デザイナー/小説家の池田明季哉さんによる連載『“kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回はミニ四駆についての論考第4回です。
「レッツ&ゴー」シリーズで描かれた少年たちの「成熟」忌避的態度は、20世紀的な男性性至上主義への批判、そしてユーザー間のボトムアップによるコミュニティ形成がもたらす第3次ミニ四駆ブームの確立に成功しました。
しかしその一方で、「成熟」の拒否は社会との接続をも否定してしまうという新たな課題に直面しているのでした。
端的に言うとね。
バトルレースと『レッツ&ゴー』の倫理
『レッツ&ゴー』におけるミニ四駆の美学は、成熟を拒否している──この結論は、20世紀末ボーイズトイを通じて新しい成熟のイメージを発見しようとする本連載の趣旨からすると、奇妙に思えるだろう。しかしここで考えたいのは、こしたてつひろが、なぜ理想的な成熟を描けなかったのか──いや、描かなかったのか、ということだ。
その理由は、『レッツ&ゴー』シリーズにおける敵の描写によく表れている。シリーズを通じて烈や豪(あるいは烈矢や豪樹)の前に立ちはだかる敵は交代していくのだが、勝利のためならばマシンを破壊しても構わないという思想を持っている点では執拗なまでに一貫している。
こうした思想、およびこれに基づくマシンへの直接攻撃を容認するレギュレーションにはアニメ化された際に「バトルレース」という名前が与えられ、通常のレースにバトルレースを持ち込む、あるいはバトルレースそのものを主流のレギュレーションとして推進しようとする敵との緊張がドラマの軸に据えられている。敵が勝利という結果にこだわることは、重要なレース結果の不自然なまでに軽い描写と表裏一体である。『レッツ&ゴー』において、レースにおける勝利という社会的価値を通じて男性性を追求し自己を実現しようとすること──ミニ四駆と社会を接続することで「大人」を目指す営みは、暴力や破壊と深く結びついているのだ。
だから『リターンレーサーズ』において、F1レーサーとなった豪が危険なドライビングを繰り返していることは、解決されるべき重大な問題として描かれる。これはレースを扱った物語作品において、むしろ例外的な価値観といっていいだろう。勇気を持ってリスクを取り、勝利を掴もうとする精神は、それが意図的に事故を引き起こそうとする悪意あるものでない限り、肯定的に描かれることの方が多いからだ。たとえば先代の『四駆郎』だけを見ても、四駆郎たちは命がけのレースに自ら身を投じていったし、その源流たる自動車文化を象徴する源駆郎が参加していたのは、死のレースといわれる「地獄ラリー」だった。成長した四駆郎もまた、こうした過酷なレースに身を投じていったことが示唆されていた。いうなれば四駆郎たちや豪は、成熟を目指した結果、バトルレースに身を投じてしまっているのだ。
『レッツ&ゴー』は、確かに成熟を拒否している。しかしこしたてつひろがバトルレースを徹底して悪として描き、自らの生命を危険にさらし続ける豪の成熟のあり方を露悪的に描いたことは、乗り物を通じて社会と短絡した主体が引き起こす暴力を容認しないという倫理的な態度だったといっていい。ここでこしたてつひろが拒否したものは成熟そのものではなく、『四駆郎』までは引き継がれていた、20世紀の自動車文化における男性性のイメージなのだ。
ミニ四駆が「魂を持った乗り物」という中間的な存在として描かれた理由も、そこにある。自動車は、工業技術によって身体を拡張し、主体にレバレッジをかけて社会に接続する。その拡張感は、自動車を直接操作しているという感覚に支えられたものだ。こしたてつひろはミニ四駆が操作できないことを肯定的に捉え、ここに「魂」という想像力を介在させて操作を間接化することでいったん主体から切断した。そしてさらにミニ四駆をスポーツとして社会からも切断することで、主体と社会の間で機能する緩衝としての役割を与えた。
こしたてつひろの慧眼は、比喩的にいうなら、ミニ四駆が「交通事故を起こさない自動車」であることを発見した点にある。言い換えれば、進歩を目指しながらも暴力と結びつかない形で、政治的に正しく男性性を追求する可能性を、ミニ四駆という「おもちゃ」の中に見いだしたのだ。
もうひとつのトヨタ・プリウス
20世紀的な男性文化・自動車文化の批判的継承として、こしたてつひろが『レッツ&ゴー』で描いた想像力は先見的かつ重要だ。
実は自動車の文化史においてこれとちょうど相似形を描いている出来事がある。それはレオナルド・ディカプリオによるトヨタ・プリウスの再発見だ。
ディカプリオは2000年代の半ばに、他のハリウッドのスターたちが高級なスポーツカーやリムジンに乗っている中、トヨタ・プリウスを駆って颯爽とアカデミー賞の授賞式に現れた。それまで自動車は、アメリカ的な(本連載の言葉に置き換えるなら「G.I.ジョー的な」)男性性の象徴として中心的な役割を果たしていた。そしてそれゆえに、情報化の黎明を迎えたこの年代においては、工業技術が生み出す暴力のイメージをまといつつあった。そこで環境問題に高い関心を抱いていたディカプリオは、日本で生まれたハイブリッド・カーであるプリウスに、それまでの「強い自動車」に代わる「優しい自動車」という新しいかっこよさを見出したのだ。このイメージは爆発的に普及し、流行に敏感なハリウッドのセレブリティたちは、こぞってプリウスを買い求めるようになった。
この流行はプリウスの販売を大きく後押ししたといわれており、今やプリウスは確固たる文化的地位を築いている。たとえばイギリスの俳優であるエマ・ワトソンは、多額の出演料の使途をインタビューで問われた際、大学の学費を除けば最も高い買い物は「ラップトップ・コンピュータとトヨタのプリウス」であると語ったことがある。エマ・ワトソンは、性差別撲滅キャンペーン発足に際して国連に招かれスピーチを行った経験もあるフェミニストとして知られている。そのエマ・ワトソンが、コンピュータについては「ラップトップ」と一般名で答えているのに、自動車についてはわざわざ「プリウス」と固有名で答えていることは象徴的だ。多額の出演料を得たが質素倹約に努めている、という趣旨の発言において、単に自動車と答えただけでは高級なスポーツカーを購入したと受け止められかねないが、プリウスという固有名ならば20世紀的な男性性の象徴としての自動車からは切り離された穏当な印象を与えることができるという判断が見てとれる。プリウスは今や、その固有名だけで断りなしにこうしたイメージを与えられるほどの文化的な力を持っているのだ。
『レッツ&ゴー』におけるミニ四駆の美学は、21世紀におけるこうした自動車文化への批判と再定義に同期している。いや、『レッツ&ゴー』が1999年には連載を終了していたことを考えれば、ディカプリオがハイブリッド・カーを発見するのに先駆けて、こしたてつひろは──あるいは星馬豪は──ミニ四駆を発見していた。ミニ四駆という「おもちゃ」を自動車の歴史の中にあえて位置づけるのならば、タミヤ・マグナムセイバーこそが、もうひとつのトヨタ・プリウスなのだ。
ディカプリオをリードした星馬豪
しかしながらプリウスを見出したディカプリオは、特にマーティン・スコセッシ監督の映画に出演していく中で、男性性を追求することで破滅していくキャラクターを繰り返し表現していくことになる。そしてここまで論じてきたように、星馬豪も結局は新しい成熟のイメージを体現することはできなかった。
しかし第2次ミニ四駆ブームにおいて『レッツ&ゴー』が醸成したこれらの美学は、やがて第3次ミニ四駆ブームに至ってフィクションの世界を飛び出し、豊かなファンコミュニティを育むことになる。
第3次ブームは2012年にタミヤの公式全国大会ジャパンカップが復活し、このとき大人の参加枠が用意されたことからスタートしたと定義される。2018年現在でもこのブームは去っておらず、もはやミニ四駆は一種のモータースポーツとして定着したと見る向きも出てきている。
こうしたミニ四駆の定着を支えたのは、濃密なファンコミュニティの存在だ。ミニ四駆を走らせるための専用のコースを有する模型店やミニ四駆カフェのような現実空間と、あらゆる情報をユーザーがボトムアップで追加しながら整理することのできるWikipediaのような手法を持ったインターネット空間の、どちらともミニ四駆は相性がよかった。これらを両輪とすることで、極めて質の高い、スポーツマンシップに基づいた「紳士の集い」が育まれたことが、現在のミニ四駆コミュニティの隆盛を支えているといっていいだろう。
今や親子でミニ四駆を楽しむレーサーも決して少なくない。またビギナーをベテランが温かく見守りながら育てるという理想の関係が、ミニ四駆のコミュニティには生まれている。見方によっては、これは『四駆郎』的な垂直性と『レッツ&ゴー』的な水平性の統合、「親子」にして「兄弟」という関係性の実装であり、トップダウンで与えられた物語を種としてユーザーが自ら芽吹かせた、ボトムアップによる理想の成熟のひとつともいえる。
とはいえ、こうしたミニ四駆コミュニティの成熟のユートピア、スポーツマンシップに基づく紳士の集いは、自らをスポーツとして目的化し、社会から分離することによって得られたものだ。ここにはふたつの問題点がある。ひとつはコミュニティが小さな社会として機能してしまう可能性を内包していること。そしてもうひとつは、ミニ四駆が自己目的化すればするほど、現実社会に作用しなくなっていくことだ。
前者の問題は、比較的軽いものだ。ミニ四駆が結局は勝敗を競うのならば、そしてそれが男性的な成熟を担保するのならば、やがてバトルレースに接近していってしまうことは避けられない。もちろん、これは実際にマシンを破壊するような行為が横行するという意味ではない。男性性を追求する主体と主体のぶつかり合い──他の多くのスポーツ的なコミュニティに生じる軋轢や衝突がミニ四駆の世界にだけ起きないと考えるのは、さすがに楽観的すぎるように思える。しかし原理的には主体と短絡する社会が小型化しただけになってしまう可能性を無視することはできないとしても、ほとんどの場合においてはスポーツマンシップは遵守されているだろうし、運営の工夫によって設計的に秩序を保つことも現実的に十分可能だろう。
ゆえに重く受け止めるべきなのは、後者の問題だ。レオナルド・ディカプリオとプリウス、星馬豪とマグナムセイバーの関係が相似形であるならば、タミヤのミニ四駆はすでにトヨタのハイブリッドカーに匹敵する文化的インパクトを社会に与えていていいはずだ。ここまでミニ四駆の文化的達成を高く評価してきたし、その可能性についても深く信じているが、さすがに現時点でミニ四駆がハイブリッドカーと同じ影響力を持っているといっては大言壮語にすぎるだろう。
ある時点ではディカプリオとプリウスをリードしていた星馬豪とマグナムは、なぜ追い越されてしまったのだろうか。
ラリーからサーキットへ、サーキットから公道へ
端的にいえば、それはアカデミー賞授賞式にミニ四駆で乗りつけることができないからだ。
当たり前すぎると思うかもしれないが、これは笑い話ではない。『四駆郎』の時点で「模型」であったミニ四駆は、現実の乗り物と結びついていた。ミニ四駆を通じてエンジニアリングを学ぶことによって、やがて自動車に正しく乗ることができるようになるという現実的な機能を果たしていたのだ。しかし『レッツ&ゴー』において、ミニ四駆は現実の乗り物と切り離され「おもちゃ」としての地位を積極的に引き受けていく。こうして自己目的化すればするほど、ミニ四駆はその外側の世界から独立し、現実社会における機能を失っていった。命を賭けて荒野のラリーに挑まなくてよくなった代わりに、サーキットのループの中に自らを閉じ、公道から遠ざかっていったのだ。
確かにバトルレースを拒否するスポーツマンシップに守られたユートピアは、個人の生を意味づけるレベルでは充分以上に機能するだろう。それを拡大していくことで、ゆっくりと、しかし着実に、世界を変えることができるのかもしれない。しかしミニ四駆という表象に宿るさらなる可能性について、ここでは考えてみたい。
先ほどミニ四駆のコミュニティを、スポーツマンシップに基づくユートピアであると表現した。そもそも近代におけるスポーツマンシップとは、政治性と技術の結託による暴力の氾濫に対抗するために、社会から独立したスポーツの世界に倫理を成立させ、その美学をもって再び社会に倫理を取り戻そうとする運動だったともいえる。スポーツマンシップとはいうなれば、まさにバトルレースを退けるために作り出された概念なのだ。
ミニ四駆は独自の美学を、スポーツの世界に完成させた。『レッツ&ゴー』の倫理とスポーツマンシップの原義に則れば、次に考えるべきなのは、その美学を再び社会に接続することだ。より具体的にいうならば、おもちゃの美学を適用した、現実の乗り物を考えることだ。
ここまでくれば、立てるべき問いは明らかだ。「魂を持った乗り物」の社会的実装は可能なのか。主体と社会の中間にあって、双方と一定の距離を保てる乗り物とはなにか。不完全な主体を、交通事故を起こさずに社会に接続する乗り物はありうるのか。自動車を引き写したおもちゃではなく、おもちゃから生まれる自動車のデザインとはどのようなものだろうか。
工業化社会が極相を迎えた20世紀末において『レッツ&ゴー』は正しい問いを立てながら、そのイメージを描くことには成功しなかった。しかし、情報化社会がいまだ猛烈な進展を続ける21世紀初頭を生きる我々は、その可能性を持った存在を知っている。人間を乗せて実社会を物理的に移動しながら、かつ交通事故を起こさない存在。それは、自動運転車だ。
(続く)
この記事は、PLANETSのメルマガで2018年11月6日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年6月7日に公開しました。
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