書評家・三宅香帆さんの連載「母と娘の物語」。
国内フィクション作品において「母」と「娘」の物語は幾度も反復して描かれてきたにもかかわらず、その物語に潜む本質を読み解こうとする行為は僅かでした。既存の「母娘問題」の議論をひもときつつ、これまで多くの物語で象徴的に論じられてきた「父殺し」との対比を通じて、「なぜ『母殺し』は難しいのか?」という問いを投げかけます。
「遅いインターネット」で好評を博した三宅香帆さんの連載「母と娘の物語」がついに書籍化します。 萩尾望都、山岸凉子、氷室冴子、吉本ばなな、よしながふみ、川上未映子、宇佐見りん……。
多数のフィクション作品から「母娘問題」に向き合ってきた本連載が、ほぼ全編にわたる加筆・修正のうえ単行本となりました。
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端的に言うとね。
1.「それは母が、ゆるさない」
太宰治の小説『人間失格』にこんな一節がある。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
太宰治『人間失格』新潮文庫、新潮社、1952年刊、初版1948年
太宰治はそう言ったが、『人間失格』の主人公は、上で引用したように考え始めた時から「世間とは個人じゃないか」と思うようになり、そして以前よりも少し「わがまま」になった、と回想している。
私はこの文章を読むとき、娘たちのことを考える。娘というのは、この国に、そして私の周囲に、あるいは本や漫画の中で見てきた、無数の「母の娘」たちのことである。
娘たちは、幼少期から母によって「それは世間が、ゆるさない」と唱えられる。それは経済的に自立しても、結婚して姓が変わっても、あるいは娘が母の介護を担当するような年齢になっても、唱えられる呪文なのだ。「そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ」「いまに世間から葬られる」と母から唱えられる。その呪文は、たくさんの母から娘に受け継がれる呪文である。
だが、娘にとって世間とは、母のことではないだろうか。
他の誰でもない、母がゆるさない。母からひどいめに逢う。そして世間ではなく、母の手によって娘は葬られる。
娘たちにとって、「世間」とは、自分やあなたではなく、母親なのではないか。
そう思うことがある。
「母が許さないから」という言葉で娘が自分を縛る姿を、私は何度見てきただろう。それはある時は現実の友人であり、ある時はネットのまだ見ぬ女性であり、ある時は小説のなかの主人公の言葉であった。
不思議でしょうがなかった。なぜ娘は「母が許さないから」という言葉で、自分を縛ってしまうのだろう。
2.2018年の滋賀医科大学生母親殺害事件の存在
本連載は母と娘をテーマにしたフィクションを読み解くものである。
だがその前に、一冊だけ、ノンフィクション――つまり現実の出来事を描写した書籍について扱いたい。
それは、あるひとりの犯罪を犯した女性が、「母が私を許さなかった」と述べた事件である。
2022年12月に刊行された『母という呪縛 娘という牢獄』(齊藤彩、講談社)。ある殺人事件を追っていた記者が、事件の犯人と面会、そして往復書簡を交わし、刊行した書籍である。2018年、ある31歳の女子大生が58歳の母親を殺害した。彼女は母によって9年間もの浪人生活を強いられ、そして母が眠っている間に、母を殺害した。母娘の教育虐待の被害の酷さが、殺人という最悪の事態に陥らせてしまったこの事件は、ネットを中心に多くの注目を集めた。
事件の判決がまだ確定しない頃、事件を追っていた記者・齊藤は、拘置所に尋ねる。そして面会を重ねた。齊藤は、主任弁護士を通して公表した文書のなかで、「母の呪縛から逃れたいが為に、私は凶行に及びました」という部分に強く引き付けられ、このような本を執筆するに至ったと前書きで述べる。
だが私はこの秀逸なノンフィクションを読んで、最も引き付けられたのは、この部分だった。
私の行為は決して母から許されませんが、残りの人生をかけてお詫びをし続けます。
(『母という呪縛 娘という牢獄』齊藤彩、講談社、2022年)
ここでいう「私の行為」とは、まぎれもなく母を殺害した行為である。
齊藤が注目した「呪縛から逃れたかった」ことが親を殺害した理由であったことは、たしかに大変痛ましい動機だが理解はできる。一方で、殺害を「許されない」と述べるのは、やや違和感を覚えはしないだろうか? もちろん殺害という罪は、許されるものではない。しかし彼女が許されるべきという意味ではなく、ここでいう違和感は、犯行を終えた今でもやはり彼女が最も気にしているのが「母が自分の罪を許してくれるかどうか」なのではないか、ということである。世間でもなく道徳倫理でもなく家族でもなく「母」が許さないとわざわざ述べることには、やはりここに何かあるのではないか、と私に思わせたのだった。
ここにあるのは――最悪の事態に至ってしまった極端な例ではあるにせよ――母と娘の問題そのものではないか。もし彼女が息子であり、父を殺害していたとしたら、「父から許されませんが」と述べていたであろうか。この事件が母と娘で起こったことだからこそ、彼女は「私の行為は決して母から許されない」と述べるに至ったのではないか。
そのような仮説をもってこのノンフィクションを読むと、たしかに母が娘に「許さない」と述べる言葉が頻発する。作中母と娘のLINEが掲載されているのだが、その中で母は何度も「許しません」という言葉を使う。助産師コースに進む試験に落ちたことや、医学科に入学できないこと、看護学科に入学すること、オープン模試を一緒に友達と受けに行くこと、八時の門限を破ってしまったこと、就職すること、どれも母が「許さない」と述べたのだ、と綴られる。
もちろんノンフィクションとして、加害者が記憶を回想し、それを著者である齊藤と書簡や面会の言葉を交わすなかで語られたものなので、母の言葉が一言一句正しい訳ではないだろう。加害者のなかで改竄された言葉も存在する可能性も十二分にある。しかしだとしても、娘にとって「母が許さない」と述べたその言葉が印象に残っていたことは間違いない事実である。彼女は「就職するにあたって親の許可はいらないはずだと思って家出した」とも語るが、それもやはり許されなかった、と回想する。そして母を殺害したこともやはり彼女は「母は私を許さないだろう」と述べるのである。
もちろん重ねて述べることではあるが、殺害の罪が被害者によって許されるべきと主張したい訳ではない。亡くなられた被害者が許しているかどうかは誰も分からない。だが、それでも自分の罪が、他の誰でもない、自分が殺害した「母」に許されることはないと述べるのは、この事件の奇妙に入り組んだ複雑さを反映した言葉ではないだろうか。
私は、齊藤氏のように事件を追いかけていた記者でも、彼女の精神鑑定ができるわけでもない。このノンフィクションに心を動かされた、ただの、批評家である。しかしだからこそ気になって仕方がない。
なぜ彼女は、他の誰でもなく「母から」許されないと述べたのだろう。
3.牢獄の芽は家庭に内包されている
社会学者の上野千鶴子は『近代家族の成立と終焉』のなかで、こう綴る。
「世間」が倫理の基礎になりえた時代が終わって、今度は「家族」が倫理の基礎として物語られる。その「家族の物語」の耐用年数も尽きたように見える今日、わたしたちは新しい物語を編み出すことができるだろうか。それともアノミー(無規範状態)のなかに陥ることで、その反動としての狂信とファンダメンタリズムの足音を聞かねばならないのだろうか。
(上野千鶴子「「母」の戦後史」初出1993年、『近代家族の成立と終焉』岩波現代文庫所収、岩波書店、2020年、p322)
たしかに冒頭に引用した太宰治が過ごしていた時代、「世間」が倫理の基礎であったのかもしれない。そして時代を経て、世間にかわって家族が倫理の規範となった。しかしもはや家族の神話すら崩壊しつつある今。何が家族に変わって倫理になるのか、と、上野は問う。
上野の言う「家族」とはつまり、父が支配し母が支える家父長制のことだろう。たしかにそのような形での「家族」が倫理の基礎として語られる時代は終わりつつある。というか、江藤が著していた時代にすでに崩壊の音が聴こえていたくらいには、その耐久性は低かったのだろう。しかし母が支配し父が不在であるかたちの「家族」は、いまだ私たちの背後に存在し、しっかりと「世間」にかわる倫理の基礎になっている。私にはそう思えて仕方がないのだ。
そう、上野の述べた言説に、私は異論を唱えたい。少なくとも娘にとって、「家族」は現代の倫理の基礎とならなくとも、「母」はじゅうぶん倫理の基礎になり得ているのだと。
『母という呪縛 娘という牢獄』のまえがきで著者の齊藤自身は述べる。
なぜあのような悲劇が起きなければならなかったのか。
私自身にとってもそれは決して他人事とは思えなかった。多くの家族が、「良かれ」と思いあまって互いに束縛し、苦しめあっている。それが殺人事件にまで発展するのは極端な例だが、そこに至る芽は、多くの家庭に内包されている。
(『母という呪縛 娘という牢獄』)
私も同じように感じる。たしかに殺人事件は極端な例であり、そこには明らかな教育虐待が存在していた。しかし家庭で客観的に見て虐待と認識されるような行為は、確実になくとも、「そこに至る芽」は存外多く芽吹き、雑草のように私たちの足元で絡み合っているのではないか。
子は親の作った倫理を外れながら成長する。自分の進路を選ぶこと、あるいは門限を破ったり友達と遊んだりすることを「許さない」という親は、子どもの基本的人権を踏みにじる。だが時に、法律よりも親が、とくに母が、強い倫理規範になり得ることがある。
たとえ母を殺しても、母から許されることのない娘たち。彼女たちの牢獄は、外側からは分からない形で存在しているのではないか。
4.母と娘の物語を読む
2020年代になった現在、母と娘の物語は大量に生産されている。女性を主人公とした小説や漫画や邦画に始まりNHKの連続テレビ小説に至るまで、母と娘はひとつのメジャーなテーマとなっている。具体的に現代女性作家の名前と作品を挙げるならば、川上未映子『乳と卵』、辻村深月『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』、湊かなえ『母性』、角田光代『私のなかの彼女』、村田沙耶香は『タダイマトビラ』、宇佐見りん『かか』など、他にもさまざまな作家たちが、母娘をテーマにした小説を刊行している。さらに2010年には佐野洋子が『シズコさん』で自らの母親との確執について綴るなど、エッセイで描かれることも多いテーマである。
しかしこの現状に、あえて問題提起を行いたい。母娘のフィクションの膨大さとは裏腹に、その物語たちを読み解く言葉は、まだ充分ではないのではないか。
齊藤の言う「そこに至る芽」は存外多く芽吹いている、その証は母娘をテーマにしたフィクションの量によって傍証され得る。だが私たちは本当にそのフィクションから「そこに至る芽」を読み取り、そしてそこから得られる「母と娘」の悲劇を言語化できているのだろうか?
少女漫画の歴史を紐解けば、萩尾望都や山岸凉子といった「二十四年組」が母娘をテーマとした物語を多数生み出し、その課題は下の世代――よしながふみ、芦原妃名子、ヤマシタトモコ、コナリミサト――といった多数の漫画家にも継承される。さらに小説においても、前述したように女性作家たちが、母娘の問いを小説に落とし込む。しかしその膨大な母娘の物語たちは、それらの物語に適した言葉で、語られているのだろうか?
たしかに小説や漫画を批評する言葉はこの国にたくさん存在する。だが母娘をテーマにしたフィクションの膨大さの豊潤さに対しそれらを語る言葉は決して追いついているとは言えない。この国の批評家が男性を中心としてきたこともその一因ではあるだろう。
私はこれまで無数の母娘たちに、フィクションのなかで出会ってきた。昔読んだ少女漫画雑誌の片隅で、ふと手にとった文庫本の上で。彼女たちがいったい何を葛藤し、何から抜け出そうとしていたのか。それを言葉にするべきだ。本連載は戦後日本の小説と少女漫画における母と娘の物語を読み解くことによって、彼女たちが語らなかった、語れなかった言葉を探す。そして母と娘の物語というものが、戦後興隆した少女漫画や女性作家による文学的テーマの中心に存在するのだとすれば。その正体を読み解く価値は十分にあるだろう。
文学――それは小説も少女漫画も含めて――の想像力は、少女たちの母殺しを止められるだろうか? いや、母殺しを代わりに担うことができるだろうか。少女たちの、「それは母が許せない」という言葉の呪縛を、解くことができるだろうか。
私はそれを検証したいのだ。そしてこの批評を読んだ誰かに、一つでも多く、少女たちの呪縛を解く物語を綴ってほしいのだ。
なぜ少女たちは「それは母が許せない」と述べてしまうのだろうか。なぜ母と娘の牢獄の萌芽は見過ごされやすいのか。いまだに娘たちがこんなにも母を倫理規範にしてしまうのは、なぜなのか。
文学の想像力は、どこまで母と娘の葛藤を描き出しているのだろう。そして母の牢獄から抜け出せない娘たちを、連れ出すことができるのだろうか。
無力な少女が、書店で、図書館で、スマホの中で手に取ることのできる、母と娘の文学は――蔦のように娘を絡め取る母の牢獄から、娘を解放することができるだろうか?
(続く)
この記事は、PLANETSのメルマガで2021年7月1日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2023年5月11日に公開しました。
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