トランスフォーマーの心はどこにあるのか

 1987年から、トランスフォーマーの展開は一気に複雑化する。『2010』のアニメーションが終了したことによって、アメリカ展開と日本展開で独立したメディア展開が行われたためだ。アメリカではアニメーション『ザ・リバース』を経て後にマーベル・コミックスが物語を担当し、日本では独自に制作されたアニメーション『ザ☆ヘッドマスターズ』が物語の中心を担うことになる。とはいえ展開している玩具そのものは同一であるため、ひとつの玩具デザインに対して、アメリカと日本でふたつの物語的な解釈が存在する、奇妙な状態になっている。
 この解釈の差はたいへん興味深い。ここではそれぞれの文化がトランスフォーマーに対してどのような解釈をもって理想の身体を見出したのかを考えていきたい。
 まずは共通する玩具のデザインについて確認しよう。「ヘッドマスター」と呼ばれるカテゴリの商品は、大きくふたつのパートからなる。すなわち大型ロボットの頭部に変形する小型ロボット「ヘッドマスター(カテゴリと同名)」と、大型ロボットの胴体に変形するマシン「トランステクター」だ。ふたつが合体(ヘッドオン)してひとつの大型ロボットを構成するほか、マシン形態になったトランステクターには、ヘッドマスターを搭乗させることができる。
 ヘッドマスターとトランステクターの接続部は基本的に共通の規格で作られており、交換することができる(クロスヘッドオン)。トランステクターの胸部パネルを開けば「SPD(speed)」「STR(strength)」「INT(intelligence)」と表示されたメーターがあり、これはロボット(人格があるのでキャラクターだが)の性能を示している。

▲ヘッドマスターズの中心キャラクターのひとり、クロームドーム。小ロボットが頭部に、スポーツカーが胴体に変形、合体する。(出典:『トランスフォーマージェネレーション デラックス ザ・リバース:35周年記念バージョン』(メディアボーイ)P24)

 日本版の物語においては、小型ロボットであるヘッドマスターに意志の本体があり、それがトランステクターという乗り物に合体することによって力を発揮する、という構図になっている。大型ロボットへの変形前は、ヘッドマスターという乗り手がトランステクターという乗り物に搭乗するかたちになっていた。頭部に主体を置き、胴体はそれに追従する存在としたこの日本版の設定は、頭という部位を乗り手、胴体という部位を乗り物として解釈したと理解できるだろう。

▲日本版アニメーションに準拠するヘッドマスターの概念図。(出典:『決定版 トランスフォーマーパーフェクト超百科 』(テレビマガジンデラックス)P40)

 一方、海外版アニメーションの設定はやや入り組んでいる。まずヘッドマスターは、頭と胴体が一体となった通常のトランスフォーマーとして登場する。しかし敵と戦う過程で、人間と同サイズの異星人「ネビュロン人」のアドバイスが必要になる。そこでヘッドマスターたちは、頭にあった記憶を胴体にコピーし、胴体のみで活動可能な状態となる。その上でスーツを着たネビュロン人が頭部に変形し、胴体に合体するのである。当然、頭部にはネビュロン人の意志があり、胴体には従来のトランスフォーマーの意志があることになる。映像作品の中では、頭部にいるネビュロン人の助言を受けながら、胴体が戦闘を行う、というような描写になっている。
 一方、マーベルのコミックス版もこれと近い構造で、トランスフォーマーたちは信頼の証として自ら頭部をもぎ取り、改造を受けたネビュロン人がその位置に収まるというような描かれ方になっている。主体については基本的に頭部となったネビュロン人側にあるように思われるが、本来の頭部もボディとリンクがあるようであり、主体の位置についてはやや曖昧である。

▲マーベル版の描写。信頼を得るために自ら頭をもぎ取る姿はショッキングなものとして描かれており、カバーにも使われている。(出典:『トランスフォーマークラシックススペシャル:ヘッドマスターズ』(メディアボーイ)P4, P26)

 こうして比べてみると、興味深い差が明らかになる。日本版は「頭部になる小型ロボット」を、「胴体になるマシン」が「拡張」すると考えている。逆に海外版の設定は、アニメーション版もコミックス版も、トランスフォーマーの身体を「頭」と「胴体」に「分割」すると考えている。
 なぜこのような差が起きるのだろうか。

 これまでの議論を踏まえて結論を先にいえば、それは日本的な機械の身体への想像力がサイボーグ的な拡張の感覚を持っており、アメリカ的な想像力があくまで人間に単位を置いているからだ。
 大まかに「人間は神によって創られた」というのが、いわゆる西洋の基本的な人間観である。こうした感覚がベースにある以上、西洋的な文化圏においては「人間の肉体」に単位に置かれる傾向が強い。特にアメリカにおけるマスキュリニティでは、「完全な精神が最強の肉体を駆動する」という美学があることはすでに述べた。トランスフォーマーもまた、こうした美学と結びついて、というよりこうしたアメリカ的美学に日本的美学を適合させることで発展してきた。
 こう考えると、「頭」が「自分のものではない胴体」に接続され、あまつさえ胴体は交換可能である、という世界観は、アメリカン・マスキュリニティの感覚からは受け入れがたいものであったのだろうと思わされる。
 もちろん、当時のスタッフがどのような意図をもってこのような設定を与えたのかは証言もほとんどなく、必ずしも明らかではない。しかし「頭と体が別の存在である」ということに対して、日本版のほうがこれをすんなりと受け入れており、海外版のほうが苦心し工夫している、といってさほど無理はないだろう。
 「自分のものではない身体」に対して主体を接続していくこの日本的想像力は、変身サイボーグ以来ずっと発展してきたものだ。「ヘッドマスター」とはまさに身体を支配する主体であり、そして「トランステクター」とは変形可能なプロテクター、すなわち衣服である。トランステクターの表現する身体は衣服のように交換可能であり、主体と身体が不可分に結びつくアメリカ的主体概念とは、やはり一線を画する。
 ヘッドマスターの解釈の差は、おもちゃによる遊びを考える上で、たいへん興味深いケースだ。プロダクトそのものがまったく同じでも、いやむしろ同じだからこそ、その遊ばれ方、そこに見いだされる想像力が、文化的背景によって異なることが際立ってくる。これは玩具というプロダクト先行のメディアならではのダイナミズムだと言えるだろう。

超巨大要塞、フォートレスマキシマス

 こうした「頭」が「自分のものではない胴体」に接続される想像力は、やがてひとつの極点に至る。その極点こそが、『ザ☆ヘッドマスターズ』におけるリーダー、フォートレスマキシマスだ。
 このフォートレスマキシマスも同じくヘッドマスターであるが、二段階に合体する特殊な存在である。
 順を追って説明しよう。まず小ロボット「セレブロス」は、他のヘッドマスター同様にトランステクターと合体し「フォートレス」というトランスフォーマーとなる。そしてこのフォートレスというトランスフォーマーがさらに頭部になり、巨大なトランステクターと合体することで「フォートレスマキシマス」となる。フォートレスマキシマスはロボットを含めて3種類の形態を持つ事実上のトリプルチェンジャーであるのだが、乗り物である宇宙戦艦に加えて、「都市」にも変形する点が特徴的である。
 玩具においても、フォートレスマキシマスは超巨大なトランスフォーマーで、その全長は50cm以上、総重量は1kgを超える。フォートレスマキシマスは、そのボリュームを活かして、他のトランスフォーマーと関連させて遊ぶことができる「基地」として設計されているのだ。
 「宇宙戦艦」「要塞」そして「都市」という言葉の結びつきからは、1982年のアニメーション作品『超時空要塞マクロス』を思い起こすことができる。『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』に続くこの作品が描いた「超巨大戦艦の中に存在するコロニー的都市」の想像力も部分的に引用されたかもしれない。トランスフォーマーのデザインにはメカデザインの分野で大きな役割を果たしたスタジオぬえが大きな影響を与えるのだが、ここではその名前に言及するに留める。
 トランスフォーマーと「都市」のモチーフについてはフォートレスマキシマスが初出ではないことについても確認しておきたい。先行してリリースされていたメトロフレックスというトランスフォーマーは、前回言及したスクランブル合体シリーズを含む「スクランブルシティ計画」の中核となる「都市」の役割を与えられている。
 フォートレスマキシマスはこの発展系に位置づけられる。開発段階のスケッチなどを見る限り、玩具のコンセプトとしては他のトランスフォーマーなどを搭載して遊ぶことが想定されており、ヘッドマスターギミックの合流や「都市」のモチーフは後から導入されたようである。しかしここでは、このヘッドマスターと「都市」の組み合わせが、結果としてユニークな想像力の器となったと考えてみたい。

▲フォートレスマキシマス。発売時点でトランスフォーマー史上最大のアイテムだった。ロボットモード、都市モード、要塞モードを持つ。(出典:『トランスフォーマージェネレーション デラックス ザ・リバース:35周年記念バージョン 』(メディアボーイ)P24)


▲日本展開に準拠するフォートレスマキシマスの設定。「戦艦」「シティ」という言葉が使われている。(出典:『 決定版 トランスフォーマーパーフェクト超百科 』(テレビマガジンデラックス)P42)

戦後日本における究極の身体

 ヘッドマスターという「頭」が、自動車をはじめとした乗り物が変形する「体」に接続されることで、はじめて一体のトランスフォーマーとして完成すること、そしてこれが「主体」と「その拡張」に対応している見方はすでに示した。これに照らせば、フォートレスマキシマスにおいて「頭」が接続される「都市」は、主体の拡張として──すなわち「乗り物」として捉えることができるだろう。
 「乗り物」を拡張した先に「都市」がある、というのは、一見突飛な捉え方に思えるかもしれない。ところが間にいくつかの要素を置くことで、このふたつはなめらかに接続することができる。
 まずはフォートレスマキシマスのもうひとつの形態が「戦艦」という「乗り物」であることの意味を確認しておこう。連載の初期に、G.I.ジョーのフラッグシップに(実にアメリカらしいサイズの)空母の商品があったことを指摘し、主体を拡張していくという意味で、乗り物が軍隊という組織へと拡大していく想像力を見出した。むろん、戦艦と空母はまったく異なる兵器であるし、フォートレスマキシマスは巨大な砲を備えた戦艦然としたデザインではあるのだが(むしろ長い甲板を備えたメトロフレックスのほうが空母的である)、他のトランスフォーマーを運用するプラットフォームとして機能するという点において、このふたつの玩具的想像力を共通したものとして考えることにさほど無理はないだろう。
 ところが敗戦を経た日本において、「軍隊」をストレートに「かっこいいもの」として描くことはほとんど不可能だった。特に軍隊という組織を、主体である「頭」を拡張する「体」として捉えるイメージは、第二次世界大戦における失敗にそのまま結びついてしまう。身体の拡張として組織を捉えた延長にある戦艦や空母を、それだけで「かっこいいもの」として成立させることは難しかったと思われる。
 では、戦後日本においてこうした回路を肯定できるようなイメージはあったのか。そのヒントになるのが「自動車」だ。
 アメリカン・マスキュリニティにおける自動車という存在が極めて重要であったことはすでに指摘したが、日本においてもまた違った意味での存在感を持っていた。いわゆる「マイカー」と呼ばれる自動車の所有は、「マイホーム」という言葉に象徴されるように、家の所有とも並んで称される存在で、家族という想像力とも深く結びついていた。戦後日本の男性性において、自動車は単なる工業製品である以上に、家族という単位をひとつの「乗り物」に搭載し、そのドライバーたる自身を「リーダー=主体」として肯定してくれる存在であったはずだ。
 そして自動車は、戦後日本にとっても、単なる産業以上の深い意味を持っている。
 戦争の勝利という目的が裏切られた後、日本は技術立国としての経済発展を目指すことになった。その中心となり日本の高度経済成長を支えたのは、戦後の大企業たちであった。こうした大企業は一種の家族的メンバーシップの美学によってひとつにまとめあげられ、日本の工業技術の発展に大きく寄与することになった。
 こうした状況において、日本的な男性性が企業の中で発揮されるようになっていった。自動車に搭載された小さな「家族」という単位は、さらに大きな「企業」という「乗り物」に搭載されることで拡張し巨大化していく。こう考えればアメリカで「軍隊」が担っていた美学が、日本においては「企業」によって担われるようになったといえるのではないだろうか。
 そしてこうした「企業」とそのメンバーシップによる拡張がさらに巨大化した先には「都市」が立ち現れてくる。「企業城下町」という言葉に象徴されるように、日本の自動車産業の発展とともに、企業活動は都市へと拡大していったことはよく知られる。トヨタ社と豊田市はその代表例であろう。
 身体を拡張する自動車、そこに乗り込む家族、軍隊に代わる企業、そして生活の場としての都市──フォートレスマキシマスの内包するイメージは、「乗り物」というキーワードから見れば、戦後日本における男性性とその拡張をきわめてよく表している。
 「戦争は間違っていた」──たとえ敗戦を経て軍隊の美学が徹底的に破壊されたとしても、必ずしもその美学の構造が間違っていたわけではない。筆者はフォートレスマキシマスに宿った想像力の中に、平和において新たな目的と自らの戦うべき場所を見出す、そんな20世紀末の日本男性文化の屈託を見たい。
 ひとつ付記しておきたいのは、フォートレスマキシマスのキャラクターだ。海外版におけるフォートレスマスは、特にマーベル版で顕著なのだが、基本的にはそれまでのオプティマス・プライムらと変わらない「強いリーダー」として描かれている。しかし『ザ☆ヘッドマスターズ』におけるフォートレスマキシマスは、「体」を使役する「頭」としてのアメリカ的でハードなリーダーシップを持つようにはあまり描かれていない。どちらかといえば、いつもは事態を見守り、いざというときにだけ力を発揮し味方を助ける柔らかさに焦点を当てて描かれているように思われる。
 もう一度、フォートレスマキシマスを見てみよう。アメリカ的な「戦艦」と日本的な「都市」というふたつの変形形態を持ち、そしていざというときには小さなロボットが頭部に変形、巨大なロボットとなって戦う。アメリカと日本を横断し、それをロボットという姿に結びつける──トランスフォーマーという想像力、そして日本文化が追求した理想の身体のひとつの究極形がここにある。ひとまずはそのように結論づけたい。

(了)

この記事は、PLANETSのメルマガで2021年3月24日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2022年10月13日に公開しました。
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