リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回歩いたのは中野周辺です。
数々の災害や戦災に見舞われ、形を変えながらも現在まで歴史を紡いできた東京。その基盤となる近代インフラはどのように作られたのか、中野の街を歩きながら振り返ります。
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端的に言うとね。
こんな連載をやらせてもらっているので、お分かりの方もいるだろうが、都市論の本を読むのが相当に好きである。
都市論というのは、一つの都市を歴史だけでなく都市工学や社会学の知見などを交えて横断的に論じること。英語ではUrban studiesと言い、近代都市論は欧米の都市とその郊外の発展を研究したものから始まったらしい。
日本でも、イタリアの建築や都市史研究から現在は東京の都市論の著作も多い陣内秀信さんや、東北大学院教授であり現代都市の諸相をユニークな視点で論じる五十嵐太郎さんなど、読んでいて刺激を受ける都市論の論者はたくさんいる。
最近読んで個人的に面白かった都市論は、ケンタッキー大学人類学助教授であるクリスティン・V・モンローの著作である『The Insecure City: Space, Power, and Mobility in Beirut』という本。
長年の内戦が続いたレバノン首都ベイルートの住民たちのインタビューとフィールドワークを重ねて、安全確保が難しい社会情勢の中で都市空間がどうなったかを追った労作である。激しい暴力の中で、都市がどう情景を変え、住民がどんなライフスタイルを形成し、どんな交通手段が生まれていったかを論じている。
実に面白い本なので、誰か日本語訳を出版してくれないだろうかと思う。読後はちょっと興奮したが、やや頭が冷えてくると、「こういうリスクを前提とした都市生活は、東京都民にはまったく想像がつかない」などと漫然と思ったりした。
現在の東京は、問題がないわけではないが、内戦の勃発した都市に比べれば、地域コミュニティー崩壊の危機もないし、命の危険を日々感じるようなリスクもないだろう。しかし、もうちょっと深く考えてみると、こういう安心で安全な東京が自然に出来たわけではないと思い至る。
東京の歴史を考えれば、大震災や戦災、戦後の混乱などの危機に何度も見舞われている。そうした危機を乗り越えて、なんとか今の状態を維持してきたのだ。ベイルートは内戦という悲劇によって、モンロー氏が言うところの「Insecure city」(安全ではない都市)になったが、現在の東京がそれなりに安定した「Secure city」(安全な都市)なのは、東京という都市をそうなるように設計維持したからである。社会学などで「社会統制」という言葉があるが、これは人類が社会の秩序を築くために、その社会の構成員に一定の同調と行動の規制を促すメカニズムを指している。倫理の共通化を行う教育や規範を助長する生活環境なども含む大きな概念だが、より具体的には行動を規定する法律、法律違反を取り締まる警察、容疑者を裁く裁判所、犯人を収監する刑務所、より大きな暴力に対応する軍隊などは、「社会統制」の直接的な手段であるだろう。例えば、内戦などで社会が崩壊した地域の国連PKO(平和維持活動)などでは、警察や刑務所などの再建が最重要視されている。無秩序な地域に「法の秩序」を回復させるのが、地域安定には必須だからである。
巨大な人口の東京の治安を安定させ、「法の秩序」を維持するためには、かなり強固な「社会統制」インフラを構築する必要がある。
そうしたインフラによって、東京は「Secure city」になるような努力が行われている。では、そうした「社会統制」の歴史を東京で感じたいと思うならばどこだろうか? あれこれ考えて、これは東京では中野区が最適ではないかと思い当たった。
なので、今回は中野駅から街歩きを始めてみる。
JR中野駅を下車し、駅北口から出ると、巨大な「中野サンプラザ」が目に飛び込んでくる。
建物の上層が宿泊施設、下層はコンサートホールや大型イベント会場なども行える複合施設であり、新宿から近い交通の便の良さと収容人数2,000人程度という使い勝手もあって、アイドルのコンサートやアニメ、ゲーム系のイベントがよく開催されている。建物前の広場では、それに参加する人々が列を作って並んでいる姿をよく見る。
こうしたイベントなどの参加で中野を訪れる人と、出勤などで駅に向かう人が交差するのは、実は歴史的に繰り返されてきたこと。大正11年刊の東京近郊の観光ガイドである「東京近郊めぐり」には、中野についてこう記述されている。
「新宿の西は中野町で、此地も電車が通ふやうになつてからずんずん開けて行く。江戸時代には六阿彌陀詣、又は新井の薬師や堀之内のお祖師さまへ詣る善男善女の影がつづいたものだが、今は市中に勤める洋服姿の勤人が朝夕に往来する数が日に増加してゆく」
江戸時代の中野村は石灰を運ぶ道として始まった青梅街道沿い、大都市江戸の近郊を利用した農業や産業で栄えていたが、明治22年(1889年)に甲武鉄道の中野駅が開業(その後のJR中央線中野駅)したことで人の流れが大きく変化し、明治30年(1897年)の東京市豊多摩郡中野町の町制施行などを経て、明治後期には急激な宅地化、都市化が進んでいた。
しかし、厄除け大師で有名な堀之内妙法寺、眼病平癒で有名な新井山梅照院など、江戸時代から人気のあった参詣寺もなくなったわけではなく、参拝者が中野駅で下車することも多かったとのこと。
つまり、明治後期の段階で、まだ中野は観光地と近郊住宅街が入り混じった土地だったのである。
こうした参拝客と、通勤で駅に向かう住民が中野駅で交差するという構図は、100年以上が経った現在では、アイドルのコンサートに向かう人(推しのアイドルを見にくるのも参拝と言ってもいいのでは)と都心に向かうサラリーマンに変わっただけで、同じような形で続いていると言える。
しかし、それ以前の中野を知りたいならば、中野サンプラザの隣、中野区市役所の脇に存在する犬たちの銅像を見るべきだろう。
この犬たちは、かつて中野にあった「犬屋敷」もしくは「お囲い御用屋敷」と呼ばれる施設の存在を記念して設置されている。
皆さんも歴史教科書で習ったと思うが、五代将軍徳川綱吉は「生類憐れみの令」というかなりエキストリームな動物保護令を出し、中でも犬を保護する政策を実施したことは有名である。その一環として、広大な屋敷で多くの犬を飼育させたが、その飼育施設がこの中野にあったのである。この「お囲い御用屋敷」から、中野四丁目には現在も「囲町」という町名が付けられている。
現在の中野区役所を中心に約30万坪の敷地、犬を囲う「囲い」が五つあって、犬小屋や餌場、子犬の養育施設などが存在し、10万頭の犬が飼育されていたとか。
かなりの大きさだが、その規模の施設を作れるほど、江戸時代の中野には土地が広がっていたということになる。
この「犬屋敷」は元禄8年(1695年)から始まったが、綱吉の死亡した宝永6年(1709年)には将軍を継いだ徳川家宣によって廃止されたので、わずか15年だけ存在したわけである。その後、跡地は元々の土地の所有者に返還されたらしい。
そもそも、中野村(現在の町名で言えば、中野区中央、中野、東中野、中野本町、南台、上高田の一部)は、江戸後期の記録では天領、旗本領、寺領などを含めて2,000石を超える大きな村であった。
そして明治維新で日本が近代国家を歩み始め、東京が拡大し始めると、この都心に近い近郊の中野村の大きなスペース、空間が重要になってくる。
現在、その大きなスペースの片鱗は、この犬の銅像から西に進んだ場所にある、平成24年に完成した防災公園「中野四季の森公園」で感じることが出来る。
この公園は「四季の都市」と呼ばれる中野区の再開発地域の中にあり、防災公園の周りにはオフィスビルや大学キャンパスが立ち並んでいる。
この「四季の都市」こそが、かつて東京を「Secure city」にするための施設が何度も繰り返し設置された場所であった。
明治後期に東京は急激な人口増加と都市化拡大の波の中で、明治政府は東京市内(当時は東京都はなく東京市)の道路整備等の計画に着手し、大きな敷地が必要な軍事施設などの郊外移転を考えるようになる。
そこで移転先の候補に上がったのは、明治22年に新宿―立川間が開通していた甲武鉄道沿いで交通の便が良く、用地が確保しやすい大きな空間が残っていた中野村であった。急激に拡大発展する都市の行政は、なんとか警察や軍隊などの「社会統制」の施設を増強したいと考える。急激な都市拡大は治安上のリスクを孕んでいるためである。しかし、日常的な治安を担う警察などは担当地域ごとに、まんべんなく警察署を設置しなければいけないが、緊急時に出動する軍隊や治安対策の大きな施設は、都市の真ん中で敷地を確保するのは難しい。かと言って都市から離れた場所では出動に手間取るので、中心地から遠過ぎない土地が好ましいということになる。
明治期の中野は都市化は始まってはいたが、まだ用地確保がそこまで難しくなく、市内へも比較的簡単に移動できるため、上記の条件にピッタリとハマったのである。
そのため、この「四季の森都市」のある場所は、中野駅が開業する時点では楢林が続くような場所となっていたが、政府によって造成が始められる。
明治30年に陸軍鉄道大隊(明治40年に沼津に移転)が中野入りするが、明治34年には「陸軍省受領肆第八四四号一経第一三〇六号」(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07071841300、民有地買収の件(防衛省防衛研究所)より引用)によって早くも施設用地の確保が本格化する。
「東京府豊多摩郡中野町大字中野字囲杉並村大字高円寺字東京地内一民有地合及別二町七反畝該四歩右ハ今般電信教導隊大隊営ヲ鉄道大隊作業場内ニ新設之結果証業場敷地ノ必要ヲ生シ別紙図面朱線内之義有地買収之儀該計者ト移隊相整候間官各地第二種当省用地ニ編入相成候様致度此段相伺候也」とあるので、中野だけでなく高円寺までの演習地も確保したことが分かる(線路敷設や電信線敷設の訓練のために、長い空間が必要だったのである)。
これにより明治35年に陸軍電信教導大隊(明治43年に電信隊と改称)、明治40年に陸軍気球隊(明治44年に所沢に移転)、大正7年に軍用鳩調査委員会などの軍事施設が次々と設置されていく。
電信や鉄道、気球は、当時としては最先端の技術と言うことが出来ると思う。陸軍としては将来を見越したハイテク専門部隊を中野に集中させたことになる。
下は、昭和5年の中野町町役場の出した「中野町全図」から、この中野の軍事施設の部分を拡大して撮影したものと、国土地理院地図の現在の中野駅周辺。
見比べていただくとわかると思うが、現在帝京平成大や明治大と書かれた「四季の森都市」が、「中野電信隊」の敷地の跡地であることがよく分かると思う。
軍事施設の設置は明治だけではなく、その後も続き、麹町にあった憲兵学校が昭和12年に中野に移転。さらに、昭和14年にはスパイ学校として名高い「陸軍中野学校」が中野に移転することになる。
(後編に続く)
この記事は、PLANETSのメルマガで2022年2月21日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2023年1月12日に公開しました。
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