前回をもって中欧圏を主舞台にした本連載の「第1部」も一区切りとなり、次回から新たに「第2部」に入ることになる。今回はインタールードとして、読者がこれまでの連載内容を整理する機会にさせていただきたい。本連載では、様々な人物や事件を時代や地域を行き来しつつ登場させているため、全体の流れをつかむのはいかにも大変である。そこで、本連載の全体像(といってもこれまでの回に登場したものに限られるが)を把握するために年表と人物相関図を用意するとともに、これまでの大きな流れを振り返ってみたい。

年表:ライプニッツ誕生(1646)からフォン・ノイマン死去(1957)まで

 まず、下記のリンクにこれまでの連載の事績をまとめた年表を作成したので参照してほしい。

▲「知られざるコンピューターの思想史」第1部年表

 年表の見方を説明しよう。縦軸は西暦、横軸は地域を表している。横軸の各列は、左からオーストリア諸邦(ハンガリー、チェコ、ポーランド、オーストリア本国)、ドイツ(プロイセン、それ以外のドイツ諸邦)、アメリカ、イギリス、その他の国々となっている。また、地域ごとに色分け(例えばハンガリーは緑、ポーランドは黄色など)してあるが、他地域に関する項目はその地域の色で表す。例えば、1772年の「ルヴフがレンベルクになる」は地域としてはポーランドの出来事だが、オーストリアの支配下に入った結果であるため、オーストリアの色であるオレンジで表してある。ウィーン会議や世界大戦など、多くの地域に関わるものには濃いグレーを用いている。
 各項目の中でも特に重要なもの(ゲーデルによる不完全性定理の公表や、チューリングマインなど)は太字を用いている。また西暦についても、見やすくするために、1700年、1800年、1850年、1900年、1920年、1940年、1960年に区切りを挿入している。

人物相関図: ゲーデル、タルスキ、フォン・ノイマンを中心に

 同様に、以下はこれまでの連載に登場した主要人物の相関図である。

▲「知られざるコンピューターの思想史」第1部人物相関図

 人物名の背景色は年表と一致させてある。個人間のつながり(友人関係や師弟関係)だけでなく、大学ごとのまとまり(ウィーン大学やベルリン大学など)と、分野ごとのまとまり(数理論理学や科学哲学など)も示してある。そこに注目していただければ、分野を超えた協働があったことが見て取れるはずである。
 あくまで主要人物に限ったものであり、中には重要な人物相関だが、スペースの都合や見やすさのために省略したものもあるため、その点には注意していただきたい。

第1〜6回を振り返る

 以上を踏まえて、これまでの連載の流れを振り返ってみたい。連載各回が年表におけるどの年代、相関図におけるどの人物のエピソードを取り扱っているのかを記載しつつ、それぞれの要点をダイジェストした。全貌を理解する一助になれば幸いである。

 本連載の始まりは1946年にアメリカ・プリンストン大学で撮影された一枚の写真だった。そこに写っているフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキという同年代、かつ「オーストリア的」背景を共有する数学者3名を中心に、コンピューター・サイエンスの原点とその思想史的背景を紐解いていくのだが、そこには数理論理学、さらには同時期に起きた分析哲学や科学哲学の発展が絡んでいるのだ。
 第1回で焦点が当てられるのは、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3人がいつ、どこで出会ったのか、という問いだ。ある資料によれば、ゲーデルが不完全性定理を公表したことで知られる1930年にドイツ・ケーニヒスベルクで開催された会議だとされる。しかし、実はタルスキはその会議に参加していない。ではどこで? そもそも彼らが出会ったとされたその会議はどのような会議だったのか? 当時の西欧の状況と合わせてみると、もしかするとあの写真が撮られたプリンストンの会議は、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキという20世紀を代表する数学者3名の最初で最後の邂逅だったのかもしれない。

 第2回で焦点を当てるのは、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキが共有する「オーストリア的」な背景とは何か、という問いだ。現在では忘れられがちだが、第一次世界大戦前までのオーストリアはヨーロッパ最大規模の帝国であり、フォン・ノイマンらハンガリー人、タルスキらポーランド人などの非ドイツ系が国民の大半を占める多民族国家だった。その首都ウィーン出身でドイツ系のゲーデルも含め、彼ら3名が生まれた当時のオーストリアは、プロイセンを相手にした長年の主導権争いに破れ、ドイツ帝国から排除された「遅れた大国」だったのだ。
 プロイセンとオーストリアの主導権争いは大学にも影響を及ぼした。特に影響が大きかったのが哲学だ。ドイツ近代哲学ではプロイセンと縁の深い哲学者であるカントやヘーゲルが中心であり、ドイツ帝国誕生後に広まった「新カント派」は遠く日本にまで大きな影響を与えるほどだった。一方、ドイツから排除されたオーストリアでは、アリストテレスに範を求め、科学的手法に基づく哲学と心理学を追求する「ブレンターノ学派」が広まっていた。近代的なドイツの大学とは異なり、カトリック教会が支配するオーストリアの大学では、カトリック神学の背景にあるアリストテレスの名を出さずには哲学を研究することは難しかったのだ。
 このように、プロイセンとオーストリアの政治的対立は、プロテスタントとカトリックという宗教的対立と重ね合わさった結果、哲学においてカントとアリストテレスという新たな対立を作り出していたのだ。

 17世紀ドイツの哲学者ライプニッツは、計算や思考を記号操作とみなす「普遍記号学」という、コンピューターの基礎となるアイデアを生んだとされる。それに立ちはだかったのが実はカントだ。第3回では、ライプニッツに遡る思想がいかにカント哲学と向き合いながら発展していったかに焦点が当てられる。
 カントは、時間と空間に関するライプニッツとニュートンの間の対立を調停するために、あらゆる認識の源となる「直観」を要請した。計算も同様に「直観」なしにはありえず、単なる記号操作などではないのだ。
 しかし、カントから百年後、計算が実際に記号操作としてみなしうることが、分析哲学の祖であるフレーゲによって示された。帝国政府主導の産学共同により大きく発展していたドイツの数学・物理学を学んだフレーゲは、カントの数学観を更新すべく、「直観」なしの厳密な数学の基礎づけを構想したのだ。
 フレーゲの構想は、「ラッセルのパラドックス」の発見により失敗に終わる。だが、フレーゲのアイデアを発展させたラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』は、フレーゲとは異なる独自のアプローチで数学の基礎づけに取り組んでいた大数学者ヒルベルトの目にとまり、数理論理学という新たな発展を促すことになる。
 ヒルベルトの構想「ヒルベルト・プログラム」もまた完全には達成不可能なことが証明される。それがゲーデルの不完全性定理だ。だが、そこからチューリング・マシンというコンピューター・サイエンスの芽が息吹き始めるのである。

 われわれになじみ深いアイコン。そのルーツは1920年代のウィーンに遡るとされる。開発の指揮をとったのはノイラート。現代の科学哲学の基礎を築いた「ウィーン学団」の中心人物だった哲学者だ。第4回では、ウィーン学団の興亡を追う。
 ノイラートは、ゲーデルの師である数学者ハーン、プラハ大学でアインシュタインの後任を務めた物理学者フランクと共に「ウィーン学団」創設の立役者の一人だ。3名はみなウィーン出身であり、ウィーン大学の学生時代からの知り合いだった。彼らは学生時代から数学と科学と哲学を融合させることを夢見ていたのだが、第一次世界大戦終戦後の1920年、ハーンがウィーン大学に復帰したことにより、その夢は実現へと向かい始める。ハーンが招いた科学哲学者のシュリックが中心となって結成されたウィーン学団は、1930年代にはヨーロッパ各地で科学哲学の国際会議を開催するなど、大きな勢いを生み出し、科学哲学という分野を確立する。
 ウィーン学団の衰退は、ファシズムの勃興と軌を一にしている。まずオーストリアでファシズム政権が成立することにより、社会主義者だったノイラートはオランダに亡命せざるをえなくなる。直後にハーンが急死、シュリックもまた凶弾に倒れるという悲劇が見舞う。フランクは渡米することで難を逃れるのだが、オランダで一人奮闘するノイラートのもとに今度はナチス・ドイツが侵攻してくる。こうして3名のオーストリア人たちの夢は儚く終わりを告げることになるのであった。

 第5回で焦点を当てるのはフォン・ノイマン、特に彼の名前の変遷だ。フォン・ノイマンは元々ハンガリー人であり、誕生時の名前は「ナイマン・ヤーノシュ」という。彼は幼少時から将来を嘱望される神童であり、ハンガリーのブダペスト大学とスイスのチューリッヒ工科大学の両方で学び、二つの博士号を同時に取得するという離れ技をやってのける。
 チューリッヒでフォン・ノイマンが没頭したのはヒルベルトの数理論理学だ。そしてその頃から「ヨハン・ノイマン・フォン・マルギッタ」と名乗るようになる。そもそも大学入学前に父が貴族に列せられたことにより、「ナイマン・マルギッタイ」という姓になっていたのだが、これをドイツ式で名乗るようになったのだ。この名のもとでフォン・ノイマンは、ゲッティンゲンやベルリンというドイツの主要大学で活躍し、ヒルベルトの一派として数理論理学および数理科学という科学哲学と関連する分野で大きく名を挙げる。
 当時ベルリン大学にはライヘンバッハというヒルベルトの元で学んだ科学哲学者がいた。ライヘンバッハのグループはウィーン学団と協力し、科学哲学を確立させるために学術会議を何度も開催する。フォン・ノイマンとゲーデルが出会った会議もその一つだ。
 ウィーン学団と同様、ライヘンバッハらはナチス・ドイツの迫害を受け、生き残ったものは渡米することになる。彼らよりも一足先に渡米したフォン・ノイマンは「ジョン・フォン・ノイマン」というアメリカ式の名前に変え、数理論理学からコンピューター・サイエンスという新たな分野へと歩みを進めるのであった。

 第6回では、「ポーランド記法」を開発したウカシェヴィチと、その背景にあるポーランドの論理学に光を当てる。
 現在のウクライナの都市リヴィウは、元々はポーランドのルヴフという都市であり、第一次世界大戦前はオーストリア帝国領のレンベルクという都市だった。このレンベルクに首都ウィーンからブレンターノ学派の哲学者トファルドフスキが赴任してくる。トファルドフスキの活躍により、レンベルク大学はポーランド哲学の中心地となるのだが、ウカシェヴィチはその高弟の一人だったのだ。
 第一次世界大戦によりポーランドの領土が回復されると、ウカシェヴィチは再建されたワルシャワ大学に招聘され、ポーランドを代表する研究者となる。ポーランド記法が開発されたのもこの頃だ。
 しかし、ポーランド記法が知られるようになるのは第二次世界大戦後になってからだった。ナチス・ドイツによって占領された祖国を離れ、アイルランドに安住の地を見出したウカシェヴィチは、最晩年になってから自らの業績を英語で公表し始めるのだ。
 タルスキもウカシェヴィチの教え子の一人だった。圧倒的な才能を誇りながらユダヤ人という理由で苦労していた天才数学者の運命を変えたのは、ウィーン学団との出会いだ。ウィーンに招かれたタルスキはゲーデルと知り合う。1939年、科学哲学国際会議の常連になっていたタルスキは、アメリカで開催される会議に出席するために出国する。ナチス・ドイツが侵攻したことによって彼を乗せた船はポーランドを出る最後の船となるのである。
 かくして、第1回に登場したフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3人が体現する「オーストリア的な知」の背景については、ひととおり辿り終えたことにする。次回からは、舞台をアメリカに移し、渡米した彼らが出会った「アメリカン・アイデアリズム」とは何か、そして戦後アメリカで花開いたコンピューター・サイエンスを始めとする新たな諸分野──これには分析哲学も含まれる──に何を植え継いでいったのかへと焦点を移していきたい。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2020年4月2日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年5月31日に公開しました。
これから更新する記事のお知らせをLINEで受け取りたい方はこちら。