1.4 「ゲームの楽しさ」の変換

 ここまで、ゲームの感覚的・理性的な側面や、能動性だけでは語りきれない特性など、「ゲーム」の範囲が実は、一般に思われているより広範なものであることを見てきた。しかし、なぜこれほど「ゲーム」の範囲は広いのだろうか? 「ゲーム」の楽しさの範囲がどのように拡張され、いかに曖昧な境界を持ちながら拡大するのか。「ゲーム」の概念が、その範囲を拡張していく運動体として性質を確認していきたい。

1.4.1 どこまでが「ゲームの楽しさ」の範囲なのか?どこまでが一つに繋がっているのか?

 さて、ここまで、ビデオゲームがいかに多様な知覚や思考のモードを横断的に動員しているのか、ということを確認してきた。ただ、ビデオゲームはその当初から、それほど多様な体験を扱えていたわけではない。ビデオゲームが歴史的に作られはじめたその当初[1]において、多様な楽しみのあり方をはじめから提示できていたとはとても言えない。
 「ビデオゲームの経験」の広がりは、人類史的に考えてこの数十年間の間に拡張されてきたものだと言って良い。先に述べた通り、ウォーキング・シミュレーター系の作品は、『チェス』『テトリス』『スーパーマリオブラザーズ』などこそが典型的なゲームだと考える人からはしばしば不評である。言ってみれば、ウォーキング・シミュレーターや、社会的な課題を扱うようなゲームは、もともと「ゲームの楽しさ」として認められるようなものではなかった、ということだ。
 こういったものを「ゲーム」として扱うべきではないという人もいる。だが、ゲームの面白さについての言説を追ってみると興味深いのは、「こんなのはゲームではない」と言われていた議論には、ほとんどの場合にその正反対の議論が存在している。
 たとえば、「正確なシミュレーターとしての性質があまりに強すぎて、ゲームとしては楽しめない」という議論があるかと思えば逆に「リアルなシミュレーターとして作り込んであるからこそ、ゲームとして楽しめる」と言う人が見つかる。「映画を見せられているようで、ゲームとしては楽しめない」という人がいるかと思えば反対に「ゲームでありながら、あたかも映画をみるような楽しみを提示していることが、新しい楽しさの境地を開いている」というような議論が見つかる[2]。
 では、一体どこまでが「ゲームの楽しさ」の範囲に入るのだろうか?何がゲームと連続した現象で、何が連続しない現象なのか、という構造がどうにも不安定だということだ。シミュレーションや、音楽、映像、ファッションなどさまざまな快楽が、それ自体はゲームの典型的な快楽としては直接には関係のないものだったはずなのに、音楽をゲームの一部としたり、映像をゲームの一部とするような仕組みが開発された途端に「音楽のゲーム」や「映像のゲーム」が、あたかもそれが、はじめからゲームの楽しさであったかのように成立してしまっている。そのとき「音楽」や「映像」はゲームにとって何なのだろうか?
 ゲームという経験の一部なのか。それとも切り離せる対象なのか。
 問い方を変えよう。たとえば『太鼓の達人』や『ビートマニア』のようなリズムアクションのゲームで、演奏する曲が歌謡曲とクラシック音楽だった場合に、そこで生じるゲームの経験は歌謡曲とクラシックでは別のものになるのだろうか?
 曲の音量や、長調の曲か、短調の曲かによって体験が変わるかどうかは定かではないが、曲のリズムの違いは、確実に体験の内実に関わる。変調の多い曲と、リズムが一定している曲ではゲームの難易度は大きく変わるはずだ。リズムアクションのゲームにとって曲の「リズム」が重要なのは間違いない。
 では音楽の「リズム」は、ゲームとは何かという現象を考える上で、重要な論点だったのだろうか?それは、少なくともリズムアクションのゲームが開発されるまでは、ほとんど誰も考えたことのない問題だったはずだ[3]。
 リズムアクションゲームという形式が発明されるまでは、音楽のリズムを、ゲームの課題として変換することは、そもそも発想の難しかった変換だ。曲のリズムの問題は「ゲーム特有」の経験には関係しない音楽の問題として独立していたはずだった。しかし、それは新しいゲームの形式が発見された途端に、ゲームから独立した快楽ではなく、ゲームの経験に連続した快楽となった。
 ファッションコーディネートゲームの『わがままファッションガールズモード』を遊べば、ファッション・スタイルの分類論は、ゲームの経験に変換できるようになる。『塊魂』を遊べば、物体の大きさがゲームの経験の一部になる。『伝説のオウガバトル』を遊べば、功利主義の論点がゲームの経験と結びつくことになる。
 曲のリズムも、ファッション・スタイルの分類も、功利主義も、それらはゲームという形式に変換されてきたものではなかった。それぞれのゲームの開発者たち――ウィル・ライト、岩井俊雄、松浦雅也、松野泰己、高橋慶太といった人々――がその変換の形式を練りあげたことで、ゲームの経験として浸透するようになったものだ[4] 。

1.4.2 「ゲームの楽しさ」と「そのものの楽しさ」が連続していないもの

 「それまでゲームとして思われていなかったものに、ゲームの性質を見出して楽しめるようにすること」は、知的体力を要する発明や発見と呼ぶにふさわしいものだ。
 しかし、「ゲームの要素で楽しめるようにする」ということを志向しているのにもかかわらず、とても知的な発明や発見とは呼びづらいような結果になることも多い。二〇一一年ごろから「ゲームの要素で楽しめるようにする」ことの一部は、ゲーミフィケーションという言葉で呼ばれるようになり、大きな話題を呼ぶようになった。しかし、「ゲーミフィケーション」とされるプロジェクトの多くは、上記のような知的発明や発見とは異なるものだった。
  実際のところ、二〇一〇年代前半の「ゲーミフィケーション」プロジェクトは、ただの点数競争のようなものが大半だった。ユーザーに点数を付け、ランキングで競わせて、ところどころでバッジなどを付与するといったようなものだ。「これはゲーミフィケーションというより、ただのポインティフィケーション(点数化)では?」という批判もあった。
  そうなってしまった理由はいくつかある。技術的な理由での説明もつくし、ビジネス構造的な理由での説明もできるが、理由の一つは、ゲームに対するこだわりのない人が、とりあえず何かをゲームっぽいものにしようと思ってすぐに思いつくことの一つである「点数で競争させること」を、「ゲーム」のわかりやすいイメージとして捉えたからだろう。
 こうした単なる点数競争を強いるようなものがあまりにも増えたので、こうした点数競争的な仕掛けのゲームには「PBL(ポイント、バッジ、リーダー・ボード)」という略称も付けられた。点数競争のゲームは、個人に紐付いた定量化可能な指標があれば、とりあえずそれをゲームのポイントやランキングに変換してしまおうというタイプの変換だ。変換する数値は、万歩計の歩数でもいいし、移動距離でもいいし、ログイン回数でもいいし、はっきり言って何でもいい。点数競争のゲームをつくるために、ゲームデザインの知性を働かせることはさほど要請されない。この発想の安直さゆえに、点数競争のゲームは、一部のゲームの研究者からは安易すぎるものとしてしばしば蔑視される。たしかに、これは発明や発見といった側面が薄いし、安易といえば、確かに安易なものだ。
 点数競争の代表的な例は「バッジヴィル」のサービスだ。ウェブページのアクセス解析でわかるようなページの閲覧回数、閲覧頻度、滞在時間、SNSへのシェア回数、ウェブページに書き込んだ回数などを、好きなようにゲームのポイントとして扱えるように変換できるサービスだ。

1.4.3 「点数競争変換」と「快楽経験の変換」

 この点数競争のゲームを設計することが、リズムアクションゲームの発明などと大きく異なる点は明らかだ。それは、それまでゲームと見なされてこなかった別の快楽の性質それ自体をゲームを通して経験させようとしているかどうかという点だ。何でもかんでも単なる点数競争にするだけなら、それほど難しいことではない。何らかのセンサーでユーザーの行動を追跡できて、それでプログラムを組むことさえできれば、概ねそれだけでただの競争のような仕組みは成立する。点数競争は何らかの数値をゲームのポイントに変換するかもしれないが、必ずしも異なる行為の快楽の性質をゲームの形に変換して伝えられるわけではない。
 単なる点数競争のゲームでは、これはできないことを達成している作品は、先にも挙げた『わがままファッションガールズモード』だ。この作品は、ファッションの多様性を感じ取ることの楽しさを、ゲーム特有と言いうる行為に変換することに成功している。
 点数競争の発想であれば、アパレル店の店長が洋服を販売した回数や、金額、接客した回数などを「ゲームのポイント」として変換できるかもしれない。しかし、それはファッションの多様性を味わうことをゲームに変換しようとしているわけではない。単に、そこらへんに転がっていた数値を拾ってきただけだ。もっとも、売上ナンバーワンを目指すプロセスのなかで、結果的にファッションの奥深さを味わうことはありそうではある。ただ、それは新しいゲームの表現を発明したというよりは、なにごとであっても、突き詰めようと思ったら奥深いものがあるというタイプの話だ[5]。
 新しいゲームデザインの発明を、素朴な点数競争的な変換とは区別して、ここでは前者を「快楽経験の変換」と後者を「点数競争変換」と呼んでおこう[6]。

1.4.4 それ自体ではない何かと結びつくものという性質:遊び、比喩、表象

 では点数競争変換ではない、快楽経験の変換はいかにして可能になるのだろうか?
  一つの手段は、すでに述べたように、人間の様々な知覚の特性を利用することで、飽きさせないような仕組みを構築することだ。プレイヤーが注目する場所を示したり、光と音のコントラストで驚かせたりといった細かな仕組みを積み重ね、飽きさせない状況をつくってその中で何かを体験させる、という技を紹介してきた。
 だが、もっと包括的にこの快楽経験の「変換」を可能にしている条件を考えてみよう。
 この点について、興味深い視点を提示しているのが、メーリング(2013)の議論だ[7]。
 メーリングによれば、比喩(metaphor)、遊び(play)[8]、表象(representation)は、いずれも「それ自体ではない何かと結びつく」ものという点において共通した特徴をもっており、この性質が重要なものだと述べる。
  そして「それ自体ではない何かと結びつく」ものは、多くの場合ちょっとした矛盾のような事態を含みがちであるという。
 まず、比喩とはまさしく別のものを結びつけることそのものだ。「人生は旅だ」といったような言い方で、「人生」と「旅」を結びつけることが比喩ではできる。とはいえ、これは細かいツッコミ――たとえば、「人生は旅よりも終わりが見えない」「旅と違って好きなときにはじめたりやめたりできない」など――をすれば当然、ちょっとした矛盾はある。

『The Marriage』(2006)

 ゲームの例でも同様だ。四角と丸で表現されたコンピュータ・ゲームに『結婚(The Marriage)』(2006)と名付けられたものがある。このゲームは、結びついている二つの四角をうまく結びつけたまま、長くゲームを続けることが目標になる。うまく操作をしてやらないと、片方の四角が消えたり縮小してしまいゲームオーバーになってしまう。このゲームの二つの四角はただの四角でしかない。しかし、多くのプレイヤーはこの二つの四角をただの四角とはみなさない。「ゲームのタイトルから察するに、おそらく夫婦のことなのだろう」「関係を維持することの難しさは夫婦生活の難しさについての比喩だろう」と多くのプレイヤーは解釈する[9]。ただ、この二つが夫婦なのかどうか、という話は好意的に考えれば「たぶんそう」ということになるが、よく考えると謎のゲームをやらされているだけだ。それに「夫婦」と考えるにはよくわからない部分もある。
 表象(representation)のパラドックスの例に挙げられるのは、ルネ・マグリットの「これはパイプではない」[10]というパイプが描かれた絵画だ。描かれているのは、どう見てもパイプだが、その言葉が示す通り一枚の絵画であってパイプとして使用できるものではない。それは、絵画が、絵画以外のものを表象するという性質によってこうした不思議な事態が起こる。

『イメージの裏切り』(1929)

 メーリングによれば、ベイトソン[11]、ゴンブリッチ[12]、ウォルトン[13]、フィンク[14]といった論者はいずれも、遊び(play)、表象(representation)、メタファー(metaphor)の三つの領域を相互参照しながら、議論をすすめている。遊びについて説明するために、表象の理論を用い、その例示としてメタファーを用いる。または、表象について説明するためにメタファーの理論を用い、遊びを事例として用いるといったことを彼らは行っている[15]。これらは互いが互いを説明するために参照されており、この相互参照は偶然ではないという[16]。
 いずれも、ある領域を別の領域に対応付けする性質をもっており、対応付けをするということ自体がそもそも一歩引いて見ると不思議な変換を行っているように見える[17]。ここまでがメーリングの指摘である。
 メーリングの議論の興味深い点は、ゲームというものを比喩のような「変換」を扱う仕組みとして取り上げていることである。言葉や絵画などの「表象」をおこなうものでは、指示対象となるモノや概念との間に対応付けをして変換がなされる。ゲームは複合的な行為のプロセスと、別の複合的な行為のプロセスとの間での対応付けをして変換をしてみせる。いずれも異なる二つのものの変換のプロセスなのだ、ということを気づかせてくれる点だ[18]。
  「比喩」というのは、あるものと別のものを結びつけたときに新しい視点をつくりだすものだ。「人生は旅だ」といったとき、そこには、人生についての特有の視座を発生させている[19]。 ゲームにおける「快楽経験の変換」もまた、比喩が新たな視座を生み出すように、世界に新たな視座を生み出している。つまり「快楽経験の変換」というのは、一種の比喩によって成り立っていると捉えることはできないだろうか?

1.4.5 快楽経験の拡張バリエーション:シネクドキ

 比喩のような形でゲームが新しい変換方式を獲得していくとしたら、それはどのような形で成立しているのだろうか。
 「快楽経験の変換」を「比喩」として捉える視点は、この現象を考える重要なものだ。しかし、一口に比喩と言っても、その働き方には様々な種類やパターンがある。「人生は旅だ」というメタファー(隠喩)もあれば、「鍋を囲む」で「一緒に食事をする」ことを示すメトニミー(換喩)もある。ゲームにおける変換は、果たしてどのような種類の「比喩」なのだろうか? この問いをより精密に解き明かすために、言語における比喩の分類とメカニズムを研究してきた認知意味論の議論を参照したい。認知意味論におけるメタファー、メトニミー、シネクドキといった分析概念は、ゲームにおける快楽経験の変換の多様なあり方を、詳細に捉えるための手がかりとなるだろう。
  籾山、深田ら[20]によれば、(1)メタファー/メトニミー/シネクドキ(2)概念メタファー/メトニミーと意味拡張(3)イメージ・スキーマを介した意味拡張(4)主体化(5)文法化による意味変化の5つに分類している。言語の拡張プロセスにおいて比喩に関わる様々な現象が機能しているように、ゲームの快楽経験の幅の拡張が行われる際にも、上に挙げたような機能が関わっていると考えることはできるのではないだろうか[21]。
 たとえば、上記で指摘されたうちの一つ、シネクドキについては、メーリングもゲームのシミュレーションがシネクドキ(Synecdoche)と指摘している[22]。
 シネクドキとは、上位概念を下位概念で言い換えたり、下位概念で上位概念を言い換えるような表現のことを言う。たとえば「人はパンのみにて生きるにあらず」というキリストの言葉は、食料という上位概念を表すために、食料の一部であるパンを用いている。「飲み会」という言葉はアルコール飲料を飲むという具体的な行為を、飲むという大きな概念で括っている。
 ゲームのシミュレーションや、快楽のエミュレーションといった場合には、前者の「下位カテゴリーで、上位カテゴリーを表す」ことに近い。
 具体的な例をあげながら考えよう。

アパレル店の店長の仕事についての階層性のイメージ

  これまで何度か説明しているとおり、『わがままファッションガールズモード』(二〇〇八、DS、任天堂)は、アパレル店の店長となり、訪れる客の服の好みを推測しながら、客の好みに合わせたファッションコーディネイトをしていくゲームである。これは若い女性向けのファッションの基本的な約束事がわからないゲームプレイヤーにも、楽しめるようになっている。まず、来客した客の服装を見て、どういったカテゴリーの服が好みにマッチするのかを考える。もし考えが合っていれば、客は「ばっちり!」と喜んでくれるし、はずれていれば「うーん、ちょっと違うかな~?」と言って去っていく[23]。様々な客の好みを推測していくプロセスでファッションの多様性について学ぶプロセスを楽しめる。
 ここで見られる、いくつかのゲーム内行為と、行為によって表現されるものとの対応を整理してみよう。
 プレイヤーは第一に「客の好みを推測して、ファッションのカテゴリーを適切に選び取る悩み」は、「服のコーディネートに悩む愉しみ」を擬似的に変換している。実際のファッションコーディネートは当たり前だが、ゲームよりも複雑である。上下の合わせも考えなければいけないし、季節感や流行への配慮も必要だ。しかし、ゲームの中では「客の好みの推測」に焦点をあてて、行為全体の一部にかかわらせることで、コーディネートの全体をやった気にさせている。つまり、下位カテゴリーで上位カテゴリーを示している。
 第二に、実際の「アパレル店長としての仕事」は、コーディネートのほかにも在庫管理や広報、スタッフの採用、労働環境の運用、税金処理などやらなければならないことが多いはずだ。しかし、ゲームの中で行うことはコーディネートと在庫管理が主たる部分であり、ここでも行為全体の一部にかかわらせることで、全体をやったような省略がなされている。
 こうした意味の変換には、類似性に基づいた変換(「人生は旅」のようなもの。メタファー。)[24]や、隣接性に基づいた変換(「ホワイトハウス」で「大統領府」を表すようなもの。メトニミー)などさまざまな変換が考えられる。
 ここでは、すべての意味の変換や拡張の可能性の詳細な検討はさておくが、確認したいのは、次の点だ。
 隣接した範囲や類似性を通じてゲームは二つの領域を繋いでいる。点数競争変換に無くて、快楽経験の変換にあるのは、こうした類似性や隣接性の活用度合いなのではないだろうかということだ。単なる点数競争に終始してしまうゲームの設計では[25]、こういった「似ているところはどこか」「隣接した感覚はどこにあるか」といったことを考えたゲームの設計は行われにくいだろう。

1.4.6 快楽経験の変換プロセスの認知的基盤:人間、全体、具体性、メトニミー

 さらに踏み込んで、このような類似性が成立しやすいもの/そうでないものの判別についても考えることができるだろう。意味における比喩が成立するかどうかは、人間の認知的基盤に基づいているのではないかという説もある。
 ラネカー[26]は、隣接に基づいた比喩(メトニミー)の認知的基盤について仮説を提示している。何かの対象を指示する場合、細かな指示を直接的に行いにくい場合には、参照点(reference point)として機能しやすいような、指示対象に関わる参照しやすいものを活用するのではないか、という。
 参照点として機能するのは(1)人間以外のものよりは人間が(2)部分よりは全体が(3)抽象的行為よりも具体的行為が相対的に参照点となりやすい。
 たとえば、「カントを読む」と言うとき、読まれているのはカント本人ではなく、カントの書いた本である。「目を閉じる」という場合には、閉じているのは瞼であるが、言葉の上では目の全体が参照されている。「頭を抱える」という表現は身体行為を示したいわけではなく悩んでいるという抽象的行為を指示している[27]。
 ゲームにおける快楽経験の拡張プロセスでも、同じような理路を考えられそうだ。例えば、リズムアクションゲームを考えてみよう。我々が体験しているのは、本来「音楽を演奏する」という非常に複雑で、長年の修練を要する行為の全体である。しかし、ゲームはこの全体を直接扱わせるのではない。その代わりに、「曲のリズムに合わせてボタンを押す」という具体的で身体的な部分的行為をプレイヤーに要求する。このボタン操作こそが、音楽演奏という全体を錯覚するための認知的な参照点として機能している可能性がある。プレイヤーは、この捉えやすい参照点への操作に習熟することで、あたかも行為の全体をマスターしたかのような達成感や快楽を与えられる。これは、単に音楽を聴くだけの体験とは全く異なる、満足感のある「演奏体験」のシミュレーションだ。
 リズムアクションゲームを遊ぶとき、我々は音楽の演奏全体を行為しているわけではない。簡易化されたリズムと音階をもとにボタンを押しているだけだ[28]。
 すでに述べたように、メトニミーは隣接性に基づいて指示がずれるような比喩のことだが、ゲームの場合にもリズムアクション・ゲームを遊ぶ時、音楽の演奏そのものを体験しているのではなく、特徴的な行為を基点として「音楽の演奏をしているような気分」を作りあげている[29]。
 リズムアクションのゲームでは、なぜ、リズムの制御と、僅かな音階の学習プロセスが選ばれているのかといえば、一つにはプログラム上の都合だろう。リズムと音階の判定は機械的に測定することがそれほど難しくなかった。では、たとえば音の強弱の制御が難しかったかと言えば、そんなことはない。音階の代わりに、音の強弱を用いてもいいし、音の種類を用いてもいい。例えば『ビートマニア』シリーズでは、リズムと音階が主要な要素となっているが、『太鼓の達人』シリーズでは、リズムと叩き方の種類が主要な要素となっている。いずれの作品でも「リズム」は必須の要素となっており、リズム抜きで、音階と音の強弱だったりといった組み合わせで判定する音楽ゲームは少ない[30]。
  音階と音の強弱だけをプレイヤーに操作させるゲームを作ることも可能ではある。リズムをずっと同程度にしてしまえば、リズムアクションゲーム風の仕様でもって実装することは考えうる。これはリズムが一定のリズムアクションゲーム、ないしリアルタイム性の薄い音楽ゲームのようなものかもしれない。リズムアクションゲームのようなジャンルを起点に音楽を遊ばせるゲームを考え始めると、リズムの要素はいずれにせよついて回りやすい。音階を入力させるにせよ、強弱を入力させるにせよ、外して考えるのが難しい。
 こういう場合にリズムを、体験の変換をするための「本質的(=欠くことのできない)」要素という人もいるだろうが、本質かどうかは正直よくわからない。ただ、「リズム」が音楽の経験を想起させる変換の媒介項として強く機能したというのは歴史的に見て、実際にそうだったとは言えるだろう。快楽変換プロセスの基点として、選ばれやすいものには人間特有の認知的特性に応じたものがあるのかもしれない[31]。
 ラネカーの指摘するような、人間や全体や具体的行為のようなものが強力な変換の媒介項になるのであれば、優れたゲームデザインとは、扱いたい経験の中から、我々の認知が参照点として掴みやすい、①人間的で、②具体的・身体的で、③行為の全体を想起させる部分を見つけ出し、それをビデオゲームの行為として再設計する技術だと言えるかもしれない。
 少なくとも、「快楽経験の変換」が成功している事例の背景には、人間の認知的な基盤が関わっている可能性が強い。
 しかし、ここで新たな問いが生まれる。ゲームという現象それ自体に特有の、言語とは少し異なる参照点の性質はないのだろうか?それが強力な参照・媒介機能を持つ可能性がある。たとえば、習熟プロセスを表現する要素[32]、行為のルールを構成する要素[33]、トレードオフ上のポイントとなる要素[34]などが参照・媒介機能をもつといったことはありえるだろう。
 具体的に、一体何がその変換の強力さを担保するのだろうか?これこそが、ゲームという現象の曖昧さの中心にある構造であり、我々の議論が次に探求すべき課題である。

 以上、論点を改めてまとめておこう。

・ゲーム的な快とみなされる範囲は、変化する。ユーザーの状況によって変化が起こるだけでなく、ゲーム開発者が新たなゲームの手法を構築することで、ゲーム的でないとみなされていた快楽がゲーム的な快楽の一部として変換されるようになる。

・快楽の変換には、コンテクストを無視できる点数競争的な変換と、比喩的(類似的・隣接的)な側面に着目した説得的な「快楽経験の変換」に分けられる。

・変換のための参照・媒介として機能しやすい要素とそうでないものがあると考えられる。

 [1]概ね1950年代~1970年代前半ぐらいまでの状況をここでは想定している。本書は、ビデオゲームの正確な歴史記述を目指したものではないので、いつが「ビデオゲームの黎明期か」を明確に同定するつもりはない。
[2]井上明人(2003)「ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって-雑誌『ゲーム批評』を中心にその使われ方の状況を探る- 」慶應義塾大学小熊英二研究室 pp. 36-41を参照
[3]とはいえ、歴史的に「ゲーム」や「遊び」に類する語彙は「音楽の演奏」と結びつく確率が高く、日本語でも中世の「あそぶ」の用法に音楽演奏の意味があった。、この論点は第二部でも触れる。なお、リズムアクションのゲームと音楽の関係性の問題をどのように考えるのかについては、Oliva, C. 2023, Otocky: Adventures in Improvisational Musicking. Journal of Replaying Japan vol 5, 135-145 , 尾鼻崇. (2023). デジタルゲームにとって 「ならでは」 の音楽表現とはなにか. 日本デジタルゲーム学会 年次大会 予稿集 第 13 回 年次大会 (pp. 149-152). 一般社団法人 日本デジタルゲーム学会, 山上揚平. (2024)「音楽ゲーム」は何が音楽的なのか? 日本デジタルゲーム学会 年次大会 予稿集 第 14 回 年次大会 (pp. 45-50). 一般社団法人 日本デジタルゲーム学会
[4]彼らが、真に「はじめて」それらの形式を発明したといえるかどうかについては詳細な議論を必要とする論点であり、ここでは脇道に逸れるため、その詳細は検討しない。
[5]もっとも、「突き詰めようと思ったら奥深いものがある」というプロセスの中で得られる気づきを貶める意図はない。ゲーミフィケーションのサービスのなかでは、それでも十分、狙っていた効果を果たすことはありうるだろう。ここでは、それに価値があるかないかを論じているわけではなく、新しい形式の発明と言えるかどうかを論じている。
[6]もっとも、点数競争変換が、快楽経験の変換になる可能性がまったく存在しないとは言えない。点数競争的な変換が、結果的に快楽経験の変換としてうまく機能するケースは十分ありうるだろう。
[7]Sebastian Martin Möring(2013)”Games and Metaphor – A critical analysis of the metaphor discourse in game studies”IT University of Copenhagen, pp. 121-136.なお、日本語圏の研究で言えば、八尋茂樹『ゲーム解釈論序説』一六六頁~一八七頁も、メタファー/メトニミー/シネクドキなどの論点に言及しつつ、コンピュータ・ゲームの表現について考察を加えている。
[8]メーリングは遊びとゲームを比較的近い意味として使用している。もっとも、Zimmerman&Salen(2003)によるPlay/Gameの区分などへの言及は行っている。
[9]ゲーム研究者にとっても論じられやすい作品であり、Rusch(2009)2009. “Mechanisms of the Soul – Tackling the Human Condition in Videogames.” In Breaking New Ground: Innovation in Games, Play, Practice, and Theory. 、Bogost(2011). “How to Do Things with Videogames”, Kindle edition. Minneapolis: University of Minnesota Press.、Juul(2007),”A Certain Level of Abstraction”などで論じられている。
[10] René Magritte,1929,”La trahison des images”.画像はSteven Zucker, Smarthistory co-founderによる撮影https://www.flickr.com/photos/profzucker/3320751204<2025年6月26日閲覧>”
[11]Gregory Bateson(1954)“A Theory of Play and Fantasy”
[12]Gombrich, E. H. (1963). Meditations on a Hobby Horse London: Phaidon.(邦訳、二見 史郎, 横山 勝彦, 谷川 渥訳 『棒馬考―イメージの読解 増補完訳』勁草書房 、1994)

[13]Walton, K. L. (1993). Metaphor and prop oriented make‐believe. European Journal of Philosophy, 1(1), 39-57.
[14]Fink, E., Saine, U., & Saine, T. (1968). The oasis of happiness: Toward an ontology of play. Yale French Studies, (41), 19-30.
[15]Möring(2013),op.cit.,p. 134
[16]その後、メーリングはホイジンガ的な文明論的な視野に立ち、進化的モデルを打ち立てようとしている。アゴン的なもの→戦い―遊び(Play)→表象→メタファー/言語や思考の自己参照→文化といった形で玉ねぎ式に、二次の観察の仕組みが大きなものとして拡張していくという。彼は、進化モデルのなかに、遊び・表象・メタファーを位置づけている。ただ、この進化的モデルは正直なところ、筆者にはピンと来なかった。ハラリ『サピエンス全史』などでも、表象の能力が人類の進化基盤として重要であったことなどが述べられており、おそらくそういったものに近い観点からの議論であろう。何かしらの進化論的モデルを描きうる可能性については同意する。ただ、筆者の立場としては遊びと文化はどちらが先にあるというより、相補的に成立してきたプロセスとして捉えている。そのため、もう少し複雑なモデルにしたほうが説得的に感じられる。
[17]Jesper Juulは”The Art of Failure”(2013,MIT Press)の中で、ウォルトンの「フィクションのパラドクス」にヒントを得て、「失敗のパラドクス」についても論じている。
[18]もっともゲームの場合、『テトリス』のように特定のなにかと対応付けられているとはみなしにくいものも一定数存在している。そのため、ゲームはすべてがなにかを示すような仕組みだというわけではない。この点については、Jesper Juulが、フィクションとルールの重なりの範囲という観点から、論じている。Jesper Juul/松永伸司訳,前掲書,Chapter 5「ルールとフィクション」二〇一頁~二三五頁
[19]比喩についての、こうした捉え方は、I. A. Richardsや、Max Blackによる相互作用説(Interactive Theory)と呼ばれる。 Möring(2013), pp. 73-76 参照
[20]籾山洋介、深田智「意味の拡張」、松本曜編『シリーズ認知言語学入門<第三巻>認知意味論』大修館書店、二〇〇四, pp. 73-134
[21]ゲームの表現をメタファーとして読み解くという試みは日本語圏の研究としてもいくつか行われている。たとえば、八尋茂樹(2005)「ロールプレイング・ゲームのレトリック表現」『テレビゲーム解釈論序説』pp. 166-187など。
[22]Möring(2013), p.165
[23]やや細かいことを言うと、この作品が、成功した大きな理由の一つは、服のコーディネートの評価をAI判定による点数評価などではなく、客とのマッチングによる仕組みとして表現したという工夫は極めて重要だった。
[24]八尋(2005). p. 168によれば、メーター・HPという形で命の量を示すようなものがそれにあたるのではないかと指摘している。
[25]これは、ゲームデザイン的な語彙を使うのであれば、そこにはビリーバビリティ(信頼可能性)が生じるかどうかの余地が生じることになると言ってもいい。
[26]Langacker,1999,Ch6,”Grammar and conceptualization. Berlin/New York:Mouton de Gruyter”
[27]用例については、籾山・深田ら、前掲書、八八頁を参考とした。
[28]もっとも演奏行為そのものと限りなく近いゲームもある。『キーボードマニア』(二〇〇〇、AC、コナミ)や、『PianoMan』(二〇〇八、iOS/Android、ユードー)などは、ピアノの演奏行為そのものとの違いが少なくなってくる。
[29]この点はメトニミーではなく、シネクドキではないかとの見方もできる。やや分節の難しいものかもしれない。
[30]リズム抜きの音楽のゲームが無いわけではない。『ReZ』などでは敵を打つタイミングはある程度まで任意なので、リズムは決められておらず、ジャズの演奏に近い。また、ゲームと言うより「おもちゃ」とか「メディアアート」と呼んだほうが良さそうな『エレクトロプランクトン』などもリズムに合わせることをゲームプレイ上の要件としていない。
[31]スポーツゲームなどでも同様の議論はできるだろう。サッカーゲームでパスを出す際、プレイヤーは現実の選手のように身体全体のバランス、ボールを蹴る足の角度、味方選手の位置といった無数の情報を処理しているわけではない。「パスボタンを適切なタイミングで押す」という具体的なアクションが、戦術的なパス交換という全体の快楽へと繋がる参照点として機能している様子がある。
[32]たとえば、悩み、習熟していくプロセス。リズムの習熟プロセス
[33]音階、リズム、音の強弱など
[34]いわゆる戦略的な要素

この記事は、2025年6月26日に公開しました。本連載では、書籍に掲載される内容とは別に、連載としてはゲームに関わる多様なトピックを扱っていきます。概念間の関係性についての詳細な議論はぜひ書籍刊行をご期待ください!
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