「庭プロジェクト」とは、これからのまちづくりについて、建築から人類学までさまざまな分野のプロフェッショナルが、官民産学を問わず集まって知恵を出し合う研究会です。
今回の研究会では、ボードメンバーの鞍田愛希子さんによるプレゼンテーション(「孤独」は「自律」への入口となるか?──「こらだ環境研究所」から考える|鞍田愛希子)、そして参加メンバーによるディスカッションが行われました。後編では、そのディスカッションの内容をお届けします。
「庭プロジェクト」の連載記事は、こちらにまとまっています。よかったら、読んでみてください。
端的に言うとね。
縁側ではなく「中庭」。あえて閉じることの意味
プレゼンテーションを受け、まずコメントしたのは建築家の門脇耕三さんです。ムジナの庭からこらだ環境研究所への機能分化のプロセス、社会・地域との関わり、そして西洋的な「中庭」の発想と「庭」の関係について問いかけました。

「以前ムジナの庭で行った研究会での発表のときに、新たな施設の立ち上げを検討しているとおっしゃっていたと思うのですが、当時はまだ構想が具体的ではありませんでしたよね。そこからどのように、『ケア』に特化した施設というアイデアに至ったのか、聞いてみたいです。
また今日のプレゼンテーションには、内面や人そのもののケアの話が多かったと思いますが、社会や地域との関わりについてはあまり言及されていませんでした。地域との関わりについて、今後の構想を含めてどのように考え、実践されているのかも気になりました。
それから最近、『日本の庭と西洋の庭は違うよね』という議論をよくしていまして。というのも、日本の庭は”in between”なんですよね。社会があって家があって、その間に縁側などがある。一方、西洋はプライベートとパブリックがバシッと分かれていて、一度閉じた中に中庭があるという構造が多い。その意味では、こらだ環境研究所は、縁側的なものではなくて、もう少し西洋的で、内側にあるものなのかなと思って聞いていました。つまり、こらだ環境研究所は、社会というより自分と関わるための庭、ということになるのではないでしょうか」(門脇さん)
「ケアに特化した施設をつくったのは、メンバーの安全性やスタッフの負担、ケアと就労支援のそれぞれの効果、経済的な合理性など、複合的な要因がありました。ムジナの庭では、ものづくりやデザインに興味のあるスタッフが多く集まってくれた中で、時にリスクも伴う『こころとからだの支援』をどこまでやりきれるか、という問題がありました。そして、今の就労継続支援B型事業所は、基本的に生産収入を上げないと報酬が上がらない仕組みなので、メンバーの工賃とスタッフの給与を維持・向上させる生産を考える脳と、一人ひとりの心身の状態に合った支援や進路を考える脳の両方にキャパをとられてしまうのも難しいところでした。ですから、一旦はムジナの庭の構造をシンプルに『働くこと』に集中させてあげたかった、という理由が大きかったと思います。働く中で発生する技能的なサポートも大切で、その前段階にいる方のケアは、また別の場で丁寧に進めていく必要も感じていました。
地域との関わりについては、『play here』という小金井市のインクルーシブな公園づくりのプロジェクトに加わってみたり、イベントやボランティアに参加したり、みんなで取材を受けたり、環境プログラムでいろいろなところへ訪問したり、わりと活発だと思います。ただ、参加者はわりと限定的なんですよね。大きく開く段階ではないのかなというのが、一年やってみての感覚です。なので、小さく開いたり閉じたりしつつ、こら研の中で自閉の構造を作って、内的対話と内的世界の拡張を続けてみています。こら研自体が人みたいなものなので、まずはそうした内部での取り組みにしっかり馴染んでから、ようやく他者と溶け合うとか、境界線を越えた交流が始まるのではないかと思っています。
中庭の話はとても面白いですね。ムジナの庭は、やはり伊東豊雄さんの建築ということもあって、人が出入りしやすくなっているんですよね。当初は、まさに縁側のある物件を探してもいました。ただ、実際に始めてみて感じたのは、縁側的交流やたくさんの他者と溶け合うことをみんなが望んでいるわけでもないんだなということ。さらに『働くこと』に特化したので、以前よりパブリックな側面が強まっているかもしれません。
他方、前編のポリヴェーガル理論の話でいうと、こら研に来ると『緑』が増える、と研究員によく言われます。要するに、安心・安全だったり、内面世界の話を好きなだけできる。おっしゃる通り、こら研はごくプライベートな場でありつつ、厚着していたものを脱いで、半そでになれるような『中庭』感があるかもしれません。そうした『中庭的発想』は、今後もっと膨らませてみたいなと思いました」(鞍田愛希子さん)
「分ける」と「分けない」のあいだで
続いてコメントしたのは、哲学者の鞍田崇さんです。プレゼンテーションのキーワードである「分離」をめぐる哲学的な議論に話を広げつつ、現代の「こらだ」状態がもたらすリアリティへの気づきを率直に述べました。
「僕はこら研が立ち上がるプロセスを傍らでずっと見させていただいてきましたが、おそらくこら研を立ち上げるプロセスは、『分ける』という手続きだったのだろうなと思いました。もともとムジナの庭の始まりには、『分けない』ということに可能性を見ようとしていたということがありました。分けられない、フュージョンしたエリアとしての『庭』性みたいなものに、ケア的な要素も含めて可能性を探ったのですが、現実はそれではうまくはまらず、『分ける』という発想でこら研というものに至った。僕の専門である哲学の文脈で言うと、近年は心身二元論をはじめ分けすぎていたから、分かれていない、もっと統合的な人間の捉え方をしようという議論がトレンドでした。対して『こらだ』は逆で、あまりにこんがらがっているから、分けなければもうどうしようもなくなってしまっている状態を指します。統合する部分と分ける部分が絶えず往還するなかで、人の心についての議論が、一歩先へと動いてきているのだとあらためて感じました。
もう一つ、本当は現代は、こんがらがっている『こらだ』状態の人が多いようにも思えます。プレゼンテーションで指摘されていた、職務への適性やビジネスマナーが身についているのにもかかわらず、感情のコントロールや基本的な生活のリズムというベーシックなところが難しいという話もリアルでした。外面だけではわからないけれど、実は一番ベーシックなところがぐらついている、というのは現代において非常にリアリティがあるなと思いました」(鞍田崇さん)

「ムジナとこら研が立ち上がるプロセスの根幹にも関わる観点で、なるほど、と思いました。たしかに、『分けない』『分ける』それぞれによさや発見があり、まずはその違いを味わいながら、活動を形づくってきた側面がありました。一方で、何もしない、触れない領域をどれだけ残し、意図的に操作しないでいられるかだったり、『庭』性は共通して大切にしてきました。本人が切実に解消したいもつれだけ、一緒に手を入れていくイメージです。私は植木屋の経験から、植物と人を同じように捉えています。メンバーやスタッフの伸びたい方向を一緒に見つけ、混み入った枝だけを切って、風や光が入るよう気持ちよく枝を伸ばしていく、そんな剪定を自分でもできたり、他者へ依頼できるようになることを目指しています。ただ、整理されすぎるのも不自然というか、管理的で息苦しさを感じるので、整わないあいまいな領域が残ることも、同時に大切にしています。そもそも自分自身の生き方も含めて、どっちに進むかわからないという感覚を、私は嫌いではなくて。
こんがらがっている『こらだ』状態については、さまざまなケースがあります。もともと日常や学校で求められることが苦手な場合、その原因が長く見過ごされ、親や先生から叱られた経験が多く、人と関わるたびに不安や恐怖が出るパターン。虐待などによって脳がダメージを受け、認知機能の低下や感情のコントロールが難しくなるケースなど。ふつうに学生生活はできているのに家の中でリストカットをしている、あるいはバリキャリのサラリーマンなのに家ではネットで誹謗中傷ばかりしている、といったズレが生じる場合も。障害と言えるような、言えないような、その人の側面によって切り取られ方が一気に変わるものだと思っています。単に症状や病気として見るのではなく、どの枝を残してどの枝を切った方がよいのか、環境に応じた見極めが重要になってくるのかなと思います」(鞍田愛希子さん)
「第三の施設」に向けて。こらだ環境研究所の「特別さ」とは?
慶應義塾大学SFCの田中浩也さんは、スタッフの心理的安全性と「第三の施設の構想」いう二つの軸から、鞍田愛希子さんの実践を問い直しました。
「この分野はそれほど詳しくないのですが、昔京大の総合人間学部の学生だった頃に斎藤環さんや河合隼雄さんの著書をよく読んでいたとき、患者のことを取り上げる論述が一般的で、スタッフに言及する論説をあまり読んだことがなかった記憶があります。対して、今日のお話はスタッフ論としての性質が強いのかなと思って聞いていたんですよね。スタッフがバランスを取れることが最低限の保証と考えられているように感じたのが、今日はとても印象的でした。
それから以前、『ここでやっていることはちょっと特別だから、三つ目の施設も構想している』とおっしゃっていましたよね。こらだ環境研究所の『特別さ』って何なのでしょうか? 内面までかなり入るという点が特徴なのか、それとも、ここがある意味で居心地が良すぎて次に行くのが難しいということなのでしょうか」(田中さん)

「一つ目は、あまり意識したことがなかったですが、たしかにこれまでもスタッフの話はよくしてきたかもしれません。スタッフにも、もちろん得意・不得意がありますし、それらをみんなで分け合うようにしてきました。それらへの許容が、そのまま支援にも直結していくと考えているんだと思います。
二つ目のご質問は、前者の方で、ここまで自分のこころやからだ、その変化に集中するような福祉施設が、多くはないかもという話でした。私たちは医療機関とも連携して、主治医に相談させていただいたり、心理士さんにスーパーバイザーとして入ってもらったり、地域の関係機関とチームを形成しながら、慎重に進めているので、安全な範囲内での実践にはなると思います。ふつうはリスクもあるので、むしろ避けることが多いかもしれません。ただ、医療機関の方からは、こういう場がもっと地域に増えてほしいという声はいただきます。
そういう中で、第三の施設をどうしようかと考えてはいるのですが、いまは、就労移行(一般就労を目指す施設)の開設準備を進めています。こら研やムジナに通っている方のなかには、一般就労を希望している方も多く、ただ、就職への困難さがスキル面ではなく心身のバランスや感情のコントロールだったりして、通常の就労移行では上手く変化できなかった、という方もけっこういらっしゃるんですよね。いずれにせよ、色々なタイプの事業所が点在していくのは悪くないなと思っているので、より多くの選択肢が増えていくといいなと思います」(鞍田愛希子さん)
挑戦的な福祉、「ふつうの人」へのアプローチ
続けて発言したのは、文化人類学者の小川さやかさん。自身の指導する大学院生が取り組んでいる二つの研究と重ねながら、歴史と身体という切り口から、鞍田愛希子さんの実践に光を当てました。
「所属先の研究科院生に、IPS(個別就労支援)の8原則について研究している学生がいます。利用者の希望に沿って準備を整えるのではなく、希望に沿って就労支援していくという発想についての研究です。欧米型では効果が実証されているようなのですが、医療者からは批判もあり、企業としてもハードルが高いという話を聞きました。一方で、その院生は歴史研究にも取り組んでいて、谷中輝夫さんという方が運営していた『やどかりの里』という施設で、少ないスタッフの中で、とにかく利用者さんたちの希望に沿うということをやっていたということも教えてくれました。人を教育するというか、強制的に何かを変えていくのではなくて、その人にとっての当たり前の生活を実現することを起点に置きながら、利用者さんたちの希望を叶えることを中心にして就労支援していたというやどかりの里が、IPS8原則をある意味先取りしていたのではないかとお話しされていました。この話は、こらだ研究所とどこかで重なるものがあるのかなとも感じました。
それからまた別の院生で、荒川修作+マドリン・ギンズの三鷹天命反転住宅の発想から着想を得て、ダンスワークショップを実践・研究している者もいます。そのワークショップでは、自他の境界は自明ではない、体と心は明確に区分できないということを、日常の感覚を逆転させたり制約を課したりすることで示しているそうです。マイノリティのほうを変えるのではなく、ふつうに生きていると考えている人たちに、全然違う身体感覚や自他の感覚、心と体と環境の再設定を実験的にしてもらう、という試みです。そうして『私たち』と『彼ら』をもう少し同一線上に配置する設計に取り組んでいるのを見て、自他、心と体の分離、環境との関係性にも実はそういう同一線上にある面があるのではないかとも考えたのですが、どう思われますか?」(小川さん)
「IPSについては以前から関心があり、今まさしく、みんなで学び始めているところです。入院中から就職活動を始めるケースや、生活を整えないまま就労を目指したり、色々なケースがあるかと思います。広い意味では、北海道のべてるの家や、愛媛の御荘診療所などの取り組みも根っこは同じで、まず働けば、生活はあとからついてくるという考え方もできます。障害の有無にかかわらず、やどかりの里のような自由な実践によって、もっと生きることが面白くなれば、自然と働きたくなったりするのではないかな、とも思います。日本の精神保健福祉施策は『入院医療中心から地域生活中心へ』と いう方針を掲げつつも、より自立度の高い就労系サービスが圧倒的に多く、退院者を増やせないできました。IPSも企業側によっぽどの理解があれば一緒に伴走できるのですが、バックアップがないとなかなか引き受けられない。もう少し医療に近い地域サービスや企業のグラデーションの幅が厚くなっていくとよいように思います。おそらく、日本における福祉の走りの頃、作業療法などが始まった頃が、一番『生活とは何か』ということが真剣に考えられたタイミングだったのではないでしょうか。病院で暮らしながら、入院患者が外へ働きに出たり、みんなで海外旅行へ行っていたと聞くこともあります。それが、今ではルーティンワークのようになってしまって、社会全体でも、福祉の業界でも『作業療法とはこういうものだ』という感じになってしまった。一線を越えて面白いことをやるというチャレンジも、今のコンプラ時代には生まれづらくなっている気がします。
荒川・ギンズの話、めちゃめちゃ大共感です。実はムジナの庭を立ち上げる前に、荒川修作とギンズの住宅のことはかなり参考にしていました。宮崎駿さんが荒川修作さんに心酔されていた時期があったようで、養老孟司さんと宮崎駿さんの『虫眼とアニ眼』のなかでも、危険や不便を排除した平らな都市ではなく、街全体に隆起やでこぼこがあって、サバイバル能力や感性が発達するような街をつくりたいと語られていました。岐阜の養老天命反転地と岡山の奈義町現代美術館は行ったことがあったのですが、三鷹は近すぎて、この間ようやく見学ツアーに参加できたところです。普段使わない筋肉や感覚が動くような豊かさがありました。荒川さんの原色で幾何学的なデザインとは異なる、宮崎さんの思い描く街が、小金井で実現できていたらどんな世界だったのだろうと、わりと今でも想像しています。
結局、家事をしましょう、運動をしましょうと言ってもみんななかなか続けるのは難しいんですよね。私もそうです。ただ、自宅の床がでこぼこしたり斜めになっていたりしたら、家に帰るたびに自然と昇降運動になる。そうした『いつの間にか運動していた』というような設計がどこかで実現できないかな、ということはムジナの庭を開く前によく考えていました。歩くだけで土踏まずが刺激されたり、あえて天井やハシゴを使ったりとか、そうしたことをもう少し実現できたら何が変わるんだろう、というのはずっと興味があります」(鞍田愛希子さん)

「制作」と「自律」の入れ子構造
最後にコメントしたのは、「庭プロジェクト」主宰で批評家の宇野常寛です。「つくる」と「自律」の入れ子構造、そして「メンテナンス」というキーワードについて、今回の議論全体を引き受ける問いを投げかけました。
「『庭の話』(講談社、2024年)はムジナの庭の実践にも大いに触発されて書いた本でしたが、こらだ環境研究所の実践は、僕がその後に書いた『ラーメンと瞑想』(ホーム社、2025年)に対応するなと思いながら聞いていました。『庭の話』の結論部ではハンナ・アーレントのいう労働(labor)にいかに制作(work)の側面を取り戻すかという問題提起をしました。つまりネジや歯車のような、疎外された労働をその外部、具体的には国家や家族、あるいは職場の共同体が承認を与えてアイデンティティを与えることで耐えるというのが、前世紀的なモデルだった。しかしこの回路の弊害が21世紀の今日には噴出して、それが現代のSNSポピュリズムの前提にある労働者階級のアイデンティティ不安になっている。この解決方法として、ほとんどの人はやっぱり国家や家族や、何らかの共同体を再起動することを考える。でも僕は違って、労働の疎外をちゃんと解消する方向が有効だと考えたわけです。アーレントの言う労働(labor)まさにネジや歯車のような疎外された労働です。これにちゃんと自分の仕事が世界を改変していると感じられる要素が、つまり制作(work)の側面が回復されることが僕は大事だと思うわけです。
ただ、実はここで言う『制作(work)』することとあるいは自律することの関係はかなり複雑です。要するに『制作(work)』を可能にするための自律でもあり、自律を可能にするための『制作(work)』でもあるという、入れ子構造になっている。一般的には制作(work)のために自律が必要だと考えるわけですが、僕の感覚はむしろ逆で、制作(work)することではじめて自律できているように思えることも多いんです。
たとえば僕は、もう何年も毎週『朝活』をしてるのですが、これを始めたのも、忙しい中でも良いコンディションでやりたいこと、つまり制作に集中するには、暮らしを整えなければならないと強く思ったからです。つまり制作の欲求が、そのまま自律への意思につながっている。逆もまた然りで、自律して生きるためには制作の快楽や充実がいちばん助けになる。物事をつくることの快楽は、つくるものが承認されたり、評価されたりする快楽とは別個に独立して存在する部分があり、それが自律を促すわけです。
愛希子さんの実践に引きつけると、ムジナの庭は制作に、こらだ環境研究所は自律に軸足があるように思いました。『ラーメンと瞑想』に出てくるTさんは編集者で、僕と10年ほど一緒にものをつくってきた人間です。彼が修行としてやっているのが、合気道と、ダンテの『饗宴』の翻訳です。100年ほど前に一度翻訳が出たきりのものを、彼はイタリア語が堪能なので、エクササイズとして翻訳しているんです。ここでは『制作』自体は、商業的な価値をまったく帯びていない。つまり彼は『制作』を通じて『自律』している側面がすごく強い。こうしたかたちで、自律のために『制作』するという観点も、きちんと取り入れて考えていかなければならないと、今日の話を聞いてあらためて思いました。
もう一つ、僕は模型や玩具がが好きなのですが、そこで重要なのは『メンテナンス』なんです。玩具業界においてリペアは大事な概念です。再生産されないものが多いからです。経年劣化して、色褪せもするし、素材もボロボロになる。消費と制作の間の『メンテナンス』という概念は、実はケアの話とも親和性が高いのではいかと考えています。再生産されないマニアックな商品なので、自分がリペアしないと、ものとして存在できなくなる。美に奉仕している……と言うと大げさですが、非常に大きな充実感があります。ものを無駄にしなかったという充実感、好きなアイテムを再生したという充実感、それ自体の『これめっちゃいいじゃん』を享受する充実感が、自分の中に湧き上がってくる。愛着や責務ではなくて、純粋に喜びのためにやっている感覚があります。『制作』的な活動の中でも、特にリペアすることは、自己表現や自己実現により結びつづらい。この感覚も重要だと思っています」(宇野)

「ミュージシャンのCoccoさんが、自分のつくった音楽はうんこだ、といったことを言っていて。自然に湧き出る感情とか苦しみを吐き出す過程で、たまたま出てしまった排泄物のようなものを人にいいと言われ続けただけで、自分は売れたいわけでも表現したいわけでもなかった、と。
例えばこら研では、ひどいフラッシュバックと毎日の悪夢で、生きているか起きているかわからない状態になったり、突然、感情の浮き沈みが激しくなってお金を使いすぎたりして、しばらく来られなくなる方もいます。自責の念でさらに悪循環になるのですが、ものづくりや絵を描くことだけは家でできたりする。一定期間の『自閉』を私たちは許容していて、無理に外と繋がることを勧めたりはしません。『こもってつくれるならそれでいいよ』と待っていたら、数ヶ月でそこから抜け出せることがあります。本来は“排泄物”だったものがイベントで売れたり、仕事に繋がったり、誰か他の人の価値になり、自律の一歩になる。その場合、売るため・稼ぐためにつくっているのではなく、生きるためにつくっているんだと思います。つくることでその人がその人でいられる、ということは、こら研でもけっこう起きている気がします。
宇野さんのおっしゃる通り、ムジナは『制作』『稼ぐためにつくる』、こら研は『自律』『生きるためにつくる』、同じものづくりでも軸足は大きく違うと思います。。そして食べることは本当に根源的で、一番最底辺の土台に当たりますよね。山口祐加さんの『自分のために料理を作る:自炊からはじまる「ケア」の話』(晶文社、2023)にもあるように、簡単でも自分でつくることに意味がある。ただ、『つくらねばならない』にはしないで、つくることの意味や安心を感じられることに重きを置けるよう、バランスを大事にしたいと思っています。
またメンテナンスの話は、こらだ環境研究所の1周年記念イベント「リペアとこらだ環境の関係って?」で上映した映画『リペアカフェ』が伝えようとしたことともつながっています。リペアカフェはオランダ発祥の活動で、お店では修理を受け付けてくれない壊れた家電や自転車、破れた服など、あらゆるものを地域のボランティアが無料で直してくれるという取り組みです。みんなの知恵を共有する場として機能しているだけでなく、『修理したいのはモノだけじゃなかった。』というキャッチコピーの通り、亡くなったおばあちゃんとの関係性をリペアするストーリーもあったりします。宇野さんがプラモデルを直しているその時間には、ただのモノの修理だけではない何かがあるのかもしれません。
こら研では、必ずしもその人の『表現』を重視していないし、アートなどには苦手意識のある方も多くいます。それでも、ものづくりのどこか一工程だけでも関わることで、『何か一つものをつくった』という事実がその人のなかに残って、そこに充実感や満足感が得られていくことがあります。アクセサリーのデザインにはまったスタッフがいて、夢に出てくるくらいアイディアが湧く、と。彼女が形や色の制約を決めてくれて、みんながそれぞれの形を切ったり、色を塗ったり。。それだけでも、『つくる』ことによってフロー状態が起きるので、幸せなんですよね。幸せな感覚や没入体験が、いままでの何かを一気に洗い流す。つくることの喜びが何かを突き動かすということは、いろんなタイミングで感じています」(鞍田愛希子さん)

[了]
この記事は小池真幸が構成・編集をつとめ、2026年6月18日に公開しました。



