SNSのプラットフォームがインターネットをどうしようもなく拙速に、窮屈にしてしまっているいま、もっと人間が自由になれる場所を、それも実空間につくることはできないか──そんな考えからはじまった「庭プロジェクト」。建築から人類学までさまざまな分野のプロフェッショナルが、官民産学を問わず集まって知恵を出し合う研究会の模様を、毎月レポートしています。
第5回の研究会では、ボードメンバーである文化人類学者・小川さやかさんによるプレゼンテーション、そしてそれを踏まえた参加メンバーの議論が行われました。主にディスカッションされたのは、タンザニアの商人のインフォーマル経済のあり方を起点に考える、資本主義経済や都市におけるネットワークのあり方についてです。編集部メンバーの視点からそこでの議論をダイジェストする記事の後編では、「基盤的コミュニズムと人間の経済──タンザニア商人を事例に」と題して行われた小川さんのプレゼンテーションをお届けした前編に続き、参加メンバーによるディスカッション内容を紹介します。
端的に言うとね。
贈与経済における「コイン」
従来の資本主義システムのあり方が耐用年数に達しているように見えるいま、私たちはどのような経済システムを構築していくべきなのか。いかなるスタンスや方法で、資本主義経済とかかわってゆけばよいのか。
実質的にはサイバースペースの支配下にある実空間を解放して、事物と直接コミュニケーションできる場所を確保するための都市開発、とくに公共空間の開発における指針を構想することを目指す「庭プロジェクト」。その第5回の研究会では、現代都市の新しいネットワーク構想について、その背景にある経済システムのあり方も含めて議論しました。
後編記事では、前編記事で紹介した「基盤的コミュニズムと人間の経済──タンザニア商人を事例に」と題する小川さんのプレゼンテーション(タンザニアのインフォーマル経済から考える、これからの資本主義経済のかたち|小川さやか(前編))を受けて行われた、参加メンバーによるディスカッションをダイジェストします。小川さんの議論にとりわけ強い関心を示して応答したのは、パターン・ランゲージ、創造社会論などを研究する井庭崇さんです(参考:独創性を目指さない「創造」の話──来たるべき「創造社会」のビジョンを考える)。
「めちゃくちゃ面白かったです。自分の中でも2022年冬頃から『贈与』が熱くなっていて、『実践贈与のメディアとしてのパターン・コイン』というプロジェクトに取り組みました。これまでつくったパターン・ランゲージの中から秋学期の研究活動に役立ちそうな81パターンを選んでデザインし、Fabマシン(UVプリンター)でウッドチップに印刷して、コインをつくったんです。ちなみに、このFABの装置は、(「庭プロジェクト」ボードメンバーでもある)田中浩也さんが、キャンパスのメディアセンターに導入し、学生たちが自由に使うことができるようにしてくれたものです。コインの表にはパターン名とイラスト、裏にはソリューションが書いてあり、コインを見ると1つの実践がリマインドされるような仕掛けになっています。まず最初に、自分が実践したいと思うパターン・ランゲージのコインを選び、その実践を行えば、他者にそのコインを譲渡することができるという仕組みです。毎週30分ほど対話の時間をとり、その中で自身の実践内容の共有とコインの譲渡を行っていきます。従来のパターン・ランゲージは、一人で読んで自分で成長する、あるいは対話型ワークショップで経験談を交換するという仕組みでしたが、もう少しコミュニティの中で実践が誘発されるようなプッシュ型の仕組みを考えたいと思って、このような取り組みを行ってみたんです。
この実践で、(小川さんがプレゼンテーションで触れていた)マルセル・モース『贈与論』のスピリットやハウの話を、自分たちも体験しました。一つひとつのコインは情報が記された物に過ぎませんが、そのコインを他の人にあげる/他の人からもらうという行為を通じて、『がんばって』というスピリットも同時に授受するような側面があるよね、と。モースの話を紹介する前にアンケートをとったのですが、コインを渡す時に相手のことを応援している気持ちになったり、あるいはコインを受け取ったときに『応援されている』と感じたりする学生が多いことがわかりました。さらに『他の人にコインを譲渡するために、自分自身の実践をがんばろう』とモチベーションが刺激されるなど、コインがコミュニティ内で次々と実践を誘発する実践贈与のメディアとして機能することもわかりました。
これはコインの形状ではありますが、貨幣や通貨ではありません。交換のためのメディアではないのです。さらに、コインに記載されているパターン・ランゲージも、過去の先輩たちがつくってきたものであり、そうした贈与を継承しながら、隣の人に実践を贈与していく、という取り組みでもあったんです。2023年の7月にはドイツの学会で同様のパターン・コインの実践を行い、やはりコインを通じて互いにencourageが起きることもわかりました」(井庭さん)
「すごく面白そうです。私も昔、人格があるコインをつくったことがあります。贈与におけるコインとは、無機質で均一なものではありません。ちょっとした贈与であっても、その中にラッキーコインも入っていれば、バッドコインも入っているかもしれない。私たちが『運』と呼ぶようなものが世界に入ると、贈与がもっと面白くなるんじゃないか。そう考えて、ゲットすると急にコインが増えるラッキーコイン、あるいは逆にゲットするとコインが減るバッドコインもあるけれど、それらはどこにあるのかわからない、という仕組みのコインをつくってみました」(小川さん)
また井庭さんは、小川さんのプレゼンの中で出てきた、「生計の多様化」を基調とするタンザニアの商人たちの人間経済にも関心を示しました。
「タンザニアの商人たちは『町の百姓のようだ』という印象を抱きました。さまざまな職能を持っており、流動的で知らない人も混じっている中でも生きている百姓。そしてこの点に関して、社会学者のニクラス・ルーマンが『社会は人格信頼からシステム信頼へ移行する』と言っていたことを思い出しました。最初は『◯◯さんだから信じるわ』という信頼から始まり、だんだんと『経済や科学の仕組みが回っているから信じる』いうシステム信頼ができあがってくるとルーマンは言っている。タンザニアでは、ある程度社会の規模が大きくなっても、人格信頼がそのまま成り立っているのがすごいなと思いました」(井庭さん)
日本ではいつから人間経済が失われたのか?
井庭さんが挙げた「百姓」というキーワードに触発されて、タンザニアのインフォーマル経済において見られるような人間経済の普遍性について言及したのは、哲学者の鞍田崇さんです。
「日本で初めて低温殺菌牛乳をつくった木次乳業という会社の創業者であり、ついこの間103歳で亡くなられた、佐藤忠吉さんという方に会いに島根県の雲南に行ったことがあります。佐藤さんの名刺には『百姓』としか書かれておらず、『僕は僕は、とあなたは言うけれど、出会ったみんなが私です』と言われたんです。決して、タンザニアだけが特別な世界なのではなく、ちょっと前までは、日本にもそうした『分人』的な振る舞いをしていた人はいっぱいいたような気がします。そうした人々がどこへ行ってしまったのか、どこへかき消されたのかを考えなければいけないと思いました」(鞍田崇さん)
「以前、歴史学者の松澤裕作先生と対談した時に、日本は明治時代に働かざるもの食うべからずといった通俗道徳が生まれて、急速に生きづらくなったとおっしゃっていました。江戸時代には、請負で荘園に年貢を納めていた場合、誰かが誰かに借金したところで、連帯責任だったため、なあなあにしていた。ところが明治になって、個々人で借金を背負って返すようになった結果、いろいろ大変になったのだと。
また日本も室町時代くらいまでは、ものすごくアナーキーだったようです。歴史学者の清水克行先生が書かれた『喧嘩両成敗の誕生』という本が面白いのですが、喧嘩両成敗があるのは日本だけなのだとか。たしかに、よく考えてみるとおかしいですよね。西洋であればどちらが正しいのか白黒つけるはずなのに、日本だと喧嘩したら両方とも成敗。これは、当時の日本人があまりにもブチ切れやすかったために生まれた法らしいです。つまり、日本人もかなりキャラが変わってきているのではないでしょうか」(小川さん)
続けて福祉施設「ムジナの庭」を運営する鞍田愛希子さんも、こうした「分人」的なあり方について、小川さんに問いかけます。
「プレゼンテーションで触れられていた、森山工さんの『贈与と聖物』という書籍での議論に関心を抱きました。その議論の中では、『贈られる自己』と『贈られずに保持される自己』との関係のあるべきかたちは示されているのでしょうか? それとも、単に(両者の関係性を)『問うべきだ』という話があるだけなのでしょうか?」(鞍田愛希子さん)
「森山先生の本では、贈られる自己と本体の自己がどういう関係になってるのかを問うことが、モースの議論をしっかり考えていく上で重要なのではないかという話がされていて、私はそれをすごく面白いと思いました。分離可能な『分人』を際限なく生産して、贈り物をするたびに他者に与えることは可能なのか。私本体と、人に渡した私の分身の関係はいかなるものか。そういうことを考えていく必要があると思ったんです。『分人』をいろいろな人たちに届けていくということは、私という人の流れのようなものを承認してくれるグループを作るような行為だと思います。単純に言えば、どういう人生を歩んできたのか、といった足跡を残していくことと同じようなものなのではないでしょうか」(小川さん)
また西洋化する以前の日本、という論点に関連して、デジタルファブリケーションを専門とする田中さんは、タンザニアと西洋的な価値観の距離感について疑問を投げかけました。
「素朴な疑問なのですが、タンザニアではなぜ、西洋のものをそのまま取り込むことが起きないのでしょうか。たとえば、公共的な広場のようなものを、タンザニアの人が『いいなぁ』と思ってそのまま受容するという回路が起きないのは、なぜだと思いますか?」
「タンザニアにもタンザニアの公共性があります。中国にもまた独自の『公』があるように、タンザニアにとっての『公』もたしかにあって、それが西洋的な公共性みたいなものと少し違うのだと思います。西欧のものや近代的なものもいいものは受け入れるが、自分たちの土着のやり方と合わないものはあまり受け入れなくてもいいかな、というイメージでしょうか。
もちろん洋服を着ることに始まり、タンザニアでもいろいろなところで西洋化は起きていますが、自分たちの生活上の論理にとって都合が悪いことはやりません。インターネットや SNSもみんな大好きですが、そのままの形では使っていない。インフォーマル経済は強制しても自分たちにとって不合理なことは聞かない人たちであり、そうでなければインフォーマル経済は発展しないのではないでしょうか。日本もそれでいいのではないかと思います。ヨーロッパのやり方が一番いいわけでもないので、いいところは受け入れ、日本の土着でいいものがあったらそれは伸ばせばいい。タンザニアの人たちも多分それくらいのノリなのだと思います。
あとは、そもそも西洋的な価値観が理解できないという側面もあると思います。たとえばタンザニアの公共圏に、コーヒーを売っている場所がありますが、(西洋で言うところの)コーヒーハウスとは全くの別物です。路肩にベンチが置いてあり、そこで老若男女が話をする。コーヒーハウスと違って、エリートに限らずさまざまな人がきます。コーヒーはおちょこサイズで1杯10円くらいで、新しく場に入ってきた人が10人分くらいまとめておごる。順番におごることで輪の中に入っていくのですが、そこで政治談義なども行うんです。違う意見を言ったりすると拍手が起きたりして、最後に『よく戦ったぜ』みたいな感じで握手をして別れるという、一種のゲームになっています」(小川さん)
インフォーマル経済は万能ではない
一方で、「庭プロジェクト」発起人の宇野常寛は、人間関係の影響力の大きいインフォーマル経済のあり方に対して、一歩引きつつもその可能性を探求する問いを投げかけ、議論は一層深まっていきました。
「今日の小川さんの話は非常に魅力的だと感じました。だからといって、自分自身もまた小商いをしている一人だからです。僕はサラリーマンは肌に合わなかった人間です。じゃあ、独立してバリバリやるのがカッコいいという考え方にも違和感があって、仕事での自己実現がその人のアイデンティティそのもののように捉えられるのは、すごく嫌だなと思うんです。僕がものを書いたり、メディアに出たり出版事業をやったり、といろいろな仕事をちょこちょこやるかたちでお金を稼いでいくのは、ちょうどいい落とし所でとても性に合っていると感じます。このスタイルにはサラリーマンのころにはなかった社会に素手で触れているという実感もあるし、僕は昨今のスタートアップ界隈のように、意識高く自己洗脳をして、ゲームのためにゲームを愛するような生き方は嫌なので……。結局、小商いが一番自分の性に合っていて、今日の話にあったインフォーマル経済のメンタリティにすごく近いものを感じたんです。
ただその一方で、服を購入した相手から『宇野、おまえにこの服似合わないよ』と言われたら絶対に嫌だなとも思います。『頼むからメルカリの匿名配送にしてほしい』と感じるでしょう。それから僕は人付き合いがあまり得意ではないので、カフェに行くときにも個人店にはあまり行かず、いつもチェーンのカフェを選んでいます。なぜなら、放っておいてほしいから。近所の付き合いや親戚付き合いも基本的に嫌いです。何が言いたいかというと、小商いの自営業をベースに社会とのかかわりを考えるののはとても魅力的だと感じる一方で、ここまで人間関係の影響力が大きいこの人間経済はとても窮屈だろうなとも思うんです」(宇野)
「人間経済はもちろん万能ではなく、機械化・自動化されているからこそ助かっていることもたくさんある。それは否定しない方がいいと思っています。『交渉がすべて』といった性質のあるインフォーマルエコノミーは、基本的に面倒臭い。融通に満ち溢れてるとも言えますが、私たちは一個一個の買い物をそんなに真剣に考えたくないですよね。Amazonでぼーっと買い物したいこともある。他方、メルカリやAmazonで一度『★1』評価がついてしまうと二度と這い上がれない、といった世界観も嫌だなと思います。それさえクリアできれば、プラットフォーム経済もいいと思うのですが、もう少し面白くならないものでしょうか。
インフォーマルエコノミーは、既存のフォーマルエコノミーからはみ出した領域ですが、日本ではインフォーマルな領域が認められないことが多い。一方、タンザニアなら、仕事を失ってもある程度は平気。明日からなにか商売をしよう、といった感じになるので、仕事をクビになって絶望するといったことは起きにくいかもしれません。分厚いインフォーマルエコノミーがあるので、絶対どこかで受け入れられ、復活していける。私は誰かと一緒にいたい人、一人でいたい人、働きたい人、働きたくない人、いろんな人がいても、社会が回ればいいと思っているので、もう少し経済にインフォーマルなものを加えていってもいいのではないかと考えています。フォーマル化、自動化を進めていくだけでは、絶対にうまくいかない人が出てきます。そういう人たちの受け皿がもはや私たちの世界(=日本)にはまったくないので、そういうインフォーマルエコノミーの層を考えていきたいなと思っています」(小川さん)
「プレゼンテーションでも紹介していた『プラットフォーム+インフォーマル経済』という組み合わせは意外と可能性があるかもしれませんね。実際に日本では転売の主戦場はメルカリですし。その場合、メルカリの一番の強みはやはり匿名配送であることです。デジタルプラットフォームは、タンザニアにあるような人間経済にポジティブな影響を与えるのか、それともネガティブな影響を与えるのかはわかりませんが、人間関係に依存しないインフォーマル経済も、デジタルプラットフォームとの融合によってこの先出てくるのではないでしょうか」(宇野)
「そうかもしれません。そもそも先程『面倒臭い』と言ったのは、単に『交渉コストが高い』という意味であって、実際タンザニア商人たちはベタベタした人間関係が最も嫌いな人たちでもあります。私たちはいま、資本主義経済のなれの果てを生きる中で、『コミュニティを復活させないといけない』といった議論も出てきていますが、昔はそういうしがらみが本気で嫌だったはずです。いまさらコミュニティとか言っても、疲れるだけですよね。一方で、タンザニアの人たちは面倒な人間関係の風通しをよくすることに命をかけています。そのために、贈与の返礼が10年後に返ってきてもいい、返してくれなくてもいいといったシステムを構築しているんです。
そもそもみんな人の話をほとんど聞いていません(笑)。みんなワーっとしゃべりますが、聞かなくていい。反応が返ってこないことに対しても別に怒らず、反応が返ってきた人が、たまたま都合がよかったんだと思うだけ。一人ひとりに対する期待度がものすごく低く、そういう意味では楽と言えば楽です。以前『チョンキンマンションのボスは知っている』を書いた後に、精神科医の森川すいめいさんという方に、日本の自殺希少地域について書かれた『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』という本について教えていただきました。その本の中で、関係が『多であるが疎』という話があって、タンザニアも同じだと感じたんです。日本では、関係が『少かつ密』。少数の関係を失ったら死ぬみたいな感じで、しかも人間関係が濃い。タンザニアの人たちは、人間関係がいっぱいあるが、一個一個が適当でスカスカしている。いっぱいあるからとりあえず孤独ではないが、一つひとつの関係性に対して真面目には向き合っていない。『多で密』の関係はつらすぎるので、そうした『多で疎』な関係を構築するのがよいのではないでしょうか」(小川さん)
「『多で疎』とは、初期のインターネットの理想形ですよね。その後、SNSを中心に広告モデルを中心としたアテンションエコノミーが駆動していく中で、個々のアカウントのインセンティブ設計が、グローバルヴィレッジを作っていく方向へ向かった。タイムラインの潮目を読んで、なるべくリアクションがくるような方法、つまり、みんなが話している話題について投稿し、主流派の意見にイエスかノーを言うのが一番コスパがよくなっていった。その結果、『多で疎』だった初期インターネットの関係が、ボトムアップによる擬似中央集権化によって損なわれたというのが、一般的なWeb2.0に対する批判としてあります。こうなってしまったプラットフォームに対して、どのようにカウンターをぶつけていくのかを考えるのが『庭プロジェクト』です。
『多で疎』な関係性を、いかにして実装していくのか。『多で疎』な状態の成立条件は、おそらくあると思います。経済構造や情報技術によってその条件は変わっていくと思いますが、この先やってくるグローバルシティ化の波に対抗するために、このプロジェクトではその条件やコンセプトについて考えてみたい。適切な規制とは何かということを具体的に考えていきたいと思っています」(宇野)
「タンザニア人がなぜそうなのかはよくわからないのですが、彼らのインターネットはあまり炎上しないんです。そもそもの人間に対する期待度が低いからではないかと思います。基本的に人間はちゃんとしていないものだと思っているので、失言をした人がいたとしても、『この人はちょっと落ちているんだろうな』という反応をする。相手が正しくコミュニケーションをしてくれるだろうという期待が、全然ないんです。
人間は、お腹が減ったり、経済状況が悪かったり、誰かに捨てられたりすると、ちょっと気分が沈んで変なことをし始める。みんながそういうふうに思っているので、みんな基本的にはバラバラなものをSNSに投稿する。誰かが結婚すると、みんなでその人たちの写真をバンバンネットにあげるけれど、離婚するとシューっと取り下げる。誰かが逮捕された、嘘をついていたといったネガティブな情報は、噂では流れますが、ネットには流さないという謎の仁義があるんです」(小川さん)
また宇野は人間関係やコミュニティのあり方に続けて、仕事や労働といった観点でも問いを投げかけました。
「日本に限らず近代社会においては、仕事と自己実現が密接に結びついています。自分でやりたいことを見つけて、職業として自分と社会との接点、自分なりのやり方で見つけ出すことこそが正しい生き方だというイデオロギーに、僕たちは支配されていると思います。一方で、タンザニアのインフォーマルマーケットの世界は、そうした世界とはだいぶ違うように聞こえる。タンザニアのインフォーマルマーケットでは、自己実現の問題はどう捉えられているのでしょうか」(宇野)
「立派な職業に就くことがいいことである、働くことこそが素晴らしいという世界観はまったくありません。自己実現の手段が、仕事だけではないのだと思います。男性であっても、仲間をいっぱい作ること、家族を持つことも同じような自己実現だと思われています。そもそも仕事がコロコロ変わるので、そこにこだわりがほぼない。古着を売っている人は、『ダメだ、古着が儲からなくなった』となった時に、素早く次の商売に乗り換えることこそ、生きていくために重要だからです。
もちろん、仕事として古着屋をやっている時には、『あそこの人がこういう古着が好きで』とか『最近の流行りはこれで』といった研究をみんなしています。売れるようになるための地道な努力はするんです。一方で、みんな『もうちょっと面白い仕事があるかも』と常に思っていて、新しいチャンスが来たら飛びつきます。そもそも生計を多様化しているので、転職のハードルがものすごく低い。転職に失敗しても、元に戻るだけ。他でも食べていけるので、嫌になると退出して次に行ってしまう。ですから、仕事上のキャリアアップをしていくという自己実現、のような考え方はないのかもしれません」(小川さん)
「(小川さんのプレゼンテーションの)最初の方に出てきたジェームズ・スコットの『実践 日々のアナキズム』は、資本主義のホワイトカラーとかのサボりや制度のハックこそが現実に機能する、といったことを主張しています。最近、社会学者の阿部真大さんが、近しいことを書いていました。ブレジネフやゴルバチョフの末期のソ連では、誰も共産主義のお題目なんて信じておらず、革命記念日のような共産主義のイベントがほとんど縁日として活用されていたと。バブルの頃くらいまでの大企業も、割とそうした文化で成り立っていた。社の規定や社内行事が現場でハックされ、現場に資するようなものとして使われていた、みたいなことを書いていたんです。
その議論を読んでいて思ったのは、どちらも制度疲労を起こしている時、つまりフォーマルなマーケットの方が普通にやっていると機能不全を起こして事故るぐらいのレベルになった時に、現場がその知恵を出しているということです。もし今のプラットフォーム資本主義に対して、スコットの言うアナキズムのようなカウンターをぶつけるとすると、こうした機能不全みたいなものが前提として必要になるのだと思います」(宇野)
「プラットフォーム資本主義に対して、『プラットフォーム協同組合主義』など、自分たちでプラットフォームを運営してその上がりをなんとかしましょうといった話が出てきていますが、私はそれこそ自己矛盾なんじゃないかと思っています。コミュニティをつくることと、オープンネスを進展していくプラットフォームが、いったいどういう相性になっているのだろうかと。直接的にスコットの議論をどう応用すべきなのかはまだ考えられていませんが、そういう形の離脱ではない、プラットフォーム資本主義に対する考え方ができないものかと考えています。
もともとスコットは、小農と地主の『モーラル・エコノミー論』や『Seeing like a state』といったリップサービス的なエッセイから出発しています。東南アジアのモーラル・エコノミーの話とは、シンプルに言えば、自作農になれば、地主に召し上げられずに暮らしていけるのに、なぜ小作農がずっと小作農のままいるのかという話。本当は自作農の方が儲かるのに、彼らがあえて小作農のままでいるのは、小作農のままでいれば、飢饉などの大ピンチの時に、地主に生存補償してもらえるからだ、というようなことを言っているんです。この話は、ブラック企業の話に通じます。そんなに苦しめられているならやめればいいのにと思いますが、実際に自作農になったら、ピンチの時に困る。ブラック企業でも一応社会保障がついているから、何かあった時に安心なので、起業はしない、という話とすごく似ていると思います。その意味で、スコットの日常的抵抗論の話は、そんなに万能ではないとは思います」(小川さん)
「たとえば昨今話題のサラリーマンの副業解禁については、肯定的な可能性を探していくための議論が必要なのだと思います。食えないから何かやろうとか、副業をやった方がキャリア形成に有利であるといった世界観はどうでもよくて、社会とつながる回路を別に確保することによって、経済的なリスクヘッジにもなるし、アイデンティティの置き場もできる、という部分が重要ではないでしょうか」(宇野)
「私も基本的にはそういうことが言いたいんです。タンザニア人みたいに、貯金をゼロにして全部を贈与してしまうのは、私たちの生活からすると非現実的ですが、全然違う回路として社会とつながっておくことで、仕事における自己実現と自分が100%リンクしてしまう、それに失敗したら私は全面的に終わりだ、といった世界にならないですむ。その点ではすごくいいと思いました」(小川さん)
その他、研究会ではボードメンバー以外からの質問や意見も多数出てきて、タンザニアにおけるジェンダー格差や、商人「ではない」人の世界観、また専門家像など、さまざまな視点からインフォーマル経済の実像、そしてそれを踏まえたこれからの資本主義経済のあり方についてのディスカッションが白熱。「庭プロジェクト」において、今後いかなる経済システムやコミュニティを前提とした都市開発を目指していくのかについて考えるうえで、多方面でヒントが得られた研究会となりました。
[後編・了]
この記事は小池真幸が構成・編集をつとめ、2023年11月2日に公開しました。Photos by 高橋団。