「景観」を編集して「風景」をつくり出す

──玄さんが名乗っている「ランドスケープデザイナー」って、あまり耳慣れない言葉だと思うんですね。いわゆる「建築家」とは、やはりちょっと違うアプローチをしているからわざわざ別の言い方をしているのだと思うのですが、実際のところどういうお仕事なんでしょうか。

熊谷 そもそもランドスケープデザインを直訳すると、景観や風景のデザイン、という意味になるんですが、実は景観と訳すか、風景と訳すかで全然変わってくるんです。景観と風景の違いってわかりますか?

──風景のほうは、人間が見ているものですよね。

熊谷 そうです。風景というのは、人が見ているもので、人の感情がそこに作用しているものですね。一方で景観というのは、ものそのものですよね。景観が工学的なら、風景は文学的。ランドスケープデザインをするにあたって、景観デザインを志すのか、風景デザインを志すのかで、デザインの仕方や、アプローチが変わってくると思っています。僕は人のいる場所についてのデザインがずっと気になっていたので、どちらかというと風景をつくる人ですね。

──人が見ているものをデザインするということですか。

熊谷 そうです。ランドスケープデザインって、都市と自然、建物と地面、人と植物、公共と個人といったように、何かと何かの間に人間が介在して、ものを調整したり、整えていく仕事なんです。たとえば、建築もデザインもインテリアもグラフィックもファッションも、つくらなければゼロだけど、ランドスケープデザインだけは、何もつくらなくてもそもそも地球があるので、あえてものをつくらないという選択肢ができたりする。そういう意味では、ゼロから何かを生み出すというより、状況を編集していくような仕事ですね。
 たとえば、これは僕がランドスケープデザインをおもしろいと思ったきっかけなんですが、この写真は2、3年前に行ったエベレストですね。この写真の中には人間が作ったものが一切なくて、すべて地球が作った造形だったりするわけです。

 一方で、これは僕が住んでいる横浜なんですが、ここに写っているのは、空以外はほとんど人間が作ったものですよね。地球上に人間という生きものがいるだけで、ここまで多様な景観が生まれるということが、めちゃめちゃおもしろいなって思っていて。人間がいるからこそできる空間というのを突き詰めたくて、ランドスケープデザインに関わってきました。

「図」よりも「地」を大切にしたい

──ランドスケープデザイナーという仕事に玄さんはどのように関わっていったんですか?

熊谷 高校を出て、インテリアデザインの専門学校に行った後に建築設計事務所に勤めたんです。ところがそこがいわゆるブラックな職場で、完全に心が折られて、一回退職してリセットしようと思って。そのとき、もう一回本当に自分がやりたいことは何かを考えて、崔在銀さんという、アーティストのアシスタントに入りました。
 ちょうど僕がスタッフになったころ、崔さんは、街に彫刻を置いたりする、いわゆるパブリックアートの仕事を依頼されることが多い時期だったんです。僕はそれまで建築設計事務所にいて図面を描くことができたので、ちょうどいい感じでアシスタントとして雇っていただいて。パブリックアートは建築物の外部に彫刻を置いて、その置く場所を設計している人と調整しなければいけないわけです。その人がランドスケープデザイナーと名乗っていて、「こういう仕事があるんだ」ってそこではじめて知りました。そのうち彫刻そのものよりも、置かれている環境を考えることのほうがおもしろくなってきて、崔さんのところを卒業するときには、彫刻をつくるより、彫刻が置かれているような「地」のほうを追求したいと思うようになっていました。

──パブリックアートは、風景という「地」にパブリックアートという「図」をはめ込んでいく作業ですよね。すでにあるものに対して、自分の意図で介入していって、変えてしまうくらいのことをやるわけです。そういう意味では、パブリックアートが「地」である景観・風景との対決であるのに対して、ランドスケープデザインはどちらかというと、すでに存在している風景をいかに生かして、アップデートしてくかというアプローチになっている。「図」と「地」の総合的なコントロールですよね。一見小さいようで、ここにはかなり決定的な差がありますよね。

熊谷 そうですね。僕はそれまでは「モノ」にこだわっていたので、それを一回捨ててみることに興味があったのかもしれません。

物語を紡ぐ「風景」を作り出す

──「モノ」を捨ててみることで、つまり建築からランドスケープデザインにシフトしたということだと思いますけれど、そうすることで手掛けるものはかわりましたか?

熊谷 自分たちがそこに物語を見つけられるかどうかは大事だと思っています。その場所にいる人たちがそこでちゃんと物語を見つけられて、そこに我々が手を加えることで、次の物語を紡いでいけるような仕事ができるかどうかが、僕らが会社としてその依頼を受けるか受けないかの判断基準ですね。そういう仕事は、我々だったらこうしますっていう提案を先にやっちゃうんですよね。

 たとえば、僕が独立してから手掛けた左近山団地は、昭和40年代の中盤ぐらいに、団塊の世代が社会に出て、日本中に山のように団地がぽこぽこできていた頃にできた団地のひとつです。約4800戸あって、今はおよそ1万人が住んでいる団地ですね。住民の方の平均年齢は70代が多いうえに、ここは半分分譲なので、その人たちが抜けるとごそっと人口が減ってしまうのではないかという危惧がありました。

 こういう高齢者が多い場所でも、たとえば駅から近いところであれば、団地でも再投資されるんです。要するに、「○○不動産」みたいなところが入ってタワマンを建てるわけですよね。でも、最寄りの駅からバスで20分ほどかかる左近山は、再投資の気配の気の字もない。街の人たちはそれでもけっこう元気でがんばっているんだけど、「本当にあと10年したらどうなっちゃうの?」という状況があるなかで、どうこの場所を再生していけばいいのか、という課題がありました。

──玄さんが依頼されたのは、この写真にある風景をデザインすることですか?

熊谷 そうです。ただ、大きな資本を使わず、分譲の人たちが月ごとに出している管理費の積み立てで団地を変えていこうとすると、たとえばエレベーターをつけたいとか、そういう利便施設をつくるにはちょっと厳しいことがわかりました。じゃあ何をしたらいいかと考えたとき、家に閉じこもりがちで、1日1回買い物に行くぐらいしかない高齢の方をなるべく外に出して、街に人がいる感じをつくっていこう、と。そうすると「近隣」が生まれて、街の風景が生まれるだろうと考えたんです。風景って、人がいることで生きてくるので、そのためにパブリックスペースをアップデートして、そこで人が集まれるようにしていこうと。
 具体的には、今までまったく使われてなかった広場には、どこにでも売っているようなベンチを撤去して、木の下に縁台みたいなものをつくって、木陰の下に座れるようにしたりしました。

 あとは、これは団地あるあるだと思うんですけど、団地の公園って小学校2年生のグループが遊んでいて、そのあと小学校5年生のグループがくると、小学校2年生のグループはいづらくなって出て行っちゃう……みたいなことが起こるんです。そのあと中学生がくると、今度は小学生も「なんかお兄ちゃんがきたから……」みたいな感じでいなくなる(笑)。結局、1広場1グループみたいになりがちなんですよね。それは設計が悪くて、いろんな人たちが全然違うことをやりながら同じ場所にいられる距離感やゾーニングがあるんじゃないかと思うんです。そういう気を使いながら、少し配置換えをしたりました。

──それだけで人の動きは変わってしまうものなんですか?

熊谷 変わりますね。でもそれだけではなくて、子どもたちに芝生を植えてもらいました。ものをつくるときってすごくエネルギーが必要なので、手伝ってもらうことで、自分ごと化するようになるんです。子どもたちも、ある日突然生え変わった芝生には興味示さないけど、自分が張った芝生にはめちゃくちゃ興味示すようになって、そこが枯れてると「僕が植えたところ枯れているんですけど、どうしてですか?」って管理組合に言うくらいになるんです(笑)。そういうのを少しずつ積み重ねていくと、みんな一緒にいられるような場が作れたり、自分がやりたいことをその場所で実践できるようになる。

 「左近山のみんなのにわ」をつくるときのコンセプトは「やりたいことがやれる場所」でした。どうしても自分の住んでいる場所の近くでやりたいことができなくなると、あきらめて外に出て行ってしまう。でも、やりたいことがその場所でできるようになると、そこが使われるようになるのかなと。最初にこの広場をつくるときには、みんな集めて「やりたいことなんですか」「やりたいこと教えてください」って教えてもらうワークショップをやったんです。たとえば「麻雀をずっとやっていたんだけど、メンツ1人死んじゃって3人しかいないから、麻雀やりたい」という要望が出てきました。そうすると「じゃあ外でやっていれば誰か興味ある人が入ってくるかもしれないから外でやろう」とか、外でやれそうなことを集めて、再配置していくと、結果的に、今みたいなゾーニングができたんです。みんな自分たちが「やりたいこと、ここでやっていいんだ」という感じになっていくんですよね。

──お話を聞いていると、玄さんがやっているランドスケープデザインというのは、「景観」を「風景」にすることなんだと思います。たとえばエレベーターをつくるとか、道路を拡張するといったインフラそのものには介入せず、あくまでルックスを変えて、人が関われるポイントをつくっていく。しかも、一緒に作って愛着を持たせるといったプロセスがあることによって、人は「自分がそこに関われるかもしれない」と思う。こういったことを通して、「景観」は「風景」に変わると思うんです。

熊谷 実は左近山は僕の地元で、オープンコンペだったんです。だから「これ地元じゃないか。俺がとらなかったら誰がとるんだ」って思って(笑)。おかげで地元の小学校のPTA会長をやるはめになったり、シャッター商店街の空き店舗を借りて、アートセンターをつくったり、結果的には風景づくりを継続的にやれている場所ですね。

──風景が変わるとコミュニケーションも変わりますね。たとえば人口減少を食い止めるために、地方の自治体は公共事業を通して雇用をつくったり、移住者を募ったりすることはできる。でも、そんなことができるところばかりじゃないですよね。それとは別の方法として、僕らが目にする景観を風景に変えて、人がいられない場所をいられる場所に変えていくだけで、これだけ高い効果をあげているということは大事だと思います。

熊谷 まさにその通りですね。これから日本はどうやって暮らしていくか、どこで暮らしていくかをちゃんと自分たちで考えていかなければならない。そういったなかで、選択肢を増やしたいなと思っています。

「景観」を描写するマンションポエムから、生活を物語る「風景」へ

熊谷 これは「デュオヒルズ南町田 THE GARDEN」といって、南町田のマンションのプロジェクトですね。南町田はもともと工業地帯だったんですが、最近は「南町田グランベリーパーク」という巨大ショッピングモールができて、どんどん街が変わっている場所です。ここも、もともと工場だったところを壊してマンションにするというプロジェクトで、そのマンションのランドスケープデザインをしてくださいという依頼でした。で、マンションって、必ずパンフレットに掲載されている、マンションポエムがあるじゃないですか。

──ありますね。「駅チカの生活と、ウォータフロントの景観のすべてを手にいれる」とか(笑)。

熊谷 「この頂に住まうということ。」みたいな(笑)。マンションってとにかく人生でもっともでかい買い物だし、達成感みたいなものをあおることが重要なんですよね。だから、ランドスケープデザインをやるっていっても、「ホテルライクなエントランスを」「ラグジュアリーさを」とか言われるわけです。でも、それが鉄板になっちゃっていることに対して、ちょっと疑問を感じていて。
 南町田は土地も高くないから、入居する人たちも子育て世代が多い。そこで僕らは、マンションのエントランスをつくる代わりにそこを全部公園にして、子どもたちがめちゃくちゃ走り回っている風景をエントランスにしましょう、とご提案しました。子どもが遊べるように、ちょっと丸い形のものを点在させていきながら、公園で子ども同士の縁をつなぐ、「縁と縁の園」というコンセプトでやったものですね。

──えにしの「縁」と、公園の「園」ということですよね。すごくニーズがありそうな気がします。マンションのラグジュアリーなエントランスって、マンション購入を人生の目標にするような人たちにとっては刺さるのかもしれないですが、実際に購入後に自分がそこで生活することをどれくらい考えているのかについては、疑問に思いますよね。

熊谷 まさにそのとおりなんです。だいたいみんなものを買うときは、スペックで買うじゃないですか。何LDKか、駅から何分か、とか。でも、10年住んだ人に「あなたの家どうですか」って聞くと「風が気持ち良い」とか、「窓の外から桜が見える」とか、風景を語るんです。だから、最初から風景をもうちょっと購買の判断基準に入れてもらえるといいなと思いますね。

──実際にマンションパンフレットの王道はやっぱり「景観」ですよね。実際に人が描かれることはほとんどないし、描かれたとしても、非常に匿名的で平均的な容姿を毒にも薬にもならないようなイラストでポンって置いてあるだけ。そもそも、マンションパンフレットに写っているマンションはだいたいは超遠景ですよね。でも、そもそも実際にそのマンションに住む人は遠景でそのマンションを見ない。その時点で、住民の視点じゃないんです。
 もっと等身大の風景としてそのマンションを捉えたとき、いかにもバブルの残り香がするようなラグジュアリーなものが、自分が住みたい「風景」なのかと考えると、違うと思うんです。購買者の思考が抜け落ちちゃっているような感じがしますよね。

土地の記憶を、「風景」が継承していく

熊谷 これは「ナミイタ・ラボ」といって東日本大震災で被害を受けた、宮城県の雄勝町にある波板浜という小さな浜のプロジェクトです。被災して建物を高台に移転するので、この機会にこの場所を使っていろんな活動をしていこう、というコンセプトで、最初は東北大学の人たちと、コミュニティセンターの運営や、それを使って何をするかを一緒に考えてほしいということで入ったお仕事です。

 実はここはいわゆる限界集落で、あと10年か20年したら住む人がいなくなっちゃうような場所なんですが、雄勝硯で有名なように、古くから石の産地として有名で、なんと縄文時代から人が住んでいたことがわかっています。今はネットワーク社会で、学校や電車、バスといったインフラがあるか否かが人の暮らしを決定させる要素だけど、縄文時代は水があるかとか、木の実が生えているとか、魚がいるかとか、そういう要素が暮らしを決定するんですよね。この場所は、そういう視点でみるとすごく豊かな土地なんです。
 そう考えたとき、この先この場所に住む人がいなくなっても、そこで人間が培ってきた営みやノウハウはきっとその先もずっとつないでいけるんじゃないかと思いました。そのためにも、今人がいるうちにここのファンを増やそうと。そうしたら1年に1日だけでも波板に遊びに来る人がいれば人口1人だなとか、そういうことを考えながら、今ここでやるべきことはなにかを考えたプロジェクトでしたね。

──たとえ人が住まなくなったとしても、そこが「景観」ではなく人が関われる「風景」になればその土地が生き続けるってことですよね。

熊谷 そうですね。そのためにも取り組んだことのひとつに、東北各県がコンクリートで波を避ける防波堤をつくっていくなかで、「せっかく石がとれるんだから無機質のコンクリートの防波堤じゃなくて石を貼ろうよ」ということで、みんなに石貼りをやってもらうというプロジェクトをやりました。だいぶ前ですが、クラウドファンディングをやって300万円くらい集まって。仙台や東北各県からいろんな人が石を貼りに来ました。

──「左近山のみんなのにわ」の芝生みたいに、自分が手をかけたところはすごく愛おしく思えますよね。

熊谷 人の手が入ったものが残っていくと風景になりやすいんですよね。

「景観」の消費者から、「風景」の当事者へ

──よく「自然が好き」と言う人は、なるべく人の手が入っていない自然の中にでかけていって、自分を見つめ直したり、自然の偉大さを感じたりすることが好きな人が多いですよね。僕もその気持ちはよくわかるんです。でも、その一方で「ここが自分の場所だ」と思える場所が、人間にとって重要だと思うんです。自然という景観の中にただでかけていっても、そこが自分の場所だとは思えないですよね。そうではなくて、その場所が人が関われるものになっていることで、はじめてその場所にコミットすることができるようになると思うんです。
 同じように、たとえば東京に住んでる僕らにとって「ナミイタ・ラボ」のような被災地は、縁もゆかりもないところだったはずです。でも、東京のメディアは「被災地にでかけていって、震災の悲惨さを忘れないようにしよう」みたいなことを大合唱していた。僕はそれがすごく嫌だったんですよね。なぜかというと、彼らは被災地の風景を景観と、つまり他人事として消費しているんです。
 「凄まじいことが起こった場所に行くことによって考え方を改めよう」と言われても、それでは単に消費者になってしまう。そうならないためには、そこを景観じゃなくて風景として見なければならないと思うんです。そうしてはじめて人はその場所に持続的にコミットしていくことを考えることができるようになる。その場所で起こったことが他人事ではなくて自分事になるんですよね。

熊谷 その通りですね。人が人を思って作った場所っていうのはいろんな人にちゃんと伝わると思うし、後世に残っていくと思っています。この先そういう場所を作らなきゃいけないでしょうね。それは都市についても同じで、景観でものを語りすぎるのは、ちょっと違うんじゃないかな、と。
 この先ランドスケープデザインは、建設業ですらなくなるんじゃないかなと思っています。僕はたまたま建設業的な職業からランドスケープデザインをやり始めたけど、編集者がやるランドスケープデザインとか、ヨガインストラクターがやるランドスケープデザインとか、そうやっていろんな人が風景を作っていくとおもしろい世の中になりそうだな、と思いますね。

文化が醸成される「風景」をつくる

──こうした経歴を踏まえて、いよいよ玄さんが「風の谷を創る」プロジェクトにどう関わっていくのかを伺いたいのですが。

熊谷 まず、けっして「ロハス」ではない方向で、都市のオルタナティブをつくるという方針でやっていますね。

──今日のお話と照らし合わせると、ロハスが地方の山奥とか海辺に行って「景観」を消費するのに対して、「風の谷」は僕らが暮らしていける「風景」を獲得しようとしているものですよね。都会では実現しないコミュニティを実現しようとするのではなく、実際に自然との付き合い方や自然と人間との関係性自体をテクノロジーによって書き換えようとしている。

熊谷 そのとおりです。そのなかでも僕はまず、「道ってなんだろう」ということを突き詰めています。たとえば今の日本では、家の土地は「接道」といって道路と接していないと家を建てちゃいけないっていう法律があるぐらい、道路は重要なんですが、そのルールが、日本のどこにでもそれが適用されているのは違うんじゃないか、と。そんなようなことから、アスファルトを固める道路以外の道もあり得るんじゃないか、という素材の話まで、幅広く考えています。
 あとは森についても考えていますね。森って、一見自然っぽいけど、日本の森のほとんどは人工林で杉だらけじゃないですか。杉を植えていた時代はそれが正しかったけど、今は花粉症などの問題もあるし、アップデートする必要がありますよね。それをどうしたらいいか、みたいなことを話し合ったりしています。

──結局、「風の谷」でやろうとしているのは地方創生や町おこしとかではなくて、ほぼつくり直すことですよね。日本だけではなく世界を見ても、既存の地方都市はわかりやすく東京のようなメガシティのダウングレード版になっているのが現状ですが、もうちょっと違う形での地方での暮らし方、自然とともに生きる生活のスタイルを模索しているイメージです。

熊谷 そうですね。ちょっと話は変わるんですが、ちょうど今、左近山団地の空き店舗を借りて、アートセンターをつくるプロジェクトをやっているんです。具体的には、ギャラリー兼カフェみたいなものをつくって、団地の中で運営していきながら、団地のマインドをどうやって変えていけるのかをトライしたいと思っていて。よく、みんなアートや文化を「大事です」と言うけれど、本当にそれが暮らしそのものの根底にちゃんと根付いて変えられるのか、それを確かめてみたいんです。
 そもそもランドスケープデザインっていうのは、オーダーがあってないようなもので、自分たちで考えなきゃいけないんです。たとえば、「図書館の設計をしてください」って言われたら、書架が何個で、トイレが何個で、司書室が何個で……っていう仕様があるじゃないですか。だけど、「図書館のランドスケープデザインをしてください」と言われたとき求められるのは、「図書館にふさわしいランドスケープを作ること」なんです。
 だから、こういう仕事をずっとやってきて、そこにいる人々が何を欲したらどういうものができるのか、といった過程と結果を考えてみたいと思うようになりました。たとえば、文化を大事だと思えるような町をつくるとき、地域から「こういうものがほしい」という声が上がってくるためには、どうしたらいいのか。そういう町のモードみたいなものを、どう醸成していけるかを考えたいと思っています。

──今日のお話は、この2年間準備してきた風の谷プロジェクトの本当に根幹の部分だと思います。これから「風の谷」ではリアルの空間でいろんなアプローチを試していくと思うんですが、それがどんな形で現れてくるのか、とても楽しみになりました。

[了]

この記事は、宇野常寛が聞き手を、石堂実花が構成をつとめ、2020年4月13日に公開しました。
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