JR総武線浅草橋駅あたりを歩いていると、しばしばトラップに掛かっている人を見かけることがある。
 このトラップのことを、私は勝手に「浅草橋トラップ」と呼んでいる。
 浅草橋駅前でキョロキョロあたりを見渡している人から、「すいません。雷門はどっちでしょうか?」と尋ねられたら、その人は間違いなくこの「浅草橋トラップ」に掛かってしまっている。
 人力車が走り仲見世が軒を連ねる浅草寺周辺をイメージして、JR浅草橋駅を降りた人はあまり観光地に見えない駅前の風景に面食らうだろう。
 こういう人に「ここから雷門だと結構歩きますよ。タクシーか地下鉄で行った方がいいです」と教えてあげると、驚いた後に複雑な表情を浮かべる。
東京の地理に詳しくない人に説明すると、JR浅草橋駅と観光地である浅草寺の雷門は、直線だと1.7kmほど離れている。地下鉄の駅だと二駅ほど先で、ここまで離れていると、まったく違う場所と言っていい。
本来、浅草は台東区の東半分を占める浅草地区全体を指す地名である。しかし、浅草と言われれば浅草寺周辺の観光エリアのイメージが強すぎて、浅草という地名が駅名に付いているので、雷門は近いはずという思い込みで浅草橋駅に降りてしまうのだろう。
 東京に住んでいても、このトラップに掛かってしまう人がいるらしいので、浅草がRPGダンジョンだとしたら、冒険者はまずこの浅草橋のトラップを十分警戒しなければならない。

 そんな訳で、今回はあえてこの「浅草橋トラップ」に自ら嵌って、JR総武線浅草橋駅に降りてみることに……、いや、その前に駅の構内をじっくり観察することに。
 古い鉄道の駅の構造体などにレールを再利用したものを見かけることがよくあると思う。ここ浅草橋駅の上家(雨露よけの屋根をかけた簡単な建物)もそうなのだが、この古いレールで作られたアーチは都内屈指の美しさを誇ると思う。

 レールを材料にした構造体はまだ各地に残っているが、ずいぶん建て替えられて姿を消しつつある。こうした屋根を支えるアーチまでレールというのは珍しいので保存を望むが、いずれは姿を消す可能性もあるので、ぜひその目で。
 しかも、この古いレールに記された製造した会社を確認すると、もう少し面白いことに気づく。

 これらの古いレールは、ドイツのクルップ社、同じくドイツのウニオン社、そしてイギリスのシェフィールドを拠点にしたキャメル社と、いずれも19世紀から世界中に輸出されたヨーロッパ製レールであることが分かる。
 明治時代の日本は急激に鉄道を導入したが、国産レールが開発されるまではこうしたヨーロッパ産レールを輸入しており、浅草橋駅はこうした19世紀ヨーロッパ工業国のレールを再利用して作られているのだ。
 総武線は東京から明治時代に東京本所(現墨田区。のちに両国まで延伸)から千葉県各所を結ぶ武総鉄道と総州鉄道が合併し(両社の頭文字を取って総武)、その後国有化された路線。この路線が関東大震災の復興からさらに万世橋駅まで延伸されたのに伴い、昭和7年に急遽建設開業したのが、この浅草橋駅である。
 震災の復興中で資材節約などを鑑みながら建設されたので、その時点で効率的に利用できる明治時代の古いレールを建設に流用したのだろう。浅草橋駅でヨーロッパの産業革命の匂いを嗅ぐのも悪くない。
 プラットフォームだけで、19世紀のヨーロッパ産業革命と日本鉄道の近代化と震災復興の歴史を感じさせてくれる。浅草橋駅は侮れない駅である。

 プラットフォームを降りて改札口を出る……しかし、再びその前に改札脇のショーケースを見ることをお勧めする。

 このショーケースには、東京を代表する人形メーカーである「吉徳」「久月」が時期や季節に合わせた人形を展示している。今はやはり開催中のオリンピックをテーマにしているが、五輪招き猫がちょっとかわいい。
 なぜ、人形のショーケースが駅の構内にあるのかというと、江戸時代にこの駅の周辺(現浅草橋一丁目)は浅草茅町と呼ばれていたが、端午の節句の前に菖蒲人形市、桃の節句の前に雛人形の市が開かれる場所であった。「茅町でしのぎを削る節句前かな」という古い川柳があるくらいで、人形職人の住宅や問屋が江戸時代から多い地域なのである。
 実際、駅から江戸通り側に降りると目の前に飛び込んでくるのは、こうした人形メーカーの大きなショールーム併設の店舗である。

 少し裏に入れば、人形問屋や人形製造の看板があちこちあり、ここ浅草橋は人形の街とすぐに感じることができる。

 しかし、浅草橋駅を降りてすぐに気になるのは、もしかしたら、線路の高架下に並んだ小さなアクセサリーパーツのお店かもしれない。

 ビーズ、天然石、淡水パールなどなど、アクセサリーパーツや材料のお店が点在し、女性を中心としたお客さんが熱心にそれを見て回っている。
 いや、アクセサリーパーツだけではない。駅周辺を歩けば、革製品、造花や花火、おもちゃ、お土産グッズ、店舗装飾品や服飾のパーツなどなどのあらゆる雑貨問屋がひしめき合っている。

 ご存知の方も多いと思うが、ここ浅草橋は日本有数の雑貨問屋街なのである。
 しかし、雑貨と一括りにしてしまうのは気が引けるくらい、ここの商品の幅は大きい。これらを見て回るだけでも面白いが、日本雑貨の歴史を知っているとその面白さは倍増する。
 現在では日本で見かける雑貨の多くが中国などの海外から輸入された製品だが、かつてはまったく逆で、日本は国内で雑貨を製造し世界に輸出する「雑貨帝国」だったのである。
 昭和51年に三井物産社史編纂委員会が出版した社員の『回顧録』などを読むと、戦前日本では輸出は傘やナベ、カマ、陶器、セルロイド玩具などを扱う雑貨が結構な花形だったとある。
 昭和初期になっても国際競争力のある日本製工業製品は限られていて、繊維などを除けば町の雑貨のような商品が日本の輸出品の柱の一つだったのだ。
 当初は日本製石油ランプも品質が悪くてアジア市場ではドイツ製に勝てなかったが、これは日本の鉄の品質が悪くてよくヒビが入るなどの欠陥があったためで、しょうがないのでアメリカから鉄を輸入してようやく競争できるようになったなどの話が残っている。
 ここからは日本人がいかに輸出雑貨の品質向上に努力していたかを読み取ることもできる。
 実際、明治大正の日本外務省の文書でも雑貨輸出に関するものは多くて、生産者も輸出するためにあの手この手と知恵を絞っていたことが分かる。
 昭和4年の『日用商品図話』は、日本で生産している各種日用品の動向や商慣習、輸出などを記した雑貨の本だが、洋傘に関しても言及があって岐阜の生産量が多く、海外輸出は百本入り大箱からの取引で、英仏への輸出が多いなどという記述もある。ボタンの輸出にも力を入れて、金属製貝製骨角製などを世界中に輸出しているが、工場設備が幼稚で製品の統一性に欠け、穿孔不完全が出て粗製の非難を受け、海外調査も不備で流行遅れとなりやすく、商取引では先進国に敵わないと日本の雑貨輸出の苦労も記されている。

 今では日本は工業国として自動車などの輸出などで知られているが、決して一足飛びに工業が発展したわけではなく、こうした雑貨製造のような軽工業などから足場を固めていったのだ。
 では、こうした日本の輸出を支えた雑貨の問屋がなぜ浅草橋に集まったのか?
 その辺りの事情はさまざまなのだが、玩具問屋業界を例にすれば、明治20年に成立した東京玩具雛人形問屋組合は、その名が示すように当初は先ほど紹介した浅草橋周辺の人形メーカーの力が大きく、浅草橋もしくはその隣の蔵前が東京玩具問屋の中心的な存在になったらしい。それまでも神田東竜閑町や大和町にも玩具問屋があったが、区画整理などで組合のある浅草橋や蔵前に移転してくるようになっていったようだ。
 太平洋戦争時の東京に対する爆撃で浅草橋周辺も大きな被害を受けたが、玩具問屋は小資本でも経営が可能で、玩具製造も材料の調達が比較的容易であったため、業界として復興が早く、昭和33年の東京商工会議所の調べでは、浅草橋と蔵前には229軒の玩具問屋があり、日本玩具の80%を扱う一大玩具集積地なっていたとある。
 こうした玩具の街の面影は、通り沿いの玩具問屋の店に今も色濃く残っている。

 小資本で材料の調達が容易というのは雑貨全体に言えることで、山手から少し離れているために土地が安く、雑貨を製造する下町の町工場からも近く、総武線や東武線などの鉄道の便が良い土地は商売上有利で、昭和30、40年には玩具だけでなく多くの雑貨問屋浅草橋に集まってきたらしい。
 そういう意味では戦後にいち早く復興した街であるため、戦後あまり大きな再開発にさらされることがなかった。そのため、昭和を感じさせる建物が高層建築の合間に挟まっているような景観が多い。

 しかし、こうした浅草橋の雑貨問屋も、経営者の高齢化や人手不足などから近年では減少傾向にある。
 それに代わって増えているのが、インバウンドの海外観光客などを見越した(オリンピック需要もあったと思うが)宿泊施設だろう。観光客に人気の秋葉原まで一駅、浅草雷門まで二駅という立地は、ホテル経営から見たら魅力的であろう。

 戸通り沿いにはアパホテルやルートイン、東横インなどの大手チェーンがずらりと並ぶようになった。
 しかし、個人的に注目したいのは、こうしたチェーンではなく、蔵前などの裏通りなどに点在する、かつての問屋などであったらしい古いビルをリノベした海外旅行者向けの宿泊施設である。

 問屋のビルは商品を集積するために天井が高く、室内も広く作られているため、ホテルなどに転用する際の改装でも、部屋仕切りなどが容易に行えると聞いたことがある。蔵前には古いビルのリノベを専門に請け負う業者がショールームを構えているほどで、こうしたかつての問屋街の建物をリノベーションする動きは加速しているように思う。

 こうした海外観光客向けの宿泊施設の一階には、宿泊客以外も入れるカフェを併設していることが多い。新宿や神楽坂の海外旅行者向けの施設でも一階がカフェという作りをよく見かけるが、何かモデルがあるのだろうか?

 ただ、カフェに関しては宿泊施設併設だけではない。浅草橋3丁目から蔵前橋通りを越えて、蔵前2丁目方向に国際通り沿って歩いていくと、古いビルを利用したおしゃれなカフェが目に付くようになっった。
 問屋だったらしい古い建物をリノベしたカフェが増えているのだ。

 最近ではすっかりカフェの街となった清澄白河も、倉庫や町工場だった建物をリノベしてカフェにしていることが多いが、蔵前のカフェは問屋や店舗などが再利用されているのだろう。
 かつて東京の経済を支えていた業種が、違う業種に変化していくのを視覚的に見たいと思うならば、清澄白河や蔵前の国際通りのカフェでコーヒーを飲むのはうってつけかもしれない。
 ただ、カフェだけではなく、古いビルのリノベ物件に若い職人さんが工房を開いているケースも多く、こちらは服飾やアクセサリーの雑貨問屋街だった時代の連続を感じることも出来る。

 こうした国際通りのリノベされた建物のカフェや工房には、当然流行感度の高そうな若者が多く集まっているのだが、少し裏の方に行くと買い物帰りらしいご近所の方が集まって井戸端会議のようにカフェでコーヒーを飲みながら喋っている。

 こういう昭和の古い町屋建築を改装したカフェで、近所の方がコーヒーを飲む姿が浅草橋と蔵前の今を語っているような気がする。
 その風景を横目に見つつ、大江戸線蔵前駅に向かい今日の散策は終了。
今回は自分で「浅草橋トラップ」に嵌ってみたが、日本の産業構造の変化が垣間見えるような景観で面白かった。
 さて、次回はどこに行こうか?

[了]

この記事は、PLANETSのメルマガで2021年8月19日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年9月13日に公開しました。
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