デザイナー/小説家の池田明季哉さんが20世紀末のボーイズトイデザインを振り返る連載「“kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝」。
前回に引き続き、ビーダマンシリーズのデザインに宿る想像力を分析していきます。人間にとっての道具に過ぎなかったシリーズ初期のイメージは、その身体に人格が付与されていった「爆外伝」シリーズにおいてどのような変化を受けたのでしょうか?
端的に言うとね。
『爆球連発!!スーパービーダマン』(以下『スーパービーダマン』)において、道具と人格の両義性を持つビーダマンというキャラクターは銃器のデザインと結びつき、不屈のフィジカルによって倫理を貫徹しようとするタマゴと、「軍人」あるいは「殺し屋」を彷彿とさせる20世紀的な男性の美学の体現者であるガンマというふたりのヒーローを生み出した。そしてその物語を通じて、ビー玉を発射する一種の銃器であるビーダマンがはらむ暴力を、倫理によって治める展開が描かれることになった。
実はタマゴが得意とした「締め打ち」は、現実世界のビーダマンの玩具において大きな問題を引き起こしている。主人公であるタマゴの機体「フェニックス」シリーズは、パワーを重視しているという設定もあり、ビー玉発射の威力を増す方針で開発されていった。しかしプレイヤーの無茶な締め打ちによって撃ち出された硬く重いビー玉は、競技中にプレイヤーが怪我をする事態を引き起こすようになってしまう。とはいえビー玉の速度を限定することは、カスタマイズの要素を減らすことに繋がり、個性とプレイバリューを大きく損なうことになる。
そのため以降のビーダマンは、パワーをどのように制御していくかを設計段階で考慮する必要に迫られていく。締め打ちを構造上不可能にしたり、地面に設置しなければ発射できないような一種のセーフティを組み込むことで、安全性を向上する工夫を余儀なくされていく。劇中で人間に向けてビー玉を撃つマダラがタマゴによって諌められるという物語は、相当に切実なものであったことは付記しておきたい。
「人」の形をした「道具」
『スーパービーダマン』において興味深いのは、ビーダマンに人格や魂を感じさせる描写がほとんどない点だ。初期にこそ、タマゴにとってビーダマンが「友達」であるという発言があるし、仮想空間内でビーダマンと一体化するというイベントも存在するのだが、以降ビーダマンは「道具」としての側面を強くしていく。
このことは『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』(以下『レッツ&ゴー』)において、豪がマグナムに魂を見出し、マグナムが豪の叫びに応えることと対照的だ。ミニ四駆とビーダマンは、自動車と銃というアメリカ的な表象を象った同時代のカスタムホビー玩具という非常に似た位置づけながら、この点において決定的に異なっている。
このことは、デザインという観点から見れば、実に奇妙に思える。というのも、ミニ四駆が自動車という乗り物をベースにそのデザインを発展させたのに対して、ビーダマンは自律的に行動するロボットであったボンバーマンのデザインを基礎としている。あくまで「乗り物である」ということにこだわり機能的には必要ないコックピットにこだわったミニ四駆がむしろ魂を宿し、目があり瞳がある人型ロボットの形をデザインに残したビーダマンの方がプレイヤーの道具に徹した、という事実は、デザインとそこに宿る想像力が逆転している。
この興味深い逆転は、玩具としての性質の違いに根ざしている。ミニ四駆はいったん手を離してしまえば、直接操作することはできない。ミニ四駆が魂の器たりえたのは、この特徴によるものであることはすでに論じたとおりである。一方、ビーダマンはあくまでプレイヤーが直接ビーダマンを操作し、トリガーを引いてビー玉を発射する。そこにはミニ四駆にあるような間接性が入り込む余地はなく、すべての結果はプレイヤーの操作と直接結びつき、身体の延長となる。ミニ四駆が「魂を持った乗り物」としての想像力を宿し、ビーダマンが「軍人」の美学にこだわったのは、そのインターフェースデザインによる必然といっていいだろう。
後に『スーパービーダマン』の系譜は、威力を減衰させて直接打ち合う対戦形式を採用した2002年〜2005年の「バトルビーダマン」、タワーを破壊する間接競技へと切り替えグリップとトリガーを設けてより銃器に近いデザインとなった2005年〜2007年の「クラッシュビーダマン」へと受け継がれていく。やがて2011年〜2013年の「クロスファイト ビーダマン」では、キャラクター性を全面に押し出し基本的にすべてのビーダマンが人格を持ち会話する設定を取り入れた。これはスーパービーダマンの系譜が宿した想像力からは例外的と言えるもので、おそらくは他の玩具シリーズなどからさまざまな影響を受けている点で大変興味深いが、逆に言えばスーパービーダマンは顔を持ったそのデザインにもかかわらず、魂(を持つ人格)を宿すまで、誕生から10年以上の歳月がかかったと考えることもできるだろう。
「爆外伝」が描いたボンバーマンしかいない世界
ボンバーマンというキャラクターが持つ両義性のうち、機械であるという点は競技に注力したスーパービーダマンの系譜において強調されていった。一方、人格を持つ点について拡張し、一種のアクションフィギュアとして発展していったのが、もうひとつのビーダマンの系譜「爆外伝」シリーズだ。
もともと1993年〜1995年に展開されていた「スーパーボンバーマン」シリーズの時点では、競技性とフィギュア性の区別はなく、むしろフィギュアを用いて競技も行えるという両義性がセールスポイントであったといってよいだろう。この段階で、ビー玉の発射機能に関わらない鎧を着せた「メイル」、さらにビーダマンが乗り込む人型ロボットである「アーマー」がラインナップされていた。これらの人気から、ストーリー性を強化したシリーズとして1995年に登場したのが「ビーダマン ボンバーマン爆外伝」だ。
「爆外伝」という名称は、「ボンバーマン」の物語に対しての「外伝」という意味合いが持たされており、競技性を強調した「スーパービーダマン」シリーズがそのタイトルから「ボンバーマン」の言葉を落としたことと比較しても、ストーリー性を強調したシリーズであることが察せられる。この「ボンバーマン爆外伝」からは物語が記載されるようになるが、登場するビーダマンたちは完全に人格を持ったキャラクターとして扱われ、スーパービーダマンのようなプレイヤーとしての人間は一切登場しなくなる。
「ウィンダムメイル」は鎧か人か、はたまた機械か
1993年〜1995年の初期展開でラインナップされていた「メイル」は、ボンバーマンの着込んだ鎧を動物や幻獣の姿に組み替えることができるというものであった。これは1980年代の漫画・アニメ作品『聖闘士星矢』を原作とし、人気を博した玩具シリーズ「聖闘士聖衣大系(セイントクロスシリーズ)」に端を発する、いわゆる「クロス玩具」の影響があるものと見ていいだろう。一方、人型ロボットである「アーマー」についてはSF色が強く、ガンダムを代表とする80年代SFメカデザインの影響を見て取ることができる。物語については「ドラゴンクエスト」シリーズや「ファイナルファンタジー」シリーズといったファンタジーRPGの世界観に近く、80年代以降の流行を貪欲に取り込んでいく姿勢が伺える。
こうした多様な想像力の結節点となった初期の傑作が「ウィンダムメイル」だ。基本的な構造を同一にしながら微妙に形状の違う「ハリケーンボンバーメイル」「トルネードボンバーメイル」「サイクロンボンバーメイル」の三種がラインナップされた。
ウィンダムメイルはその名称通り、基本的にはビーダマンが着込む鎧を拡張したものだ。しかしさまざまな想像力が導入された結果、非常に複合的で多義的なデザインになっている。
実際の商品はメイルよりも大型で、ビーダマンのプロポーションが二頭身であるのに対し、三等身程度となっている。どちらかといえば乗り込むといった性質が強いが、ビーダマンが着込む「鎧」という位置づけにこだわったデザインがなされている。これは腕部のデザインに象徴される。大型の腕部パーツは鎧に接続されるのではなく、鎧を着込んだ(あるいは搭乗した)ボンバーマンの手部分に装着し、鎧の内側から手が伸びているような構造となっている。
腹部は開口しており背部のパーツを介して内部のビーダマンのビー玉を発射できるほか、足の間に設置されたヒットポイントにビー玉を当てるとビーダマンが飛び出すギミックも備えており、競技性に対する目配せも感じられる。また足裏に車輪を備え走行し、本体に装備可能な盾、剣、弓といった武器が付属している。
まず興味深いのは、名前や位置づけはメイルでありながら、SF的な意匠が取り入れられている点だ。全体のシルエットそのものはメイルシリーズとデザイン方針が共通しているが、ステッカーによって表現されているラインや背面バックパックの形状からいって、これがなんらかの機械であるという認識が作り手にあったことはまず間違いがない。こうしたデザインは、「アーマー」と名付けられたロボット/乗り物のラインに用いられていたものに近い。
ちなみに英語における単語〈Armour〉は、それ単体で〈装甲された乗り物〉を意味することができる。80年代のリアル路線のロボットアニメ『太陽の牙ダグラム』では、これを踏まえて劇中の人型兵器が「コンバットアーマー」と名付けられていた。キャノピーを印象的に用いたデザインが共通している、と考えるのはさすがに牽強付会であるかもしれないが、「アーマー」という単語には、当時の時点で「人型の乗り物」あるいは「乗り物の意味合いが強いロボット」という意味合いが備わっていたことは言及しておきたい。
ともあれ、これ以前のメイルにおいては未来的なテクノロジーの意匠は少なくとも明確には取り入れられておらず、むしろ「聖闘士聖衣大系」などを参考にしたファンタジックな要素が強かった。商品仕様的にもメイルとアーマーを総合する意図があったと見ていいだろう。
ウィンダムメイルには、もうひとつ重要なギミックが搭載されている。それはビーダマンを取り外した状態で、顔を持った「魔神」と呼ばれる状態になることだ。物語においてはこれは神秘的な色合いを持った古代の神像として描かれており、意志を持ってボンバーマンに語りかけてくる。そしてボンバーマンがこの魔神を着込む、あるいは乗り込むことは「合体」と表現されている。
玩具文化において「合体」というのは独特のニュアンスを持つ用語で「複数のロボットあるいはマシンが一体になることで強化される」という意味合いが強い。つまりボンバーマンのキャラクターとしての側面を全面に押し出してきた「爆外伝」は、ここにきて機械としての側面を先祖返り的に導入し、当初の両義性を復活させたことになる。
こうした両義性は、奇妙なことにファンタジーRPGの影響が強い文芸面とのミスマッチを引き起こしている。古代の神像がこうしたロボットめいたデザインを持っているのは考えてみれば不思議なことだが、これに対する明確な説明は確認できなかった。単にデザイン担当と文芸担当の認識に齟齬があった可能性も否定しないが、結果としてタイムトラベルや滅亡した過去の超文明といったSFのクリシェを想起させる奥深いものになっているかもしれない。
これらの点に注目すれば、ウィンダムメイルにおける魔神は、この連載で追いかけてきた「魂を持った乗り物」の一種といっても差し支えないだろう。ただしこれが変形した時点で搭乗者を弾き出すトランスフォーマーや、そもそも搭乗どころか直接操作することもできないミニ四駆と異なるのは「乗り物」であると同時に「鎧」でもあるという点だ。
このような想像力を可能にしたのは、ひとえにボンバーマンというキャラクターの持つ両義性だ。つまり、トランスフォーマーやミニ四駆、スーパービーダマンにおいては、主体はあくまで人間であり、テクノロジーは移入の対象ではあるものの直接的には客体であった。しかしボンバーマンは主体を持った人間であると同時にテクノロジーによるロボットでもあるわけだから、主体を直接テクノロジーによって拡張することが可能になる。これはむしろ、この連載で世紀末ボーイズトイの想像力の源流に置いた変身サイボーグに近い想像力といえる。
ボンバーマンから人間性を奪う「炎の魔神」
こうしたデザインと合体という想像力が取り入れられたことは、その後の爆外伝のデザインに大きな影響を与えていくことになる。
「ビーダマン ボンバーマン爆外伝」の続編となる「ボンバーマン爆外伝II」は、ボンバーマンにおけるロボット性を前提にした合体の想像力を全面に展開したシリーズと捉えてよいだろう。物語的には主人公となり、商品展開的にも他アイテムと連動することで主軸となる「炎のメイル」は、「レオボンバーメイル」を装着する「しろボン」、「シャークボンバーメイル」を装着する「きいろボン」、「イーグルボンバーメイル」を装着する「あかボン」の三体のボンバーマンが「合体」することで「炎の魔神」となる、衝撃的な機能を持ったアイテムだ。
これがなぜ衝撃的なのか。ウィンダムメイルの段階では、あくまで魔神は神像という設定でその自我は曖昧なものであったが、炎のメイルでは完全に対等なボンバーマンたちが合体することになる。玩具としてはしろボンを中心にしてきいろボンとあかボンが脚部を形成するのだが、この二体の顔は隠され、完全にパーツとして扱われる。もはやボンバーマンの人格は捨象され、その身体のみが部品としてしろボンの一部となってしまう。
玩具のデザインとしては、しろボンの顔がそのまま炎の魔神の顔となりビー玉発射機能を保持していること、そして合体の過程できいろボンとあかボンのビー玉を外さなくてはならないことには注目しておきたい。スーパービーダマンにおいて、ビー玉を発射するというユーザーの直接的操作が、結果としてビーダマンに自我を持たせなかったことはすでに確認した。炎の魔神の脚部となる二体のビーダマンが顔を隠され、ビー玉を発射する機能が奪われていることは、これらのボンバーマンが合体状態で意識を失う、主体として機能しなくなることを表現していると見たい。
とはいえ、実はボンバーマンを完全なるロボットと見なせば、この扱いはさほど新しいわけではない。人格を持ったロボット同士が合体し主体がひとつに統合されるという想像力は、1980年代におけるトランスフォーマーの合体戦士や、1991年にスタートした『勇者エクスカイザー』からはじまる勇者シリーズを引き継いだと素朴に考えていいだろう。
しかし何度も強調するように、ユニークなのはボンバーマンが「人間」でもあることだ。トランスフォーマーや勇者シリーズが、生身の人間(地球人)と人格を持ったロボット(宇宙の機械生命体)をほぼ完全に区別しているのに対して、「爆外伝」ではボンバーマンという存在だけがその世界における唯一の「人間」として登場する。この視点から読み替えれば、炎の魔神のデザインは、人格を持った人間を、別の人間が身体の一部として行使しているともいえる。
この連載では、変身サイボーグの身体に埋め込まれていたテクノロジーが徐々に分離し別の主体を獲得していく過程のなかに、トランスフォーマーとミニ四駆を位置づけてきた。その視点からこの炎の魔神のデザインを確認しよう。炎の魔神は、ボンバーマンの持っていた「機械」と「人間」の両義性を基礎としており、これは先述のように変身サイボーグにも通じるものである。しかしトランスフォーマーやミニ四駆における「機械」があくまで「人間」とは切り離された非対称的な存在であるのに対して、炎の魔神の登場は、その「機械」がとうとう「人間」と完全に対称の存在、それどころか交換可能な存在になった瞬間なのだ。
これは次のように整理し直すことができる。炎の魔神の想像力においては、人間と機械という要素は分離不可能で、ひとつの存在のなかに同居している。すなわち、たとえそれが人間であっても機械=客体=主体の拡張として扱うことが可能になるし、逆に機械にも人間=主体を認めるということになる。トランスフォーマーとミニ四駆に人工知能が人間を支援する未来の想像力を見出したが、この「炎の魔神」はその先を行っている。ここではある主体がなにかの目的を遂行する状況において、それを拡張し支援するのが人間であるか機械であるかという区別はまったく失われているのだ。人間の主体そのものを尊重するのではなく、あくまで人間の能力を問題解決の手段として扱い、「天然知能」も「人工知能」も同じ「知能」としてフラットに扱う態度さえ、ここには見て取ることができる。
神の似姿としての人間に特権的な地位を与えるキリスト教的な世界観からは、もしかしたらこの想像力は出てこなかったかもしれない。ある個人が他人の身体を収奪し、自らの身体の拡張として主体を封印し完全な手段として扱うというこの想像力は、西洋近代的な主体概念からすればほとんど暴力だといっていい。『スーパービーダマン』がビー玉という「銃器」のはらむ暴力を競技のルールによって上書きすることで倫理的な態度を保とうとしたこととは、まったく異なる想像力がここでは発揮されている。
これが暴力的な隷属ではなく倫理を持った「かっこよさ」として成立している理由はふたつある。ひとつはしろボンときいろボン・あかボンがおもちゃとしてはまったくの同型で、完全に互換可能であることだ。ユーザーの立場からすれば、きいろボンを中心にしてしろボンとあかボンの身体を脚部として従属させることも可能であるし、同様にあかボンを中心にすることもできる。さらに言えば、ギミックはメイルの側にあるのであって、同シリーズのボンバーマンからどのような三名を選抜してもよい。これは物語のなかでは描かれなかったものの、玩具の仕様上、これはしろボンに与えられた特権ではなく、状況に応じて常に交換可能であることは見逃せない。
もうひとつ重要なのは、ビー玉の扱いだ。きいろボンとあかボンから抜き取ったビー玉は「炎の魔神」の肩部に目立つ形で掲げられる。「スーパービーダマン」の想像力まで含めて考えれば、ビーダマンにとってトリガーを押してビー玉を発射するという機能は主体の象徴と見なすことができるだろう。ビーダマンの中核をなす、魂としてのビー玉を身体から抜き取りながら、余剰として扱うのではなく、両肩にあたかも宝玉のように掲げること。人間と機械を融合させ、「顔=人格」をなくしながらも、そこに「ビー玉=魂」を認めて尊重すること。「魂を持った乗り物」という想像力は、ここで人間と乗り物を区別しないひとつの極点を迎えたといってよいのではないだろうか。
アニメーションに飲み込まれ「本伝」となった「爆外伝」
このあとに展開された「爆外伝」の系譜におけるデザインの変遷も、念のため確認しておこう。「ボンバーマン爆外伝II」では、炎の魔神と同様の形式を持つ「水の魔神」がバリエーションとしてラインナップされた。ここではしろボンとライバル関係にある「くろボン」がその中心として起用され、「炎の魔神」と「水の魔神」は、同様のシステムを持つゆえに拮抗しうる存在として位置付けられている。これは「みずいろボン」が「ユニコーンボンバーローダー」をまとって「風の魔神」を完成させる「風のローダー」、「みどりボン」の搭乗する「フェニックスボンバーローダー」と「きみどりボン」の登場する「モールボンバーローダー」が合体して「地の魔神」を構成する「地のローダー」と比較するとわかりやすい。これら「ローダー」は、動物をモチーフにしておりデザイン的にも動物として顔の意匠を持ってはいるものの、当然ボンバーマンほどの明確な自我を持たない。ドラゴン型のロボットがボンバーマンと合体する「光のアーマー」「闇のアーマー」も同様である。三人のボンバーマンが合体する火の魔神と水の魔神が物語の中心に据えられていることは強調しておきたい。
1997年の「Bビーダマン爆外伝III」はSF色を全面的に展開し、帝国と反乱軍の間に勃発した星間戦争を描いたシリーズだ。ボンバーマンを模したロボット「ボンバーファイター」に、ビー玉の代わりにBB弾を発射可能な「Bビーダマン」と呼ばれるパイロットを搭乗させる形式となった。ボンバーファイターでは、ボンバーマンにおいて顔に相当する部分がクリアパーツを使用したキャノピーとなっており、内部に搭乗したBビーダマンが見えるようになっている。これは搭乗式のギミックを強調する意味で実に効果的なデザインではあるものの、想像力において純粋な「乗り物」以上の意味を持つことはなかった。
続く1998年の4作目は、アニメ作品『Bビーダマン爆外伝』として展開し、設定上は「Bビーダマン爆外伝III」の1000年後を描いている。こちらも同様にBビーダマンを「ビーダアーマー」と呼ばれるロボットに搭乗させる形式であるが、ロボット側はビー玉発射機能は残しつつもボンバーマンとはかけ離れたデザインになっており、やはり純粋な乗り物となっている。ただしキャノピーから搭乗者を伺えるのは「ライドモード」と呼ばれる移動形態のみで、人型の「アーマーモード」においてはロボット独自の顔が用意されていることは付記しておきたい。ボンバーファイターが搭乗者に主体があることが強調されるある意味でアメリカ的なデザインであるのに対して、ビーダアーマーはマジンガーZに端を発する日本的ロボットの色合いがより濃くなっているといえる。ビーダアーマーにおけるコクピットブロックが球形をしておりビー玉を思わせることは、ビー玉を主体と魂の比喩として考える立場からは興味深いが、おおむね日本的搭乗型ロボットの想像力の範疇に収まっているとしてよいものだと思う。
1999年の『Bビーダマン爆外伝V』も同様にアニメと商品とが連携しており、ビーダアーマーのデザインおよびビー玉の発射機構に多様なバリエーションを持たせることで、より個々のキャラクターを引き立たせている。特筆すべきは搭乗システムの変化で、ビー玉・BB弾の発射能力を持たないフィギュアが変形してビーダアーマーの頭部として合体する、トランスフォーマーの「ヘッドマスターズ」シリーズなどを思わせる形式が採用されていることだ。
ボンバーマンの顔がそのままロボットの顔になっていたウィンダムメイルや炎の魔神と比較すると、こちらではロボットに合体する際にロボット独自の顔が展開することが特徴的である。これは身体を拡張する想像力をより直接的に表現しているが、主体という切り口からは前シリーズのような搭乗式ロボットと大きく変わらない。大きなひさしを持ったヘルメット状の頭部、五角形ないし六角形で表現される目、大きな顎など、ガンダムを強く意識した意匠が見て取れること、また4体のビーダアーマーが合体する最終アイテム「ビーダキャリバー」がそれまでと比べて格段に高い頭身を持っていたことも、このことを裏付けているといっていいだろう。
まとめると、ビーダマンは「魔神」というかたちでボンバーマンというキャラクターの両義性を最大限に活かしたユニークな想像力を発揮した。この連載では、アニメーションを中心にした日本サブカルチャー史からは見えにくい、おもちゃ独自の想像力を追ってきた。しかし「爆外伝」シリーズがやがてアニメーションと結託することでその独自の想像力を後退させ、アニメ的な想像力のなかに回収されていったのは、ある意味で皮肉といえるかもしれない。
(続く)
この記事は、PLANETSのメルマガで2019年6月20日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年9月27日に公開しました。
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