄ぶようになった。ドナルド・トランプが大統領になってからは、リベラル派の言論人は和解や融和の物語をイージーに語るようになり、出版社もそれに喜んで追随した。しかし、震災直後に、このような微温的な言説状況が到来すると誰が予想しただろうか。

 作家の村上龍は震災後に、梶井基次郎の有名な小説をもじって「桜の木の下には瓦礫が埋まっている」というシャープなエッセイを書いた。世界はきれいでもまともでもない、うわべはきれいにみえてもその下には死体や瓦礫が埋まっている、それを想像力によってとらえるのが作家の仕事だと、村上は言う。まさにそのとおりだ。われわれは正しくもないし、美しくもない。そして、延々と嫌なことをやるしかない。パンデミックという惑星規模の負の祝祭のなかでも、その冷厳な現実が消えることはない。そのことを共有するのが「新たな啓蒙」の第一歩である。

(※)なお、今回の復興事業は当事者主権の限界を示すものでもあっただろう。そもそも、リスク社会において当事者主権を強調しすぎるのは、考え物である。パンデミックにせよ震災にせよ、知識もない人間が、突然、アクシデンタルに災厄の当事者になってしまう。だが、新米の当事者が毎回正しい判断をくだすのはどだい無理である。誰かと話しあっているうちに、当事者の考えがかわることも大いにあり得る。しかし、こういう可変性を加味するまもなく、性急に保守的な復興のプランが進められてしまった現実があるのではないか。
 ちなみに「当事者性の限界」という点で、地震と似ているのは妊娠である。漢字の意味から言っても「辰」という部首は「揺れる」という意味を含んでいる。胎動はまさに母体の地殻変動であり、不規則にやってくる地震のようでもある。そして、地震と同じく、妊娠においても突然、ひとは生命に関わる重大な倫理的問題の当事者にされる。だが、当事者だけで適切な選択をするのは難しい。むしろ当事者の外、つまり社会に議論の積み重ねがあるかどうかが、きわめて重要なのである。

[了]

この記事は2020年3月30日に公開しました。