さっそく、前回の続きから。 前回は中野を歩き、近代日本の軍事施設跡について解説しながら、スパイ学校として名高い「陸軍中野学校」が昭和14年に中野へ移転したことについて述べた。
「陸軍中野学校」は昭和12年(1937年)に、「謀略の岩畔」こと科学的諜報組織創設の推進者であった岩畔豪雄中佐、戦時中のヨーロッパで「星機関」という諜報ネットワークを作り終戦後にソ連で獄死した秋草俊中佐、理論派の憲兵将校として名高かった福本亀治中佐を中心に設立されたスパイ養成学校である。
 変装、潜入、尾行や破壊工作、錠前破りなどのスパイ技術を習得した工作員を養成するための陸軍参謀本部直轄の学校で、講師にはスリや鍵師、甲賀流忍術第14世を名乗る武術家の藤田西湖のような多種多様な人材が招かれている。
 当初は九段坂の愛国婦人会本部の別棟を拠点にしていたが、昭和14年(1939年)にこの中野囲町にできた軍事施設群の中に移転。しかし、秘密機関であるため存在は秘匿されており、隣接する中野憲兵学校の生徒たちもまったく知らなかったらしい。 スパイ養成学校なので、一般の人々の間で目立たずに行動しなければならず、生徒は髪を伸ばし、敬礼もせず、普通の服装。
 戦後に出版された憲兵学校卒業生の回顧録などを読むと、隣は軍関係の施設らしいが、軍人っぽくない髪の毛が伸びた男たちが出入しているため、「何の建物なのだ?」と不審に思う者もいたという。
 この「陸軍中野学校」の出身者たちは、戦前戦中に世界中に送られ、中には外交官としての身分でアフガニスタンに潜入した者や、ドイツに亡命していたインド独立運動の闘士スバス・チャンドラ・ボースをトップに据えたインド国民軍(INA)を支援した特務機関「光機関」の要員となった者など、情報戦の最前線で戦うことになっていく。
 日本史上最大規模のインテリジェンス要員養成所であったのは間違いない。
 こんな秘密のスパイ学校、現在の中野に何か痕跡が残っているのか? と思われる方もいるだろうが、一つだけある。
 それは中野四季の森公園の道路を挟んだ向こう側にある東京警察病院の敷地内。

 この警察病院の北側の隅、早稲田通りから覗けるところに、「陸軍中野学校跡」と記された記念碑がある。 戦後に卒業生有志によって組織された中野学校校友会が作ったもので、後ろ側には創設者の1人である福本亀治氏の謹書もある。

 植え込みの中にあるため、早稲田通りを通る人もほとんど気づかない。 しかし、秘密戦士を送り出すという学校の記念碑だけに、この身を隠しているような佇まいは何かを感じさせるものがある。
 この「陸軍中野学校跡」の碑の隣には、「摂政宮殿下行啓記念 大正十二年五月二十八日」と記された記念碑もある。
 大正12年で摂政宮殿下ということは、のちの昭和天皇のことを指している。大正天皇は体が丈夫ではなく、皇太子であった裕仁親王、のち昭和天皇はこの時期は摂政として父の公務を代わりに執り行っていたが、この中野にも公務で訪れており、その記念ということになる。摂政時代の昭和天皇がどこを訪れたかは、後ろを見ると「軍用鳩調査委員会」という文字で分かる。

 日本では明治から軍事用の伝書鳩(軍鳩)を使用し始め、大正8年にこの碑にある「軍用鳩調査委員会」が軍用鳩の飼育と訓練を調査と普及を行うための組織として創設された。 この組織の事務所は中野電信隊の中に設置されていた。電信も伝書鳩も、当時の軍隊にとっては重要な通信インフラなので、一緒なのも不思議ではない。
 しかし、スパイと鳩の記念碑が並んでいるのは、何かシンボリックではある。
 旧約聖書「創世記」に登場するノアの方舟の物語では、大洪水に備えてノアの一家はすべての動物のつがいを乗せていたが、陸地を探すために鳩を放つとオリーブを咥えて戻ってくるという下りがある。
 このため、鳩は平和の象徴以外に、偵察兵やスパイに喩えられることもある。
 情報を持って行き来するという意味で、スパイと軍鳩は同じ情報戦に従事したもの同士で、今は仲良くひっそりと中野の片隅に並んでいるというのも運命的ではあるのだろう。この記念碑のある東京警察病院は平成20年(2008年)に千代田区富士見から移転してきたもので、病床が400床を超え、救急隊から搬送される傷病者を担当する基幹的病院であり、国が定めた災害拠点病院にも指定されている。
 戦前警察病院は警視庁職員及びその家族のための病院だったが、現在は一般の患者も受け入れている一般病院である。
 しかし、今でも何らかの事案が発生した場合は、政府か警視庁からの特命として医療活動を行わなければならない。具体的には地下鉄サリン事件の現場や、海外邦人のテロ事件などへの医療チーム派遣などを行っている。
 つまり、東京を「Secure city」にするための医療の一端を担っていると言っていい。
 そして、東京警察病院の西隣には警視庁野方警察署、道路を挟んだ東側には警視庁野方庁舎があり、周辺は警察関連の建物が並んでいる。

 ここまで警察関連の施設が多いのは、敗戦後に日本帝国陸軍が解体されると、ここにあった陸軍関連の施設も閉鎖され、その跡地に警視庁の警察学校が建設されたという経緯がある。

▲著者撮影 中野四季の森公園案内図より

 戦前の警察官養成の警視庁警察練習所は、昭和23年に警視庁警察学校と改称され、九段に校舎があった。しかし、この九段校舎は明治10年に建設された元近衛歩兵連隊の建物であったため、老朽化が激しい状態だったらしい。
 そこで、政府は昭和32年(1957年)に、中野の陸軍施設跡地に警察学校を建設する予算を国会で通過させる。すでに昭和23年には中野に警察大学校が設置されており、そこに併設するかたちでの移転計画であった。
 とりあえず警視庁は中野を分校として建築工事を始め、本館や寮などの建設着工後の昭和36年(1961年)に、正式に中野分校を本校とし、警察学校本校機能を移転させたのである。ちなみに九段の校舎は分校という扱いになった。
 この中野の警察学校は、東洋有数と言われる射撃訓練用の覆道式射撃場、各階300畳の広さの道場、婦人警官用の寮などの設備を有する婦人警官養成所というだけではなく、敷地内では公安の秘密工作を行うための作業班教育も密かに行われていたらしい。
 この秘密工作の講師には、旧陸軍中野学校卒業生もいたと言われている。スパイ養成の中野学校の卒業生が、同じ場所の中野の警察学校で戦時中に培ったテクニックを教えるというのも、何か中野の「Secure City」としての呪縛を感じなくもない。
 その後も、警察通信学校、特別捜査幹部研修所、国際捜査研修所などが設置され、単に警察官養成だけでなく、警察組織の知識を集約したシンクタンクとも言えそうな警察教育研究コンプレックスが形成されていく。
 戦前に軍隊の神経とも言える情報通信施設の拠点は、警察の政策決定及び教育の拠点に生まれ変わったのである。
 しかし、この警察学校もバブルを経た平成13年(2001年)には、調布朝日町に移転してしまう。前編でも書いたが、都市が拡大するとこうした治安維持のための施設は、敷地確保可能な郊外や隣接地域に移転されがちだが、そこも都市化が進むとまたまたその外側に移転するという歴史の繰り返しが行われたのである。警察学校跡地は財務省による土地処分が行われ、中野区や民間が土地取得し、オフィスビルや大学、そして防災を考えた空間確保の公園などを含んだ、現在の中野「四季の森の都市」が誕生したというわけである。

 ただ、完全に警察の施設が無くなったわけではなく、上記の警察病院、野方警察署、警視庁野方庁舎などが新たに建設されている。こう考えると、これらの施設自体が、かつて中野が警察教育研究の拠点であった頃の痕跡と言えるだろう。
 このまま「四季の森の都市」を抜け、そのまま早稲田通りを経て北に向かう。
 すると、開けた大きな空間を持った、また別の公園が現れる。

▲国土地理院地図(出典

 ここは中野区立の平和の森公園。
 総面積は約54,700平方メートル、広大な原っぱの多目的運動広場やドッグランなどが設けられた防災公園である。
 都内で公園に限らずこうした広い空間があれば、それは何らかの歴史と意味が潜んでいる。まずは古い地図、大日本帝国陸地測量部の「明治四十二年測図大正十年第二回修正測図同十四年部分修正版」でこの場所を確認してみる。

▲著者蔵

 豊多摩刑務所、とあるのが分かると思う。
 つまり、ここは刑務所の跡地を利用した公園なのである。近代以降の刑務所は全部の方向に監視が可能なパノプティコンと呼ばれる設計であることが多いが、地図を見るとこの刑務所も中央に看守の常駐する監視所があり、放射線状に伸びた監房という構造をしているのが分かると思う。
 豊多摩刑務所は明治43年(1910年)に市ヶ谷にあった市ヶ谷監獄の移転計画として始まり、大正4年(1915年)に獄舎の工事が完成、当初は豊多摩監獄と命名された(大正11年に豊多摩刑務所に改称)。
 田園の中の赤煉瓦でできた巨大な施設で、東京帝大建築学科卒業で司法技師、新進気鋭の建築家であった後藤慶二が設計を担当した。
 その異様さは日本の近代建築の黎明期の傑作の一つと言われたが、残念ながら大正12年(1923年)に発生した関東大震災で大破し大規模改修工事が行われ、当時の建築はほとんど残っていない。

 

 現在では、煉瓦造りの監獄正門だけが当時の面影を残している。この門は将来的に公園の別場所に移築される予定だが、現在はフェンスで囲われている。
 治安維持法成立後には、この刑務所に荒畑寒村、小林多喜二を始め、労働運動家や共産党員などの思想犯が入獄したことでも知られているが、戦時中の昭和20年(1945年)の山の手大空襲でまたも被害を受ける。
 終戦後、米軍に接収され、「US Eighth Army Stockade」(第八軍米陸軍刑務所)として犯罪を犯した米兵などの刑務所として使用されたが、その規模は米軍の施設の中では東アジア最大であったらしい。多くのアメリカ人受刑者が収容され、近年では当時の黒人兵士に対する看守たちの差別的な待遇などの記録が発掘されている。
 昭和32年(1957年)に米軍から返還されると、中野区議会は刑務所再設置に対して敷地開放の姿勢を取ったが、中野刑務所と改称されて、再び刑務所として稼働し始める。

▲著者蔵 中野刑務所パンフレット表紙

 安心安全な都市「Secure City」を維持するには、警察の配置も重要だが、刑務所も重要になってくる。法の秩序のためには、法を犯したものの勾留や刑に服させる施設がなければならないのだから。
 当然ながら刑務所も大きな敷地が必要なので、建築される場合は用地が確保し易い都市化に及んでいない郊外などに建設される。しかし、時が経つと都市化は進み、刑務所の建設された周りの場所も住宅街となってくる。
 そうなると、刑務所は再び都市の外側に移設されていく。この回では何度も繰り返して申し訳ないが、ここでも同じサイクルが繰り返されたのである。
 受刑者の脱走などで住民からの不安の声もあり、刑務所移転の声が高まると、府中刑務所の全面改修工事計画などを織り込み、ついに中野刑務所は昭和58年に廃庁が決定する。
 その後は中野区は住民たちの陳情などから、一部は都下水道局が使用する用地の割り当てもあったが、大部分は防災公園として利用されることとなる。

 かつて刑務所があったという歴史は、公園の南側の「矯正協会」の建物で伺い知ることができる。「矯正協会」は、明治21年(1888年)に刑務所や刑法関係者などで組織された大日本監獄協会が前身団体であり、矯正に関する学術と啓蒙を図り、非行や犯罪防止のための民間団体である。
 矯正に関する図書館や刑法関連の出版事業、そして受刑者が刑務所内で製造加工した製 品の販売の売上の一部を犯罪被害者支援組織に助成する活動などを行っている。
 しかし、駅から少し歩いただけで、軍隊、諜報機関、警察、刑務所と「Secure City」を維持するための施設の跡地がここまで連なっている場所もないだろう。
 そうした施設たちは都市化の波によって、周辺住民の運動や行政の敷地開放を理由に、都市中心部から離れた場所へ移転され、跡地は防災のための公園などに転用されていく。 そう考えると、中野は「Secure City」の年輪が刻まれた場所と言うことができるかもしれない。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2022年3月18日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2023年2月9日に公開しました。
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