コロナ禍で露呈した現代都市の問題点

宇野 今日はCOVID-19のパンデミックを契機に、あらためて都市というもののあり方を問い直してみたい、と考えて、この鼎談を企画しました。この数ヶ月で、僕たちは世界の主要都市が軒並み封鎖されていくという前代未聞の状態を目の当たりにしました。そして僕たちはそれまで、今後の世界は急成長するアジアを中心に、東京のような人口1000万人規模のメガシティに人口が集中していくことを前提に、これからの国土開発や都市計画を考えていたわけです。スマートシティもコンパクトシティもMaaSも、全部そうだったはずです。しかし今回のパンデミックは、こうした前提を覆すとまではいかないけれど、従来の議論を大きく見直さなければいけないレベルの出来事になることはたぶん、間違いない。人類がグローバル化時代の感染症のリスクを甘く見積もっていたことは明らかで、それを踏まえた都市というシステムの見直しが必要になっているのではないかと考えています。
 たとえばこのパンデミックによって僕たちのライフスタイルやワークスタイルはかなり根本的に問い直されている。まさに我々も今、本来なら集まって話し合うところ、Zoomを用いてオンラインでの座談会を行なっているわけです。こうした観点から、僕たち自身が都市生活の足元を見つめ直さざるをえない状態にもなっています。
 なのでこのタイミングで、我々と都市の関係をもういちど捉え直すような視点をこの鼎談で提供できればと思っています。
 まず、今回のコロナ禍で各自が都市について考えたことの洗い出しからお伺いしたいと思うんですが、門脇さん、齋藤さんいかがでしょうか。

門脇 正直に言って、このパンデミックの被害がどこまで拡大するかの見通しが立たない中で、まだ考えがまとまっていません。その限りでいま考えられることとして、歴史を振り返ってみると、都市は人が集まること自体が存在意義というか、人が集まるための物理的なツールとして発展してきたわけです。だから当然、疫病との闘いとか、密集することにともなう問題への対応はずっと意識されていたんですね。
 現代の都市計画や建築計画の基本形は1920~1930年代にデザインされたものです。時代的には「モダニズム」に該当しますが、この少し前(1918~1920年)にはスペイン風邪が世界的に大流行するなど、公衆衛生という概念が非常に重要になった時代です。たとえばモダニズムの代表的な建築家であるル・コルビュジエの作品を見ると、大きなガラス窓と大きな吹き抜け空間を作ってエアボリュームを大きくしたり、太陽光がたくさん入るようにしていますが、これは疫病の蔓延を避けることを意識したデザインです。20世紀初頭の都市計画でも、上下水道の整備などに加えて、太陽光や新鮮な空気が重視されるなど、公衆衛生に配慮することは当然でした。

▲ル・コルビュジエ「サヴォア邸」(1931年竣工)の内装空間 (Photo by Kozo Kadowaki)

 ところが、1968~69年の香港風邪あたりから大規模なパンデミックが絶えて久しくなり、みんな基本的なことを忘れていたんですよね。でも今回のコロナ禍は、従来の疫病と違って、モダニズム的な工夫なんてものともしないというか、衛生状況と関係なく人から人にウイルスが感染する。だから、人の密集をいかに避けるかが課題になっている。この状況に対して、これからの都市設計は新しい対応を求められていくのだろうと思います。
 だからこそ、都市そのものを語ることを目的にするよりも、人との関係を語らないといけないのだと思います。都市はあくまで人が集まるための物理的なツールです。1960年代に代官山にヒルサイドテラスが作られた当時は、最先端のショップやレストランを誘致するとともにデザイナーなどにも入居してもらって注目を集めました。都市そのものが大衆にアピールするメディアだったのですね。しかし、今は多分そういうことをしても盛り上がりを作れない。むしろインスタグラマーとかインフルエンサーをネットで集めて商業的なインパクトを作ろうという流れになっていて、都市の出る幕は減っている。にもかかわらず、都市は今も作り続けられている。これからは、都市の役割がかなり変質したことを踏まえた上で、都市について考えなくてはならないと思っています。

齋藤 まだたくさんの人が苦しんでいる状況で、ポストコロナをめぐる議論が多くなってきているものの、ポストに行くには少し早すぎるのではないかという思いがあります。僕自身の課題としては、数年前から都決(都市計画決定)で容積率が大幅に増えたりして、経営的な話だけではなくて実際にビルが建っているなかそれをどう使いこなすかという議論が全然できていなかったな、と今回のコロナ禍で気づかされました。門脇さんのご指摘のように、今は都市をつくることが目的化してる面があるんですね。昨年は1万平米以上の建物が同時多発的に400個ぐらいも建てられて、今も東京都では港区を中心に1万平米のものが100個ぐらい建ち続けています。2020年は東京オリンピック開催、2025年には大阪万博開催の見込みがあったから、経済的には上向きになるだろうという予測のもと、銀行も建築・不動産業者にお金を貸すし。日本人の感覚というか固定観念として、文明発展の象徴のように、都市は新しい建物でどんどんリニューアルされていくとみんな思っている。前々から政府関係者や建築・不動産業界では、情報のデジタル化やデータ集積化が唱えられたり、インフラ管理や教育や医療などにAI技術やビッグデータを用いたスーパーシティ構想が法案として成立する見込みです(編註:2020年5月27日成立)。しかし、そうした構想で、今のようなパンデミックが起きた時にどう抑制するかが考えられていても、結局それが実行できなかったことが露呈していると思います。これは個人的には、これは建築家やデベロッパーの責任でもなく、業界がお互い横断して考えてこなかった、社会全体の責任だと思ってます。

 一方で、ワークスタイルとかライフスタイルに関して、今回のコロナ禍で判明したのは電気や水やガスが出なければ結局人は生きていけないように、いまやインターネットのブロードバンドがなければ経済にも社会参加も容易にできなくなる、ということでした。ブロードバンドがインフラになったのであれば、人や物が集合する経済の場としての都市の意義は根本的に見直されていくはずです。近年、地球の地質時代の区分で「人新世(アントロポセン)」に突入していることがよく言われるように、都市を含む人間の環境をめぐる常識が大きく変わっていくさなかにあると思います。自然界では生物の分布も時代によって変化しているように、人間も今までの都市に通勤して集まる働き方とか食べ物の確保の仕方自体を考え直さないといけないような状態の中で、都市の定義自体が変わっていくかもしれない。
 そうなると簡単に想像できるのが、人や物が一か所に集合する経済や生活のあり方が見直されて分散型になっていくのかなと見ています。実際に我々のようなITでの業務をベースにした少人数の会社は、「事務所なんていらないかもしれない」と気づきつつあります。そうして使う容積自体を手放していくと、東京自体や大阪とか名古屋のようなメガシティはどうなっていのだろうという問題ですね。多分これから、自然発生的にいろんなライフスタイルが出てくると思います。

「動員の革命」が喪失させた都市における他者との遭遇性

宇野 ありがとうございます。お二人の話をうかがって、メディアの側の人間として僕から付け加えたいのは、2010年代の都市の変化がSNSによる「動員の革命」と同期していたという点です。政治的には、2011年のアラブの春に始まる、SNSを用いたボトムアップ型の新しい市民運動があります。エンターテインメントでは、音楽ソフトからフェスへのビジネスモデルの変化、門脇さんがおっしゃった商業施設との関連では、街そのものからインスタ映えスポットへというかたちで、SNSを用いて人々が街頭に呼び出されている。言ってしまえば、2010年代は、都市の力がSNSやメディアの力に負けていた時代だった。
 ところが今回のコロナ禍が、この流れにある程度水を差したことは間違いない。僕たちは人々が街に出ることがリスクだと捉える状況があり得ると気づかされてしまった。ここで問い直さないといけないのは、まずは「動員された先は本当に豊かだったのか?」ということだと僕は思います。フィルターバブルという言葉がありますけど、ネットでは検索機能によって見たいものだけを見て耳に入れることができる。だからこの10年のあいだは、誰もが街に出る必要があるのだとSNSで観客に動員をかけていたのだけど、果たして動員された先で人々は他者に出会えるのかというと、僕は原則的にできないのだと思う。SNSで動員された以上、そうして足を運んだ先ではかつて街を遊歩していた時のように、偶然目に入るものとか、たまたま出会う他者との交流は難しい。そこはそもそもフィルターバブルの影響下にある場所で、そこに足を運んでも他者と出会うことはなければ偶然目にするものも少ない。このコロナ禍で、2010年代的な「動員の革命」の弱点が改めて明確になったと思います。そしてこれからの都市空間を考えるならこの問題を避けては通れない。

齋藤 テクノロジーの面で言うと、新しい技術が出てくるとそれが目的になるじゃないですか。たとえばプロジェクションマッピングも、もともとは建物や場所をダイナミックに見せることやっていましたが、昨今ではプロジェクションマッピングをすること自体が目的になってしまっている。最近では、5Gを導入したら街がこうなるとか、ライブエンターテイメントがこうなるとかリモートでも参加ができるといった論議もそうですね。それらは本来、道具としてどう使うかという話で、これからは物ではなくソフト中心の考え方が当たり前になると思うんですよ。要は今のデベロッパーとか経済原理で全部設計されているような行動を、もっと変えていくような仕組みが必要なんだと思います。

門脇 そうですね。都市そのものが過剰に目的化するというのは、床面積だけを広げようとして何の変哲もない超高層ビルを作るといったことですが、宇野さんの論点に即して言うと、動員のみを目的とした都市設計ですね。そういう意味では、現代の都市は他者との偶発的な遭遇性という、かつてのロマンを失ってしまったのだと思います。
 最近の渋谷の再開発を見ていると、自分で見たいもの以外は見ないという意識が強くなっていると感じます。たとえば商業建築には誰でも知っているようなブランドしか入ってなくて、訪れる人も渋谷にも知っている店があることを確かめて安心しているかのよう。一方で、本当はみんなそれぞれ勝手な目的を持って都市を作ったり利用しているわけですが、それをすべて受け入れる寛容さも都市は備えています。たとえば、車椅子利用者のために作った手すりやスロープがスケートボーダーに利用されるなんて面がある。今までは、この都市が持つ開かれた冗長な可能性を、五体と人間が生まれ持った感覚で誰でも享受することができた。つまり非常に低い導入コストで都市の可能性をみんなが享受できていた。それこそ都市が多くの人に与えていた糧の源泉なのだと思いますが、一方でブロードバンド回線がインフラ化して低コスト化してくると、都市が持っていた様々な可塑的な可能性は、ネット環境も備えることになっていくのでしょう。

齋藤 僕たちの業界では2000年初頭ごろ、インターネットバブルみたいなものがあって、プロモーションはほとんどイベントよりも、WEBサイトでやっていく時代がありました。だけど、よく「情報から体験へ」って言われますが、2010年以降は実空間での経験を求める動きになってきたんです。今の渋谷の街づくりとかはほとんど目的地が決まってしまっていて、そこまでどう最適化されて安全・安心に移動できるか。都市の中で出会いのセレンディピティ(偶然の発見や僥倖)が、ほとんど放棄されてる。
 たとえば都心の大丸有(大手町・丸の内・有楽町)地区の商業施設開発の現場で実感することなんですが、インバウンドを意識して「江戸」をコンセプトにしたりとか、各デベロッパーさんとしては様々な差別化を打ち出そうとはしているものの、そういうビルのファサード自体には何の個性もないわけです。街並みも均一化されて、あのへんは歩いていても自分がどこにいるのかわかりません。そういう中で、人間が町中で自分で探すとか自分で出会うとか広げていくという指向が、いつの間にか排除されてしまった。

宇野 お二人が指摘するように、物理空間の持っている冗長性が文化的な多様性のコストを担保していたのは間違いないでしょう。2010年代は、比喩的に言えばジョン・ハンケは『Ingress』や『PokemonGO』で、ゲームを通じて人々を都市に送り出した。これらのゲームのプレイヤーはゲームとして街を歩くことで、都市の歴史や文化に触れることになる。ここでのハンケのコンセプトは情報技術によって人間と都市の文化的豊かさとを再接続するというものだった。ところが、Instagram以降、人々は「インスタ映え」を目的に同じ場所の構図で街のカフェや商品の写真を撮って上げるようになる。ここでは、物理空間として都市の持つ冗長性はもはや機能していない。つまり、みんな街ではなくInstagramを眺めている人の顔を見ている。要するに、SNSによって動員されている人は街に出てもそこにある偶発的な事物に出会えない。これが、ネットに発信してそれが他者から承認される快楽に駆動される「動員の革命」の弱点だった。
 たとえば僕は飲み会とかあまり好きじゃない。飲み会って実のところメンバーシップの確認とか、「友/敵」の峻別が目的のものが多いですよね。そういう会合は、基本的に何にも出会えない。変な話だけど、こうした飲み会はSNSと同じなんです。逆に言うとSNSは飲み会を在宅でできるようにしたものだった。都市の人間はこの10年、SNSを利用しているつもりだったけど、じつは逆に自分が利用されていたことに気づくべきなんです。むしろ動員の革命による人々の導線操作は、都市の持っていた最大の武器を殺してしまう面があった。これを僕は2010年代の達成と敗北として認識しておく必要があると思う。

「建築的なアプローチ」と「都市的なアプローチ」をめぐって

宇野 もうひとつ、関連して提起したいのだけど、建築的なアプローチか、都市的なアプローチか、という視点も重要ではないかと思います。
 まず、誰もがインターネットに常時接続されたスマートフォンを持ち歩くようになり、Eコマースの存在感がある程度大きくなったとき、「ブラブラ街歩きする」という文化は大きく後退したのは間違いない。人々はいま、ながらスマホしながらグーグルマップで検索した建物に一直線に向かっている。こうなってしまうと、買い物というか「消費」を通じて公共空間を創出するというこの数十年の都市開発の基本的な発想の前提が崩れてしまう。人々はもう、少なくともかつてのようには、消費行動によって偶然に未知の他者やモノに出会うことはない。
 その結果として、というよりは並行して起きた現象として、JRにせよ東急にせよ、2010年代の東京は駅ビルを中心に作られてきた側面が強い。ここでは街ではなくランドマーク的な建物が問われることになる。街を多様なものに開かれた空間にしていくのではなく、建物の中を多様で開かれた空間にすることが、本来ならば求められることになる。そしてそこに訪れた人が、偶然触れるもので新しい世界に出会う、という回路が機能すべきだった。しかしそれは門脇さんが言うように冗長性を排除する方向にしか向かわなかった。

齋藤 宇野さんがおっしゃる「建築的アプローチ」というのは、かつては越境的・横断的になされていた「都市的アプローチ」が経済合理性によって淘汰されてしまったということだと思うんですよね。
 つまり今の渋谷とかに建っている建物は、容積率をほぼぱんぱんに使い切って、要は経済原理として一番効率的な稼ぎ方ができるような作り方をしている。大店法(大規模小売店舗立地法)が施行されたのは2002年でしたから、もう19年もこういう方針が続いてる。これはすごく戦後的な考え方ですが、「デベロッパーはこういう場所にこういう街を作りなさい」というのが自由競争になると、ビューが良くて家賃が高く取れて坪単価が高い建物がどんどん建って文化や消費も都市のブランディングを強固にする道具に使われていく。そして最終的には、僕が「四角い冷蔵庫みたいなCADの産物」と呼んでるような容積率ぱんぱんの、使い方が分からない大きいだけの建物だらけになってしまう。デベロッパーもそちら側に走ってしまったわけですね。そこの部分を変えていかなきゃいけないと思います。

門脇 建築家の立場からすると、ここで言う「都市的」なものに対する「建築的」なものの優勢というのは、建築というよりも「インテリア(内装)」が強くなっているということだと思うんですよ。つまり、都市が果たしていたすべての機能を、建築の内部であるインテリアに閉じ込めてしまった。建物内の商業施設とか半公共空間という形でしか、経済活動が起きづらくなっている。

宇野 そうですね。この10年、デベロッパーはストリートの代わりに駅ビルを建てたつもりだったと思う。建築というよりインテリアが強くなっているということを、もっと即物的な次元で言うと、不動産ポータルサイトがよく発表しているような「住みたい街ランキング」的な発想では、もはや駅ビルのテナントに何が入っているかで街の価値が測られてしまっているということだと思う。
 たとえば僕は高田馬場に住んでいて、駅前にある黒川紀章設計のBIGBOXには、いまユニクロが入っているけど、他のスタンダードなショップはない。以前は100円ショップがあったけどなくなってしまった。こういう部分で高田馬場は不便と感じる住人って結構いるはずです。街のブランドとか個性って、今ではそんなものでしかない。

▲高田馬場「BIGBOX」(1974年竣工)

門脇 しかも建物の外部では収益をあげられないから、ビルの立面も非常に安い素材でしか作れない。それが負の循環を起こしていて、まったくお金が落とせないモデルになっている。だから、いまの都市の外部って異常に貧しくて、人が快適に過ごせるようなしつらえがされていないから、たとえば夏はまったく歩けない。メンテナンスにお金がかかることもしづらいので、緑も少なくなっている。
 ただ、このパンデミックをきっかけに、これから都心の場所の価値は大きな変動をきたしていくはずです。オフィスみたいなインテリアの床は密集リスクがあることがわかってしまったので、値を落としていくんじゃないか。逆に、これまで外部で心地よく過ごすための整備をする事業的なスキームがあまり発見されていませんでしたが、密閉や密集を避けて外部の価値は上がっていく可能性がある。技術的なことも含めて、どうやって外部を再発見して都市を経済的に回していくリソースにするのかが、今後の課題の一つかなと思っています。

齋藤 僕は数年前からよく『新建築』の月評で、建築家を叱咤するようなことを書いていましたが、何を建築家に求めているのかというと、分野の横断を全体的に指揮するような視点です。そうなったときに、建築のハードウェア面もソフトウェア面もわかって、法律の話も都市のコンテクストも経済もわかって、ライフスタイル全体を見ていくようになってほしい。いろんな専門家の人にお願いするけど、結局それを最終的にまとめるのは建築家なんじゃないか。建築家がチームを指揮して、ひとつの場所に適した文脈を出していくということなのかな。なので、もう少し視野を広く業務範囲を広く扱わなきゃいけないと思うんです。どうしても経済効率の方にいく建築家もいるし、逆にソフトウェア寄りになっちゃうと、視点がミクロになりすぎてて町の中のコンテクストに入らなくなってしまう場合もある。
 2020年のCESでは、トヨタが街を作り、ソニーが自動車を作るというおかしな事態が起きていました。これは日本企業の垂直統合が過ぎて、業界が横断してプロトコルを合わせてお互いをつないでこなかったせいですよね。最近は「都市OS」という概念が議論になりますが、都市計画には、人、経済、デザイン、セキュリティ、インフラ、通信網、交通など、いろいろな要素がある。それらを越境してひとつの街を最適化することは可能だけど、結局そういうスマートシティは日本ではできなかった。これは既得権益を守りたいとか競合他社を落として勝ちたいとか、企業間の閉鎖性のせいです。たとえばエレベーターの会社もPOSの会社もお互いに競合排除で、自社が持ってる情報を出さないから統一されたデータベースはできない。だから安全管理や商品管理、インフラ管理もできない。でも、今回のコロナ禍を契機に、今後は企業間の越境を意識した街の作り方にシフトしていくと思うんです。
 だからそのオーケストレーションを、やはり建築家が仕切るべきなんじゃないか。そういう意味では、僕はもしかすると六本木ヒルズというのは、越境的・横断的な「都市的アプローチ」が機能していた最後の例だったかもしれないと思うんです。森ビルを作った森稔という人がちゃんと哲学を持って設計してる。いろいろ賛否はありますが、防災とか今のパンデミックみたいな緊急事態にも対応できるこれからの都市づくりを考えるうえで、立ち返ってみるべきひとつの参照点にはなるのではないかと。

▲商・職・住の複合施設として統合的に再開発された「六本木ヒルズ」(2003年竣工)

門脇 そうですね。都市はあくまで人が集まって使うためのツールなので、ライフスタイルとか体験の楽しさの部分から考えていく必要がある。たとえば、美術鑑賞ですね。僕は次回のヴェネツィア・ビエンナーレの日本館のキュレーターを引き受けているんですが、歴史あるヴェネツィアの地で集積されたアートを見て、ついでに街並みを楽しみつつレストランでゆっくりするなんて、いまのところ都市でしか提供できない経験の一つだと思うんです。この春はオンラインで卒業制作展をする試みが非常に増えていて、たとえば武蔵野美術大学は学生が企画したバーチャル展覧会をクラスターというVR空間SNSを使ってやっていましたが、あれは全然楽しくないでしょ。まだオンラインでの展示の技法が洗練されていないこともありますが、都市でしか提供できない「固有の体験」はまだまだデザインできる気がして、そこから考えていくのが早いと思っています。

齋藤 2015年ごろには、都市計画でやたらと文化の集積、エンターテイメントの集積、スタートアップの集積といったことが言われていました。そう言っていれば容積がもらえて、官庁はそれで国家戦略特区を作ろうとしてたわけです。しかし結局みんな外に出ると歩きスマホをしていて、視界が360度広がっている町よりもスマホのインターフェイスの中のほうが楽しいという状況になってるわけで、こっちのほうがキャッチアップしていかなきゃいけない。個人に戻る志向なら都市レベルでも反応できるかもしれないけど、ランダムな出会いがあり得る空間は作りにくいと思うんですね。デザインされたカオスというのは、結局また集団の話になるので。
 結局デベロッパーは経済原理でモノを作っていて、床の値段がどれだけ高いかをKPI(重要業績評価指標)として設定してるんです。最初に全体の計画を作るところでは銀行とデベロッパーで高さとボリュームは決まっていて、インテリアもエクステリアも、建築の人たちには「あとはここの高さ15センチで表現してください」って話になるんです。でも、ほかにもエクステリアの様相とか、建築的な象徴とかに力点を置いて、ランドマーク的なモノは作れるはずなんです。ニューヨークはそういうコンテクストが残ってるから、結果論として、いろんな集団が発生したり文化が生まれている。今の日本のように、ただ容積率ぱんぱんのものを作る状態では、それが起きないと思う。そこで、設計や都市計画の最初の方から、もう少し社会的に大きな造形物を作っていくことができる人が入っていくとだいぶ変わると思うんですよね。

宇野 都市から建築へ、建築からインテリアへ、という流れの加速自体はおそらく止まらない。公園や商業空間がどれだけ開かれていて、多様なものと出会い、冗長性が自由な利用を促すポテンシャルをもっていたとしても、人々はもはやあらかじめ自覚した欲望、たとえば「映え」のようなものを目的にその場所に足を運んで、みんなと同じアングルで切り取ってSNSにシェアするだけなのではないか、と思うんですよね。この視点がないと、固有の体験を生む冗長性を都市に埋め込もう、と考えたとしてもうまくいかない。
 要するにこの10年とはリアルの都市空間というものが、人々がSNSで差別化するための情報供給源として徹底的に利用されていたわけです。この情報供給源が多分今回のコロナ禍によって、自宅中心に移っていく。そして、パンデミックが収まっても、おそらく完全にはもとには戻らない。インスタ映えの舞台が街のカフェから自室に移っていくのなら、かつての都市における冗長性みたいなものをどう屋内に埋め込んでいくかが重要になってくるし、既にそうなっていると思うのだけれど、みんな同じようなていねいな暮らしの食卓の写真を上げてしまうようになってしまう。それは要するに、「見せる」場所になることで画一化する流れがいよいよ住宅にまで及んでしまうことを意味する。だからそうではなく、街のスロープや手すりがスケートボーダーにも使われるような冗長性がある社会のほうが文化的には豊かなわけで、そこをどう住宅内に仕掛けていくのかが問われていると思うんです。
 言い換えると、齋藤さんのいう「四角い冷蔵庫みたいなCADの産物」と、SNS下の人間の欲望の変化が結託した結果、門脇さんのいう都市から建築へ、建築からインテリアへ、の流れは加速していった。この状況をどう崩していくのかがいま、問われているのだと思います。

コミュニティ中心主義から「場」の設計へ

齋藤 宇野さんや門脇さんが語られた問題意識は、「都市を見る解像度」が鍵になると思います。デベロッパーも使う方も、建物を1個の大きなビルとして見てるけど、もっと細かく見ると、その中には、1丁目3番地には△△さんが住んでいて◇◇屋さんがあって、といった具体像がある。多くのデベロッパーやメガ設計事務所が、タワーマンションや超高層ビルを作るに当たって街を縦にしたというコンセプトを出してますが、それほど見方が精密じゃない。インテリアの設計かリーシングのプランのメニューの話になると思うんですけど、都市の解像度をもう少し高解像度にする方法を見出さないといけない。そこで何か変わってくるんじゃないかと思いますが、どうでしょう。

門脇 今の方向だとインテリアは個室化というかプライベート空間化する気がします。一方で動員とか集まる場はエクステリアの指向性を持つはずで、住宅とか少人数の限定されたメンバーシップの空間は内部空間の需要が高まり、不特定多数の空間はむしろ外部的になってくるのかなという気がします。

宇野 ここしばらくのトレンドはどちらかといえば、物理空間の設計でそこにいる個人の生活や表現を変えていくのではなく、物理空間の設計でコミュニティのデザインをサポートする方向だったと思うんです。ただ、それが有効な戦略として機能したのか、僕には疑問です。それは結局、都市という個人がバラバラであるがゆえに多様な他者に出会える空間ではなく、単なる都市のムラ化になってしまっているのではないか。人間間の閉じた相互評価のネットワークに人間を閉じ込めることにしかならなかったのではないかと思う。都心に暮らすクリエイティブ・クラスの意識の高い人が、地方の山村の集落に出かけて地元住民と「交流」して、それを大はしゃぎでFacebookでシェアする。しかし、自分のマンションの近くをねぐらにしている路上生活者に声をかけたことはない。渋谷に全国のスローフードが集まるカフェ兼イベントスペースを作って、そこを拠点にコミュニティを作り上げたとしてもそれは、東京南西部に住んでいる「意識の高い」クリエーターのコミュニティを再強化するだけで、目と鼻の先にあった宮下公園のホームレスとは絶対にすれ違わなかった。そういう状況を生んだだけじゃないかと思うわけです。これは結局SNSが代表する、人間間のコミュニケーションを操作する情報技術に、空間設計が負けてしまった結果じゃないかと思います。
 空間ではなくコミュニティに軸足を置くアプローチは、結果的に、検索され、選ばれた他者モドキと出会うことはあっても、偶然触れる他者とは出会う機会がない棲み分けを徹底した空間を作ることを後押ししてしまったと思う。だから僕はもう一度コミュニティではなく個人にフォーカスすべきだし、人間ではなく事物にフォーカスすべきだと思う。インターネットでどう、偶然触れ合う人々とのコミュニケーションを、それもポジティブなかたちで手に入れるかは大きな問題だし、実空間がもつ否応なくこうした他者と触れ合う機能をどう活かすかというのも、もちろん有効な問題設定です。
 しかし、だからこそコミュニティをつくることで、街を作った気になる罠には敏感にならないといけない。僕はこれまで議論してきたような問題を前提に、もう一度建築は人間との、それもある程度は個人とのモノや土地とのコミュニケーションを設計するところに立ち返るべきなのではないかと考えています。

▲渋谷・宮下公園の再整備として開業準備中の「MIYASHITA PARK」イメージパース (画像出典

門脇 そうですね、コミュニティを見るというのは、結局は人の顔を見ているわけで、あまり都市の空間とか物理的なものを見ていなかったと思うんです。最近の宇野さんが三浦半島にピクニックに行ったりするのは、それへの抵抗じゃないですか。つまり、人を見るんじゃなくて場所とか空間を楽しむ、しかも今の状況であれば、人が密じゃない場所に行くことが、島宇宙化した集積型都市に対する抵抗になると思います。こういう場所自体を楽しむ志向が失われてしまったのは日本特有なんでしょうか? 海外の都市は少し違うと思うんですが。そのあたり、齋藤さんいかがでしょうか?

齋藤 今の東京は、耐震性の問題でやむなく古い建物が壊される場合もありますが、コンテクストをどんどん消していくような都市開発をしたので、良くも悪くも統合されていろんなものがなくなっている。それでコンテクストがなくなったので、同じような種類の人たちを集めて、新しいコンテクストを作ろうとしてるんだと思います。
 海外の例では、ニューヨークは、古いランドマークを残しながらリノベーションしていますよね。たとえば、高架線の跡地をハイライン公園にしたり、ブルックリンのドミノパークでは昔の廃工場の跡地を残しながら公園や商業施設を作ったり、昔からあるコンテクストを残しつつ開発しています。

▲マンハッタンの高架線跡地に築かれた線形公園「ハイライン」(2009年開園)
▲ブルックリンの廃工場跡地に築かれた「ドミノパーク」(2018年開園) (Photo by solepsizm / Shutterstock.com)

 あと、欧米ではニューヨークだけでなくロンドンでもパリでも、地元住民がすごく強くて、再開発でも絶対に退去しない人たちがいるんです。香港もそうですね、かつての九龍城砦みたいに、ごちゃまぜのカオスな状態で成長している。でも、日本ではそうならない、一回ゴジラが街を全部壊して作り直すみたいなことがないと再構築されないと思います。

宇野 南後由和さんが『ひとり空間の都市論』で、都市は結局のところ近代的な個人という単位での活動を可能にするところに最大の価値があったのだ、ということを論じています。そして、ある時期までは広義の情報技術がそれを後押ししていた。1980年代に普及したウォークマンが典型例で、あれはイヤホンをして移動することでどんな場所でも自分は個であることを主張する装置でもあった。しかしこの前提がSNS時代には壊れはじめている。人々がスマホでSNSを見ながら歩くのは、自分が孤独であるためではなく、むしろ自分の承認欲求を満たしてくれるコミュニティの中に埋没するためです。要するに、1980年代から20年くらいのあいだのメディアは人を個人化するものとして機能してきたけれど、21世紀のメディアはむしろ集団化するものになってる。
 そうなってしまったとき、人々はコミュニティに接続することで街が見えなくなってしまっているという矛盾があるわけです。人が「この街が好き」と言うとき、メンバーシップと公的な境界線が明確で、安定した承認が満たされる共同体を指すのか、それとも個であることを保証してくれて自由に膨大な情報と戯れることができる空間を指すのかというと、圧倒的に前者の力が強くなってしまっている。均質化する空間にコミュニティで対抗しようという戦略は、ここで失敗したんですね。人と集まること自体に対して疑問を差し込むコロナ禍は、この問題を考え直す契機にもなり得る気がする。

『ひとり空間の都市論』(南後由和)

門脇 非常に納得します。でもそれをどう乗り越えるのかは難しい。コミュニティを豊かにするのに対して、物理空間を多様で豊かにするのは金銭的にも時間的にもコストが大きいので、そこで二の足を踏んじゃうんですね。ニューヨークは地震がないから、古い建物などの過去の原理でできたものを物理的に残しておくことで、都市の冗長性を維持できるけど、日本の都市ではそれがなかなかできない。
 あと、都市は自由な個人になれる空間だという論点は同感ですが、今やあらゆるサービスがプライベートな空間で受けられるようになっていて、コロナ禍のせいで、ラーメン二郎のラーメンさえも店に行って並ばずに自宅で食べられるようになっている。そうなると結局、一人で自由になれる居心地の良い空間は都市ではなく個室だ、という話になっちゃう気がします。

宇野 昨年喫茶ランドリーの田中元子さんと、高円寺の小杉湯の平松佑介さんと議論する機会がありました。二人は共通して自分たちはコミュニティじゃなくて場を作っていると言っています。結果的に、そこには少人数のグループがいくつか発生しているのだけど、かつての村落や商店街のようなコミュニティの粘度はない。常連同士が顔を合わせたら、会話はしなくても、目礼するぐらいの距離感でゆるく人々が繋がっている、というんですね。そしてそのゆるさが、ちょうどいい重さの居場所になっている、と。都市が本来持っている文化的な豊かさって、こうした中距離の距離感がもたらしていたと思うんですよ。これぐらいの距離感があるなかで、何か自分が意図していないものと出会い、他者性に接続して、それが結果として文化的な生成力に結びついていく。
 コミュニティ志向のアプローチは、コミュニティのマネージャーを置いて人間関係そのものに介入して文脈や物語を作っていかなきゃいけないけど、場の設計だったら建築的なアプローチが十分有効だし、むしろ建築的なアプローチがなければ成立しないものだと思うんですよね。2010年代は、みんなコミュニティの方に関心が向かい過ぎて、物理空間としての場の力というものを殺してしまっていたんではないでしょうか。コミュニティはどうしてもメンバーシップのものになってくるけど、場にはメンバーシップがない。たとえば今のコロナ禍で、地元民が県外出身者を排除したり、メンバーシップが確認できないよそ者と近接するのは感染症の温床だと攻撃している現象が見られるわけですが、こうなってくるとこの「場」の力は危機に立たされてしまう。人々はますますメンバーシップの有無でしか人間を判断しなくなる。だからこそ、政治的に決定されるコミュニティのメンバーシップではなく、建築的に決定される場のパーミッションの力が大事になってくる。「場」の面白さを普段から体感していれば、こうした危機の折にメンバーシップの有無で人間を判断することの貧しさに突き当たるはずですから。

▲田中元子×平松佑介×宇野常寛「ご近所」は再生する(べき)か?――都市型コミュニティの再設計 2019.12.10/PLANETS the BLUEPRINT

齋藤 もしかしたら、1980年代に西武セゾングループの堤清二さんが渋谷にファッションビルを建てて文化発信地を作ったように、思想を持った人が何かプログラムを作っていく時代にもう一回戻ったら、場ができてからコミュニティがついてくるかも知れません。ここ10年ぐらいは、文化的トライブを集めてそこから何かを起こそうという思想でしたが、今後は建設中の都市に強いアトラクターを作って人を集める方法論にシフトしていくこともできると思います。それは美術館でもスケボーが滑れる場所でもそうなり得るし、もう少し曖昧でニュートラルなプログラムでも良いかもしれないですけど。

仕事空間と生活空間の新しい関係

宇野 ここで、もうひとつの論点として議論しておきたいのが、コロナ禍におけるライフスタイルの問題です。たとえばいま東京のホワイトカラーの多くがリモートワークをしていると思います。しかし首都圏の住宅事情を考えると自宅に個別に仕事部屋を持っている人はあまりいないので、ほとんどのケースではリビングで仕事をしていると思うんですよ。しかし、そこは多くの場合は長時間の労働に向いている環境ではない。
 これがどういうことかというと、いまだに日本の住宅の多くが、戦後のある時期からマジョリティになっていった核家族のモデルで作られていて、夜や休日は一家がリビングのソファに座ってテレビを見て過ごすことや、専業主婦が一日中家にいて、彼女がキッチンを独りで仕切る前提で設計されているということだと思います。要するに、せいぜい1990年代前半くらいまでのライフスタイル──さすがに『サザエさん』でも、『ちびまる子ちゃん』でもないけれど、『クレヨンしんちゃん』的な郊外の一戸建てに住む核家族のようなライフスタイル──が前提になっている。そして今のコロナ禍はそういう生活環境を問い直す契機を与えているんじゃないか。これはずっと以前から思っていたことで、僕は会社を辞めてフリーの文筆業になったとき、今の住宅が提供しているLDK的な生活空間は、まったく家で仕事するのに向いてないと初めて気づいて愕然としたことがあるんです。
 これまで僕たちは、商業空間や公共施設を中心に都市のアップデートを考えてきた。もちろん、多くの人々がその弊害に気づいていて職住近接を前提にした都市の再設計が主張され始めたところで、このコロナ禍が来た。このパンデミックがどちらかといえば、既に発生していた流れを加速したと考えるべきです。これからはますます、仕事や買い物を中心としたパブリックな昼の街の昼の生活と、余暇と睡眠を中心としたプライベートな夜の街の夜の生活との境界線は曖昧になっていくことが予測される。具体的には、どちらかといえば自宅の時間を中心に再編成されていく。こんな状態が長続きするとは思わないけれど、このパンデミックで「あれ、街に出なくても意外といいじゃん」と気づいた人が多いと思う。だから、居住空間を起点に都市を考えるフェイズに入っても良い気がするんですよね。

齋藤 これは職種にもよりますが、今後はトレンドの「職住近接」ですらなくなって、住む場所に職が侵食してくる形になる気がします。僕の周囲では、オフィスに借りる床面積を半分にして分散化する、半分在宅にするという話より、それを制御するための投資を行なうという話になるようです。

門脇 住宅は大きく変わるでしょうね。オフィスもそうですが、飲食関係も大きく変わりそうです。密にはできないから、飲食店は床面積をたっぷりと取った贅沢なものになるのか、あるいは内食や中食のサービスがさらに発達するのか。とにかく、飲食関係とオフィスは、これまでとはそもそもの前提が変わって、資本が投下される先は住宅あるいは住宅の中でのアクティビティへと向かうはずだと思います。そうすると、家族の数より部屋が多くなったり、宇野さんが言っていたようにリビングより個室を広くしたり、書斎みたいなものが増えたり、そんな変化が考えられる。また、住宅が変わると、いわゆる「住みやすい、働きやすい街」も変化するでしょうから、地価のマップも変わると思うんです。今後の人気の地域は都心ではなく、もしかしたら小田原みたいな遠郊外かもしれないし、世田谷みたいな近郊外かもしれない。

宇野 極端な例では、打ち合わせや会議の中身の9割は実質的に取引先や上司の悪口なんてケースも多いと思う。一方で同じ空間を共にしないと生産性は下がるとか、クリエイティビティは発揮しないのではという議論も、当然あるでしょう。ここは、オフィスワークとリモートワーク、どちらが良い、という話にするとよくなくて、個別に議論していくのをサボっちゃいけないと思う。この仕事にはこの空間が、アプリケーションが有効だと個別に考えるところからはじめるべきです。他の仕事仲間と空間を共にすることで引き出されるものは何で、むしろ磨耗するものは何か、といったことを解像度を高くして考えていかないといけない。その前提の上で、とりあえずこれまで通り、とにかく人を同じ箱に入れておけって思想は敗北していくと思います。

門脇 インターネットが普及しはじめた1990年代末、これからはSOHOでいいので、小さなオフィスが広まるって言われてたんだけれど、結局2000~2010年代は巨大な床を使うメガフロア型のオフィスが広まったんです。今後はメガフロア型の競争力が落ちると思うんですね。もうちょっと分散的に、いろんな場所にオフィスや会議室を持っていたほうが有利というかたちにようやくなるんじゃないかな。そうすると都心の範囲とか都市のホットスポットが大きく変わるはずです。それは都市的な生態系のバランスが崩れることを意味していて、そのあとには、既にある物理インフラをどうやって読み替えて、よりよい適応を目指していくかという新しいゲームが起こってくるはずだから、僕はちょっと期待してます。

齋藤 一個の物理的な集合体に属していると活動の効率が良い、という考え方に囚われている人は多いと思います。これは弊社の真鍋(大度)とも話していることなんですが、リモートでも絶対効率がいいことはある。要は自分主体で考えなきゃいけないことが多いから、思考放棄ができない。集団では「この人がこう思うから、ここは変えよう」とか、「この人の意見に乗っかろう」となるんですけど、それはオンラインでもできるわけで、みんな慣れてないだけです。このコロナ禍で外に出られない状況が終わったとき、元には戻れない、むしろ元に戻らなくて良いと思う人は、結構いるのではないでしょうか。
 僕も自宅に自分の仕事部屋を作ったのは、2011年の3・11の影響で、当時は自宅リビングで仕事をしないといけないという状況になって、小さくてもいいから自分の書斎、仕事部屋がないと無理だなと思ったんです。Society 5.0の話もそうですけど、構想とか思想が先に進んでいるだけで、実空間が10年くらい遅れているんじゃないですかね。ブロードバンドもこれだけ広まって、これからは総合化、分散化していくだろう、不動産価値もフリップすると思うし、別にオフィスが駅前になくても良い、打ち合わせができるスペースが三浦半島や鎌倉にあっても良い。大企業も、うちみたいな小さい企業も変わっていった方が、効率とクオリティが良くなったり、新しく気づけることがあると思います。

門脇 オフィスに必要な機能ってじつは少ないですもんね。僕の仕事だと、何か製作するときの工房とか、イニシャルやランニングにお金がかかる大判プリンターのような大型の設備とか、そういうのだけは必要ですけど、他は会議室も何もいらないというのが正直なところです。

宇野 ただ、10年前の時点でもインターネットと都市の関係について、かつては文化資本の都心集中に対するカウンターにもなり得ると考えられていました。たとえば、都心や駅前でなくても、SNSの趣味の小さなコミュニティで話題になって、ちょっとマニアックな商店が郊外の外れの方でも成立しているみたいな例を、当時僕も門脇さんと取材に行ったりしたじゃないですか。
 ところがその一方で、本来は自律分散的なインターネットがSNSによってひとつのムラになっていく力もあって、この10年は明らかにこちらの力のほうが強かったのは間違いない。みんなが見て、みんなが行っているところに行って、みんなが話題にしているものに乗っかりたいという欲望が、むしろ結果的に都心集中と結託する方向に向かっていった。
 なので、僕はコロナ禍が起こっても、巨大なハコへの集積やメガシティ化の重力が、そう簡単に弱まるとは到底思えない。むしろ、逆なのではないか。今後、映画館やアミューズメント施設などとかは苦戦するかもしれないけれど、一周回ってもっと生々しい理由で、医療、通信、食料インフラなどの充実度を考えたとき、引きこもるからこそ都心に住むほうが有利になると人々が考えるようになることも全然ありえます。これらを踏まえた上で、メガシティ化をどう内側から改善していくかを考えなきゃいけないのではないでしょうか。

階層分化の危険にどう対応するか

宇野 結局、この10〜20年くらいの都市設計や都市論の中心になっていたのは、商業施設や公共空間の再開発など、住空間と切り離されたところでの議論だったと思うんですね。今後の都市再編では、そうではなく周辺の住宅から考える志向に逆転していく可能性があると思う。住空間を中心に都市を考え直すことによって、強く浮かび上がってくるものもあるんじゃないか。
 たとえば、おいしい食事をデリバリーしてリモートワークで生活できるのは、東京をはじめとする大都市だけです。Uber Eatsもようやく富山市とか広島市の中心部くらいまで走り始めていますが、普及は一定規模以上の都市住民に限られるでしょう。加えて言えば、自宅で仕事して出歩かずに生活できるのは、中流以上の知的労働者のライフスタイルであって、それを支えるためには決定的にブルーカラー層の接客・配送・生産のプロセスが整備されていることが前提になっている。僕は中食の文化が拡大することによる食の多様化は大事に育てるべきだと思うのだけど、それが階級固定を後押ししてしまわないように、政治的な介入も必要だと考えています。

▲ネット連動型のフードデリバリーサービスも大都市圏を中心に浸透(Photo by Tricky_Shark / Shutterstock.com)

門脇 メガシティ圏の存続の仕方を考えると、今後は都市が神殿化していくかもしれない。たとえば小学校の学区みたいな、地域レガシーはなかなか解体しない、逆にハイソサエティなコミュニティを志向する地域が、そうしたブランドイメージや排他性を強化するシナリオがあり得るんじゃないか。アメリカや一部の新興国では富裕層だけが住むゲーテッドコミュニティが生まれてますよね、あれが日本でも広まるとしたら怖いと思います。

齋藤 僕は個人的に、今後は職住近接モデルではなく二拠点生活みたいになっていくと思います。地方では少子高齢化と過疎化が進んでいます。たとえば九州でも東北でも、田舎にある実家を売っても二束三文にしかならない。これから、税制優遇なんかが導入されれば、売るより生まれ育った家はキープしておこうっていう発想になるんじゃないかと思います。この前、コロナ禍で多くの人が軽井沢の別荘地に流れましたよね。そういうふうに、今や同じブロードバンドが通っているなら情緒的に安心できるのは土や木にあふれる地方なのではないでしょうか。今回、リモートワーク化で予想外に痛手を負ったのは子どものいる世帯で、Zoomをしてても子どもが映り込む場合もあるじゃないですか。そうなると、郊外型で家賃も低めで部屋数に余裕がある場所に流れる世帯は多いと思うんです。そうなった場合、もしかしたら富裕層がタワマンに集中するといった従来型のプライムの格差が解体される可能性もあるかも知れません。

宇野 僕は親が東北や九州、北海道など地方を転勤していた人間で、少年時代を概ねこうした地方で過ごしているのですが、こうした土地ではいまだに、比喩的に言えば理系の成績の良い人ってみんな医者になってしまう。もちろん、それは素晴らしいことだけれど、背景には他の魅力的なキャリアプランが若い人の視界に入らなくなってしまう文化的な貧しさがある。だから、僕は誰もが都市空間に接続できることは非常に重要だと考えています。もちろん、それは本来はメディアの役目で、インターネットがある「にもかかわらず」この状況を決定的に覆せていないのは、僕らメディアに関わる人間の敗北ですらあるはずです。
 しかし、階級移動の可能性とか、文化資本の再分配の装置として、物理的な都市空間はこうしている今もけっこう大きい役割を果たしているはずなんです。しかしこの回路が徐々に衰微している。東京とそれ以外の落差が大きくなって、地方都市の文化的な豊穣さが衰微してしまう。そしてモノやコトが豊富で、街歩きによって他者に出会える都市空間がインターネットの登場で衰退して、さらにコロナ禍による感染症リスク回避のための在宅化が進んでいる。SNSによる動員の革命は、むしろ文化的な階層の棲み分けを加速してしまった。そうしたなかで、文化資本の再分配装置としての都市の機能を回復するにはどうすべきかを考えないといけない。

門脇 一番嫌なシナリオは、住宅の規模がそれなりに大きくて、小さなお店もあって楽しい昭和の高級住宅街が復権することじゃないですか。そこにどう抵抗していくのか。

宇野 そうして、郊外のゲーテッドコミュニティ的高級住宅街に、新宿や渋谷や池袋にいる低所得の若者層がUber Eatsの配達員になって高級レストランのランチをデリバリーする未来が目に浮かびますね。ありえそうだけど、すごく嫌なシナリオです。

齋藤 僕が住んでいる葉山とかでは、それはありそうですね。雑多な住宅街じゃなくて一軒300坪以上あって、入り口からセコムが通ってるみたいな場所では、そういう雰囲気になってます。明治時代からの住民間ヒエラルキーが残ってる。

宇野 今の日本だと、都市部のホワイトカラー層で、かつ一定の情報感度を維持している階層はNetflixを見てるけど、ブルーカラーと高齢層は今も地上波テレビにかじりついていて、明確に分化が起きてきてる。日本の出版文化とか放送文化の強みだった階級横断性が、オールドメディアの怠慢やニューメディアの空回りなど、さまざまな理由から、ボロボロと崩壊していっている。それに加えて、いまメディアとしての都市の機能までもが、いよいよ停止しかかっている。このシビアな現実が、このコロナ禍でより強く露呈していくという悲観的な予測をしてます。

門脇 そこに抵抗する手段として、多拠点居住、二拠点居住はひとつの可能性ですね。でも、移動と住宅のメンテナンスコストの高さが課題でしょう。

宇野 二拠点居住は、都心のホワイトカラー、いわゆるクリエイティブクラス以外の層には、あまり浸透しそうにないですね。でも、もともと都市は問答無用で物理的に存在することによって、誰でも出入りできる階級横断的な文化資本の再分配装置になっていたわけです。僕は札幌で浪人生活していた1990年代末とか、よく古本屋街に入り浸ってた。じつは当時、札幌のすすきのって歓楽街であると同時に古本屋が多かったんです。今ではAmazonに頼って古本屋には行かなくなってしまったけど、あの古本屋街が当時の僕のような行き場のない学生の居場所になっていた。あの頃に戻すことが正解だとも僕には思えないですが、ああいった機能は、サイバースペースだけでなく都市空間にも存在したほうがよいと考えています。

門脇 今回は都心の話から、住宅の話、都市の構造に沿った話と、いろんな課題が明らかになったと思います。今後はそれぞれの戦略の組み立てをしていきたいです。

齋藤 今の現象をマクロな視点で見ると、たとえば中世ヨーロッパのペストの流行でルネッサンスが起こったり、ベトナム戦争からヒッピームーブメントが起こったりしたように、今回のコロナ禍のあとに何が起こるのか? 僕は最近、こういう時代になってすごく哲学の話が盛り上がってくるだろうと思う。

宇野 そうですね。また話を深めたいです。今日はありがとうございました。

[了]

この記事は佐藤賢二と中川大地が構成し、2020年6月1日に公開しました。
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この対談から約半年。この3人と、社会学者の南後由和さんをお迎えして、あらためてこの問いについて考えました。こちらもぜひ、参考にしてください。