ゲームや遊びは個人から奪いとることができるのか?

「ゲームや遊びとは何か?」

 本書は、この問いに答えるために、ゲームや遊びに関わる多様な現象ーールール、コミュニケーション、非日常などーーが興味深いかたちで相互に関係しあっている、その複雑さを論じようとするものである。
 この現象の複雑さは、まず、なぜ「ゲーム」でも「遊び」でもなく、わざわざ「ゲームや遊び」と2つの語を並べざるを得ない状況からしてはじまっている。もともと本書は「ゲーム」の話が中心となる予定だったが、2つの語を並べざるを得ない端的な理由の一つは、この2つを同じ1つの言葉で表している言語がとても多いためだ。各国語の辞書において、ルールや競争的な側面をもった活動と、楽しみのための活動といった概念が分けられていることもあれば、区別されていないこともある。そうなると、ドイツ語やフランス語と英語では厳密な翻訳ができない。そして、ゲームや遊びの重要文献は両者が1つとなっているドイツ語やフランス語が多い。そのため、既存の重要文献の議論を引き受けながら議論をするならば、これは2つを並べたほうが妥当だということになる。それゆえ、本書は「ゲームや遊び」という、この意味範囲がなだらかに繋がっている日常的な概念であり、行為である現象を扱う。
 さて、出だしからして扱いづらそうな現象の複雑さについて考えようなどという面倒なことを、一体、なぜ取り組むべきなのだろうか?
 それは、 一人ひとりの人間にとっても、我々社会全体にとってもゲームや遊びが不可欠なものである可能性が強いからだ

 まず、あたりまえのことから考えていこう。
 人間は眠ったり、食べたり、話したりするのと同様に遊ぶ生き物である。
私はゲームや遊びが不可欠なものであると書いたばかりだが、人類が遊んだりゲームをしたりすることがごく自然なことならば、 もしも動物からゲームや遊びを奪い取ってしまったら、どのようなことが起きるだろうか?
 これは、ただの思考実験的な問いではない。朝から晩まで勉強漬けにしたり、国家や企業が強引に労働させ続ける——歴史上、そんなことは何度も繰り返され、今も世界のどこかで起きていることだ。

 でも、たいていの場合、人からゲームや遊びを完全に奪うことはできない。非常に禁欲的な宗教コミュニティのなかでも、非人道的な労働現場でも、人が何かしらの形で遊びはじめる事例は数多く報告されている。強制労働下のなかの労働者たちや、虐待されている子どもたちは自分たちの精神をどうにか生きながらえさせるために、何かしらの遊びをして生き延びようとする。人を眠らせないようにしても、耐えきれずに眠ってしまうように、人から遊びを剥奪することは容易ではない。
 また、遊びを強く抑圧しようとするだけでも様々な問題が起こる。遊びの研究者の一人[1]は、「遊びの反対は仕事ではなく抑鬱である」と述べているが、実際に遊びを抑圧した場合、そこには精神的な不調や疾患がもたらされる可能性が高い。

 さらに大人から遊びを奪った場合よりも、子どもから遊びを奪った場合に訪れるのは単なる高ストレス状況などよりももっと悲惨な事態が横たわっている[2]。
 具体的にはうつ病の増加、衝動制御の低下、自己抑制の欠如、攻撃性の管理低下、永続的な対人関係の脆弱性と浅薄さなどの発生率と強く相関している。すなわち、主要な情動の調整不全を引き起こす可能性が示唆されている。子供にとって遊びの体験は成長に不可欠な要素であるという「可能性が高い」[3] 。
 なぜ、「可能性が高い」と表現するに留まるのかと言えば、子どもを長期間遊ばせない実験は、非人道的で実施することができないためだ。もっとも、虐待や拘束など、悲惨な状況下で遊びを奪われて育った子どもたちはいる。20世紀末のルーマニアで監禁されて育てられた大量の孤児たちだ。彼/彼女らは心身の発達に大きな問題が複数見られている。とはいえ、こういった子供たちは遊びだけを奪われているのではなく、様々な抑圧にさらされているため、何が直接の原因であるかを特定することは難しい。
 本格的に長期にわたって「遊ばせない」実験は人間で行うことはできないが、実はネズミでの動物実験でならば存在している。

 その実験では、工夫を凝らして、他のネズミとコミュニケーションはとれるものの、「遊ぶこと」の経験だけが抑圧されるような生育環境を作り出した。そして、ある程度まで成長したあとで他のネズミとの遊びを行わせるようにした。

 その結果、そうやって育てられたネズミは、他のネズミが自分に行ってきた行動の多くに対して、過剰に攻撃的な反応を返すようになっていたという[4]。
 ネズミの実験結果が、はたして人間にも適用できるかどうかは注意深い議論が必要だが、人間の成長を考えるうえでも示唆的な知見たりうるだろう[5]。

 遊びやゲームは生き物としての人間に深く根差しており、 遊びやゲームを奪うことは、生き物としての人類のこころのバランスに深刻な歪みをもたらす可能性が高い
 完全に遊ぶことのない勤勉な人間について考えてみるというのは、「眠らない人間」を考えてみるようなものだ。つまり、無理に決まっている。どうやったって奪えないし、奪えたとしてもその人の心は、めちゃくちゃになってしまうだろう。
 すなわち、 人は「遊んだり、ゲームをしても良い」のではなく、「遊んだり、ゲームをしなければならない」存在である

 ただ、ゲームや遊びを行うことが不可欠であるということは、このような実験の結果を得ずとも、多くの人が昔から、直感的に知っていることでもある。そもそも、我々にはなぜ「休日」があるのか? といえば、それは今までの人類がゲームや遊びの必要性を認識してきた結果の一つの表れだろう。
 国際的な条約や人権規定からも、その位置づけを知ることができる。例えば、子どもの権利条約第31条には「休息及び余暇」「遊び及びレクリエーションの活動」の権利が明記され、世界人権宣言第24条にも「休息・余暇を得る権利」ことが述べられている。遊ぶ時間を保障されることは紛れもなく人間が享受すべき基本的権利の一つに数えられうる。

 とはいえ、「人間にはちゃんと遊ぶ権利がある!」という主張はあまり耳にしない。子どもの権利条約第31条は「忘れられた権利」となっていると問題提起されたほど、マイナーな権利である[6]。「教育を受ける権利」や「労働の権利」などが叫ばれることはあっても、「遊びの権利」が同列に論じられることは、ほとんどない。「そりゃ遊べるにこしたことはないけど、そこまで真剣に言うことか?」と思う人は沢山いるだろう。
 その理由の一つは、たとえ遊ぶ権利が抑圧されていたとしても、その抑圧に対抗するのが正当なことであるとは、世間的に思われにくいことだろう。「ぶっちゃけ、ダルいんでサボります」と「ちょっと働きづめだったので休ませてください」は冷静に読むと同じ内容を述べているが、前者は怠惰の表明と見られ、後者は適切な休憩の主張と思われるだろう。その差を適切に評価することは本人にとってすら難しい。疲れたので、少し休んで遊びたいと感じた時に「いや、これは自分が怠惰なだけなのではないか?」と自分を疑ってしまうのは、誰にでもあることだろう。つまり、遊ぶということはこれほど当たり前の日常でありながら、我々はこの概念を適切に扱うことに日常的に失敗しつづけていると言ってよい。
「私には遊ぶ権利がある」と誰かに抗議することは、なぜ難しく感じるのか?その理由の一つは、ゲームや遊びは、一人の人間が個人で対処すべき問題だというように思われているからだろう。会社や学校や国家の問題ではない、ということだ。

 しかし、本当にゲームや遊びは個人にとって必要だというだけのものなのだろうか?

ゲームや遊びを社会からも奪いとることはできない

 実は、我々の社会全体にとっても遊んだりゲームをしたりすることを奪い取ってしまうことは大きな問題を引き起こす。

 ゲームや遊びは人類社会において重要な役割を果たしてきたのではないか、という観察はたびたびなされてきた。人類の歴史において、言語、国家、暴力などが文化を作りあげてきたのと同様に、、遊びやゲームもそれらと同じぐらいに文化にとって欠かせない要素だったのではないか、と。
 具体的には、どのように重要な役割を果たしてきたのだろうか。
 第一には子どもの学習との関わりの深さが指摘されてきた。カール・グロースは、人間が遺伝的には伝わらない新しい文化的特性(獲得形式)を、自ら積極的に身につけていく能力は「遊び」によって成り立っているのではないかと考えた。子どもは遊ぶことで、教え込まれずとも、その社会が受け継いできたさまざまな知恵や様式を自然に習得してしまう。その過程は、受動的に教え込まれる習い事とはまるで別物で、もっと生き生きとした学びなのだと。
 第二に、創造性や仕事のあり方との結びつきも重要なものだ。たとえば、ホイジンガの論に従えば、人間が文化的創造にいそしみ、世界のありようを自在に組みかえる能力は、遊びに根ざしている可能性がある。さまざまな社会的制度や学知、芸術、愛……こういった幅広い文化領域は、遊びによって支えられ、かたちづくられてきたかもしれない、と言う。

 人はゲームや遊びを通して、この世界について学び、さらには世界そのものをつくり変え、日々を幸せに生きようとしているのではないか。現代では、これを荒野や森で遊ぶことによってではなく、学校で文化の継承を行い、職場で働くことで文化を生み出しているのではないか。 そのようなことが考えられてきた。

 こうした発想は学者による机上の理論にとどまらない。近代社会の設計に深く関わる重要な合意事項でもあり、実際に我々の社会の歴史をつくりあげてきた。
 たとえば「幼稚園」は、人類史の中で、いつから、なぜ存在するようになったのだろうか? これは「子供の教育にとって遊びながら学ぶ環境が重要だ」という思想をもったフレーベルによってそのコンセプトが提示され、その実現が目指されたからだ。フレーベル思想によって生みだされた「幼稚園」は、19世紀にかけて世界的に普及し、日本では明治期に輸入された。
 国際秩序を維持するための政治的機能としても期待をもたれてきた。「近代オリンピック」を立ち上げたクーベルタンは、世界各国が戦争をする代わりにスポーツを通してもっと平和に争えばいいということを本気で信じていた。
 仕事や労働にとってゲームや遊びが重要だということも社会にとっての重要な合意事項である。すでに見てきたように休息という形で「仕事の再生産のための回復の時間」を設ける必要があるという社会的合意は、人類史のなかでもどれだけ古くから存在する合意なのか、もはやよくわからないほどに古い。これが現在の「レジャー」のような形で我々の社会に意識されるようになってきたのはもう少し最近の話だ[7]。こうした「休息」は、先述したように個人の人権としてすでに宣言されている。

 また、どのようにあるべき社会を設計するかという観点からも、「遊び」は重視されてきた。
 社会全体をゼロベースで再設計しようとした近代最大のプロジェクトに取り組んできた人々といえば、社会主義者や共産主義者たちだが、彼らは「遊びと労働」の関係に思考を費やしてきた。初期の空想的社会主義者として知られるシャルル・フーリエは「遊ぶように働くこと」を一つの理想とし[8]、マルクスはフーリエの構想はさすがにムリがあるとしながらも、いかに労働が辛いものではないような形で成立しうるかについて様々な形で思索を巡らしている。遊びの思想家としてマルクスを捉えなおそうとする論文すらある[9]。マルクスを「楽しく遊ぶように働くことのできない社会の問題を考えてきた思想家」と捉えることは、嘘ではないだろう。
 もちろん、社会主義や共産主義の為政者もまた、遊びやゲームを労働にとりいれることに積極的になっている。例えばスターリン政権下の1930年代のソ連では高い成績を挙げた労働者を英雄として表彰するような成果主義的な労働意欲の向上をねらった政策を大規模に実施している。スター労働者を可視化し、競わせる仕組みによって労働の喜びを確保しようと試みた。
現代においては、こうした試みは「ゲーミフィケーション」という名前で共産主義国ではなく、むしろ資本主義国において試みられている。様々な労働や学びなどにゲームの要素の再導入が図られ、様々な遊び心のある仕事はイノベーションの源泉としてもしばしば注目を浴びている。

 もし、今の社会から、ゲームや遊びの要素を社会から奪うとしたら何が起こるだろうか?
 様々な娯楽産業がなくなるのはもちろんのこと、幼稚園から遊びがなくなり、体育の授業からスポーツが消えてトレーニングになり、オリンピックもなくなるし、土日もなくなり、イノベーションも停滞することになる。
 おそらく、それはもはや我々の知っている社会のあり方とは全く別の、ひどく禁欲的なものになってしまうはずだ。

 ゲームや遊びは、人間個人のこころにとっても、様々な社会制度にとっても、深く絡みついて、容易に奪い去ることはできないものだ。
 では、これほど重要なものをどう我々は扱えばいいのだろうか?

 ここで、改めて本書の主題に立ち返りたい。

「ゲームや遊びとは何か?」

 この問いは、誰にとっても正面から考えられるだけの価値がある。

丁寧な検討を要求してくる現象である。

「ゲームや遊びとは何か?」

 この問いに面したとき、多くの人は具体的な対象を思い浮かべるかもしれない。「ゲーム」「遊び」と言えばスポーツの試合やビデオゲーム、それらは直接イメージしやすいものとして頭に浮かぶ。人が遊んだりゲームをすることは当たり前に眼の前にあることであって、わざわざ理屈や理論をつけないでも目の前で、成り立ってしまっているように見える。
 だが、「簡単に対象を思い浮かべてしまうことができてしまう」ということ自体が魅力であると同時に、罠にもなっている。実際にはこの現象の中身は案外ゴチャゴチャとしていて、それが様々な問題を引き起こす。先ほど述べたゲームや遊びとの社会的事業に関わる取り組みが、しばしば思わぬ副作用を招いてしまっていることからも、その面倒さの一端がわかる。
 たとえば、近代オリンピックの存在は平和を促進している側面がある一方で、各国のナショナリズムが強化してしまっている側面があるのは言うまでもないだろう。
 また、ソ連の労働意欲向上のための政策は、当時のいくつかの地域や部門では生産性向上に役立ったとする評価がある[10]一方で、目標が雑に設計されたためか、過剰なノルマを課す一因になり、ソ連経済に対してかえってマイナスになったという評価もある[11]。政策的に「ゲームっぽいもの」を推奨していけば、「労働の喜び」を制度的に保障できる、というわけにはいかなかったということだ。こうした失敗は現代におけるゲーミフィケーション関連のプロジェクトでも頻繁に見られる。

 ここにはすでにゲームや遊びの扱いづらさが表れている。ゲームや遊びは権利として社会的に保護される必要がある大事なものであり、社会的にも様々な観点で有用たりうる。しかし、大事なものだからと言って、これを安易に社会制度の中に雑に組み込んでどんどん推奨しようとすると、かえって不幸な事態が引き起こされる。
 大切にすればいいのか、しないほうがいいのか? いったいどちらなのか。面倒くさい人に対して「雑に対応」しても、「対応をしない」でいることも事態を悪化させるのと同じく、 この面倒くさい現象は、丁寧に考えることを要求している。ゲームや遊びは必要で、人の基盤となる行為なのに、その扱いは曖昧で、危なっかしく、綱渡りのようなところがある。

人間の認知や活動の様々な領域を貫く複雑で魅力的な現象である。

 ただし、ゲームや遊びが複雑であるということは、裏を返せば、やたら奥が深くて興味の尽きない現象だと言うこともできる。
 遊び論の論者意外にも、様々な分野の学者がゲームや遊びに注目してきた。それは、この対象を精密に考えることで、学習や労働といった 世界や人間のあり方の様々な側面を明らかにしうるという可能性の塊のような現象であるとも言える。
 紀元前にはプラトンはすでに、この魅力に気づいており様々な形で言及している。またカントやヴィトゲンシュタインといった哲学者は、人間が何かを理解する現象の説明にゲームや遊びの概念を用いているし、ベイトソンはコミュニケーションの重要な特性を示すためにゲームや遊びを用いた。ピアジェはゲームや遊びのありようが人間の学習や知性の発達と深く関わっているかを示してきた。現代経済学の主要なツールの一つは「ゲーム理論」としてその思考のモデルに「ゲーム」を用いている。また先に述べた教育、労働、創造性の他にも、人間の認知、幸福論、自由論、芸術論、相互行為論、システム論、情報社会論を扱う文脈でもゲームや遊びはしばしばキーワードになる。
 こうして書き出してみるだけで、異様なほどの広がりのある概念である。多くの領域にインパクトを持ちうる魅力がある。
 ではどうやって、この魅力的で、複雑なゲームや遊びについて扱うことができるのだろうか?
実は、「ゲームや遊びとはこういうものではないか」という議論は学者がうんうん唸ってあれこれ考えても、未だにスッキリとまとまった見取り図を示すのが難しい概念になっている。学者たちは、あれこれ理屈をこねくり回して、あっちで「ゲームとはこういうものだ」と言い、こっちで「いや、あれだ」と言い、子どもの脳みそを育てる様々な栄養素の詰め合わせなのか、人間関係を円滑にする魔法なのか、人生を彩るスパイスなのか。複数の説明が併存していて、誰かが簡単に要約してしまおうとして「ゲームとは○○である」というタイプの定義を強く主張すると、他の定義との関係がわからなくなるところがある。なぜこんなに話がややこしいのかと言えば、遊びやゲームという現象が、いろんな要素に絡みつき、ぐちゃぐちゃとした塊になっているからだ。

「複雑さ」を逆手にとって、説明間のネットワークからその特性を考える

 それゆえ本書では、「ゲームや遊びとは何か」という問いに対して、「究極の定義」みたいなものを与えることを目的として採用しない。
「ゲームや遊びとは何か」という問いへの取り組みは、「ゲームとは◯◯である」「遊びとは◯◯である」という様々な観点をそのまま理解しようとすると生じてしまう、辻褄の合わなさをなんとか理解できる形で捉え直せる必要がある。とはいえ、これほど様々な観点からの議論のある概念を統一的につなぎ合わせて考えるというのは、正直、大変すぎる。その複雑さをどうにか紐解いたところで一部の専門家以外に意味のある議論になるのだろうか?

 この問いに答えようとする試みは、必然的に複数の学問分野を横断する「学際研究」にならざるを得ないが、学際研究のゴールの設定の仕方の一つは、複数の分野の共通基盤となるような大きな枠組みを提示することだ。まさにグロースやホイジンガは人間の学習や文化創造といった壮大な仮説でまとめようとした。ただ、それらの仮説は魅力的なものではあったが、複数の説明の辻褄の合わなさを説明する体系ではなかった。
 一方で、このひどく複雑なものを複雑なまま受け止めようとした人たちもいる。たとえば、サットン・スミス(1997)は、遊びやゲームにはいくつかの典型パターンがあって、それらが複雑に絡まり合っているという見取り図を示し、それぞれの典型を解説して、このやっかいな概念に斬り込もうとした。
 本書では、サットン・スミスのような「複雑さごと扱う」路線を基本にしつつも、さらに一歩踏み込む方法を考えた。後で細かいことを述べるが、簡単に言えばゲームや遊びの「いろんな要素に絡みつき、ぐちゃぐちゃとした塊になっている」という特性自体を分析に活かそうとしている。
 複数の典型同士が繋がり合って関係しているということは、その「関係」自体のあり方を分析の材料にすることができる。
 これによって、いろんな立場の説明が「どれぐらい強力な説得力を持つのか」とか、現象の中の動的に安定した関係(創発的特性)を示すというようなより踏み込んだ議論が可能になる。それゆえ、現象間の「関係」を考える話が本書の大半を占める。
 こんな持って回った手順を踏んで考えようとしているのは、この奥深い概念を「複雑さをそぎ落とさずに、でもなるべくはっきりと」語るためだ。
 これによって複雑なもののはずなのに「ゲームってこういうものでしょ?」という単純な説明ができてしまうカラクリの解明ができるし、こうした分析をすすめることで、ゲームや遊びに密接に関係する様々な概念ーー学習、ルール、コミュニケーション、インタラクション、物語、非日常などーーについてもゲームや遊びという観点からの興味深い知見を示すことができる。 「ゲームや遊び」に関わる複数の説明間の関係を考えることで、人間が世界を理解したり、働きかけていることの内実にも迫ることができる。

 何より、ゲームや遊びを通して、人間のさまざまな側面を考えていく作業は、それ自体が興味深い論点に溢れていて、考えることの楽しみに溢れている。
 著者自身、この問いを考えることを、長年楽しんできた。「遊びやゲームとは何か?」と問うこと自体が遊びだった。
 この遊びを長時間遊んだ人間の一人として、本書を通して、他の人にもこの遊びを楽しんでもらいたいと思う。

[1]Sutton-Smith, B. (1997). The ambiguity of play. Harvard University Press., p. 198
[2] Glos, A. (2023). Children’s right to play in times of war. Bioethics.
[3] Brown, S. L. (2014). Consequences of play deprivation. _Scholarpedia, 9(5), 30449.
[4]Stark, R., & Pellis, S. M. (2020). Male Long Evans rats reared with a Fischer-344 peer during the juvenile period show deficits in social competency: a role for play. _International Journal of Play, 9(1), 76–91.
[5] Brown, S. L. (2014). Consequences of play deprivation. _Scholarpedia, 9(5), 30449.
[6]
髙橋博久(2014). UNCRC-General Comment No. 17 へのアプローチ. 地域社会デザイン研究, (2), 29-37.[7] アラン・コルバン,2010『新版 レジャーの誕生』藤原書店
[8] シャルル・フーリエ著,福島知己訳(1829=2022)『産業の新世界』作品社
[9] Hinman, L. M. (1978). Marx’s theory of play, leisure and unalienated praxis. _Philosophy & social criticism, 5(2), 192-228.
[10] Voyeikov, E. V. (2019). STAKHANOVITES AMONG THE LOGGING WORKERS IN THE PENZA REGION IN THE 1930S. Izvestiya of Samara Scientific Center of the Russian Academy of Sciences History Sciences, 1(2), 55-63.
[11] Davies, R. W., & Khlevnyuk, O. (2002). Stakhanovism and the Soviet economy. Europe-Asia Studies, 54(6), 867-903.

この記事は、2025年1月9日に公開しました。本連載では、書籍に掲載される内容とは別に、連載としてはゲームに関わる多様なトピックを扱っていきます。概念間の関係性についての詳細な議論はぜひ書籍刊行をご期待ください!
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