[はじめに]ひとりあそびのすすめ

「あそび」について教える本

 この本は「あそび」についての本だ。
 君たちは周りの大人たちに「あそんでばかりいないで勉強しなさい」とか「あそんでばかりいると、将来に苦労するぞ」とか言われることが多いと思う。けれどもこの本はその逆で、もっとあそんだほうがいいぞとすすめるために書かれた本だ。しかも同じ「あそび」でも、君の周りの大人たちのあいだではあまり「よいこと」だとはされていない種類の「あそび」について教える本だ。
 たしかに子供にとって「あそび」はとても大切だと言う大人はたくさんいる。でも、このときの「あそび」はたいていの場合「みんな」といっしょに遊ぶことを指している。校庭で元気にサッカーをするとか、街に出かけるとか、そういった種類の「あそび」だ。しかしこの本で教える「あそび」はそれとは真逆のことだ。
 この本で僕はひとりで、孤独に過ごす「あそび」について教えていこうと思っている。だからもしこの本に書いてあることを君の親や先生が知ったら、余計なことを教えるなと怒り出す人のほうが多いだろう。でも間違っているのは僕じゃなくて、この本を君から取り上げようとする大人たちの方だ。

 僕は身の回りの人たちを眺めていて、いつも思うことがある。世界には二通りの人間がいて、いつも誰かの顔色をうかがっている人と、自分の考えをしっかり持っていて落ち着いている人だ。
 そしていつも誰かの顔色をうかがっているコウモリみたいな人よりも、自分の考えをしっかり持っている太い木のような人のほうがとても楽しそうなのだ。
 一緒にいる僕も、太い木のような人のほうが圧倒的に楽しいし、学ぶことが多い。コウモリみたいな人と何時間話していても、「みんなはこう思っているんじゃないかと思う」ということしか口にしない。でも、太い木のような人は「自分はこう思う」ということを話してくれるし、行動で示す。行動の結果で自分の考え方をバージョン・アップしていくことにも迷いはないし、思考そのものが柔軟だ。だから「その人」とかかわっているからこそ、はじめて得られる体験がある。
 そして、コウモリのような人たちは「みんな」であそぶことばかり考えていることが多くて、逆に太い木のような人は「ひとり」であそぶことを好むことが多い。
 たしかに初対面の人間とも気楽に話せたり、何人かでいるときにその場を盛り上げて気持ちよくできたりするのはコウモリみたいな人だ。君たちの学校の教室で目立っているのも、コウモリのような人たちだと思う。
 僕も中学生や高校生の頃には、コウモリみたいな人たちが中心になって社会を動かしていくのだと思ってきた。しかし、自分が大人になってみると必ずしもそうではないな、と感じることが増えてきた。長くじっくり付き合っていて、楽しいのはむしろ太い木のような人だ。
 このタイプの人には人見知りで、場の空気を読むのが苦手な人も多いけれど、それは長くじっくり付き合っていく場合はそれほど重要じゃない能力だ。そしてコウモリのような人たちよりも、太い木のような人たちのほうが実は、考え方も柔軟に変えていくことができる。
 「みんな」はどう思うかという基準で考えていると、たとえ自分で「何か違うな」と感じても考え方や行動を変えられない。きちんと自分の考えがあるからこそ、間違えたと気がついたら修正できるのだ。
 そして、気がつけば社会のほうも実はこうした太い木のような人たちの影響がびっくりするくらい大きくなっていた。これはこの20~30年のあいだの世界の仕組みの変化の影響が大きい。僕が君たちくらいの歳だった頃(1990年代)から今(2020年)までの30年間で、世界の仕組みは特に経済の構造とコンピューター関係の技術の発展で大きく変わってしまったのだ。

 気がつけば広く世界を見回してみると、現代は「あそび」かたが下手な人は世の中にあたらしい価値を生み出すことができない時代になっている。もう少し具体的に言うと、現代の世界は人生を面白がって、たくさんあそんで生きている人間のほうが、結果としてたくさんの物事を生んでいる。あたらしい商品やサービスで人々の生活を変え、あたらしい文章や音楽や映像を生み出し、あたらしい社会のしくみを作り出していけるようになっている。
 そしてこうしたあたらしい価値を生み出す力を身につけるためには、実は「あそび」が大事なのだ。そしてその「あそび」とは、「みんな」と一緒に楽しむことよりも「ひとり」で楽しむことなのだ。
 そう、世の中には二通りの「あそび」がある。それは大人たちが喜ぶあそびと、そうじゃないあそびで、この本が取り扱うのはそうじゃないほうだ。

大人は「あそび」かたを忘れている

 ところが、この国のほとんどの大人たちはこの世の中の変化に気づいていない。「みんな」に合わせることよりも、「ひとり」で考えることが大事になる世界に変わったことに気づいていない。
 この国の大人たちのほとんどは、まだ自分たちが子供の頃と同じ仕組みで世界=世の中が動いていると思っているし、そもそも考えられている「世界=世の中」の範囲がものすごく小さい。
 この国の大人たちには「世間」という言葉を使う人が多い。君たちの中にも「そんなことは世間では通用しない」とか「世間とはそういうものだ」とか、言われたことがある人は多いと思う。
 僕はこの「世間」という言葉がものすごく嫌いだ。「世間」という言葉は、実はその人が所属している人間関係のことでしかないのだけど、それを世界全体のことだと勘違いしている人が好んで使う言葉だ。たとえば、地方の市役所に勤めている人の「世間」と、東京で世界中に支社のあるインターネットの企業の日本支社に務めている人の「世間」はまったく違う。だから世の中を広い視野で見ている人は「世間ではこうだ、だから正しい」ということを絶対に言わない。「自分の所属している世間ではこうだが、他の世間ではどうだろうか。あるいはもっと広い世界ではどうだろうか」と考える。ところが時代の変化に気づいていない人は、自分たちの「世間」が「世界」のすべてだと勘違いしているのだ。
 だからこの国のほとんどの大人たちは、自分たちが知らない、忘れてしまった、身につけてこなかったタイプの「あそび」の力が、世界=世の中を動かしていることに気づいていない。

 そしてそのせいでこの国のほとんどの大人たちはひとりで「あそぶ」ときの「あそび」かたを忘れて、ハッキリ言ってつまらない人生を送っている(と、自分でも思ってしまっている)人が多い。
 僕の家の近所に、37階建ての大きなビルがある。そこには有名な会社がいくつもオフィスを設けていて、毎朝8時から9時ごろにかけて、黒や灰色のスーツを着た会社員たちがアリのように列をなしてビルの入口に吸い込まれていく。
 僕は朝にこのビルの1階に入っているカフェにコーヒーを買いに行くことがよくあるのだけど、そうすると会社員たちがエレベーターを待ってズラズラと何十人も並んでいるところに出くわすことになる。そしてここに並んでいる会社員たちのうち、10人いたら8人くらいの人の目は、スーパーの魚売り場でパックに包まれて並べられている死んだ魚の目にソックリだ。朝のまだ眠い時間なので、頭がちゃんと動いていないせいかもしれないけれど、この人たちの死んだ魚のような目を見ていると、やっぱりどこか人生につまらなさを感じている人が多いのだろうな、と思う。
 この人たちの中には「それが世間だ」とか「会社勤めなんて、そんなもんさ」と拗ねて、諦めたようなことを言う人も多いと思う。でも、僕にはこの人たちと同じような会社に勤めている友達が何人もいて、でもこんな風に死んだ魚みたいな目をしている人ばかりじゃない。楽しそうに仕事をしている人は多くはないけれどちゃんといる。そしてこういう人たちはどの人も「あそび」がうまい。それも「みんな」であそぶのと同じくらい「ひとり」であそぶ方法をたくさん知っているのだ。

 もちろん、誤解しないで欲しいけれど、いまのこの国の大人たちのほとんども、実はたっぷりあそんでいる。子供たちには見せないように工夫しているだけで、(バレていると思うけれど)毎週のようにあそんでいる人のほうが多いと思う。しかしそのあそび方がワンパターンで、そして申しわけないけれど僕にはとてもつまらなく見える。
 では、いまこの国の大人たちが毎週夢中になっている「あそび」とは何か。それは「みんなとお酒を飲んで、わいわいと話す」こと、つまり「飲み会」だ。
 びっくりするかもしれないけれど、大人にとって「あそぶ」とは、ほとんどの場合「飲みに行く」ことのことを指す。もちろん、映画も見るし、スポーツもするし、お祭りにも行く。しかしその後はほとんどの場合、やっぱり「飲みに行く」。そしてとても残念なことだけれど、こうした飲み会では、ほとんどの場合、話題の何割かはその場にいない誰かの悪口になることが多い。もちろん、そうじゃない話題もたくさんするのだけれど、たいていの場合、どこかで誰かの悪口が出てきてしまう。

 その場にいない誰かの悪口をいうことでその場にいる人の結束は強くなる。自分たちはこの場にいる人たちの仲間で、叩かれる側ではなく叩く側だと思えることでとても安心して、楽しくなる。これは小学校や中学校の教室でも、当たり前のように行われていることだと思うけれど、ほとんどの大人はこれを大人になっても、死ぬまで続けていくのだ。
 いま、インターネットをのぞくと、特にFacebookやTwitterをのぞくといつも誰かの悪口で盛り上がっている。僕は市民が政府のこのやり方は間違っているからどうにかしたほうがいいと声を上げたり、少数派の人たちが多数派の数の暴力から身を守るために声を上げることはとても大切なことだと思う。しかし、今のこの国のインターネットでいちばん盛り上がっているのは、いつも特定の個人の生き方や人間関係を、不特定多数の人たちが集団で貶めるような「いじめ」だ。
 週刊誌やテレビのワイドショーで、週に一度失敗した人や目立ちすぎた人がターゲットに指定されて、「こいつはいま、叩いてもいい人だ」という空気ができあがる。そして読者や視聴者たちは安心して、その人に石を投げる。そのことで、自分はまともな人間だ、なぜならばみんなと、多数派と同じ側にいるからだと安心する。そうすることで、自分の人生を慰めている。仕事での、家庭でのストレスを発散している。とても悲しいことだけれど、世の中の大人たちのほとんどの人はこういうあそび方をしてしまっているのが現実だ。

大人の「あそび」は「あそび」じゃない

 しかしそれって本当に「あそんで」いるんだろうか。「酒は社会の潤滑油」という言葉がある。つまり、飲み会のようなコミュニケーションがあるからこそ、社会はうまく回っている(なので、とても必要なことだ)という意味だ。しかし、これって要するに「飲み会」はまったく「あそび」じゃないことを証明してしまっているのではないかと思う。

 たしかにいまからもう何十年も前、20世紀の工業社会までは、そうやって「自分たち」と「それ以外」とをしっかり分けて、「自分たち」の結束を固めることが、産業の発展に有利だった側面もたしかにあった。
 数十年前までは、コンピューターが発達していないので、インターネットもロボットもなかった。だから、いまならコンピューターがやるような計算や最適化(ものを数えたり、何を、どこに配置するのがいちばんいいのかを考えたりすること)も、いまならロボットがやるような単純な作業(ネジをはめるとか、部品を組み立てるとか)も人間が自分でやらなければいけなかった。だからなるべく、たとえ何か違うなと思っても自分の意見を言えずにその場の「空気」に従う、考えない人間をたくさん集めることが効率的な生産につながっていた。
 だから学校教育では「みんなと同じ」ことを考えるように導かれる。学級という決められた人間関係の中に、1年中毎日閉じ込められて、その与えられた箱の「空気を読む」ことが大事だと教えられる。
 体育の授業では「気をつけ」「前へならえ」など規律ある集団行動を叩き込まれる(これは、言うまでもないけれど軍隊の規律訓練が元になっている)。卒業式では、全員が学校や両親へ全員が同じ言葉を使って感謝を口にすることを強制される。自分の頭では考えないことがよいことだと刷り込まれ、ネジや歯車のような、誰とでも取り替え可能な人間が量産されていくことになる。
 僕にはそれはちょっと恐ろしいことにすら思えるのだけれど、しかし数十年前まではそれが国家や企業にとっては都合が良かった。つまり、効率よく戦争や商売をすることに結びついていたからだ。

▲ネジや歯車のような人たちを量産するいまの学校教育。僕はこういう考え方にはちょっとついていけない人のためにこの本を書いた。

「あそび」かたを忘れない大人たちが、イノベーションを起こした

 けれど、この数十年で世の中の仕組みはすっかり変わってしまった。
 まずグローバル化で世界の経済の仕組みが変わって、あたらしい商品やサービスが世界中に、それも一瞬で広がるようになった。
 そしてもう一つの変化は、コンピューターの発達が与えた影響だ。いまの世の中を一番強い力で動かしているのは、コンピューター関係の技術(情報技術)をあたらしいアイデアで使った商品やサービス(たとえばiPhoneやTikTokなど)をインターネットを使って世界中の人たちに届けることだ。
 そうすると、政治を変えて国家の仕組みを変えるよりも速く、そして広く(国に関係なく世界中に)変化が訪れる。実は世界がこのあたらしい仕組みで動くようになったのは、この20年ちょっとのことだ。
 君たちにとっては当たり前のことかもしれないけれど、僕が小学生だった30年前には、いまのように世界中の人が同じサービス(Googleとか、YouTubeとか)を使って仕事をしたりあそんだりするなんてことはほとんどなかった。
 どこかの国で生まれたあたらしい商品やサービスが世界中に広まるなんてこともなかったし、あったとしても何年もかかっていた。
 たとえば、いまは日本中たいていの街にあるマクドナルドだって、僕が小学生の頃住んでいた長崎県大村市には、1985年になってもまだなかった。アメリカにマクドナルドができたのは1940年だから、45年以上経ってもまだ長崎県大村市にまではまだ届いていなかったことになる。
 君たちにとっては当たり前のことかもしれないけれど、世界はこの20〜30年でものすごく「狭く」なっている。国際関係が発展して、世界中のほとんどの国々が特に貿易というかたちでやりとりをするようになったことと、インターネットなどの情報通信が発展したことで世界はいま、政治は国ごとにばらばらだけれど経済ではひとつに結ばれている。
 これをグローバリゼーションというのだけど、実はその結果、別のあたらしい問題がものすごくたくさん生まれている。だけど、そのことについてはこの本の最後に書こうと思う。僕はこのあたらしい世の中が、とにかく素晴らしいと単純に考えているわけじゃないことだけはちゃんと覚えておいて欲しい。

 このあたらしい仕組みで動き始めた世界で大事なのは想像力だ。コンピューターとインターネットの発達で、一人の人間の想像したアイデアが実際の商品やサービスになって、そして世界中に広がることが以前に比べれば信じられないくらいかんたんに、そして速くなった。
 コンピューターのプログラムはパソコンが一台あれば書けるし、会社をつくり、資金を集めて事業を起こすのも、そうしてつくられた商品やサービスを広めるのも、20世紀の工業社会とは(君たちは想像もつかないかもしれないけれど)比べ物にならないくらいかんたんで、速くできる。だから今の世の中では、誰も思いつかないようなことを想像する力を持った人が、世の中を変えるためにはいちばん重要な存在なのだ。

「あそび」で世界の見方を変える

 たとえばAppleというiPhoneやMacBookなどを作っている会社を立ち上げた、スティーブ・ジョブズはスマートフォンという「持ち運べるコンピューター」を使って、人間の生活をがらっと変えてしまうとんでもないアイデアを商品というかたちで実現した。
 この人については君たちにも知っている人が多いと思う。ジョブズがどういう人だったかは、調べればいろいろな文章が出てくるし、本人の書いた文章や映像も残っている。ちょっと怒りっぽいところがあったみたいで、僕はあまり友達にはなりたくはないけれど、こういう人が世の中を変えるようなアイデアを思いつき、そして実現するのだなとつくづく思う。ジョブズは、ネジや歯車のような日本のほとんどの大人たちとは正反対の人間だ。
 長いものに巻かれる気は最初からなくて、誰もやっていないことを自分がやることにしか興味がなかった。自分の意見をしっかり持っているどころか、自分の意見しか頭になかった。若い頃はヒッピーという自然の中での共同生活や、当時はまだあまり知られていなかった禅の思想や、あたらしい音楽、そして今では法律で禁じられているものもある薬物などに触れることで自分の心を変えるライフスタイルに憧れていた。
 つまり、現実の資本主義の外側に出ることを、政治を通じて社会を変えるのではなく、文化の力で自分の内面を変えることで実現しようとした……つまり「あそぶ」ことで世界の見え方を変えようとしたのだ。こうして考えてみるとジョブズの才能とは「あそぶ」才能だったのだと僕は思う。

 このように現代の情報社会で価値を生むことができるのは、むしろこれまでの(残念ながら今でも)日本の社会では「変わっている」人だとしてつまはじきにされてきた(されている)タイプの人たちだ。
 しかしこれからの世界を豊かに、多様にしていくためには、これまで排除してきた(「みんな」ではなく「ひとりで」)あそぶことが得意な人たち、コウモリのような人たちよりも、太い木のような人たちの力が重要になる。だから僕はこの本を書くことにしたのだ。

▲スティーブ・ジョブズ。彼らが成し遂げたことがこの何十年かで世界を大きく変えた。(Matthew Yohe, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

「僕」自身のこと

 さて、ここで僕自身のことを少し説明しておきたい。僕は今年(2020年)の秋で、42歳になる物書きで、これまで何冊も本を書いてきた。そして本を書くことは仕事の半分で、残り半分は自分で小さな出版社を経営していて、若いスタッフたちに手伝ってもらって僕ではない他の人の本とか、雑誌とか、インターネットの記事とかを作っている。ときどき大学で学生に教えたり、ラジオやテレビに出て話したりもしている。
 いまの仕事をするようになる前は、京都で会社員をやっていた。そのころの僕はあまり将来にやりたいことがあったわけでもなければ、自分はこうなりたいという理想があったわけでもなかった。
 どちらかといえば、というかかなり怠け者で、学生時代もちゃんと学校の勉強はしてこなかったし、卒業したあともろくに働かないでぶらぶらしていた時期もあった。
 大学生のころに一番時間を使ったのは『三国志Ⅶ』というコンピューターゲームで、次に時間を使ったのはケーブルテレビ(当時はYouTubeもNetflixもなかった)で昔のアニメや映画やテレビドラマを観ることだった。
 働くようになってからも会社の仕事もなるべく早く片付けて、好きな本を読んだり趣味の模型を作ったりする時間を持ちたいとずっと考えながら仕事をしてきた。
 そんな僕が東京に出て今の仕事をするようになったのは、好きな本や雑誌を自分で作ってみたいと考えるようになったからだ。

▲新武将作成画面。軍師型の新武将を作成して、彼を操ってプレイ。このプレイでは劉備に士官して、天下統一を目指す。

▲作戦立案中。袁紹に奪われた平原を取り戻すための遠征軍の参軍に任命されたので、作戦を考えて上申しているところ。

▲功績を上げて、劉備から太守に任命された。現代日本でいうところの県知事。このゲームでは独自の判断で軍事作戦も可能。

▲僕が当時エアチェックに命をかけていたケーブルテレビのアニメ専門チャンネルの放送番組一覧。これは「キッズステーション」だが、他に「アニマックス」やアニメ専門ではないが「ファミリー劇場」や「チャンネルNECO」をよく観ていた。(出典:キッズステーション公式サイト

 具体的なきっかけはふたつある。ひとつは、あの頃(27歳くらいのころ)に僕が普段読んでいる雑誌に僕と同い年くらいの人がよく書くようになっていた。その人たちの文章を読んだとき、自分のほうが絶対に面白いことが書けると思った。自分のほうが10倍くらい、この人たちよりも深くて、鋭いことが書けると思ったのだ。
 いま思うと、若い人が考えがちな妄想みたいなものだったような気もするけれど、あのときなら自分が本気を出して東京に出れば、ものすごくたくさんおもしろい仕事ができるのではないかと考えた。
 もうひとつは、このとき京都で勤めていたときの上司と出会ったことだ。その人は僕の両親よりも年上で、50年ほど前に学生運動に夢中になった経験のある人だった。当時僕はインターネット関係の会社の、ウェブサイトに載せる読み物をつくる会社にいたのだけど、その読み物は僕とその上司の二人だけでつくっていた。
 そしてその人はいろいろな出版社の編集部を渡り歩きながら、つまり会社員をやりながらペンネームで何冊も本を書いていた。ああ、こんな生き方もあるのだな、と思った。世界には自分に想像できないいろいろな生き方があって、それは自分で試行錯誤しながら自分なりのやり方を見つければいいんだ、ということを僕はこの人から教わった。(ちなみにこの人とは、あれから15年以上経った今でも、ときどき会っていて、あたらしく書く本の内容などについて相談している。僕の師匠みたいな人だ。)

 こうして書くと、怠け者で、あそび呆けていた人間が考え方を反省して、改めてがんばるようになったと思う人がいるかもしれないけれど、それはちょっと違う。僕は「世間」の言う「立派」な人生を送って人に褒められることにあまり興味がなくて、いや、認められたり、褒められたりするのは嬉しいことだけど、それよりずっと自分の好きな「あそび」の世界に没頭することのほうが大事だったので、人生を成功するか失敗するかという基準で考えるタイプの人から見ればダメな生き方をしていた。
 でもあの頃、僕は毎日がものすごく充実していた。そしてその「あそび」を極めようとどんどんより楽しいと思うこと、おもしろいと思うことをやっていった結果として、自分で本を書いたり雑誌を作ったりすることが仕事になっていったのだ。だから、僕はあの頃の自分の生き方をまったく反省していない。と、いうか、僕はやっぱりこういう生き方しかできなかったと思う。

 このように僕はほとんどの大人たちとは、たまたまだけれどちょっと違う生き方をしてきていて、そのせいで結果的にあの人たちが知らない、忘れてしまった、身につけてこなかった「あそび」かたを割と知っている。そして僕が知っているタイプの「あそび」かたは、間違いなくこれからの世界をつくる若い人たちにはとても大事なことになる。
 君たちがたくさん「あそび」かたを知って大人になることが、きっと世界を面白くしていく。僕はそう考えている。
 もちろん、40歳を過ぎた大人のあそびかたと、この本を読んでいる中高生とのあそびかたは、ぜんぜん違うはずだと思う人もいると思う。たしかに今の僕は10代のころの僕に比べて、知恵も行動力もあるし自分で稼いだお金を自分で使うことができる。
 しかし、あそびかたそのものはまったく変わっていない。単にスケールが大きくなっているだけで、やっていることはまったく変わっていない。実際に中学校や高校の友達にたまに会うと、お前はやっていることが大掛かりになっているだけで、昔から変わらないな、と言われることが多い。だから、この本で紹介する「あそび」はいますぐはじめられて、そして大人になっても続けられるものだ。

はじめに、ひとつだけ約束を

 と、いうことでこの本は、このあと次の章からいろいろなあそび方を紹介する。そのほとんどはひとりで、誰にも会わなくても楽しめるあそび方だ。
 僕は別に「誰かと」あそぶことや、「みんな」とあそぶことが嫌いなわけじゃない。毎年梅雨に入る前くらいの季節には三浦半島の砂浜に仲間たちと出かけてバーベキューをするし、夏には昆虫採集に都内の森を歩き回る。平日の夜に集まって「人狼」やカードゲームであそぶのも大好きだ。
 しかし、ひとりで楽しむのも同じくらい好きだ。そしてこれが大事なのだけれど、ひとりであそんでいるからこそ味わえる面白さというものがあって、僕はそれが大好きで休みの日の半分は独りで過ごすことにしている。ひとりであそんでいるからこそ、はじめて気づく、見えてくる世界のいろいろなことがある。他の人間とはかかわらないで、自然とか街とか工業製品とか、人間ではないものと向き合っているからこそ気づく、見えてくることがたくさんある。このとき、僕はこうしたら周りの人からどう思われるだろうかとか、「みんな」はだいたいこう考えている人が多いのだけれど自分はそれと比べてどうだろうか、とか余計なことを考えるのではなくてただ純粋に自分が触れたものについて感じて、考えることができる。この面白さに気づくことが、僕はネジや歯車のような人間にならないためには、とても大事なことだと思っている。

 ただ、ひとつ厄介な問題がある。先ほど述べたように、ほとんどの大人たちは僕が紹介するようなタイプのあそびを子供が覚えることを嫌がるはずだ。そこで、一つ提案がある。君たちは親や教師を「騙して」この本を読むべきだ。残念なことだけれど、たいていの大人たちは口では自分の子供や生徒のことを大事だというけれど、本当はそこまで関心がない。自分のことで精一杯だ。だから、たとえ「みんな」と外であそんでいなくても、こうして少し真面目そうな感じの本を子供や生徒が手にとっていると、ほぼ間違いなくよく勉強しているなと、いいことをしているなと安心するはずだ。そこにスキがある。君の周囲の大人たちは、僕が自分たちの味方だと勘違いして、この本を読んでいる君たちを応援するはずだ。そして、僕はそうやって世の中の人たちのほとんどを罠にかけて、あの人たちが嫌がることを目一杯伝えることにした。だから君たちもこの本で読んだことは、あまり大人たちに話さないほうがいい。いや、話さないで欲しい。これは、僕と君たちとの約束だ。

 それでは、具体的なあそびかたの方法を教えよう。ただしくれぐれも、約束を忘れないように。

[続く]

この記事は、「よりみちパン!セ」より刊行予定の『ひとりあそびの教科書』の先行公開です。2020年8月13日に公開しました。