1935年、マンハッタン

 1935年の春、一人のユダヤ人の若者が生まれて初めてマンハッタンを訪れた。彼はまだ15歳だったが、飛び級でコロンビア大学に入学する機会を得て、面接審査に臨もうとしていたのだ。彼の名は、アイザック・アシモフ。後に『われはロボット』や『ファウンデーション』シリーズ、そしてロボット三原則で知られるようになるアメリカを代表するSF作家だ。アシモフはロシア生まれだったが、ロシア革命の影響を受けて一家でアメリカに移り住み、マンハッタンの対岸にあるブルックリン地区で幼少時代を過ごしていた。

アイザック・アシモフ(出典

 若きアシモフの面接はうまくいかなかった。だが奇妙なことに、面接官は、コロンビア大学付属のセス・ロウ短大(Seth Low Junior College)という学校がブルックリンにあることをアシモフに教え、入学を勧めた。ニューヨークで育ったアシモフはコロンビア大学についてはよく知っていたが、地元にあるこの短大のことはまったく聞いたことがなかった。とりあえずお礼を言って帰宅し、セス・ロウ短大の入学について調べたアシモフは一つの結論に達する。面接官がセス・ロウ短大を勧めたのは、自分がユダヤ人だったからに違いない、と。
 セス・ロウ短大は1928年から1936年という短期間だけブルックリン地区に存在した学校だ。入学資格はコロンビア大学の学部であるコロンビア・カレッジと変わらず、学費も同額だったが、二年制であるため卒業しても学士号は得られない。学士号を得るにはロー・スクール等に改めて入り直す必要があった。そして、学生の大半はユダヤ人、それ以外もブルックリン在住のイタリア系アメリカ人のみという極めて偏った構成をしていた。要するに、セス・ロウ短大は、アシモフのようなブルックリン在住で、コロンビア大学への入学を希望するユダヤ人の若者を、コロンビア大学本体から「隔離」するのを目的に設立されたものだったのだ。

 前回も触れたように、新天地アメリカへと渡ってきたユダヤ人の多くはニューヨーク近郊に住み着いた。このことには様々な要因があったのだが、今回は特に大学に焦点を当てたい。彼らがニューヨークの大学へと進学していったことは、20世紀のアメリカ哲学にとって重要な意味を持っていたのだ。

セス・ロウ短大は独自の建物すらなく、ブルックリン・ロー・スクールという別の学校の建物の一角に間借りしていた。(出典

宗教と結びついていた建国当時のアメリカの大学

 建国当時のアメリカの大学はすべて「カレッジ」であり、その主な役割は聖職者育成だったが(本連載第9回)、聖職者といってもプロテスタントに限られていた。イギリス植民地時代に設立されたアメリカの大学は全て、特定のプロテスタント宗派と結びついていたからだ。例えばアメリカで最も古い大学であるハーバード大学の場合、設立当初の入学者の大半は、プロテスタントの中でも、あのメイフラワー号でアメリカにやってきたピルグリム・ファーザーズと同じ、ピューリタンだった。
 ピルグリム・ファーザーズは現在のマサチューセッツ州プリマスに入植地を建設する。このプリマス入植地が近郊の他の入植地と合併して──正確には、より大きく成長していた後発のマサチューセッツ湾入植地に吸収されて──マサチューセッツ入植地となるのだが、いずれの入植地も、ピルグリム・ファーザーズをまねてアメリカに渡ったピューリタンが建設したものであり、支配層はピューリタンだった。実際、初期のマサチューセッツ植民地には、ピューリタンでなければ選挙権がなかったほどだ。そしてハーバード大学を設立したのは、そのマサチューセッツ入植地政府である(本連載第9回)。こうした経緯もあり、別に設立規約に定められていたわけではなかったものの、ハーバード大学は、自然とピューリタン向けの大学となった。20世紀に入るまでカトリックやユダヤ人の学生は数%程度だったと言われている。
 似たような事情でピューリタン向けだった大学は他にもある。例えばイエール大学がそうだ。マサチューセッツ入植地は後にマサチューセッツ州になるのだが、マサチューセッツ州をはじめとするアメリカ北東部の6州は、いずれもマサチューセッツ同様にイギリスから逃れてきたピューリタンたちが設立した入植地に端を発するものであり、これら旧イギリス植民地はニュー・イングランド地域と呼ばれるようになる。コネチカット州もその一つなのだが、イエール大学は1701年にコネチカット入植地政府によって神学校として設立されたものである。

 だが、ユダヤ人が多く住み着くことになるニューヨークでは事情が異なっていた。そもそもニューヨークは、古くはニーウ・アムステルダム(Nieuw Amsterdam/New Amsterdam)といい、オランダの植民地であるニーウ・ネーデルラント(Nieuw Nederland/New Netherland)に属していた。ブルックリンやハーレムといった著名な地名も、オランダに由来するものである。ニーウ・ネーデルラントは、第三次英蘭戦争の講和条約である1674年のウェストミンスター条約によってイギリスに割譲されるが、オランダの多文化主義や宗教的多様性はそのまま残されることになる。
 ニューヨーク最初の大学は、1754年に設立されたコロンビア大学だ。当時の名前は「キングス・カレッジ(King’s College)」といい、イギリス国王ジョージ二世の名の元に設立された。宗教的には、イギリス国王を長とするイングランド国教会(アングリカン・チャーチ)に属していたものの、オランダ領だった伝統のおかげで宗教的自由が広く認められていたことという点では、ニュー・イングランドのハーバードやイエールとは異なっていた。
 アメリカの独立は、イギリス国王によって設立されたキングス・カレッジにとっては痛手となり、独立後に閉鎖されることになる。キングス・カレッジは1784年、アメリカの古い呼称である「コロンビア」を用いた愛国的な名称「コロンビア・カレッジ(Columbia College)」でもって再出発することになる。その後、アメリカの他の大学と同様に、ロー・スクールやメディカル・スクール、そして大学院を備えるようになったコロンビアは、1896年、正式に「コロンビア大学(Columbia University)」と改称するのである。
 こうした経緯もあり、19世紀のコロンビア大学はユダヤ人が多い大学として知られていた。19世紀の終わり頃、当時のアメリカ総人口のうちユダヤ人の割合は3%であり、アイビー・リーグ(コロンビア大学を含むアメリカ北東部の名門私立8大学の総称)全体のユダヤ人学生の割合は7%だったが、コロンビアでは15%にものぼっていたという。

オランダ領時代のマンハッタンの様子(1660年)。左右に伸びる広い道が後のブロードウェイ、右側の上下の道が後のウォール・ストリートだと言われている。(出典

「ユダヤ人問題」と「消えていくニッカボッカー」〜アイビー・リーグを恐れさせたユダヤ人学生の増大

 アイビー・リーグの中でも特にユダヤ人を多く入学させていたコロンビアが、どうして若きアシモフにこのような差別的な待遇をしたのだろうか。
 19世紀後半、アメリカに移住するユダヤ人の数は増え続ける。その理由の一つは、ロシアでのユダヤ人迫害と、その影響を受けたオーストリア帝国でのユダヤ人貧困層の拡大だ(本連載第10回)。そして第一次世界大戦終結と、その結果として生じたオーストリア帝国の解体により、オーストリア領内に居場所を失ったユダヤ人が退去してアメリカへと押し寄せる。1920年には、ハーバードでのユダヤ人学生率は20%を超え、コロンビアでは40%を超えるにまで至っていた(ちなみに、ニューヨーク市立大学では80%を超えていたという)。
 残念ながら、ユダヤ人学生数が増えることは、特にアイビー・リーグに属する大学の経営陣の目には好ましいこととは映っていなかった。彼らはユダヤ人の入学制限を導入するのである。そしてそれはまさに、同時期のハンガリーで、フォン・ノイマンが入学しようとしていたブダペスト大学で起こったことと軌を一にしていた(本連載第5回)。
 ハーバード大学では、1922年にユダヤ人入学生の割合が15%に制限され、入学生を選別するための面接審査が新たに導入される。つまり、どの学生を入学させるかを成績によって決めるのではなく、大学にとって都合の良い学生を優先的に入学させられるようにしたのだ。表向きは、当時のアメリカ世論に広まっていた反ユダヤ感情を考慮してとされていたが、実際は、代々ハーバードに入学してきた裕福なプロテスタントの家庭に育った学生が、他の大学に流れていくのを恐れてのことだった。
 当時の学長ローレンス・ロウエルはこれを「ユダヤ人問題」と呼んでいた。だが、ユダヤ人入学制限に対する反対運動を指揮していたハリー・スター──彼自身、ロシアから移民してきたユダヤ人であり、当時ハーバードのロー・スクールの学生だった──は、自分たちはみな、アメリカで生まれたか帰化した「アメリカ人」であり、「ユダヤ人問題」など存在しないとしてロウエルを激しく非難した。

 一方、コロンビアは少し違った状況にあった。当時、アメリカ全体でのユダヤ人の割合こそ3%だったが、ニューヨーク市民のうちユダヤ人は25%を超えており、高校卒業生に限れば優に3割を超えていた。ユダヤ人家庭が子どもに大学教育を受けさせようとする傾向が強ければ──実際これは事実だった──コロンビア大学の学生の4割がユダヤ人であっても、それほど異常なことではなかったのだ。
 むしろユダヤ人学生率の高いコロンビアでは「ユダヤ人問題」ではなく、別の問題が懸念されていた。古くからニューヨークにいる裕福なオランダ系アメリカ人──オランダ移民が履いていたズボンから「ニッカボッカー(Knickerbocker)」と呼ばれる──の子弟が進学先にコロンビアを選ばなくなる傾向が強まっており、この「消えていくニッカボッカー(the Vanishing Knickerbocker)」への対策を迫られていたのだ。
 1914年、当時コロンビア・カレッジの学部長だったフレデリック・ケッペルは、『コロンビア』という著作を出版する。ケッペルによれば、「ユダヤ人問題」は人種問題ではなく社会問題である。きちんとした家庭に生まれたユダヤ人学生は知的にも優れており、探究心に関しては平均以上とも言える。だから彼らは素晴らしい同級生となってくれることだろう。ケッペルは自らの著作でもって世間にこのように訴えることにより、「消えていくニッカボッカー」をコロンビアに呼び戻そうとしたのだ。

 とはいえ、ケッペルはユダヤ人学生をただ称賛したのではなかった。コロンビアではこの時期に面接審査が導入される。彼らの目から見て不適切な学生を入学させないためだ。結果として、1920年代にはコロンビアのユダヤ人学生率は3割を切る。
 若きアシモフが入学を勧められたセス・ロウ短大もまた、こうした「消えていくニッカボッカー」対策の一環として設立されたものだ。ユダヤ人学生が多くやってくるブルックリンに別キャンパスを作ることで、マンハッタンにあるメインキャンパスのユダヤ人学生率をコントロールしようとしたのである。
 セス・ロウ短大が短命に終わった理由として、1929年に発生した世界恐慌のため経費削減せざるをえなくなったのを無視することはできないが、最大の理由は、1930年にニューヨーク市立大学ブルックリン校──むしろ「ブルックリン・カレッジ(Brooklyn College)」と表記すべきかもしれない──が開校したことだ。ブルックリン・カレッジは授業料が無料であったため、ニューヨークに住む貧しい移民の子弟の主な進学先となった(だからこそユダヤ人学生の割合が80%にもなったわけだが)。わざわざ、高額の費用をかけてまで別キャンパスを用意する必要性は、急速に失せていったのである。
 ハーバードが導入していたユダヤ人学生の入学制限は戦後も1950年代まで続いていたようだが、戦後のアフリカ系の学生や男女共学の進展により、「ユダヤ人問題」と「消えていくニッカボッカー」はいつの間にか忘れ去られていった。

ニッカボッカーを履いている新聞売りの少年たち(1912年)(出典

ニューヨークの哲学者たち〜大学のドイツ化がもたらした実在論の復権

 ニューヨーク市立大学は1847年に「フリー・アカデミー」という、主に移民の子弟など貧しいニューヨーク市民に無償で教育を提供する学校として設立される。フリー・アカデミーは後に「シティ・カレッジ」と名を変える。つまり、ニューヨーク市立カレッジ(City College of New York)の誕生だ。ニューヨーク市はシティ・カレッジに続き、女子校のハンター・カレッジ、上述のブルックリン・カレッジ、そしてクイーンズ地区にクイーンズ・カレッジを設立していくのだが、第二次世界大戦後の1961年、新たにニューヨーク市立大学(City University of New York)を設立し、各カレッジはその一部門となる。
 さて20世紀前半、シティ・カレッジは、「貧者のハーバード」や「プロレタリアートのハーバード」などと呼ばれるほど高く評価されていた。その理由は、上述のようにハーバードをはじめとするアイビー・リーグの大学がユダヤ人学生を制限していたために、それらへの入学を許されなかった裕福でないが優秀なユダヤ人学生がシティ・カレッジに集まったことがあるが、それに加えて、アイビー・リーグの大学はユダヤ人を教授陣に加えることにも積極的でなかったため、ユダヤ人の研究者もまた、シティ・カレッジに集まったからだ。そのような研究者の中で、とりわけシティ・カレッジの名声を高めるのに貢献したとされるのが、モリス・ラファエル・コーエンという哲学者である。

 1880年生まれのコーエンは、当時ロシア帝国領だったベラルーシ生まれのユダヤ人だ。12歳の時に家族と共にアメリカに移民するという、アシモフよりかなり年長であるものの、よく似た経歴の持ち主である。だが、裕福ではなかったコーエンはコロンビアではなくシティ・カレッジで学ぶことになる。無料で、偏見を気にせず学ぶことのできる環境は、その後の彼の人生を大きく決定づけることになった。
 卒業後、運よく奨学金を得たコーエンはハーバード大学大学院に進学し、ウィリアム・ジェームズやジョサイア・ロイスといった当時のハーバード、そしてアメリカを代表する哲学者のもとで学び(二人とも本連載第8回で登場している)、博士号を得て母校に教師として戻ってくるのである。1906年のことだ。
 コーエンは1938年に引退するまでシティ・カレッジで教えることになる。当時のアメリカでは、プラグマティズムやロイスらの観念論の影響力は大きかったものの、それらに対する批判として、ジェームズの教え子であるラルフ・バートン・ペリーやエドウィン・ホルトらの新実在論、さらにはヨーロッパから影響を受けたジョージ・サンタヤナやロイ・ウッド・セラーズらの批判的実在論といった様々な立場が勃興していた。1858年にセントルイスのヘーゲル主義者たちから始まったアメリカの観念論は、プラグマティズムやロイスらの観念論に至るまでアメリカ哲学の中心であり続けたが(本連載第8回)、20世紀に入ると、むしろそれに対抗する勢力として実在論の方が優勢となっていたのだ。

 その理由の一つは大学における科学の発展である。初期のアメリカの大学は、聖職者育成と人材育成を目的とした「カレッジ」だったが、19世紀の後半、当時世界最先端を走っていたプロイセン、そして1871年に誕生したドイツ帝国を手本に大学のドイツ化が推し進められた結果、教育と研究を別建てにし、前者は学部(カレッジ)、後者は大学院(スクール)が担当するアメリカ独自の大学観が誕生したわけだが(本連載第9回)、これにより、日々研究に従事して生活の糧にするという生き方が可能になったのだ。
 第一次世界大戦でヨーロッパ各国が疲弊し、特にドイツでは帝国の解体が大学にとって決定的な打撃となるなかで(本連載第2回で見たように、新カント派もそのせいで急速に衰退するのだった)、被害のほとんどなかったアメリカの大学では、科学の発展は著しいものだった。19世紀まで博士号取得者すらほとんどいないほど遅れていたにもかかわらず(本連載第8回)、第二次世界大戦が始まる前、1930年代には、アメリカの科学は分野によってはヨーロッパの各国に追いつかんばかりに成長していた。

 それがはっきりしている例が心理学である。実験などの近代科学の方法論を用いた心理学は、ドイツではヴント、オーストリアではブレンターノによって広まった(本連載第2回)。アメリカで最初に心理学の博士号を取得したのはG・スタンレー・ホールという心理学者だが、当時はまだ心理学は哲学の一部門だと考えられていたため、ホールは哲学者ジェームズのもと、ハーバード大学で博士号を取得する。ただ、当時のアメリカでは心理学の仕事がなかったために、博士号取得後、ホールはドイツに渡ってベルリン大学やヴントのいたライプチヒ大学で学ぶことになる。帰国後、ジョンズ・ホプキンス大学で心理学を教える哲学教授の職を得ることに成功したホールは、そこでアメリカで最初とも言われる心理学実験室を設立するのである。
 ヴントの教え子は他にも、プロイセン生まれのヒューゴー・ミュンスターバーグやイギリス生まれのエドワード・ティチェナーがアメリカに渡って心理学の普及に努めた。加えて、アメリカでは他の国よりも一足早く、第一次世界大戦で心理学の軍事応用が進められた。こうしてアメリカの心理学は、第一次世界大戦後には世界最大規模となるのである。実際、日本で最初に心理学の教授となった元良勇次郎は、ホールの元で学び、ジョンズ・ホプキンス大学で博士号を取得しているほどだ。
 とりわけ哲学との距離が近かったアメリカ心理学の急速な発展は、哲学に大きな影響を及ぼした。単純に言ってしまえば、実験という地道な作業で人間の心理という、それまでは哲学でしか取り組めないと思われていた謎めいた領域が少しずつ明らかにされていくことは、理想主義(idealism)より現実主義(realism)、あるいは自然主義(naturalism)を後押ししたのである。こうして、1930年代のアメリカ哲学を席巻していたのは、自然主義や客観性など実在論と親和性が高いものだった。そしてそれを主導していたのは、コーエンをはじめとするニューヨークの各大学の哲学者だったのだ。

科学哲学の中心地となったニューヨーク

 1929年のアメリカ哲学会会長就任講演でコーエンは、哲学のゴールと科学のゴールは同じだと主張した。いずれも、様々な懐疑を受けつつも、それに耐えるような確かな真理を追求しているのだと。彼はこうした科学的な哲学(scientific philosophy)こそが目指すべき哲学の姿だと考えていたのだ。
 この1929年の講演でコーエンが批判的に取り上げていたのが、パース、ジェームズと並んでプラグマティズムで知られるジョン・デューイである。「最後の古き良きプラグマティスト」であるデューイは、ジョンズ・ホプキンス大学でパースや心理学者ホールの薫陶を受け、セントルイスのヘーゲル主義者であるハリスが創刊した『思弁哲学雑誌』に論文を投稿した後、中西部のミシガンやシカゴでプラグマティストとして知られるようになるが(本連載第8回)、1904年にコロンビアに異動していた。コロンビアでデューイは「自然主義」を標榜し、それまでの哲学と一線を画した科学的な哲学の必要性を訴えていた。コーエンは、科学的な哲学の必要性についてはデューイに同意するが、従来の哲学と峻別することには同意していなかったのだ。
 コーエンとデューイは論敵同士でありながらも、科学的な哲学の推進ということでは一致していた。この二人により、ニューヨークはアメリカにおける科学哲学の最初の中心地となるのである。

 アメリカを代表する科学哲学者としてアーネスト・ネーゲルがいる。1901年オーストリア帝国領ボヘミア生まれのユダヤ人であるネーゲルもまた、10歳の時に一家でアメリカへと渡ってくる。ニューヨークで育った彼はシティ・カレッジに入学し、そこでコーエンと出会うのである。コーエンから哲学を学んだネーゲルは哲学を志すが、シティ・カレッジには大学院がなかった(大学院が設置されるのはニューヨーク市立大学が設立された後のことだ)。そのため、コロンビアの大学院に進み、デューイの薫陶を受け博士号を取得する。ネーゲルはデューイの後を継いでコロンビアを代表する哲学者となり、アメリカ科学哲学会(Philosophy of Science Association)の会長を務める。また、アメリカ科学振興協会(AAAS)やアメリカ科学アカデミー(NAS)の会員にも選ばれるなど、科学と哲学の両方にまたがって活躍した。
 ネーゲルは1934年から1年間、ヨーロッパに留学する。そこでウィーン、プラハ、ルヴフ、ワルシャワ、ケンブリッジの各大学を訪問し、ウィーン学団(本連載第4回)やルヴフ・ワルシャワ学派(本連載第6回)の哲学者と知己を得て、彼らが推進していた科学哲学に傾倒する。師であるコーエンとデューイの目指した科学的な哲学は、ヨーロッパで科学哲学として勃興していると信じたネーゲルは、二人を説得し、ウィーン学団とベルリン・グループ(本連載第5回)が共同で開催していた統一科学国際会議(本連載第1回)の国際委員になってもらう。また、1939年の第5回統一科学国際会議ハーバード大会の招致に尽力する。ナチス・ドイツによってウィーン学団やベルリン・グループのメンバーがアメリカに亡命せざるをえなくなった時にも、彼らの受け入れ先として奔走したのはネーゲルだった。

 コーエンとデューイの薫陶を受けたのはネーゲルだけではない。例えば長年ニューヨーク大学で教鞭を取ったシドニー・フックは、オーストリアからのユダヤ人移民の子どもとして1902年にブルックリンで生まれ、ネーゲルと同様に、シティ・カレッジでコーエンに学び、コロンビア大学大学院ではデューイの薫陶を受ける。その後もネーゲルの盟友として、ヨーロッパの科学哲学者に協力する。また、戦後の日本に何度もやってきてアメリカ哲学を伝えたモートン・ホワイトもそうだ。ホワイトはユダヤ人ではないが1917年ニューヨーク生まれであり、シティ・カレッジでコーエンから哲学を学んでコロンビア大学大学院を進学するというネーゲルやフックと同じ道のりを辿る(デューイはすでに死去していたが、ホワイトの博士論文を指導したシュニーダーはデューイの教え子だった)。ホワイトはハーバード大学でクワインの同僚となり、ハーバードを分析哲学の中心地とすることに貢献するが、生涯デューイに忠実なプラグマティストを自認していた。

統一科学国際会議国際委員会の名簿。コーエンとデューイに加えて、ラッセルやタルスキの名前もある。 International Committee of the International Congresses for the Unity of Science. Erkenntnis 7, 421 (1937)

 アシモフは結局セス・ロウ短大に進学する。卒業後はコロンビア大学の一般向け公開講座で学士号取得に必要な単位を得るものの、メディカル・スクールへの入学は許されず、化学で大学院に進むことになる。第二次大戦に従軍後、生化学で博士号を取得したアシモフは、ブラウン大学で教鞭を取りながら、作家として名声を高めていく。
 もしアシモフがコロンビアではなく、ユダヤ人哲学者のようにシティ・カレッジを進学先に選んでいたならば、どうなっていただろうか。若きアシモフの眼にコーエンはどう映っていたことだろうか。その場合、偉大なSF作家が人類の歴史から失われることになったかもしれないが、もしかするとその代わりに、哲学の歴史に新たな科学哲学者の名前が刻まれていたかもしれない。ニューヨークのユダヤ人哲学者の系譜を見ていると、そのような想像をしてみたくなるのである。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2020年9月2日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年9月30日に公開しました。
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