母なる勇太、父たるレジーナ

ファイヤージェイデッカー誕生は、次のような展開を通じて行われる。

かつてデッカードを倒したチーフテンは、紆余曲折を経て再びブレイブポリスの前に立ちはだかる。もともとは相棒を失ったことを悲しむ心を持っていたチーフテンは、しかし創造主たるビクティムが「強い者が全てを手にする」という「悪の心」を徹底させたことで、片方が片方を殺害し、そのパーツを吸収するかたちで一種の「グレート合体」を果たす。

これに対抗するためにデッカードとデュークもまた合体しようとする。しかしここで、合体してしまうとどちらか一方の人格が消えてしまうという問題が発生する。そこにはさまざまな設定的理由があるのだが、物語世界においてドラマを成立させるためのエクスキューズにすぎないため、いったん置いておこう。重要なのは、象徴的なレベルにおいて、この対立がいかなるものであるのかだ。

結論から言えば、ファイヤージェイデッカーは「母」であった勇太が「父」となり、そして「父」であったレジーナが「母」となることによって完成する。

どういうことか、順番に見ていこう。まず、デッカードが「人間の心」を得るきっかけとなったのは勇太その人であった。そして勇太はデッカードに、そしてブレイブポリスのロボットたちに、無条件といえるような承認を与えていく。勇太は常に、心を持ったブレイブポリスたちを丸ごと受け入れる。その一方で、そのあまりの愛情の深さゆえに、しばしば警察組織たるブレイブポリスのボスとして感情的で正しくない判断をすることもある。レジーナが勇太のことを「悪い手本」と指摘するのは、勇太にロボットたちを正しい方向に導き、上司として職務を遂行させようという父性が欠如しているからだ。

実際、これまで主人公を務めてきた少年たちに比して、勇太には際立って女性的なキャラクターデザインが与えられている。眉の太さなどいくぶんか男性的な記号も入っているものの、基本的にはふたりの姉にそっくりな顔立ちで、美少女の文法の上にデザインされていると見てよいだろう。また女子中学校への潜入捜査のために女装するエピソードがあるのだが、これは劇中で似合っているともてはやされ、実際に違和感なく潜入を成功させる。こうしたデザインが物語に先立っていたのか、それとも物語に対して適切なデザインがこうであったのかを論じることは難しい。しかしいずれにせよ結果として、勇太は勇者シリーズにおいて、かつてない母性的な側面を持った主人公だということはできるように思われる。

一方でより「成熟した」デザインを与えられたレジーナが、警察組織におけるロボットの理想像を徹底しようとしてきたことはすでに論じてきた。デュークが「人間の心」を持つことを認めず、あくまで「善の心」だけを持つよう厳しく求めてきたレジーナは、強い父性を持ったキャラクターとして配置されている。

ファイヤージェイデッカーへの合体は、勇太とレジーナが、その欠落した部分――勇太にとっては父性、レジーナにとっては母性を交換し、理想の成熟へと近づく契機となるのだ。

これがどのように行われるのか、先にレジーナの側から見ていこう。超AIから悪の心を取り去り善の心のみを持たせたいというレジーナの動機は、その過去に由来していることが明かされる。ロボット研究者であったレジーナの母親は、違法ロボット兵器にかかわったことで犯罪者となってしまった。そして警察官であった父親は、情に流され母親を逃がしてしまったことで職を追われていた。レジーナはそんな自分の両親に対する悲しみと憎しみ――すなわち「悪の心」を封じ込め、かつて遂行されなかった「父性」を貫徹しようとしてきたのだった。レジーナを想うデュークは、次のように問いかける。「人間には、自分を作った者に対する愛情はないのか?」。この言葉をきっかけに、レジーナは自分自身もまた思っていたほど成熟した存在でなかったこと、自らも「善の心」と「悪の心」、愛と憎しみが複雑に絡み合った「人間の心」を持つことを受け入れる。これによって、デュークが「人間の心」を持つこともまた肯定される。すなわち自分の過去に向き合うことで、デュークを丸ごと受け入れる愛情を認めていくことになっていくのだ。

一方、勇太はデッカードあるいはデュークが消えてしまうことから、当初は合体を躊躇する。しかしレジーナの指摘を真摯に受け止めることで勇太は成長し、ときにリスクをおかしてでも犯罪を止めなくてはならないと覚悟する。

ゆえに、勇太は人格消滅のリスクを飲み込んだ上で、ファイヤージェイデッカーへの合体を命じる。そしてレジーナはデュークを失いたくない愛情ゆえに、一度これを止める。ここに至って、母性からスタートした勇太と父性からスタートしたレジーナは、それぞれ父性と母性を得てその立場を逆転させているのだ。

合体に際して、デッカードとデュークは次のように誓いを立てる。デッカードが消えた場合は、デュークが勇太を守る。デュークが消えた場合は、デッカードがレジーナを守る。憎しみの裏側にあるこうした思いやり――デュークの言葉を借りれば「愛情」――を持ったことによって、人格消滅のリスクを彼らは奇跡的に乗り越えるのである。

「母性」をまとうジェイデッカー

ファイヤージェイデッカーをめぐる想像力が、勇者シリーズにもたらした画期はふたつある。ひとつは親子の関係が逆転していること。もうひとつはそこに「母性」の論理が持ち込まれたことだ。

勇者シリーズの前身となるトランスフォーマーVは、スターセイバーという「父」とジャン少年という「子」の物語からはじまっていたのだった。これまで理想の成熟を体現していたロボットは、象徴的な意味では「父」として存在してきた。勇者シリーズはそうした理想像であるロボットに対して命令する権利を与えることで、子供たちの地位をロボットと対等なものに格上げし、命じる者/行う者として相補的に機能させることで、「父子」から「兄弟」へとその関係を対等なものとして描き直してきた。ジェイデッカーにおける勇太少年とデッカードの関係も、当初はこうした構造を確認している。

一方で、デュークのレジーナに対する想いは、レジーナの両親に対する想いと「自らを生み出した者」という条件によって重ね合わされている。これまで「大人」として描かれてきたロボットは、ここではむしろ「子供」の立ち位置を与えられている。ジェイデッカーにおいて、人間とロボットは単なる対等な友人なのではない。それは創造主と被造物の関係であり、この物語における「愛情」とは、創造主から被造物へと与えられる無条件にして無限のものなのだ。

ファイヤージェイデッカーは、パトカー・トレーラーと、救急車・消防車のグレート合体であった。犯罪を取り締まる警察は父性を、命を救わんとする救急・消防は母性を象徴しているということができる。グレート合体が対立するふたつの要素を統合することによって成立するのなら、ファイヤージェイデッカーの誕生は、男性的・父性的成熟を目指してきたサイボーグの美学が、その半身に女性的・母性的成熟を取り入れた瞬間なのである。

▲「大警察合体ファイヤージェイデッカー」。その象徴的存在感に見合う威容。 勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p37

「ビッグ・マザー」エヴァ・フォルツォイクと「グレート・ファザー」ハイジャス人

父性は規範によって子を導き、母性は愛情によって子を養う。ファイヤージェイデッカーをめぐるエピソードは、レジーナが「善の心」という規範を徹底させようとする「父」から、「愛情」によって「人間の心」を丸ごと容認する「母」に転向することで、デュークという「子」の成長を見届ける物語であるといえる。そして逆側から見れば、ビクティムは「悪の心」という規範を強要する「父」であり続けたことによって、チーフテンという「子」を破壊してしまう物語であったということになるだろう。

そしてジェイデッカーという物語は、こうした「母性」と「父性」が行き過ぎた場合にどうなるかについても踏み込んでゆく。

ブレイブポリスの最後の敵として現れるのが、エヴァ・フォルツォイクとノイバー・フォルツォイクの親子――より正確にいうならば「母子」だ。エヴァ・フォルツォイクは(レジーナやビクティムと同じように)ロボット研究者である。20年前、エヴァはフォルツォイクロンと呼ばれる人工知能を開発し、それがブレイブポリスを含むロボットたちに搭載された超AIの元になった。しかし人間の心を持ったロボットを作るという野心から、生身の人間の脳に対して人体実験を行い、警察によって冷凍刑に処されることになる。その息子であるノイバーの目的とは、すなわち20年前の肉体で眠り続ける――おそらくは今や自身と近しい年齢となった母・エヴァの復活であった。

そして彼らは、そうまでしても成し遂げられなかった「人間の心」を偶然から実装してしまった勇太とデッカードへと、見当外れの復讐を企てる。そこで用いられる巨大要塞「ビッグ・マザー」は「ハーメルンシステム」と名付けられた一種の催眠音波によって、超AIを支配しようとする。

エヴァとノイバーの登場は、物語だけを見るとやや唐突なものに映る。しかしこれまでの議論を踏まえれば、それが最終的な敵として極めて妥当であることがわかるだろう。エヴァは(その名前通りに)すべてのロボットの大いなる母――ビッグ・マザーとして現れる。ハーメルンシステムは、言うまでもなくハーメルンの笛吹き男の物語をモチーフにしている。本来得るべき対価が得られなかった腹いせに、笛吹き男は子供たち=ロボットたちを溺死させてしまう。エヴァは自らが大いなる母であることを主張し、それを根拠にすべてのロボットを支配しようとするのだ。

これは勇太が持つ母性的な愛情の負の側面を増幅したものだ。ノイバーはエヴァの復活と復讐のために行動し、エヴァはそんなノイバーに対して無条件の承認を与える。エヴァとノイバーの共犯的な癒着は、そのまま勇太少年とデッカードの関係にも当てはまる。勇太少年はデッカードに心を与え、その心と勇太少年との絆ゆえに、デッカードは戦う力を得るからだ。物語の上でも、勇太少年がデッカードへ心を与え、その心がブレイブポリスたちの基礎になったことを持って、勇太少年はエヴァとノイバーに勝利する。すなわち勇太少年は、エヴァをも上回る「ビッグ・マザー」なのだ。

ところが勇太少年/デッカードがエヴァ/ノイバーを母性によって上回るなら、それは勇太少年/デッカードに、より強大な犯罪者となる可能性を生むことになる。犯罪者がある動機によって社会規範を逸脱してしまう存在とするならば、お互いに求め合い承認し合う母子の癒着関係は内的に閉じてしまい、外的な社会規範を必要としなくなる。ブレイブポリスたちが持つ人間的な感情は「悪の心」と結びつけて語られていたのだった。それを丸ごと肯定してしまう――母が子を甘やかし、それによって子が母を求めることが肯定されるのならば、それは、果たして成熟と呼べるだろうか。

ジェイデッカーは、その問いに答えるべく、より上位の父性を用意する。エヴァとノイバーを乗り越えた勇太たちの前に、今度はハイジャス人と名乗る存在が現れる。彼らは高位の宇宙生命体であり、文明崩壊に至りそうな星を見つけて、それを防ぐことを目的としている。ハイジャス人は、犯罪にあふれる地球はやがて文明の崩壊に至ると判断し、介入を行おうとする。その手法は、「人間の心」を奪い取ることによって、平和をもたらすというものだ。エヴァ・フォルツォイクが「ビッグ・マザー」であるとするなら、ハイジャス人は人類にとっての「グレート・ファザー」である。これがレジーナの論理の相似的な拡大であることは明白だろう。すなわち、その先の結論もすでに提出されている。人間とロボットが「善の心」と「悪の心」の両方を持つことを肯定し、正しき道を歩ませる父性と愛によってその存在を認める母性の統合とバランス、勇太とレジーナの交差によって生まれるファイヤージェイデッカーの論理こそが、人類にとって理想的な成熟となるのである。

勇太とデッカードが愛し合うとしたら

さて、ジェイデッカーはこれまで勇者シリーズを駆動してきた父性的な原理に母性を導入し、そのバランスを取ることを成熟として描いた。本稿では「高松勇者」が勇者シリーズという自己を参照しながらそれを批判的に捉え直してきたと述べたが、ジェイデッカーはこれまでのシリーズを総括しつつ、ジェイデッカー自体の自己批判をその作中で行い、ほとんど完璧な解答を提出している。

しかし完璧であるからこそ、そこに重大な問題が発生していることを見落とすわけにはいかない。人間の心理的発達において父性と母性をバランスすることの重要性は、フロイトを経由した20世紀末の時点ですでに論じ尽くされてきたことでもある。すなわちジェイデッカーの用意した完璧な解答とは、精神分析の再発明にすぎないともいえてしまう。それが(さまざまに更新されてきたとはいえ骨格は)一定の正しさを持つことは、すでに人類史によって裏書きされている。一方で、それが玩具を通じてしか描けない成熟のイメージであるとは必ずしも言えないだろう。

実際、ジェイデッカーという作品にはひとつの大きな特徴がある。それはアニメーションと玩具が大きく乖離してしまっていることだ。アニメーションにおけるブレイブポリスのキャラクターデザインは大幅にアレンジされ、玩具とは似ても似つかないものになっている。もちろんキャラクターとしての記号そのものはきちんと追っていて、同じ存在であると認識することは容易である。そしてそれは彼らを「ヒーロー」として描くという物語上の要請に応えるものとして正しい判断でもある。自分の手元にある玩具と同じキャラクターが画面内でかっこよく活躍する姿は、子供たちにとってエキサイティングなものであっただろう。しかしむしろそれが優れているがゆえに、勇者シリーズで漸進的に進行してきた、玩具から分離した演出の肥大化はひとつの極点を描く。すでに勇者ロボたちは玩具から、そして子供の玩具遊びの想像力から一定の距離を持った「ある作品のキャラクター」として成立してしまっている。これは欠点というわけではなく、ジェイデッカーという作品が「人間」となった「ロボット」を描くための必然であるだろう。超自然的な存在として現れたダ・ガーンがむしろAIと近接し、AIと地続きのテクノロジーによって人格を得たジェイデッカーがそういった想像力から離れて人間性を描くことに収支したことには、若干のアイロニーを見出すこともできる。

なぜそのようなことになってしまったのか、本連載はすでにその答えを論じている。サイボーグの美学は、あくまで「魂を持った乗り物」という存在の中間性にその独自性を持つ。ロボットが完全に身体から分離し、それが人間とまったく同じ主体になってしまえば、当然その成熟のイメージは、人類史の中で幾度となく論じられてきた「人間の成熟」の理論に収斂する。本連載はむしろそうした人間的成熟とは異なる想像力の模索から、新たな成熟のイメージを見出そうとしてきた。その意味では、ジェイデッカーという物語は――ファイヤージェイデッカーという玩具は、あまりにも完璧な存在になりすぎたのだ。

子供と玩具という関係に立ち戻ってみれば、このことはより明確になる。「谷田部勇者」において完成された命じる者/行う者という関係性が、現実世界と玩具世界の比喩として的確であったことは何度も述べてきた。子供が現実世界に留まりながらも玩具世界にアクセスできる回路として、本連載はそれを評価してきたのだった。ではジェイデッカーの想像力――ロボット=玩具もまた人間であるのだ――という主張は、成熟のイメージとしてどのように受け止めることができるだろうか。

子供が自らと同等の存在として、あるいは想像世界における創造主として被造物たる玩具を愛し、その愛が玩具から子供に返るとしたら、それは玩具世界への母性的な閉鎖に留まってしまわないだろうか。ジェイデッカーにおいて提出された父性とは、犯罪をモチーフとして、社会規範を乗り越えて他人を害してしまう個人的な感情を調整するものであった。しかしそもそも子供部屋の外に出ないとしたら、そこに「警察」は必要ない。「谷田部勇者」はあくまで子供を現実世界に置いたまま玩具世界にアクセスさせ、広大な世界を巡って知見を得ることを良しと描いた。これは子供が玩具世界での体験を社会へ還元していくことを予感させる。一方でジェイデッカーの論理は、実は子供と玩具の距離を近づけ、玩具世界に取り込む方向に向かう可能性があるしまうのではないか。

たとえばエヴァとノイバーの姿は婉曲ではあるものの、明確に近親相姦的なイメージで描かれる。これは「母たる美少女との癒着」という、「オタク」の未成熟性をめぐる古典的な(しかし世紀末の時点では先端的だった)議論を思い起こさせる。それを踏まえて見つめ直せば、勇太とデッカードの関係は、同性愛的(つまり対称的)にも捉えられる。勇太が美少女的な文法でデザインされていたことを思い起こすならば、ロボットが人間となった先で最終的にたどり着くのは美少女――つまり母性的なファンタジーということになりはしないだろうか。

だとしたら、その玩具がロボットという表現である必然性は限りなくゼロに近づいていき、むしろ美少女フィギュアのほうが的確であるということになってしまうかもしれない。ジェイデッカーは、やはりここで勇者シリーズという想像力のひとつの境界を発見しているのだ。

「高松勇者」は鋭敏な自己批評を繰り返し、勇者シリーズという概念に向き合うことでその成立条件を模索してきた。そしてその三部作はまだ一作品を残している。果たして「高松勇者」は、次の『黄金勇者ゴルドラン』でこの問いにどのように答えたのだろうか。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2024年7月23日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2024年8月29日に公開しました。(バナー画像出典:「勇者シリーズトイクロニクル」(ホビージャパン)p37)

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