頭、動力、脳

「トランスフォーマー」から「勇者シリーズ」への継承を語るうえで欠かせない、『トランスフォーマー 超神マスターフォース』(1988)で提示されたジンライ/スーパージンライ/ゴッドジンライという「グレート合体」による主体の拡張の構図は、その後も引き継がれていく。

1989年に展開された『トランスフォーマーV』では、「マスターフォース(パワーマスター)」の代わりに「ブレインマスター」と呼ばれる概念が登場する。基本的な玩具の仕様そのものは、乗り物がロボットに変形、乗り込んでいた小型ロボットが合体して完成するというもので、これはヘッドマスター/パワーマスターをほぼ踏襲している。最大の差は、ヘッドマスターが頭部、パワーマスターが胸部であったのに対して、ブレインマスターは「顔」になることだ。

小型ロボットの胴体には、大型ロボットの顔が収納されている。大型ロボットの胸に小型ロボットを収納、ハッチを閉じることによって、大型ロボットの顔がスライドして登場するという仕組みになっている。表面的には顔が登場するように見えるが、空洞の頭部に変形した小型ロボットが収まる様子は、なるほど「脳」も思わせる。ヘッドマスターでは大型ロボットの顔は、小型ロボットの背中に露出したままであった。それを考えれば、大型ロボットの顔が完全に内部に収納され合体するまで隠されたままとなるブレインマスターは、玩具としてはストレートな発展型といえる。

「ブレイン」というモチーフについては確認しておきたい。前段の「マスターフォース」では、「精神」「知性」に重きを置く世界観が西洋的であり、そこに「魂」という日本的な概念を導入した点に注目した。その意味ではブレインマスターは、一見西洋的な色彩が濃く、トランスフォーマーとしては原点回帰であるようにも見える。しかしヘッドマスターにおいては海外版の設定が主体と身体の関係についてかなり工夫をこらした解釈が必要であったことを思い出しておきたい。この文脈では、ブレインマスターはむしろ「小型ロボットがビークルと合体して大型ロボットになる」「主体と身体が一致していない」日本版ヘッドマスターの設定を引き継いでいると言えるだろう。

ブレインマスターを中心に置いた『トランスフォーマーV』の主人公となるのが、サイバトロン司令官スターセイバーである。ジンライ同様、多段階に合体する構成の玩具となっており、小型ロボットであるブレインマスターが、SFジェットと合体、中型ロボット「セイバー」となる。そしてこれが強化ブースターと合体することで大型ロボット「スターセイバー」を構成する。さらに2号ロボ・ビクトリーレオと合体することで、「ビクトリーセイバー」へとパワーアップする。1989年に発売されたスターセイバーは、記録的な大ヒット商品となった。

▲スターセイバー。完成度が高く大ヒット商品となった。 『トランスフォーマージェネレーション デラックス ザ・リバース:35周年記念バージョン』(メディアボーイ)p53

「0号勇者」としてのスターセイバー

この大ヒットが後に続く勇者シリーズに多大な影響を与え原型となったという意味で、『トランスフォーマーV』はファンのあいだで「0号勇者」と呼ばれることがある。一般には、合体によるパワーアップを主軸に据えた玩具としての仕様やデザインの方向性、2号ロボとのグレート合体、アニメーション作品と連携した体制、地球人の少年と絆を深めるドラマなどが確立されたとされる。ただ、こうした要素の多くは前作のジンライの時点ですでに見られたものだ。にもかかわらず、なぜスターセイバーがそのエポックとして語られるのだろうか。

もちろん、デザイナーに以降勇者シリーズを手掛けることになる大河原邦男を起用したことや、デザインが既存のトランスフォーマーのキャラクターを参照していない新規のものであることなど、さまざまなところに差異を見つけることはできる。しかしこの連載では、理想の成熟のイメージの変遷としてこれを捉える。すなわちジンライからスターセイバーに至った段階で、そのまとう「かっこよさ」のイメージが変化し、そのイメージこそが勇者シリーズに引き継がれたのだと、そのように考えたい。

それを象徴するポイントはふたつある。ひとつは「剣」というモチーフ、そしてもうひとつは「子供」との関係だ。

アメリカと銃、日本と剣

前作の主人公であるジンライは、もともと「パワーマスターオプティマス」として開発された玩具に対して、日本独自のバイオグラフィを与えたキャラクターであった。そのためトラックドライバーを生業とする若者であり、やや粗野なところを持ちながらも頼れる兄貴分というジンライのキャラクターは、オプティマス・プライムが象徴するアメリカン・マスキュリニティをベースとした再解釈であった。

対してスターセイバーは大河原邦男がデザインを手掛け、最初から日本市場独自のキャラクターとしてデザインされている。ホワイトとレッドをベースにし、ブルーとイエローをバランスよく配置した清潔なトリコロールは、極めて日本的な感覚の配色と言ってよいだろう。キャラクターとしてのスターセイバーは、普段は穏やかでありながら、いざとなれば勇敢に戦う司令官として描かれる。ジンライと比較すると、スターセイバーのこの態度は騎士道的あるいは武士道的な道義を思わせるものだ――というのは、現段階ではいささか目の粗い議論に聞こえるかもしれない。しかしこれまでのリーダーたちが銃を主な武器としてきたのに対して、スターセイバーが剣を持ち出してきたことと関連づければ、興味深い見方ができるようになる。

トランスフォーマーは全体的に銃を武器とするケースが多いが、剣を持つキャラクターがまったくいなかったわけではない。正義のサイバトロン/オートボット陣営においてはグリムロックなどダイノボットたちが、悪のデストロン/ディセプティコン陣営においてはブリッツウィングやメナゾールなどが剣を武器としてきた。しかし、前者は原始の力を持つ粗野な存在として描かれるし、後者については悪役であった。理想の成熟を担うべき「正義の味方」が、その象徴的な武器として「剣」を持つというのは、少なくともトランスフォーマーの価値観においては稀であると言ってよい。トランスフォーマー文化においては、精密な近代工業製品である銃こそが正統な武器であり、剣はどちらかといえば中世的で野蛮な近接武器と見なされてきたのである。

フォートレスマキシマスから受け継いだ「伝家の宝刀」

銃と剣については、フォートレスマキシマスの事例について考えるとわかりやすい。この連載でもすでに紹介したフォートレスマキシマスは、マスターソードと呼ばれる巨大な剣を武器としている。日本版のパッケージアートではこの剣を構えて描かれ、日本主導で制作されたアニメーションにおいても象徴的な武器として描かれている(第29話のサブタイトルは『危うしマスターソード!!』であり、フォートレスマキシマスの強大な力を支えるアイテムを敵が狙う展開である)。興味深いのは、このマスターソードが日本版にのみ付属するアイテムであることだ。海外版の玩具にはそもそも付属せず、従ってパッケージアートにも登場していない。もちろん、海外側のアニメーションやコミックスにも、基本的には出てこない。アメリカ文化におけるヒロイズムの象徴として銃が選ばれてきたところに、日本的なヒロイズムの象徴として剣が機能した、という事例は、少なくともスターセイバーだけではないということになる。

奇しくもフォートレスマキシマスとスターセイバーは、普段は穏やかで戦いを好まないが、いざというときには「伝家の宝刀」を抜いて戦うという意味で似たタイプのリーダーとして描かれている。銃によってフロンティアを広げるかたちで発展してきたアメリカ的なヒロイズムに対して、敗戦の記憶から島国における専守防衛の美学を発展させてきた日本戦後的なヒロイズムは、騎士道や武士道といった自己犠牲の精神とも結びつく剣を象徴的な武器として選んだのだ、とひとまずは見ておきたい。

IDW版スターセイバーはなぜ「狂信者」となったか

もうひとつ、やや余談とはなるが、IDW版コミックスにおけるスターセイバーのキャラクターについても触れておきたい。ダイアトラスやオーバーロードなど、日本製のキャラクターはIDW版に登場する際に大きくキャラクターが変更されることが通例となっていた。しかしスターセイバーのキャラクターは「プライマス(原初のトランスフォーマー)を信奉し、従わない者を片っ端から粛清する狂信者」というものであり、これは驚きを持って迎えられ、現在に至るまで賛否両論が吹き荒れる事態となっている。おそらくはデザインを読み解くかたちで考案されたこのキャラクターが、十字軍などの原理主義的なキリスト教と接続したことには、これまでの議論に照らせば必然性があることのように思われる。すなわち、アメリカ的トランスフォーマーの世界観からは、スターセイバーのトリコロールはあまりにも潔癖にすぎ、そして剣という武器は中世的な騎士を――キリスト教的な排他的規範を思わせたかもしれない。ヒーローとしてのスターセイバー像をあまりに無視していると批判されがちなこの描写であるが、異なる文脈におけるデザインの再解釈としては、なかなか巧みなものであるのかもしれない。

身近な「大人」としてのトランスフォーマー

さて、この連載で、G1期のトランスフォーマーは、理想の成熟を象徴しながらも人間とは断絶した存在であったことを指摘した。そしてジンライが登場する『超神マスターフォース』では、人間がトランスフォーマーになるという形で、魂という概念を導入しながら人間の身体拡張の可能性を追求した。それでは、日本で生まれ、剣をその武器として選んだスターセイバーは、どのような成熟を提示したのだろうか。

『トランスフォーマーV』において、スターセイバーはジャンという少年と交流を持つ。実際の玩具の遊び手・視聴者のアバターとして機能するジャンは、デストロンの襲撃によって両親を失った孤児であり、スターセイバーをはじめとしたサイバトロンたちに育てられてきた。ジャンはスターセイバーを、育ての親として慕っているのである。スターセイバーはジャンに対して責任ある父親として振る舞い、ときには保護者として学校に顔を出しさえする。

こうしたスターセイバーとジャンの関係を象徴するのが、本作のエンディングテーマ『サイバトロンばんざい』の歌詞である。ここに一部を引用したい。

スターセイバーもくいしん坊ですか
つまみ食いしたことありますか
オネショして叱られましたか
ぼくたちみたいな子でしたか

さらに二番はこうなっている。

スターセイバーも涙ながしますか
悲しいことやっぱりありますか
さか上がりうまかったですか
ぼくらも勇者になれますか

この歌詞は、子供の目線から自身の失敗を振り返り、果たしてスターセイバーにも同じような子供時代があったのだろうかと投げかける構造になっている。疑問形になっているのは巧妙で、もしかしたらトランスフォーマーの成長は人間の成長とは異なり、スターセイバーはつまみ食いしたりオネショしたりして大きくなったわけではないのかもしれない。しかしこの歌詞が、子供がこうした失敗を経て成長していった先にある成熟のイメージとしてスターセイバーを描き出そうとしていることは間違いないだろう。スターセイバーは人間が、子供たちが、まっすぐに成長し成熟した先に直接接続される成熟の像であり、かなりストレートな意味での「父親」として位置づけられているのである。

これはこれまでのトランスフォーマーからすると、かなり衝撃的な関係性だ。もちろん、オプティマス・プライムもバンブルビーも、スパイクのよき友人ではあった。しかし彼らはたまたま地球に降り立っただけの異星人であり、地球人は資源戦争の舞台に居合わせた「現地民」にすぎない。その友情がどれほど絆を深めようと、リーダーシップや強靭さに憧れようと、決してこうした意味での「父親」になることはありえなかった。さらに言えば、道具であったトラックや銃が独自に資源戦争を繰り広げるさまは、象徴的にはテクノロジーの発展が人間から分離していくイメージでさえあったはずだ。

しかしスターセイバーは違う。超越したテクノロジーを持つ機械生命体は、友人である以上に保護者であり、成長していった先にこうありたいとストレートに思い描く身近な「大人」のイメージだ。ジャンは――「ぼくら」は、この世界観においては、トランスフォーマーに、いや「勇者」に「なれる」。そうした成熟のイメージこそが、スターセイバーが確立した「勇者」という概念であるだろう。

トラックからライオンへ

なお、スターセイバーもまたグレート合体を行うことはすでに述べた。2号ロボ・ビクトリーレオは(媒体によって差があるものの)アニメーション作品では、ジンライが転生した姿ということになっている。ちなみに本作におけるジンライは、人間の青年・ジンライと同じパーソナリティを持っていながら、まったく別の独立したトランスフォーマーというやや複雑な再解釈が行われている。これは登場する人間キャラクターを限定することでドラマとしての焦点を明確にする措置であったのかもしれないが、上記のような成熟観がマスターフォースの人間観とは相容れなかったという印象も抱かざるを得ない。人間としてのジンライが湛えていたアメリカン・マスキュリニティの文脈と人間中心主義は、人間の成長の延長に置かれるスターセイバーとは微妙な齟齬を起こしてしまう。

こうしてパワーマスターオプティマスとして出発したジンライは、紆余曲折を経てスターセイバーを強化するに至った。勇者シリーズに繰り返し登場するライオンというモチーフに、トランスフォーマーを象徴するオプティマス・プライムが接続されていることは、なかなか興味深いと言えるだろう。ビクトリーレオが多数の銃を携えたキャラクターであることは、必然であるとも言えるかもしれない。

▲ビクトリーレオ。ジンライが転生したキャラクターとされた。 『トランスフォーマージェネレーション デラックス ザ・リバース:35周年記念バージョン』(メディアボーイ)p53
▲ビクトリーセイバー。この後10年近く続くフォーマットを確立した玩具。 『トランスフォーマージェネレーション デラックス ザ・リバース:35周年記念バージョン』(メディアボーイ)p54

こうして「勇者」の概念が確立されたとき、そこには日本的なヒロイズムを象徴する「剣」が、西洋的な文脈が流れ込む「獅子」によって強化されるビクトリーセイバーが立っていた。そのふたつの要素を引き継いだ作品がなんであるのかは、もはや語るまでもないだろう。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2022年11月15日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。
あらためて、2023年3月23日に公開しました。

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