地元から東京に出てきてもう数十年が経つが、上京当時に驚いたことの一つに聴取出来るラジオ局が多いことがある。
地元ではNHKかAMラジオ局一つくらいだったが、東京だとFMとAM、かなり選択肢があることに気づき、やたらいろいろな局の番組を聴いていた。まだネットでラジオが聴ける時代ではなかったので、ラジオのつまみを回して周波数を合わせていたのだが、神奈川や埼玉のラジオ局の電波も拾えることが面白かった。
しかし、一番驚いたのが、英語のラジオ局があったことだろう。FMだとDJが英語を交えた言葉で曲紹介をする番組もあったが、その局の番組はすべて完全に英語。それまでも、電波環境の具合で海外の短波ラジオ局が切れ切れで聞こえることもあったが、この英語のラジオ局はくっきりはっきり聴ける。
しばらくそのラジオ局を聴いていると、どうやらそれはAmerican Forces Network、アメリカ軍放送網という在日アメリカ軍のラジオ放送であるということが分かってきた。番組の内容はリスナーからのリクエストで音楽をかけたり、ニュースや基地内のイベント情報などで、日本の番組構成と大きく違っているとは感じなかったが、ときどき東京近辺の骨董市についての宣伝が入るのが印象に残っている。
骨董市のCMは、どうやら日本に駐留している軍人さんの中には、日本に来ているなら日本の古いものを購入したいと思う人も多いらしく、そういう人向けということが分かってきた。
ちなみにAFNはラジオ局だけではなく、本国から購入した番組などを流すケーブルTVのサービスなども行っているが、海外で働くアメリカ軍人やその家族などが本国に帰国した際の情報格差をなるべく無くすためのものでもあるとか。
現在ではネット経由でラジオも聴けるので、興味がある方は。
AFN TOKYO

このANFの放送を聴くようになってから、東京は意外に近くにアメリカ軍が存在しているということを実感するようになった。沖縄や青森の三沢、神奈川の横須賀などが米軍基地と近い土地であることは知っていたが、それまで東京にそういうイメージがなかったのだ。
以来、西武新宿線に乗っているときに、あんまり旅行者っぽくない軽装のアメリカ人らしき集団を見かけると、「あれは軍の人たちが都心に遊びに来ているのかも」などと考えてしまう。
そのため、私の中では東京はアメリカ軍基地の街という意識がある。
なので、今回は東京のアメリカ軍基地の本丸と言える在日米軍司令部のある横田基地周辺を歩いてみようと思い立ち、JR青梅線の福生駅に降りてみる。

駅に併設されたカレー屋のCoCo 壱番屋だが、看板に「YOU CAN TAKE IT OUT」、カレーうどんの広告に「Please try our noodle!! They are delicious!!」とある。
こういうCoCo 壱の英語の表記はあまり都内で見たことがない。英語圏の人間が多い場所用のものだと思うが、駅のカレーチェーン店からも基地対応を読み取れるのが、福生という土地柄だろう。
実はこの日は土曜の午後だったのだが、短パン半袖の若いアメリカ人と思われる集団が何組も駅に入っていく。週末であるし、JR青梅線に乗って都心に遊びに出るために横田基地から出てきた兵士たちではないだろうか。
私はその反対に基地の方向に向かって歩いていく。
やなぎ通りを越えて都道165号伊奈福生線に入ると、右手に工場となにやら山小屋風の店がある。

ここは福生の名物の一つと言える「大多摩ハム」の工場と、その直売店兼レストランの「シュトゥーベン・オータマ」。
「大多摩ハム」の創業者の小林榮次氏は、大正時代に来日したドイツ人マイスター、アウグスト・ローマイヤー氏に本格的なハム製造を学んで戦前から独立し、戦後にはいち早くGHQ指定工場に認められ、日本に進駐してきた軍人とその家族にハム、ベーコン、ソーセージなどを提供してきた。
2011年から福生市内で製造された材料を使ったホットドッグ、「福生ドッグ」という企画が商工会等によって進められているが(アメリカ軍基地の街でホットドッグということらしい)、ソーセージには福生ハムとこの大多摩ハムのものが使われている。
直売店の「シュトゥーベン・オータマ」でも、この福生ドッグは購入可能。
なので、一本購入してみる。

ここから都道伊那福生線を外れ、多摩川によって作られた段丘の途中にある福生不動尊から基地西側の住宅地に入ってみる。

そうすると、住宅地の中にちらほらと平屋で矩形(角が直角で長方形)の建物が目に入ってくる。

そこまで新しい感じではなく、すっきりしたデザインで、屋根はコンクリート瓦、長方形の長い一辺側の真ん中に玄関が設置されているものが多い。
こういう住宅は横田基地周辺の福生からお隣の拝島や瑞穂町でもよく見かけるが、何か一つの規格に沿って作られている感じがする。

これはアメリカ軍人家族向けに作られた「米軍ハウス」。英語では「Dependents house」(扶養家族住宅)や「Offbase house」(基地外住宅)などと呼ばれる住宅で、最初は第二次大戦後に進駐してきた軍人家族のために建てられ、多くのアメリカ軍人が基地に配置された朝鮮戦争当時には、基地ゲート周辺などはこうした住宅が隙間なく並んでいたらしい。むろん、基地内にも兵舎や家族向け住宅が建設されたが、それだけでは足りず、当時基地周辺に土地を持っていた日本人は米軍の住宅不足を見越し、畑があった土地などを利用し、米軍軍人向けの賃貸ビジネスに乗り出したため、こうした住宅が建設されていったのである。つまり、福生周辺の米軍ハウスは民間が不動産投機的に建設したものなのである。 その後、1970年代に入ると日本に駐留する米軍人の数が減って基地内居住が進むようになると、日本人にも貸し出しされるようになり、アメリカの生活を趣向する若者や音楽家、芸術家などが好んで移り住んだことでも知られている。
かつて、東京周辺にはこうした米軍人家族のための住宅地が点在し、代々木練兵場を接収して作られた「ワシントンハイツ」(現在の代々木公園など)もその一つ。ここは1964年のオリンピックが決まり米軍から返還され、そこにあった米軍住宅は選手宿舎に転用されている。現在もその一つは「オリピック記念宿舎」として保存されているが、案内板に元々の米軍住宅であったくだりの説明がないのが不思議である。

埼玉県入間市にも、戦前は陸軍航空士官学校に務める将校たちの住宅地「磯野住宅」があったが、敗戦後に航空士官学校が接収され進駐軍の「ジョンソン基地」(現在は航空自衛隊入間基地)となり、1950年の朝鮮戦争勃発で人員が増強された際に、住居不足解消のために新たな米軍住宅地になった。
こちらは現在米軍住宅の街並みを利用した「ジョンソンタウン」としてリノベーションされ、多くの店舗などが入るお洒落な賃貸住宅地になっている。

こうした住宅の設計は、アメリカ人のライフスタイルを加味し、日本国内の終戦時の物資不足や作業者の技術を擦り合わせ、当時GHQに協力した日本人設計者がまとめたものが基準や規格になっている。
なので、どこの米軍住宅も共通性を感じるデザインなのだが、それが独特なバランスとなっており、いまだにこの住宅を愛するファンが多いのだろう。しかし、記念保存的な代々木のオリンピック記念宿舎や賃貸住宅戸としてまとめて整備されている「ジョンソン・タウン」とは違い、ここ福生市の米軍ハウスは、現在も住宅として現役で、なんだか違和感なく日本の街並みの中に紛れ込んでいるというな感じがする。元々福生の米軍ハウスは、計画的というよりも無秩序な形で建設されたがゆえなのかもしれない。

ちなみに牛浜北通り入口近くには、福生武蔵野商店街振興組合が管理するコミュニティースペース、1958年に建てられた米軍ハウス「American House」がある。こちらは当時の米軍ハウスの姿を知りたい人は訪れてもいいかも。
こうした米軍ハウスが点在する住宅地を抜けると、向こう側に横田基地の壁が延々と続く、国道16号線にぶつかる。

その壁の向こうには、現在の基地内に建設された高層型の米軍集合住宅が並んでいるのが見える。現在の基地内米軍住宅はこうした高層型か、家族向けのテラス型が多いらしい。

この国道16号沿いには店舗が並んでいるが、英語の並んでいる様子を見ると、ここは基地の街なんだと強く意識できる。

この横田基地第5ゲートや第2ゲートの間は、「福生ベースサイドストリート」と呼ばれていて、お店も食べ物屋の他に雑貨、古着、タトゥー、自動車やバイクのお店、生命保険取扱店などなど。
こうした横田基地のアメリカ人を相手にしたお店は年代によって違っていて、1950年代は貴金属や日本土産などが多く、1960年代には服の仕立て屋、刺繍屋が多かったらしい。ただ、自動車の修理工場や取扱店は1950年代から一貫して立地しており、アメリカ兵を主たる客層とした土地柄らしいと言える。
そんなお店の中に、戦後いち早くピザを日本で出したレストランで有名な「ニコラス」が。
「ニコラス」は六本木店の方が有名だろうが、このお店を開いたイタリア系アメリカ人ニコラス・ザペッティは、マフィアやCIAなどの関係も囁かれるという人物。
この怪人物に関しては、ロバート・ホワイティング著『東京アンダーワールド』を読んでもらいたいが、海兵隊を除隊後に占領下の日本でさまざまな仕事を請け負い、1950年代にアメリカンスタイルのピザレストランを六本木に開店させたが、それがこの「ニコラス」であった。

1950年代当時、日本ではピザを食べさせる店はほとんどなく、「ニコラス」には多くの GIを含むアメリカ人が集まってきたという。そのお店が今も横田基地前で営業を続け、今もアメリカ兵にピザを提供しているのは、なんとも歴史的なつながりを感じてしまう。
そして、横田基地第二ゲート前へ。

JR福生駅からこの第二ゲートまで、直線距離だと数百メートルしかない。今回あちこち歩き回っているので1km弱くらいは歩いたが、それほどの長距離を歩いたわけではない。 しかし、これだけしか歩いていないのに、戦後のアメリカ軍との関係性が見えるものをたくさん見つけることが出来る。
それが戦後一貫して基地と共に歩んできた福生という土地なのだろう。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2022年6月14日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2023年5月4日に公開しました。
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