▲アンカーコーヒー気仙沼内湾店の外観。(撮影:蜷川新)

自然と「グローカル」? 海外と直接つながっている街、気仙沼

──僕は今回気仙沼にははじめて来たんですが、なんだか独特な雰囲気がある気がします。昔八戸に住んでいたので漁港の雰囲気はなんとなく覚えているんですが、そこともまったく違うような……。

小野寺 そうですね。八戸は海に直に面しているし、デカいですから。ここは奥の方まで入江で、海賊とかがいそうな感じ(笑)。気仙沼は昔から陸路でのアクセスが非常に悪かったところで、陸の孤島と呼ばれてきました。独自の文化が発達していて、外から来る文化が定着しづらいんですよ。たとえばKFCとかマクドナルドなんかも、2回ずつ撤退しているんです。できても、もともとご飯のおいしい場所ですし、「これ来る必要ないよね?」っていう感じになってしまうんですよ。そういった意味では、独特の生き方がある街だと思います。

──やっちさん(小野寺さんの愛称)の経歴をはじめて伺ったときにびっくりしたのが、アメリカのミネソタ大学に行かれていますね。どうしてその大学を選ばれたんですか?

小野寺 子どものころから遠洋漁業の関係で、海外と触れ合う機会が多かったんです。僕が高校生のときに、母の幼馴染の気仙沼出身でミネソタにずっと住んでいる日本の方がいて。その人が、向こうのコミュニティカレッジの生徒たちを連れて、夏の間にホームステイに来ていました。その交流で仲良くなった奴がいたりして、そういうきっかけですね。

──KFCやマックすら入ってこれないところで、当然スタバもなければタリーズもない。こういうところでシアトル系のコーヒーをずっとやられている方がいるというのを知って、純粋に驚きました。

小野寺 ないものは作るしかないな、という感じでやっているんです。このマインドは気仙沼の土地柄とも関係していると思っていて。気仙沼で遠洋漁業が大きくなっていったのは、目の前にいる魚が少なくなったり、冷凍技術や造船技術が発展したことによって、遠くで獲った魚も鮮度の高いまま日本に持ってきて、売れるようになったりしたからです。要するに、「こういう技術があるからやってみようよ」ということを繰り返して大きくなっていったような港なんですよね。だから、気仙沼でコーヒーショップを始めたのも、あまり珍しいことでもないと思います。
 我々はここから一番近い都市である仙台とはあまり交流がなくて、どちらかと言うと東京、東京の次に一番近いのは清水だったりするんです。清水はマグロ船で行ったり来たりしていますから。あとはホノルルや、ペルーのカヤオとか。子どものころはシドニーやスペインのラス・パルマス、南アフリカのケープタウンなんかに行ってきてはお土産で本を買ってきてくれるおじさんたちがいました。小さいときからそういうおじさんたちが身の回りにいたのは、自分の人生を変えるきっかけのひとつだったと思いますね。

──震災後から「地方創生」という言葉がもてはやされるようになって、そのなかでも「グローカル戦略」という言葉が全国レベルでようやく浸透し始めたように思います。でも、そのはるか前に気仙沼は、当たり前のように、直接世界とつながる地方であったと。そういう地方って、実はたくさんあるのかもしれませんね。

小野寺 グローカルっていう言葉も、何がグローカルなのかよくわかんねえなといつも思うんですけど(笑)。たとえばうちは数年前まではアメリカでイワシを買い付けていたんですよ。その売り先は気仙沼のお客さんの船です。気仙沼で生まれ育った友達の船にそれを積んで、アメリカで買ったイワシを、そのままスペインのラス・パルマスに送ったり、インドネシアのバリ島に送るんですよ。で、そのイワシを買い付けた船はインド洋とか大西洋でマグロ釣りをするために、うちのイワシを使うんですよ。これはグローカルなんでしょうね(笑)。でも同じ方言をしゃべっていて。

──そもそもグローカルという言葉がバズワードとして流通してしまうこと自体がちょっと歪ですよね。僕らの社会のなかで流通の感覚とか土地の感覚がおかしくなってきた証拠なのかもしれません。東京を経由しないとグローバルに行けないという謎の思い込みに、僕らが数十年単位で洗脳されてきたんだと思うんです。

小野寺 封建主義的というか、中央集権的ですよね。魚の業界はそういうことと関係なくずっとグローカルです。たとえばマルハニチロなんかは、ずっと外国船籍の船を外国で運営して、売り先も外国ですし。あとは仲のいい台湾人の友達がいるんですが、アメリカの船会社を買って釣りをして、それを日本に売りにくるのがふつうなんですね。「この前紀文が来たよ」とか、「かっぱえびせんの原料を見にカルビー来たよ」とか言っていたりする。あるいはそこらへんの腰が曲がったおばあちゃんが畑で「あれ、お宅の息子いつ帰ってくんの?」とか言ったら「ケープ(タウン)から明日帰ってくるって言ってたよ」とか。そういう会話が日常なんですよね(笑)。

 これは船員さんに限った話でもなくて。気仙沼は港なので、当然船の修理に関する業者が全部そろっています。船用の電器屋さんや、冷凍機屋さん、溶接屋、エンジニア、プロペラ……そういうものがすべてそろってるんですよね。その修理工の人たちも、夏の3ヶ月間、ケープタウンとかラス・パルマスへ気仙沼の船を修理しに行っているわけですよ。気仙沼はそういう人たちが、ふつうに居酒屋で日本酒飲んで酔っ払ってやってるわけです(笑)。だからスペイン料理とか出すのとか、めっちゃ緊張しますよ。「ハモンセラーノあります」なんて言ったら「なんでイベリコのベジョータじゃねえんだ!」とか言うんですよ(笑)。

──手ごわいですね(笑)。

小野寺 「黒足じゃねえとだめだ! パタ・ネグラな!」とか(笑)。しかも、そのおじさんたちの話が面白いんですよ。キューバのカストロに呼ばれて漁業を教えに行った人なんかがいたりしますからね(笑)。

▲三陸のリアス式海岸。気仙沼大島、亀山展望台からの眺め(撮影:蜷川新)

中央集権的な構造からいかに脱するか

──最近は地方への出張も多いので自治体の人に話を聞くことが多いんですが、いかに東京から予算を引っ張ってくるかというゲームを半世紀以上続けたことで、やっちさんが言っているような、東京を経由せずに開いていく感覚を多くの人が忘れてしまっていると思うんです。

小野寺 そうですね。たぶん「それめんどくさいよね」って言われると思いますけど(笑)。「なんかときめかないよな」みたいな。

──「東京から予算を引っ張ってきてピカピカの建物を建てます」ということの方がときめかないと思うんですけどね……。

小野寺 そうそう。たとえば昨日マグロ船がここから出ていったんですが、その船頭さんが「早く海に出たくてしょうがない」って言っていたんですよ。「なんで? また10ヶ月とか海の上で過ごさなくちゃいけないだろ」って言ったら、「最初に出ていった船があるだろう。あいつら、パプアニューギニアでマグロ一日3.5トン釣ってるんだよ! だから俺も早く行かねえと負けてしまう!」って(笑)。「マジすか。3.5トンだったら1日200万ぐらい稼げますね!」「んだ! 早く行きてんだ!」って。そっちのほうがときめくじゃないですか(笑)。

──すごいですね(笑)。今回、何か所か回ってきていろんな人に話を聞いてきたんですが、口をそろえて言うのは「もうこの春から復興予算がないんだ、どうやってやっていこう」といった話なんですよ。もちろんそれはその通りだし、もらえるものはもらったほうがいいとは思うけど、別の発想も必要なんだろうな、とは思っていました。

小野寺 復興予算ありきで人を雇用してしまっていますよね。それがもっともやっちゃいけないことだとずっと言い続けているんですけど。
 とはいえ、このお店を作れたのも、震災のおかげなんです。ここにこの店があるだけでも、気仙沼は震災前を超えてしまっていると思います。この景色を眺めながら数百円で、ずっとここで仕事していられるわけですから、すごく贅沢な場所だと思いますよ。うちはずっと席を占拠していても怒りませんから。

──すごくいいところですよね。びっくりしました。もう僕、高田馬場のルノアールに戻れません。

▲アンカーコーヒー内湾店、店内の様子。窓際の席からは港の様子を一望できる。(撮影:蜷川新)

防潮堤に象徴された、この10年の復興

──気仙沼のこのインディペンデントな感じ、いいですよね。

小野寺 いいですよね。外に行くと違うなと思います。いまは防潮堤があるのでまた少し変わってしまいましたけど……僕は、ずっと防潮堤に反対しているので。

──僕もちょうどさっきこの沿岸の南のほうにある防潮堤を見てきました。ちょっとグロテスクですよね。

▲気仙沼市の巨大な防潮堤。(撮影:蜷川新)

小野寺 海から見ると要塞みたいで、一周回ってかっこいいんですけどね(笑)。あれは人が住んでいないところから、つまり必要のない場所から作ったんですよ。「ここ作っちゃったから周りも作らないとだめだよね?」っていう作り方ですね。

──それって工事のための工事ということですよね。被災そのものに対応するのではなく、被災の口実に何かをやるということに、かなり早い段階ですり替わってしまったわけですね……。

小野寺 そうなんですよ。防潮堤に使うセメントの材料を作るために山を何個か潰してますから。たとえば気仙沼の南側の地区にもともと堤防があったんですが、震災の津波で潰れて、ラムサール条約に登録できるんじゃないかというくらい、干潟の状態が豊かになった場所になったんです。カニとか、それを食べる水鳥などのいろんな生物が寄ってきて。これは貴重な自然環境として残したほうがいいんじゃないですか? って言ったら「国土保全の規則から言ってそれはできません」とか言われてしまって。「国土保全をするために、湿地として国土を失うわけにいかないんです」って(笑)。

 あと、たとえばここ(アンカーコーヒー内湾店)から見える防潮堤は、上の部分から車が見えるじゃないですか。これは車や、歩道を歩いている子どもから海が見えるようにしたいって言ったんです。だから上の部分の1メートルは津波の時にせりあがるように作られているんです。何気なく車で通るときに、港で生きることの意味を感じられるのがすごく重要だと思って。
 やっぱり港に生きることには意味があると思っているんですよ。正面から見なくても、目の端っこに季節を感じられるんです。たとえば「サンマ船が入ってきたな」「カツオ船が入ってきたな」「おっさんたちサンマの網の修理し始めたな」とか。カツオが穫れる時期になると、ここらへんがカツオ臭くてしょうがないんですよ。それで「カツオくせえな!」とか言いながらも、「ああ、夏だな」と思う。そういう記憶が刷り込まれて育つ子どもたちがいてもいいじゃないかと思うんですよね。

──本当にそうですよね。僕が震災から10年目であえて被災地をまわろうと思ったのは、被災地そのもの、震災に思い入れがあるというよりは、いまの日本そのものの問題が凝縮されている感じがするからなんです。

小野寺 本当にそうなんです。これだけ大きな災害があってこれだけやばい状態になっているのに、法律が変わらなかったんですよね。

──憲法9条の問題あたりに象徴的だと思うのだけど、どんなルールも建前として扱って本音の部分を反映した解釈と運用でどうにかしようとしてきたしっぺ返しだと思うんです。それは単純に法治主義の否定ですよね。コロナの一連の動きを見ていて、結局震災から10年経ってもこの国は何も学んでいないんだな、と思い知らされました。
 だいたいみんな問題ではなくて問題についてのコミュニケーションのほうに注目していて、問題そのものについて誰も関心がない。これは震災のときもそうでしたよね。東京のメディアが顕著で、この一大イベントに乗じていかに点数を稼ぐかというゲームにすり替わっていた気がします。

小野寺 震災の1年後に大阪に行って、ほとんど我々東北の話をしていないテレビを見たんです。あのころはここに住んでいると「被災地はいま大変です!」って、僕らだけがテレビや新聞なんかで繰り返し聞かされている状態だったんですよね。危機感をあおられているのか何なのか、よくわからなくて。あの報道は、何だったんですかね? 

──それっぽいことをやるのがメディアの仕事だと思っているんだと思います。「災害に対してはこう」「殺人事件に対してはこう」と前例を踏襲して繰り返すことが立派なメディアの仕事だと、特に古いマスコミの人たちは思ってしまっている節がある。

小野寺 そうですよね。でもそういった認識がネイションワイドに広がってしまっていて……。

──だから、僕たちのメディアとの距離感をゼロから組み直す運動が必要なんですよ。

▲気仙沼内湾のようす。この内湾もほとんどが防潮堤に取り囲まれている。

「気仙沼的生き方」を選択肢のひとつにしていきたい

──やっちさんは、次の5年、10年でやりたいことはありますか?

小野寺 そうですね……。たとえばこのコーヒーショップをいっぱい増やして大きくすることには、あまり関心がないです。というか、苦手なんですよね。だったらこの気仙沼の環境を充実させていくとか、ここが魅力的になって、いっぱい人が来てくれるようにするとか、そっちのほうがやってみたいと思っています。

──僕は高田馬場に住んでいるんですが、日帰りで行ける場所にこういう場所がなぜないんだろうと思います。なんかここで子どもたちが遊んでいるの、いいですね。

▲店の前の芝生スペース。取材当日は子供が鬼ごっこをして遊んでいた。(撮影:蜷川新)

小野寺 いいですよね。あんな風にもっと使い倒して、海辺で過ごすことの良さをもっと多くの人に味わってほしいです。
 でも気仙沼がこうなったのは、あの大震災があったからなんですよ。それがなかったら、何も変わらずしょぼいままなはずです。

──震災が行政に対してのプレッシャーになったっということですか?

小野寺 行政へのプレッシャーと、住んでいる住民の人たちの意識が変わりましたね。もともと気仙沼の人たちは、何か痛手を負ったら、より良くして返していくしかないよね、という考え方をする人が多いんです。
 これはいい例なんですが、Kindleで「気仙沼」で検索すると出てくる、無料の本が1冊あるんです。高村光太郎の『気仙沼』という本ですね。これは明治か昭和のころに、女川か石巻から汽船で来て、気仙沼に入って……というルートで東北を旅した旅行記みたいなものなんですが、そこに「気仙沼に来たら、前年に大火事があったので、気仙沼は夜も明かりがずっと灯っていて、夜中までカンカントントンやっていて、カフェが4軒もあって、ガス灯があった。銀座のような東京ぶりに嫌気がさした」とか書いてあるんですよ(笑)。
 それを読んだとき、「それでこそ気仙沼!」と思いましたよね(笑)。東北の旅情を感じるためにわざわざ寒村に来たい人には来てもらわなくてけっこうだよ、と(笑)。良くも悪くも、「古き良き」がない港なんです。昔から大火事や津波で洗われたりするので、常に若い新しいもので生きていかなきゃいけないのが、この三陸沿岸なんじゃないかなと思うんですよね。

──それ、すごく面白いですね。やっちさん自身はそういった、なにか新しいことを始めることは考えていないんですか?

小野寺 基本はないですね。でも、アンカーコーヒーも、うちで働く人たちがかもめのように移住できるといいなと思っています。たとえば僕が好きな福岡や京都、金沢、函館なんかも、半年交換でみんな行ったり来たりするみたいなことをできるといいじゃないですか。

──漁師町の思想ですね。

小野寺 そうですね。僕たちは港があるところに行く、船が家だ! という感じなので。船は店にもなりますしね。

──僕は父が転勤族だったのであちこち引っ越しているんですが、自分の実体験として、人間は同じ土地にしか生きられないっていうのは嘘だなと思うんです。でも一方で、意識高い系のノマド文化にも違和感があって。その中間として、遠洋漁業の漁師的な生き方や転勤族的な、その土地土地にちゃんと向きあうんだけれど、ずっとそこにいるわけじゃない態度はいまの時代に改めて必要な気がしています。

小野寺 外の街を知ることによって自分の街を知るんですよね。僕もアメリカの大学に行ってはじめて日本に興味を持ちましたし。昔も、日本を変えなければならないって思った人たちは洋行した人たちですからね。

あと10年は「復興」しなくてもいい

──やっちさんは気仙沼がこの先、どうなっていくと面白いと思いますか?

小野寺 アンカーコーヒーは、地元の食材も楽しみながら外のエッセンスをどんどん取り入れて、この町をカラフルにしていくようなことが仕事だと思っています。こういうしっかりとした色があって、気仙沼的生き方というか、「そういう選択肢があるんだ」と思ってもらえるようになりたいですね。

──ここに来るまで被災地を見て回ってきたんですが、だいたいどこの街にも震災をきっかけにガラガラポンになることを期待した人たちがいて、彼らが地方でクリエイティブなことをやろうとしていました。でも、この10年目という節目に復興予算が切れて、窮地に陥っているように感じます。多くの街はクレバーな撤退戦をどう戦うかを考えている。
 となると、日本の中小企業は土地柄的にはどこも基本的に保守的なので、実際に権力を持ってる人ににらまれないように、うまくすり抜けながら活動していくっていう選択肢に持っていくしかないと思うんです。そのうち身動きがとれなくなって、細々とやりながらちょっと面白いことを仕掛けつつ、にらまれないようにちょっとおとなしくしていくみたいなことを繰り返していく。
 そんななかで気仙沼は、小規模でもいいからちょっと違うゲームを戦う街であってくれたら面白いなと思います。

小野寺 まあ、やろうと思うこととできることは違いますからね。でも、我々が防潮堤に反対した理由のひとつは、「子どもたちに選択させようよ」という思いがあったからです。これを作ったら100年は残ってしまう。100年後は生きていないであろう僕らがそれを選んでいいのか、と思うんですよ。
 だから「10年で復興しなくていいよ」と思ってもいるんです。道路がいつまでも通れないのは困るところはあるけど、10年で完全に復興する必要ないよね、と。

──「10年は復興しなくていい」という発想、いいですね。みんな10年前に「復興しても仕方がない、これを機に新しいものを作らなきゃ」と思ったはずですよね。

小野寺 「復興事業」とよく言っていましたが、あれは「復旧事業」だったんですよ。最初の5年間で復旧させるときに、50年後、100年後を見ずに「復旧」させてしまった。いまマイナスになっちゃった町、ゼロから始まる町を作るのに、なぜ100年後を見ずに復旧するのか、という疑問はずっと持っています。

 たとえばいま新しい町を作るなら、電柱は地中化するべきですよね。また津波が来ますから。震災で電信柱倒れてて危なかったでしょ? 僕が住んでたミネソタなんかは、竜巻で家が町ひとつ倒壊してますから。竜巻なんか起こったらひとたまりもないですよ。
 でも僕が「電柱を地中化することも考慮にいれないといけないと思います」と市役所の会議で言ったら「何言ってんだ!」って言ったのが電器屋の、工事業者の親父でした。

──話が通じないですね。

小野寺 悲しかったですよね。道路の舗装もまだできていないときに、電信柱だけがトントントンと建っていったんです。うちは自宅も流されたので、自宅があった場所に電信柱がトントントーンって立っていったときに「人間は愚かだな」と感じました。
 もちろん彼らも悪意があって言っているわけではありません。当時はそのほうが早くて、「いまは1日だって早くやらなきゃいけないんだ」という気持ちも十分わかりました。

──「とりあえず仮で建てましょう。でもその後の話は別ですよね」という話が出てきてもいいはずですよね。

小野寺 そうですよね。電柱はともかく、防潮堤なんて「高い波が来るからそこに壁を立てて防ごう」なんて、ナイルの灌漑よりも悪い発想ですよ。何の輸出産業にもならないし、いかに強い壁を作るかしか学ぶことはないわけですから。

──本当に作ることのほうが目的になってしまっていますね。

小野寺 しかもあの防潮堤は、東日本大震災級の津波は想定してないんですよ。それ以下の、100年から100数十年ぐらいに一度に来る、明治の大津波レベルの津波を防げるようにしましょうという方針で作られている。意味がわからないんですよ。

──そうなんですか……恐ろしいですね。

▲アンカーコーヒー内湾店の入り口(撮影:蜷川新)

ローカルtoローカルで面白いことをやりたい

──やっちさんは、次の10年に面白いことを仕掛けていく糸口をどこに見つけたらいいと思いますか。

小野寺 各地方の都市、ローカルtoローカルでつながっていくのは面白いんじゃないでしょうか。たとえば我々だと、ベノアというバリ島の港やケープタウン、ラス・パルマスとかですね。もはや国じゃないんですよね。よく行っている街。

──震災復興とは何だったのかっていうと、ほとんどの場合はお上による「震災復旧」と、それにまつわる利益分配だったと。一方で、一部で面白いことを仕掛けようとしていた人たちは、震災復興というものをハックして、いろんなプロジェクトを実行していった。その結果、ほとんどのプレーヤーが、復興予算が切れた後に持続可能な体力を蓄えることができなかったっていうのが結果だと思うんです。だから、それまでは非常に対東京戦だったんだと思います。
 だから、いまこそ国内外を問わず、これからはローカル都市同士でつながっていくように、頭を切り替えるタイミングなのかもしれませんね。がんばっている人はいま、しんどいタイミングではあると思うんですが……。

小野寺 そうですね。まあ、暗いこと言ったって何にもなりませんから。うちはカフェなので、逆に人が少なくなっちゃって大変なんですよ(笑)。なんだかんだ、ボランティアで来てくれた人たちがいたときはすごく助かっていて。でも、人が少なくなってからもう5年ぐらい戦っているので、だいぶいろんなノウハウがついてきたとは思っています。もともと田舎は人の数が少ないので、そういう意味では商売を磨かないとだめだな、と思ってはいます。

──そうですね、僕もいろいろと磨いていきたいなと思います。最後にやっちさんにお話を聞くことができてよかったです。今日はありがとうございました。

▲アイスコーヒーと内湾の風景(撮影:蜷川新)

[了]

この記事は、宇野常寛が聞き手を、蜷川新が撮影を、石堂実花が構成をつとめ、2021年8月5日に公開しました。
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