「庭プロジェクト」、はじめます

 こんにちは。宇野常寛です。この「庭プロジェクト」の発案者で、まとめ役を担当します。今日は初回なので、「庭プロジェクト」とは何か、僕がこのプロジェクトを考えた背景も含めて、改めてみなさんにお話したいと考えています。よろしくお願いします。

 この「庭プロジェクト」の目的はインターネット上のプラットフォームに対抗し得る実空間をつくること、正確にはそのためのコンセプトを作り上げることです。これだけ述べても、もしかしたらピンと来ない人もいるかもしれないので、少し説明させてください。

評論家 / PLANETS編集長の宇野常寛(「庭プロジェクト」発起人)

速すぎるインターネットの問題

 僕は3年ほど前から「遅いインターネット」という運動をしています。平たく言えば、情報との付き合い方を考え直すことを提案している運動です。
 今日においてタイムラインに流れてくる情報の内容そのものが吟味されることはもはや難しい。これは、みなさんも実感していることだと思います。ほとんどのユーザーは他のユーザーたちの反応を見て、より多くの評価が得られるリアクションを選択する。ここではもはや情報の内容ではなく、タイムラインの潮目だけが読まれている。こうして、人間は問題そのもの、事物そのものについて考えることを放棄しつつある。閉じた相互評価のゲームで承認を交換するだけで、事物そのものにコミットできなくなっているのだと思います。

 この閉じたネットワーク上の相互評価のゲームにおいては、あらゆる人間が情報発信の能力を持ち、そしてその大半の人間が多かれ少なかれ自分の発信に対する他のプレイヤーの評価を獲得することを目的としています。そのためにこのゲームにおいては、既に広くシェアされた問題に(それも、既に支配的な意見に賛成/反対することで)回答するよりも、新しく問題を設定するインセンティブが圧倒的に低い。こうなると、いくら「多様性を社会に実装せよ」という声そのものが拡大しても、シェアされる話題は画一化していきます。

 こうした閉塞するサイバースペースの問題を、実空間の側からのアプローチでケアできないかというのがこの「庭プロジェクト」です。

2021年1月6日に起きた、ドナルド・トランプ支持者らによるアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件。「速すぎるインターネット」の弊害が最悪なかたちで表出したと言えるでしょう(画像出典

プラットフォームの支配下にある実空間

 ただ、サイバースペースがダメだから実空間で、といった単純な話には当然なりません。2010年代は情報技術を用いて、人々をサイバースペース経由で実空間に動員していった時代だったとひとまず総括することができると思います。アラブの春や香港の雨傘運動、日本の反原発デモといった社会運動から、ライブアイドルの握手会、「インスタ映え」を用いた商店の集客まで、FacebookやTwitterなどSNSのプラットフォームを経由した動員が、政治からサブカルチャーまでこの時期に幅広く定着していったのがこの10年だったのは間違いありません。
  人間は(それがどれほど洗練された希少なものであったとしても)紙や画面の上にある他人の物語に感情移入するするよりも、(それがどれほど稚拙で凡庸なものであったとしても)プラットフォーム上に自分の物語を吐き出すほうを好む。そして21世紀の今日において、人類は情報技術に支援され、その本来の習性を取り戻しつつあると言えます。

「動員の革命」はこの変化の一側面です。プラットフォーマーは「自分の物語」を求めた人々の欲望を刺激し人々を動員し、人々は自分の物語を求めて、ハッシュタグのついた実空間に動員されていったわけです。
 ただ、残念ながら人間はそこで何ものにも出会うことはなかった。あらかじめハッシュタグによって自覚された、予定調和の事物にしか出会えません。街を歩いても、目当てのハッシュタグのついたもの以外目に入らなくなる。名所旧跡の前でセルフィーを撮る観光客が何ものにも出会えていないように。代わりに、彼らは相互評価のゲームに閉じ込められることになります。こうして実空間はサイバースペースに従属し、この閉じた相互評価のネットワークの内部に回収されたと言えるでしょう。

TED2022でTwitter買収について話すイーロン・マスク(画像出典

プラットフォームから、庭へ 

 じゃあ、どうしたらいいのか?

 僕が注目しているのは、プラットフォームが人間の社会的な身体を画一化させるということです。
 たとえば、僕の友人でもある乙武洋匡さんと、僕の身体はぜんぜん違う。しかし、僕と彼のFacebookやTwitterの機能は同じで、承認の交換に特化した社会的身体を与えられてしまう。本来、身体の多様性は欲望の多様性を生み出し、文化の多様性へと直結します。人間の欲望は身体に規定されるものであり、乙武さんはそもそも「歩きたい」と思ったことすらないと言っています。しかし、プラットフォームはそうした多様性をすべて画一化してしまう。プラットフォーム上で人間の身体は、承認の交換以外の機能を失うと言い換えても良いはずです。
 したがって、プラットフォームの支配力から逃れるためには相互評価の、人間間の承認の交換のゲームの外部としての、事物とのコミュニケーションが必要になる。そうすることで、プラットフォームが人間の心身を画一化する力に抗うことができると考えるわけです。

 そこで僕は実空間で、人間ではなく事物とコミュニケーションする場所をつくることができないかと考えはじめました。それが「庭」です。実質的にはサイバースペースの支配下にある実空間を解放して、事物と直接コミュニケーションできる場所を確保する。具体的には都市開発、とくに公共空間の開発における指針として、この「庭」のビジョンを構想する。それが「庭プロジェクト」です。プラットフォームに対抗し得る「庭」をつくるという観点から、国内外から多様な分野の専門家(建築、社会学、情報技術、人間工学、経済学、メデイア、人類学、生物学、文学、アートなど)を招いて共同研究を行い、これからの都市設計のグランドデザイン、交通網、公共施設、自然環境の管理、公共的な商業空間がどうあるべきかを、包括的に議論していきます。

第1回の研究会は、1927年に建築された個人邸をリノベーションし、会員制のビジネスイノベーション拠点として運営されているkudan houseで実施されました(画像提供:kudan house)

ポスト・スマートシティとコモンズの問題

 おそらくこの日本ではこれから、アメリカから遅れてスマートシティ化の波が押し寄せてくる。しかし少なくとも2010年代のアメリカにおけるスマートシティは、どちらかと言えば人類に情報化が手段ではなくて目的と化すことの愚かさを証明するものとして記憶されているはずです。そこで、このタイミングでこの日本から、都市の情報化に対して官民アカデミズム混成で集まって、“文系的な”コンセプトを出してみたい──「庭プロジェクト」には、そうした動機も含まれています。

東京都小金井市の福祉施設「ムジナの庭」を主宰する鞍田愛希子さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

 このときおそらく争点になるのがコモンズの問題です。現代における公共的なものとは何か、というのはシンプルだけれども難しい問題です。
 たとえばサイバースペースではFacebookやTwitterをはじめとするSNSのプラットフォームは、間違いなくある種の共有地=コモンズとして、しかもグローバルなコモンズとして機能している。しかしこれらはいち私企業の所有物なので、たとえばイーロン・マスクのような個人がプラットフォームを買収した瞬間に、好きにできてしまう。要するに現代サイバースペースにおける公共的な場所というのは多くのユーザーが選択した場所が、ボトムアップに決定されるかたちでしか成立しない。同じようなことは実空間にも言えて、消費社会下で商業空間がもっとも公共的な場所として機能していたのと同じ理由です。この「庭プロジェクト」では、このコモンズの問題を射程に収めて考えたいと思います。

建築家の門脇耕三さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

現実に対する虚構の敗北について

 最後に、僕がこのプロジェクトを考案したもう一つの理由を付け加えたいと思います。

 僕はサブカルチャーの、それもどちらかといえば作品の内容についての批評を中心に活動してきたのですが、年々「虚構」というものの力が落ちてきているように感じているんですね。さすがに具体的な作品名はここでは挙げないですが、たとえば大ヒットしたアニメがあるとする。監督が鬱病を克服して作品を完結したという作品外の現実の物語がSNS上で広くシェアされると、作品そのものの内容の凡庸さは度外視されて、作品自体が傑作だということになってしまう。こうした現象は珍しくなく、もはや作品の内容を受け止めることよりも、他の人たちが「よい」と言っているものについて自分も「よい」と発言して、「共感」を獲得するゲームの快楽のほうが大きくなっている。

哲学者の鞍田崇さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

 そもそも先進国において虚構性の高いサブカルチャーが非常に強い力を持っていたのは、20世紀最後の四半世紀のことです。1970年代初頭、戦後の西側諸国における左翼運動が全滅に近いかたちとなって、一度大きく挫折する。そこから先に、ユースカルチャーの中心が政治からサブカルチャーに移り、革命で社会を変えるのではなく、「文化」というものを自分の精神に注入して世界の見方を変えようとする力が強くなる。それがアメリカではヒッピーの流れをむカウンターカルチャーであり、コンピューターはドラッグや禅と同じようにその一分野だった。日本ではマンガ、アニメなどがそれを担い、オカルトもそのうちの一つだった。

 この時代の「終わり」を象徴するのが、1995年の問題です。この年は社会現象になった『新世紀エヴァンゲリオン』の放映が始まった年です。この作品は簡単に言うと、『宇宙戦艦ヤマト』的な偽史への欲望と『うる星やつら』的な歴史の忘却への欲望を結託させることで成立しています。『宇宙戦艦ヤマト』は、架空年代記の中で、日本を連合国側に置いた第二次世界大戦を描くことで、敗戦国のトラウマをファンタジーの世界で回復させるという、偽史的想像力で成り立っている。対して『うる星やつら』は、美少女に囲まれた学園生活を、何度正月やお盆が来ても年を取らずに無限ループで繰り返す。歴史的なことや政治/経済的なことはすべて忘却して、終わりなき日常のなかで思考停止する。歴史を捏造するか、歴史を忘却するか。戦後日本の二つの夢を、アニメというものは直接的に担ってきたのですが、主人公の少年が、ロボットに乗って活躍し陰謀論的な世界の謎にコミットする一方で、美少女に囲まれた学園生活を送る『エヴァンゲリオン』は一言でいえばその総決算だった。しかし、戦後アニメーションの総括として1995年に放送が開始されたものの、結局は庵野秀明監督がうまく物語をまとめられず、最終回は当時流行りはじめた自己啓発セミナーのようなかたちで、主人公が内面のモヤモヤを独白し、それを周りの登場人物たちが「おめでとう。あなたは承認されました」と拍手して終わっていく。これは明らかに虚構に現実が侵入している、つまり虚構が現実に追いつかれた瞬間だったわけです。
 同様のことが、1995年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教にも言えるでしょう。オウム真理教は、もともと1984年に発足した「オウム神仙の会」と呼ばれるヨガサークルを母体としています。当時のヨガは言ってしまえばサブカルチャーで、ヒッピーカルチャーの影響を受けた「ヨガを極めると精神世界が充実して、世界が変わらなくても自分が変われる」という考えが背景にありました。しかし、それがどんどん過激化・カルト化すると、集団を維持するために敵が必要になり、地下鉄サリン事件を起こして徹底的に破綻することになる。「修行によって自分を変える」ということを諦めて、「現実に対してテロを起こさないと世界は変わらない」と思ってしまった──これもまた、現実に対する虚構の敗北であるわけです。

 この問題は現代も継続していて、その象徴が「2016年問題」です。2016年は国内のアニメや特撮の大作が多かった年だと言われていて、その代表が『君の名は。』と『シン・ゴジラ』、『この世界の片隅に』の3作です。この3作はそれぞれ、東日本大震災の記憶をボーイミーツガールのBGMとして利用した『君の名は。』、平成の政治改革の空回りを震災と原発事故をモチーフにガス抜き的に皮肉った『シン・ゴジラ』、閉鎖的なご近所コミュニティ、そして家族空間に閉じこもって過酷な時代を生き延びるための弱者の戦略としての歴史の忘却(をした振り)をしている『この世界の片隅に』と、それぞれ対照的な「歴史」へのアプローチをしている。そしてもっとも批評家筋から評価された『この世界の片隅に』が一周回って戦後的なメンタリティ、つまり歴史を忘れた「ふりをして」生きるという部分に着地したことに、僕は虚構の敗北をより強く感じています。この「戦後的」なメンタリティこそが、歴史修正と忘却という二つの欲望の源泉なのは明らかで、一周回って現実に対する批判力を失ってしまったと考えざるを得ません。

 いまや圧倒的に、虚構より現実のほうが、人を惹きつける力が強くなってしまっています。虚構が現実に敗北し、外部を捏造できなくなったときに、僕たちはどこに向かうべきなのか。「庭プロジェクト」は、かつて虚構が担っていたこの世界の穴、閉塞する現実の穴はどこにあるのかということを探すプロジェクトでもあるのです。

21世紀のグレート・ゲーム

パターン・ランゲージ / 創造社会論研究者の井庭崇さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

 この「虚構の敗北」という問題は、インターネットの問題でもあります。先程触れた、「世界を変えるのではなくて世界の見え方を変える」というモードを終わらせたのは、当時のヒッピーの流れをむ文化の一つであったコンピュータ文化だったからです。今日において、世界は再び変えられるものになっている。ただし政治ではなく市場に技術を投入する新しい経済によって、です。

 虚構の敗北とは、言い換えると、「他人の物語から自分の物語へ」という変化でもあります。世界史的に見ると、20世紀というのは圧倒的に、モニターの中の他人の物語を人々が受信することによって感情を育み、それによって社会が構成されている時代でした。たとえば有名人のジャンルは映像以前と以後だと大きく変わっていて、19世紀には物書きの社会的地位がものすごく高く、20世紀になって映画が生まれ、さらに20世紀後半にテレビが出てくると、完全にアスリートやコメディアン、俳優やミュージシャンが有名人になっていく。競技スポーツを家で見るというライフスタイルが定着したのも、20世紀でした。
 それが21世紀になると、圧倒的に「自分の物語」の時代になった。人々は自分の物語を発信することのほうに夢中になり、たとえばヨガやランニング、太極拳といったライフスタイルスポーツが隆盛した。競技スポーツを見るよりも、ライフスタイルスポーツに取り組んで、その様子を発信することのほうが、現代人の感性には圧倒的に合っている。こうして情報技術の発展と同時に、人々の欲望の中心が段々と移ってきたのです。

 ただ、いまのSNS社会を見るとわかるのは、残念ながら、ほとんどの人は発信に値する自分の物語なんて持ってないということです。考えてみればこれは当たり前で、人間はそこまでドラマチックな人生を歩むわけではありません。しかし人間は本当に悲しい生き物で、すごくつまらない話であっても、自分の話をするほうが楽しい。そしてそのために次第に承認を獲得しやすい投稿を反復するようになる。これがアテンション・エコノミーを前提としたSNSのプラットフォームの基本的な構造です。このアテンション・エコノミーのもたらすゲームは、「上位のゲーム」と「下位のゲーム」の二層構造になっています。SNS上の相互評価のゲームとは、20世紀的なワーカー、ローカルな国民国家に民主主義を通じてコミットする国民がプレイヤーである「下位のゲーム」です。そしてこのゲームにおける動員力を背景に上位の、金融資本主義のゲームが駆動している。世界市民的な自意識を持ったクリエイティブ・クラス、グローバルな市場にコミットするニューエコノミーの従事者によるグローバル資本主義のゲームです。

 ここで参照したいのが、ハンナ・アーレント『全体主義の起源』(1951)の第二巻の帝国主義の巻で使われている、「グレート・ゲーム」という比喩です。これはもともと『少年キム』(1901)の作者のラドヤード・キプリングが使っていた概念で、イギリスとロシアの植民地争奪戦のことを指しています。アーレントの分析によると、その特徴は何かというと、匿名性のゲームの自己目的化です。『少年キム』に登場するスパイたちはイギリス人もインド人もなく、ただ匿名の存在として活動にコミットし、敵国が己に賭けた賞金の額を誇りにするようになる。イギリス人のスパイとインド人のスパイが人種を超えた兄弟として共に戦い、そこにはナショナリズムも人種差別もない。彼らの目的は金銭でも地位でも、ましてや国家の繁栄でもなく、敵国によって自身に賭けられた賞金の金額というゲームのスコアだったのです。気が付いたら、ゲームのためにゲームを愛するようになっていく。数字をあげることが、手段ではなくて目的になってしまっている。その結果、もともとは拡大することがそこまで国家のゲームに直結していなかった当時の植民地主義が変質し、拡大すること自体が目的になったのだとアーレントは分析しているのです。
 これは僕が説明した、現代のインターネットと結びついた資本主義の問題と相似形を成していると思います。プレーヤーは匿名の主体で、スコアを上げること、より多くの承認を受けることが、手段ではなくて目的になってしまっている。その意味で、「21世紀のグレート・ゲーム」というものがいま成立している。そして、このゲームは二層構造でより強化されていることが指摘できます(このあたりの議論は、2022年10月刊行の『砂漠と異人たち』で詳しく書いています)。

 前述した「遅いインターネット」という運動はこの21世紀のグレート・ゲームへの情報空間における対抗戦略です。「スロージャーナリズム」と呼ばれるヨーロッパの運動のようなものをさらに拡張していき、アテンション・エコノミーの外部でメディアを運営し、相互評価のゲームの外で思考し、発信する読者を育てることが必要だと思うのです。そう考えて僕は「遅いインターネット」を掲げ、ウェブメディアや、発信ノウハウを教えるスクールを運営してきました。

プラットフォームから「庭」へ、再び

「遅いインターネット」は、プラットフォームの速さに流されないために「人間」側に対して行う啓蒙運動でした。しかし、それに加えて、環境そのものに対する抵抗も必要なのではないか──「庭プロジェクト」の根底には、そうした問題意識があります。

 そこで僕は、脱プラットフォームのための3つの方針を提案したい。
 1つ目は「人間を正しく孤独にする」こと。よく言われていることですが、常に誰かとつながっているいま、人間が物事と直接付き合うためには、一度正しく孤独にならなければならないのだと考えています。
 2つ目が、「複数の時間(速度)」が併存する空間を回復すること。プラットフォームが怖いのは、世界中の人間に同じタイミングで同じ思考を促すこと。もちろん、そのことがプラスに働くこともあります。たとえば、ゼレンスキーはこの性質を使って支援を集めたはずで、その効用はなかなか否定しづらい。ただ、これは当然逆方向にも作用することがあって、明らかに現代の政治のポピュリズムの温床にもなってしまっているわけです。
 そして3つ目が、「人間外の事物とのコミュニケーション」。人間と人間のコミュニケーションに関しては、SNSの発展もあいまって、この20年ほどでよく研究され、発展してきたと思います。でもその一方で、人間と事物とのコミュニケーションが、若干置き去りにされてきたのではないでしょうか。

 この3つの方針をまとめると、「孤独に(人間外の事物と)触れる時間と身体を回復する」ということになります。真木悠介(見田宗介)の『自我の起源』という本で展開されている、ドーキンスの『利己的な遺伝子』に依拠した文明論では、人間の「文化」の起源を、異種(虫)を誘惑し、種全体の保存を実現する「花」のあり方を愛することに見ています。自己保存(エロス)と自己破壊(タナトス)が入り混じった「花」という存在を、人間が愛していることが、文化という矛盾に満ちたものの起源になっているというのがその主張です。僕はプラットフォームの画一性は、こうした虫ー花的なコミュニケーションを疎外するのではないかと考えています。

 そして、こうした脱プラットフォームの空間を考えるとき、僕は「庭」の比喩で考えたいと思っています。プラットフォームというのは人間が他の人間と出会う場所で、人間が自己をコントロールする場所である。対して庭というのは、人間が人間以外のものとコミュニケーションを取っている場所である。すごくデザインされたものなのだけれど、完璧なコントロールはできない。卓越した庭師というのは、そのコントロールできなさを使って、むしろ面白い空間を作っている。プラットフォームは世界中の人間を同じ時間軸に同期するけれど、庭はむしろそれぞれの植物や岩、無機物などの時間軸のズレのようなものを使って、ものを表現している空間です。こうしたコミュニケーションを支援する都市空間をいかにして実現していくかを、僕は考えてみたい。
 そもそも古語における「庭」は、「場」と同じ意味だったそうです。しかし、住居と農地が分離していくのに伴い、言葉も分離していった。そうして庭は観賞用、つまり家主や造園家、庭師の世界観(自然観)を表現する場所になっていった。いま現代の都市空間は集合住宅が主流になっていて、そもそも庭というものが少なくなりましたが、これは象徴的なことだと思います。自分のプライベートな空間とパブリックな空間の中間に、自分が関与するけれど支配できない空間が、かつてはあった。都市における「庭」的なものの喪失ということが、歴史的に明らかに存在していて、そういったものをどう現代的なかたちで回復するかということが大事ではないかと思っています。関わり得るけれど支配できない場所を通じて「公」なものに接する可能性を考え直すということは、単に都市開発という問題を超えて、まさにこれからの公共性というものそのものを考える射程のある議論ではないでしょうか。

「動いている庭」から「多自然ガーデニング」へ

「庭」を考えるにあたって、僕が参照している一人が、フランスの庭師ジル・クレマンです。パリのケ・ブランリ美術館の庭などを代表作に持つ、現代庭園における重鎮ですが、彼が「動いてる庭」というコンセプトを提唱しています。たとえば、ある雑草が庭の敷地の中心に生える。しかしクレマンはそれを抜かない。生えた変な雑草を庭の中心に置いて、その植物の移動を活かしたデザインを考える。植物の自由な遷移というものをむしろ尊重して庭をリデザインしていくという発想です。そして現代的な造園の基礎をつくった以上の意味を、彼の仕事は持っている。たとえばクレマンは「動いている庭」を地球全体に拡張して「地球という庭」というコンセプトを提唱しています。地球そのものを「庭」と考えることで、人間による外来種の繁殖も自然現象のひとつと考えている。また「第三風景」という概念を出していて、極相を迎えた森林よりもむしろ、その前段階としての荒れ地(第三風景)の生物多様性を重視している。

クレマンが手がけた庭の代表作の一つである、アンリ・マティス公園(リール、1990-95年)(画像出典

 これは現代の環境保護運動とも通ずるところがあり、たとえばエマ・マリスが2011年に発表した『「自然」という幻想』の中で提唱されていた、「多自然ガーデニング」という概念がそれです。マリスはいわゆる「手付かずの自然」を尊重する、80年代の日本でも流行したタイプの環境保護運動を、20世紀前半のアメリカで生まれたカルトだと断罪している。そもそも「手付かずの自然」は定義不可能で、本当にそこまで戻そうとすると氷河期に戻すしかなくなってしまう。だから結局、人間にとって豊かで、多様性のある自然を自分たちでつくっていくしかない──それがマリスの主張です。

エマ・マリス『「自然」という幻想』の表紙写真の舞台にもなっている、オランダの人工的につくられた野生地「オーストヴァールダースプラッセン」の風景

 こうした現代の造園や自然環境保護運動を参照しつつ、僕らは都市のことを考えてみたい。まず、クレマンの言うように「できるだけ合わせて、可能な限り逆らわない」が、しっかりデザインする。支配でも放置でもなく、「動く乱数供給源としての自然」を重要視しながら、最後は人間にとっての豊かな多様性を維持するという観点からしっかり手を入れていくアプローチは、これからの都市空間を考えるうえで大事な発想だと思っています。
 つまりプラットフォームとは、極相の森林のようなものです。人間しかおらず、やっていることも承認の交換しかない。これは単細胞生物が異常に茂っていて、他の生物が全部死滅した世界とも取れます。これに対抗するために必要なのが、社会の「多自然ガーデニング」です。クレマン、マリス的に社会を「ガーデニング」するという発想に立ち、これからの都市空間を考え直すというのが、いま僕の考えている「庭プロジェクト」の基本的なコンセプトなのです。

 ここで行いたい問題提起は3つ。
 1つは、プラットフォームからの「自立」です。先程も言ったように、プラットフォームの外部は基本的にはない。僕らが仮にFacebookやTwitterをやめると言っても、別にFacebookやTwitterがなくなるわけではなく、単に僕らの発信能力が弱くなって終わるわけです。だから必要なのは、時間的な自立なのだと思います。プラットフォームの与える速度から、人がいかに自由になり得るのか。空間的な自立ではなく、時間的な自立をいかにして確保していくか。
 それを考えることによって、文化的な生成力を回復する、というのが2つ目の問題提起です。たとえば90年代の原宿の歩行者天国や初期のコミックマーケットといった、0から1が生まれていく空間の条件を考えてみると、いまのプラットフォームは真逆の方向に向かっている。文化的な生成力をいかに回復するか、そのためにどうやって都市開発の側が介入していくのかということは、しっかりと議論していきたいと思っています。
 そして3つ目の問題提起が、都市の「スマート化」を適切に制御するということ。冒頭でも触れたように、2020年代というのは、アメリカのスマートシティの実験の結果がヨーロッパやアジアに輸出されていく時代になるでしょう。ここに対してしっかりと向き合い、都市と情報化の関係をしっかり制御できる知恵を蓄えていきたい。

 こうした問題提起を行っていくため、直近ではまず、各分野の専門家で構成されるボードメンバー、そして必要に応じたゲストを招いた研究会を月1回のペースで開催していきます。ボードメンバーは以下の方々に、主に以下のような観点からの議論を期待して入っていただいています。

・井庭崇(パターン・ランゲージ、創造社会論、創造哲学など) / 創造的都市のためのパターン・ランゲージ
・小川さやか(文化人類学) / 現代都市の新しいネットワーク構想
・門脇耕三(建築家) / 情報社会下における公共建築の条件
・鞍田愛希子(福祉、植物) / ケアへの建築的/植物的/民藝的アプローチ
・鞍田崇(哲学、民藝) / コミュニティへの「民藝」的なアプローチ
・田中浩也(デジタルファブリケーション) / ポスト・スマートシティの基本構想

 研究会での討議内容や研究成果は「遅いインターネット」で適宜レポート/アーカイブしていき、いずれは書籍化する予定です。そして、研究成果を発表するトークイベントや、研究開発した空間イメージのサンプルを具現化する展示も行えればと思っています。

[了]

この記事は小池真幸が構成・編集をつとめ、2023年6月22日に公開しました。Photos by 高橋団。