ゲーム研究者の井上明人さんによる連載「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。「ゲームや遊びとは何か?」。この問いに答えるべく、ゲームや遊びに関わる多様な現象——ルール、コミュニケーション、非日常など——が興味深いかたちで相互に関係しあっている、その複雑さを論じます。
第4回では、プレイヤーをあえて受動的にさせる作品群を手がかりに、ぼんやりと風景を眺める“手持ち無沙汰”の時間がどのようにして新たな面白さと没入を生み出すのかを探ります。
「中心をもたない、現象としてのゲームについて」のこれまでの連載記事は、こちらにまとまっています。よかったら、読んでみてください。
端的に言うとね。
1.3 ゲームにおける焦点の移動:ゲームにおける「能動性」という神話
ゲームが感覚や理性的な志向を促す側面をみてきたが、ゲームは常に「能動性」ばかりが求められるわけではない。プレイヤーをあえて受動的にさせる側面をもつ作品に注目し、能動的でないゲームがどのようにして面白さを成立させているのかを考える。このことを通して「ゲームは能動的なものだ」という見方を問い直す。
1.3.1 「見る」ことはゲームをつまらなくさせるのか?
ここまで、ゲームというものはプレイヤーが自ら創意工夫をこらし、感性的な理解や理性的な思考を動員することで成立する──いわば「能動性」によって駆動されるメディアである、という前提を据えて議論を進めてきた。しかし、ゲームを語るにあたって、いつのまにか当然視されている「ゲームとは能動的なものだ」という、この前提は何だろうか。 そういう前提を、あえて問わないままに議論を進めてきたが、よくよく考えてみると、ゲームとプレイヤーの関係はそんな能動性ばかりに支えられているわけでもない[1]。
とはいえ、そもそも能動的ではないゲームなど存在するのか?と思われるかもしれない。極端に言えば「何もやらなくてもいいゲーム」などというものを仮に作り上げたという人がいるとして、それは果たしてゲームなのか?と思われるかもしれない。
もちろん、ゲームであるかぎりにおいて「全く何もやらないゲーム」というのは、さすがに考えにくい。おそらく、全く何もやらないゲーム、は「ゲーム」として認識されない可能性が高い。その意味で「ゲームとは能動性なもの」という前提は、ゲームを考えるにあたって、ある程度は避けることが難しいことがある。
だけれども、ゲームをやるということが常に能動的でなければいけないのか、というと、そんなことはない。ゲームをやる時々に「あえて、プレイヤーに何もやらせない瞬間」を設計しているゲームはある。それも、一つや二つの変わった作品ということではなく、多くの作品があり、一つの大きな流れを形成するようになっている。
その流れの一つは、「ウォーキングシミュレーター」と呼ばれているゲームジャンルの中に象徴的に見られる[2]。『Dear Esther』『Gone Home』『The Beginner’s Guide』など、このジャンルに属するとされる重要作品が多く作られるようになっている。こうした作品は、一見すると「能動性」とは遠い、周囲を何かぼんやりと眺める時間や、単に移動しているにすぎない時間が存在している。
また、こうした流れはそもそも「箱庭型ゲーム」とか「オープンワールド」と言われている作品、たとえば『ICO』『人喰いの大鷲トリコ(以下、トリコ)』『Final Fantasy XV(以下、FFXV)』なども、ゲームプレイヤーの能動性に頼らないことをゲームの中に埋め込み、「風景を見せる」ことなどに注力していたようなゲームの中にも見出すことができる。
これらを「能動的でない時間」をもつ作品群として、考えてもいいだろう。こうした作品では、プレイヤーが何もしないでたたずむ時間──風景をただ見つめる時間や、ただ歩く時間──をいかに魅力的に設計するかに大きな注意が払われている。それは「ビデオ」ゲームという名前から連想される「映像を見せるメディア」としての要素を、能動的な遊び以上に際立たせる仕掛けだ、とも言えるかもしれない。
とはいえ、こうしたビデオゲームの設計は、奇妙なものに感じる人も少なくないだろう。
ビデオゲームはその名の通り「ビデオ」というスクリーンを前提とするメディアである。ビデオは当然「見る」という側面を持つ。しかし、ビデオゲームにおいて映像を「見る」ことの価値をどう評価するかは厄介なテーマでもある。
ビデオゲームの評価にとって、映像の技術水準は、ある時期までとても重要なことだった。とくに一九九〇年代中盤~後半にかけて、ビデオゲームの発展と、コンピュータ・グラフィックスの発展と、ほぼ同義のものだと考えられていた時期があった。しかしながら、「より美しい映像を」つくることはある時期から、反発も生んだ。「映画のようなゲーム」をめぐる評価は一枚岩ではなくなっていき、二〇〇〇年代には、むしろ揶揄や蔑みの意味でも使われるようになってしまった。
つまり、「ビデオゲーム」という言葉が示唆する「ビデオ」と「ゲーム」の両要素は、ある時代には並走しながら発展すると期待されながら、ある時代には「ゲームらしさ」を損なう要因として映像表現が反発を受けるようにもなった。その対立の一つは、端的に言えば、映像が強制的に流れる時間が長すぎて、「見る」ことを強要されているあいだに、ゲームを「遊ぶ」ことができないということだった。
面白いゲームのあり方を「能動的に」[3]やることがたくさんあって、飽きさせないものこそが面白いゲームだというような人々にとってはこうした要素は反発を生んだ[4] 。
とはいえ、われわれは本当にゲームというものを、「能動的に何かをし続ける」ことだけで面白がっていると言えるのだろうか?
1.3.2 美しい風景を眺めるとは何か
能動性とは対照的な行為を考えてみよう。たとえば我々は美しい風景を眺めるという瞬間がある。
そもそも「美しい風景」をまじまじと眺めるときというのはどのようなときだろうか?
多くの人が、美しい風景を好ましいものと思っている。だが、そのわりに、雑に扱うことも多い。たとえば、プロの写真家が撮った世界遺産の写真や、高名な画家が描いた湖の絵はどう扱われるだろうか。そこらへんに何気なく掛けてあるカレンダーに使われていたり、パソコンの壁紙になっていたりする。けれども、そのカレンダーの写真に、毎日のようにハッとして、魅入っている人はどれだけいるだろうか。
カレンダーに使われている写真や、絵の多くは、その写真や絵にかかわる展覧会が開かれていたりするような有名なものだ。それにもかかわらず、われわれはそこに飾られた芸術作品を毎日のようにじっくりありがたがるようなことはあまりない。現代人は、それほどの「素晴らしい絵」に囲まれながら、それを意識しないまま暮らしている。
一方で、我々はもっとありふれた風景を大事にしていることがある。近所のどこにでもあるような小高い丘に登って町を眺めてみたときに軽い感動を覚えることがある。これといって風光明媚というわけでもない場所に海外旅行で訪れたとき、その風景が強く印象に残ることがある。そこで見えている風景を高名な画家や写真家の手によって切り取ってみせたとして、そこらのカレンダーに使われている風景よりも「価値がある」かどうかはわからない。それでも、そこに胸を打たれる瞬間があるのはなぜなのだろうか。
風景の美しさを感じるとき、はたして対象が内在的にもっている“美”に感動しているのか、それとも見るプロセスそのものが美への感動を生んでいるのか──その判別はしばしば難しい。
ゲームを遊ぶという経験は、我々の美的感覚がどのように立ち上がっているのか。よくわからない気分にさせることがよくある。
最先端のCGを食い飽きてしまうという一方で、ファミリーコンピュータ時代のドット絵の風景にだって感動を覚えることがある。RPGで長い洞窟を通り抜けてあらたな風景が広がるエリアまでたどり着いたとき[5]、動かないと思っていたバックグランドの風景が動いたとき[6]。そのようなとき、ゲームのなかの風景をまじまじと眺めさせられることがある。
われわれは、いつ、どのようにして「風景をまじまじと眺める」ような心の状態を得るのか。ここには、プレイヤーの知覚や意識がどのように働くかという問題が横たわっている。
1.3.3 集中を緩めさせる:「手持ち無沙汰な時間」をつくる
結論から言ってしまえば、コンピュータ・ゲームにおいて風景に魅入るという経験は、いくつかの要素が絡まりあって成立している。たとえば、「見つめるための時間の確保」「光と音の変化」「視線の指示」「他者との注意共有」「プレイヤー自身の苦労の経験」などが折り重りながら、風景に魅入るという経験が成立している。
さらに難しいのは、その要素間の相性だ。単にそういった要素の一部をゲームに埋め込めば、風景に魅入る経験がうまく立ち上がるわけではない。ときには、ゲーム全体の経験を台無しにしてしまいかねない。たとえば、ウォーキングシミュレーターのような作品のゲームデザイン上の方策の一つは、急かされていない時間、静謐な時間、――別の言い方をすれば「すこし手持ち無沙汰な時間」――をいかにつくるか、ということだった。これは、ゲームの作り方としては、かなり特殊な部類に入る。というか、場合によっては「ゲームとして二流だ」と呼ばれかねないような危険な作り方ですらある。
なぜかというと、多くのゲームは、操作しながら「これをやって、あれをやって」ということを矢継ぎ早に考えさせていくような仕組みとして設計されていることが多い。お金を稼いだら武器を買って、武器を買ったら経験値稼ぎをして、経験値を稼いだらボスを倒して、ボスを倒したら次のエリアに行って……と経験をせわしなく連続させ、待ちぼうけさせる時間を与えない。そのせわしない感覚を与えるということこそがゲームに「ハマる」という経験の重要な側面だ。
それに対してウォーキング・シミュレーター系の作品では、そのせわしない「これやって、あれやって」の感覚をあえて、一度ストップさせている。意識を脇道に寄り道するような時間を楽しんでもらうという組み立てがされている。この体験の組み立て方は、ある意味あたりまえのことだ。あれこれ忙しくて心の余裕がないときは、景色をロクに見る余裕はない。たとえば、会社の窓から絶景が見えたとしても、締め切りが迫ってるまさにそのときに外の景色をまじまじと眺めることはできない。風景を魅入るには、まず忙しさから解放される必要がある。
そもそも、「これやって、あれやって」とせわしなくものごとをこなしていくゲームを楽しむというのは逆説的な事態だ。そもそもの前提として「ゲームを楽しむ」ためには、日々のせわしないこと――仕事の締め切りや、学校の課題など――を考えないでもいい時間が必要だ。日々の「これやって、あれやって」から逃れて、わざわざ、ゲームの中で「これやって、あれやって」と忙しくなっている。ある忙しさから開放されて、その時選んだ好きなことに忙しくなるということを指すことがある。
「ゲームを楽しむ」というと、「これやって、あれやって」の状態が想像されがちだが、一歩引いてみれば、ゲームを遊ぶことはしばしば「暇である」ことを味わうためにやっていることでもある。しかし、暇そのものを味わうというのはけっこう難しい。やることのない、意識が焦点を結んでいないような時間[7]というのは端的に「退屈」だという感覚を生み出すからだ。
だが、実は、その退屈の隙間にこそ、人はどうでもいいことを考えたり、ふと周囲を見渡したりする。ここで「やることないし、風景でも見るか」という瞬間が現れるのだ。
『ICO』でいえば、ヨルダ[8]が、自由気ままに振る舞っていて、ゲームプレイヤーの指示と関係なく何かをやっている瞬間というのがかならずある。この瞬間というのは、ゲームプレイヤーが時間というリソースをあまり積極的に管理していない時間である。プレイヤーの意図とは無関係に成立している時間の流れがここでは前景化され、少しゆったりとした空間に意識が向かう。ゲームプレイヤーは、まわりの風景のキレイさを、何気なく眺めたるような、いささかぼんやりとした時間をすごすことになる。
このぼんやりとした時間というのは、一歩間違うと、本当にただの退屈な時間となる。こうした時間が「退屈なだけの時間」としてプレイヤーから低く評価されることも少なくない[9]。
このような「手持ち無沙汰な時間」は、風景を眺めさせるためには、必要な時間でもある。しかし、プレイヤーを手持ち無沙汰にさせ集中を緩めてしまうことは、「ゲームにハマって集中する」という経験とは相性が悪い。ゲームにとっては邪魔な時間の在り方である。
「集中をゆるめさせるゲーム」は、そもそも「ゲーム」として成立するのだろうか?この問題をどのようにして、解決すればいいのだろうか?
1.3.4 見えている/見ることの焦点を設計する:光、音、視線、他者、努力
その解決の手立ての一つは、ビデオゲームのようなメディアに限らず、映画などの様々なメディアなどでも用いられているような映像表現を用いることだ。プレイヤーから見えている風景に、何かはっきりとした輪郭や焦点を生じさせるという手立てはしばしば用いられてきた。たとえば、「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」という川端康成の有名な書き出しは、まさに「見えている」という受動的な状態の中にはっきりとした輪郭を作り出している。この「トンネルを抜ける」ときに訪れる感慨を繰り返させるような仕掛けを細かく作りこむ作品は少なくない。『ICO』や『Dear Esther』をはじめとしたウォーキングシミュレーター作品の多くは、こうした見えている風景にコントラストをつくっている。『ICO』では、砦の内側に入れば風景がやや暗くなり、静かになる。また砦から出て、屋外に行くと明るい風景が広がり、鳥の鳴き声がチュンチュンと聞こえはじめる。暗いところから明るいところへ、静かなところからにぎやかな場所へ。光と音に明確な変化が加わることで「違う場所にでた」ということを、プレイヤーは、嫌でも気づくようになっている。光と音の二重の対比が、ここでは「見えている」ことに輪郭を与えている。
ただ、こうした既存メディアの手法を取り込むだけでなく、インタラクションのあるメディアに特有のーーしかし、わかりやすく能動的というほどではないーー仕掛けもある。
第一は、他者の視線によって焦点を設計することだ。風景をめぐる焦点の作り方は、こうした光と音による制御だけではない。風景の見どころを教えてくれる「人」の存在もある。たとえば、一緒に散歩をしている人が、ふときれいな風景に気づいて「あー、きれい!」と言葉にしてくれたとき、その人の見ている方向を一緒に眺めてみるということがある。もし言葉にしてくれなかったとしても、一緒にいる人がある方向を何か熱心に見ていれば、何があるのだろうと思ってそちらを見つめる。大鷲と共に冒険をする『トリコ』では、大鷲がある方向を熱心に見つめると、それにつられてプレイヤーが同じ方向を見つめるということが起こる。大鷲の眼球の大きさも手伝って、大鷲の視線方向にプレイヤーが気をとられやすくなっている[10]。同年代の友人たちとドライブをする『FFXV』であれば、ドライブをしている途中に「あそこで写真撮ろうよ!」と、頻繁に声をかけてくれる友人がいる。ここでは写真を撮るという提案を通して「いま風景がきれいだよ」ということを暗に伝えてきている。こういった、焦点のコントロールは、ゲームプレイヤーの意識をすこしボンヤリとしたものにさせながら同時並行で行われている。
風景の変化を光や音のコントラストをとおしてはっきりとした輪郭を与え、仲間の視線注意を介して「見る」ことの焦点を作り出す。
第二は、他者との経験共有それ自体だ。「見る」という経験は、見えているものだけが重要なのではない。誰と見るのか、どうやって見たのかということもその経験の一部を構成する。誰かが「風景がきれいだね」と言ってくれるということは、単にその風景の美しさに気づかせてくれるというだけでなく、風景の美しさに共感をしてくれる誰かが横にいるということだ。そして、そのこと自体がうれしいということがある。花見をするとき、「花を見る」ということ以上に、誰かと「一緒に、花を見る」ということのほうが重要になることがある。好意をもっている誰かが喜んでくれると、誰かが喜んでくれるということ自体がうれしいということもある。スタンド・アローンのゲームのなかのキャラクターの喜怒哀楽は、AIのそれに過ぎないところもあるが、疑似的な他者としてある程度は機能する。これは、単にインターネットで検索をして、美しい風景の写真や動画を見つけるというだけでは、成立させにくい経験だ。「誰かと見る」ことが楽しさの一部をつくる。
第三は、風景を見るまでの苦労や努力などの来歴だ。また、誰と旅をするわけでもない、ひとりぼっちの旅であっても、風景を見て感慨が押し寄せることはある。苦労して高い山をのぼったときに見えてくる風景が美しいという経験は、ただ一人で旅をしたときにも起こりうる。同じ風景をみるのでも、その風景をみるために苦労をしてきたのだという個人的な経験が前段にあるかないか、ということは風景を見る者の態度を大きく変えさせる。RPGのなかで長く苦しいダンジョンを抜けた先にひろがる風景や、難しい謎を解いたあとに到達した風景がひときわ美しく見えるのは、まさしくそういうことだろう。特に、ゲームプレイヤーが自ら主体的に関わることによって、この風景にたどり着いたのだ、という意識を経由して、風景に関わらせるという経験の与え方もまた、ゲーム以外のメディアではなかなか困難なことの一つだ。
第四、第五の手法も挙げることもできるだろうが、何にせよ「風景を見る」という経験をつくりだすためには、何重もの手立てが講じられているということだ。それは、「美しい風景をつくる」ということとは、別種の難しさがある。 「風景を見る」体験をつくるためには、「少しだけ手持ち無沙汰になる」ということがまず必要で、それは、ゲームの「あれやって、これやって」というせわしない体験とは、はっきりと相性が悪い。適当につくると、ただ単に退屈なゲームとして仕上がってしまう。それゆえ、美しい体験としての雰囲気を維持し、風景を見る体験をつくるためには、様々な手口を用いなければいけない。光と音による風景のコントラストを付け、視線を誘導し、他者との経験の共有を の楽しませ、ようやっとたどり着いた風景の感慨に浸らせる。ゲームの中で「風景を感じさせる」ことが成立するためにこうした複層的な制御を効かせることでようやく成立している。
1.3.5 我々は移動するときに、何を考えているのか?
しかし、先に挙げたような工夫がいくら凝らされていても、何度も同じ風景を見てしまえば、どうしても、いずれは慣れてくる。慣れてくれば、ゲームの中で歩いているときに、美しい風景にも目がいかなくなる。そうなるとやはり、単に退屈な感覚が生じてくることはある。そのとき、プレイヤーの焦点はどこに向くのか。
それは、「歩くことそれ自体」だ。
ゲームをやっていて「移動が退屈で面倒だ」と感じたことのある人は多いだろう。特に、何度も歩いた道をビデオゲームで移動しているときはそうなるだろう。ゲーム内で何度も往復した場所を歩くということに創意工夫が生じる余地はほとんどない。驚くようなものは何もない。それにも関わらず、プレイヤーは目的地まできちんと移動して操作することに意識を向けさせられる。たいした刺激のない単調な作業を丁寧にやることを求められているのに似ている。ここには退屈が生じる。
これは、日常における「歩く」という経験とは実は明らかに異なっている。我々はふだん学校や会社に向かうとき、歩くという行為をほとんど意識していない。歩くという行為そのものを意識するのは、足を怪我したときや、病気で体が重たい時などの異常時に限られ、ふだんの通学や通勤時は、考え事をしていたり、ボンヤリしていたら「いつの間にか学校についている」「いつのまにか職場についている」という経験をしていることが、だいたいではないだろうか?
つまり、我々はふだんの歩行において、「歩く」ということを明瞭な意識のもとで考えていることはほとんどない。歩くという行為に関する思考は意識の表には現れず、意識の下(意識下)で行われている。しかし、一部のゲームでは、ふだん意識下で処理していることを、意識の表層まで、わざわざ引き上げてしまう。
我々は能動的に関わる必要のないような行為については、明瞭な意識の外に置く。運動野であるとか、半自動処理な仕方で行為を処理している。それによって「歩くことそれ自体」が意識の表層には出てこないで済んでいる。
「歩くことそれ自体」にまつわる退屈さを解決するため、あるゲームは、一度訪れた場所への二度目以後の移動を簡単にできるようにしたり[11]、移動そのものをミニゲームにすることで能動的に楽しませたりすることだった[12]。
もっと現実に近い体験をーーすなわち、意識下で行われることを意識の表層に昇らせない方法ーーを実現している作品もある。たとえば、『FFXV』での「仲間に運転を完全に任せてしまうこと」という仕様だ。『FFXV』では、一度行ったところであっても、車で時間をかけて移動する必要がある。ただ、自分で運転せずに仲間に運転を任せることができる。自分で運転をするよりも、仲間に運転してもらったほうが効率的なぐらいである。
もちろん、その間はゲームプレイヤーはやることが一時的になくなってしまう。そのとき何をしているのかといえば、車の中で流す曲を選ぶか、移り変わる風景を眺めるか、何ならモニターの外側でスマートフォンをたちあげて目的地につくまでSNSを見ていてもいい。そうしているうちに、仲間が目的地に連れて行ってくれる。ゲームプレイヤーは驚くほどにゲームに能動的にかかわっておらず、実にダラダラとした移動しかしていない。ゲームプレイヤーは移動するということを意識しなくてもよい。それはあたかも、通勤するときや通学するときのように。あるいは、旅をするときに人に運転を任せているときのように、ボンヤリとしていればよい。『FFXV』は、ボンヤリとしながら、半分他のことをするような日常経験を、そのままゲーム上で演出してみせる。そうして、ゲームをするという経験を「あれやってこれやって」という忙しない能動性から逃れてみせた。
ゲームという一連の体験のなかで、多くの手続き的行為は、意識の下層で半自動処理されるようになっていくが、いくつかの行為は、自動処理されるようなプロセスを経ることの難しいものがある。その代表的な行為が「移動」というものだった。
この「移動」という処理は、我々の日常世界であれば、意識の下層で処理されるようなものだ。我々は日々、ぼんやりと歩き、ぼんやりとバスにのり、ぼんやりと電車にのることがほとんどだ。しかし、ゲームという仮想空間の成立のさせかたとして、偶然にこの「移動」を意識下の処理にすることが難題として残ってしまっていた。
しかし、『FFXV』のような作品が示唆するのは「手持ち無沙汰な時間」もまたゲームという一連の経験の一部なのだ、ということだ。
1.3.6 「能動的な領域」の焦点を移り変えていく運動としてのゲーム
ここまで確認してきたように、「ゲーム」を楽しむといったとき、遊んでいるときに注意がむくこと対して能動的に関わるということは、典型的な「ゲーム」という体験だろう。しかし、それは「ゲーム」という経験の一部でしかない。ゲームの楽しみを形作るのは、人を能動的にするということだけではない。
我々が日常において様々な行為をするとき、そこでは明瞭な意識にのぼっている領域のさらに下に、多層的に様々な処理が行われている。いま、私はパソコンのキーボードを打っているが、この文字を構成するローマ字――KONO, MOJI WO KOUSEI SURU ROMAJI――と漢字変換の連なりは意識下で行われているし、キーボードにおけるQWERTY配列の位置と指の位置の関係も意識下で行われている。日本語文法としていま、自分が書いている日本語が文法的に正しいかどうかということも意識下で行われていることだ。私が意識にのぼらせていることは、どう論理を順序立てて行うか、そしてどの表現を選択するか、ということもっぱらであり、キーボードや、ローマ字や日本語文法について考えている時間はほとんどない。
我々の意識が多様な層を成しているように、ゲームを遊ぶという行為も多様な層をなしている。格闘ゲームなら、最初はパンチの出し方のような基本操作方法に意識をとられ、次第に必殺技コマンドの出し方、投げのタイミングといったことに意識がうつる。ベテランになってくれば相手プレイヤーとの間の、駆け引きを行うコンマ数秒のタイミングに意識がいくようになる。相手プレイヤーとのコンマ数秒のタイミングに意識がいっているプレイヤーにとって、弱パンチや強キックの出し方は、意識のはるか下の層で処理されていることでしかない。それはRPGにおいても多くの場合は同様なのだ。コマンド選択の順序や、攻撃コマンドや回復魔法の名前といったものはゲームの序盤でこそ意識させられるが、ゲームの中盤や後半ではもはや明瞭な意識にはのぼらなくなる。繰り返し行動されるような手続き処理は、多層的な意識の下のほうにもぐりこんでいく。
つまり、ゲームというのは「行為が能動的である」ということなのではなく、「能動的な領域」の焦点を移り変えていくという一連の体験のことであると整理できる。ドラクエで30時間をかけて、ラスボスと戦うところまでいったゲームプレイヤーが「このホイミって呪文はなんだっけ?」と考えることはない。 ビデオゲームの設計というのは、次第に行為に半ば飽きながら、次の行為に目移りをしていくプレイヤーの焦点移動のプロセスを破綻なく維持させる仕組みでもある。「飽きていくプレイヤー」という存在を前提としながら、プレイを持続させるための整合的なシステムを構築することが高度なゲームのデザインだという側面がある。行為が退屈なものになる手前の瞬間に、プレイヤーがそれを意識しなくても済むような名作とされるビデオゲーム作品は数多くある。
そして、多く場合、直感的な試行錯誤から、より反省的/理性的な試行錯誤へとプレイヤーの焦点は移り変わっていく。ビデオゲームは、我々の感性的理解/理性理解、能動的なモード/受動的なモードと、多様な側面に働きかけながら、その現れ方を都度、変化させる。
そのようにプレイヤーの多様な知覚や思考のモードを動員させることで、現実の様々な行為――複雑な認知を同時に運用するような運動から、日々の手持ち無沙汰な時間まで――を再構成し、私たちに楽しみとして提示しなおしている。ビデオゲームはそのような媒介として機能している。
[1]なお、谷川(2020)は、本稿の「移動」をめぐる論点として、「ゆっくり」という点と、「逸脱」という点についてマノヴィッチ(Manovich, 2001)とインゴルド(Ingold, 2007)を引きながらかなり近い議論を展開している。
[2]厳密には、ウォーキング・シミュレーター系と分類されているゲームの中にも、だいぶ能動的な遊び方を前提とする作品は存在している。たとえば、『The Stanley Parable』のようなゲームもウォーキング・シミュレーターに入れられることが多いが、『The Stanley Parable』は、風景をゆったりと眺めさせるというよりは、かなり能動的な試行錯誤をさせるタイプの作品になる。これは「ウォーキングシミュレーター」概念自体が、まだ比較的新しいため、ジャンルの境界線自体が定まっていないということも一つの要因だろう。
[3]ここで言う「能動」はインタラクティビティ全般のことを指しているわけではないことに注意。インタラクティビティ全般の話であれば、典型的な一本道のJRPGの体験でも、インタラクティブではある。
[4]単調なRPGのレベル上げだとか、「おつかいクエスト」の連続など、九〇年代中盤以後、多くの人が「一本道RPG」とか「一本道シナリオ」といった要素をだめなゲームの代表格であるかのように呼んだことも、「映画的ゲーム」に関わる批判と連続している。海外でもGonzalo Frasca(Frasca, G. (2003). Sim sin city: some thoughts about grand theft auto 3. Game Studies, 3(2). は、ゲームプレイの際におけるこうした側面をErrand boy syndrome(使い走り症候群)と呼んでいる。同じようなことをただ延々と繰り返すだけのほとんど頭を使わない、ロボットになったかような時間は、多くのゲームプレイヤーにフラストレーションを感じさせてきた。それゆえに、能動的に様々なことを考え、刺激にあふれたようなゲームこそが面白いゲームなのだという言説は、洋の東西を問わず、強固な位置を占めている。そして、FFシリーズはこういったタイプのゲーマーからはしばしば目の敵にされる代表的なシリーズだったといってもよい(なので、この派閥のゲーマーであったにも関わらず、いまだにFF15をプレイして「意外とよかった」とか言っている人々はかなり付き合いのいい人達でもある)。
こういう派閥のゲーマーたちは、ある時期には自覚的に「ゲェム右翼」と名乗ったこともあった。なお、ゲェム右翼総本山のサイトによれば、ギャルゲー&エロゲーの隆盛を嘆き「ゲームの本質は、『殴る!蹴る!撃つ!壊す!殺す!』 これを行わずはゲームに非ず!」としていた。(ゲェム右翼総本山(1998)「党首宣誓、党ノ基本理念」http://web.archive.org/web/20001016194615/http://home4.highway.ne.jp/grw/dclrtn.htm <2025年5月14日閲覧>)
[5]たとえば、『ドラゴンクエストII』でロンダルキアの洞窟を抜けた時
[6]たとえば、『ドラゴンクエストIV』の第4章終わりで船が動いた時
[7]國分功一郎. (2011).『暇と退屈の倫理学』第五部で言及されている、第一の形式に相当する。
[8]『ICO』のヒロインキャラクター。プレイヤーキャラクターとほぼ一緒に行動する。
[9]たとえば、Frasca, G. (2003). Sim sin city: some thoughts about grand theft auto 3. Game Studies, 3(2).の『シェンムー』と『GTAIII』を比較した議論では、『GTAIII』の移動は単なる移動ではなく、ドライブそのものが楽しく仕上がっている。これに対して、『シェンムー』はひたすらに移動させられるので苦痛だ、という話が書かれている。筆者は『シェンムー』の移動時間の「退屈」とだけとは言い切れない加減こそがむしろ良いと思っていたが、ここは個人差があるのだろう。
『FFXV』をプレイして、筆者が最初に感動を覚えたのは「これは『シェンムーII』のハイキングシーンの正当な後継作品じゃないか…!!!」という、ことだった。ただ、より冷静に言えば、社内で音楽をかけられる仕様などは、どちらかといえば『GTA』シリーズからの影響と考えるほうが自然かもしれない。オープンワールドのゲーム内での「移動」時に、プレイヤーの意識制御という点で『シェンムー』と『GTA』の双方の特質をうまく引きついた作品として『FFXV』を位置づけることもできるかもしれない。
[10]眼球の大きさが、相手の意図の読み取りに働く可能性については、遠藤利彦. (2005). 『読む目・読まれる目』東京大学出版会などを参照のこと。
[11]ドラゴンクエストでいえば「ルーラ」。
[12]たとえば、『GTAIII』は、移動をドライビングゲームとして設計している。
この記事は、2025年5月15日に公開しました。本連載では、書籍に掲載される内容とは別に、連載としてはゲ
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