編集者・ライターの小池真幸さんが、「界隈」や「業界」にとらわれず、領域を横断して活動する人びとを紹介する連載「横断者たち」。今回は、東京大学学際情報学府博士課程に籍を置きながら、ZOZOテクノロジーズでも働くファッション研究者の藤嶋陽子さんに話を伺いました。「ポスドク問題」解決の糸口になるかもしれないこれからの「研究者」のかたち、そして身近な生活やありふれた欲望を大切にする藤嶋さんの思考をたどっていきます。
端的に言うとね。
解決の糸口見えない「ポスドク問題」
大学院の博士課程を修了したのち、正規のアカデミックポストに就けない「ポスドク」が、全国に15,000人ほどいると言われている。高い専門的技能を持ちながらその活かしどころが見つからないポスドクの存在は、「高学歴ワーキングプア」や「博士漂流」といったキーワードを皮切りに、社会問題の一つとして認知されるようになった。
とりわけ人文科学を中心とした文系アカデミアの状況は深刻だろう。2015年には、文部科学省が「文系学部廃止」の通知を出したとの旨がメディアを騒がせた(結局これはメディア側の拡大解釈による誤報だったが)。さらには、行き場を失った文系博士号取得者が自ら命を断ってしまうという痛ましいニュースが報じられることもある。
こうした苦境を反映してか、ここ20年ほどで大学院への進学者は修士課程・博士課程ともに減少傾向にある。若手研究者の任期を原則5年以上とする改革プランが出されたり、情報・人工知能、量子技術、マテリアルなどの分野で、約55大学の博士課程の大学院生を対象に、1人当たり年200万~250万円を3年間補助することが発表されたりと、文科省による対策も少しずつ進められてはいる。ただ、未だ抜本的な解決の兆しは見えていない、というのが現状だろう。
出口の見えないトンネルのような、研究者のキャリア問題。その解決の糸口を考える際、一つのモデルケースとなるのではないかと筆者が考えているのが、ファッション研究者の藤嶋陽子さんだ。
藤嶋さんは東京大学学際情報学府博士課程にて、主に日本のファッション産業史、ファッションミュージアムを研究している。他方、アカデミアの外でも、文芸誌やウェブメディアなどでの執筆・講演活動、さらにはZOZOテクノロジーズと理化学研究所革新知能統合研究センター(以下、理研AIP)でも勤務している。人文アカデミアからテック企業まで、領域を超えて活動を重ねる〈横断者〉と言えるだろう。
人文系研究者として民間企業で働くとは、どういうことなのか? 鷲田清一以後もなかなか体系化・組織化が進まないファッション研究の世界で、新たな地平をひらく藤嶋さんの話から、これからの研究者のあり方を考えた。
「ファッションには興味がなくて」は本当? 誰もが服を選んでいる
藤嶋さんの研究対象はファッションである。「ファッション」と聞き、少し身構えてしまう人も少なくないのではないだろうか? 正直にいえば、筆者はファッションに関して、お世辞にもリテラシーが高いとは言えないと思う。今回はファッション研究者に話を伺うということで、少しだけ気後れしてしまっていた。取材の冒頭にその旨を告げると、まるでその筆者の懸念は想定内と言わんばかりに、優しくこう答えてくれた。
「ファッションの研究をしていると言うと、よくエクスキューズの言葉をいただくんですよ(笑)。『ファッション詳しくないんです』とか、『ユニクロばっかり着ているんですけど』とか。『ファッションの話をするのに、何だその服は』と思われるのを警戒されてしまうのかもしれません。でも、私だってプチプラ(※)の服を着ます。そもそも、心から『着るものは何でもいい』と思っている人は、実際にはあまりいないのではないでしょうか。中には服に本当に興味がなくて、誰かからもらった服をずっと着ている人もいるとは思いますが、少数派なのではないでしょうか。たしかに、デザイナーブランドに興味がある人はごく一部だと思います。とはいえ、もともと持っていた服が本当に着れないかといえばそうでもなくても、つまり厳密には必要がなくても、たまには新しい服を買っているという人が多いのではないでしょうか。どんな人でも、何かしら選んでいるのだと思うんです。毎日同じ黒のタートルネックを着ていたスティーブ・ジョブズだって、その一枚にはすごくこだわりがあると、ファッションデザイナーの滝沢直己さんがエッセイに書いていました」
たしかに、言われてみればそうだ。基本的にはユニクロや無印良品のようなファストファッションを着ることが多い筆者にしても、季節の変わり目や気が向いた時に新しい服を買うことはあるし、そのとき「これは良いけれど、これは微妙だな」といった自分なりの価値判断を下しながら選んでいる。どうやら藤嶋さんが考える「ファッション」は、いわゆるハイブランドに限ったものではなく、より普遍的な営みを指しているようだ。
「私はファッションを、人の身体感覚とオブジェクトに関わるすべて、すなわち身にまとうモノとの関係性のすべてに派生するものとして捉えたほうがいいと思っているんです。買い替えのタームや新商品の提示、そしてハイブランドを勧めるラグジュアリー雑誌からプチプラの新商品をレコメンドするInstagramのアカウントまで、私たちが服を買おうと決める意思決定に至る過程には、色々なところに網が張り巡らされています。見た目だけじゃなく、『なんだか襟のタグの感触が気持ち悪い』という観点から服を選ぶ人もいますよね。何らかのオブジェクトを身にまとうこと、そしてそのモノをいかに買い、使い、手放すか。そのモノをめぐるイメージのコミュニケーションのあり方や、『誰に会うから何を着ていく』『ゲームの中で服はどうなっているか』といったモノを介した他人とのコミュニケーションの取り方……『デザイナー』や『マーケティング』といった観点はもちろん、『身にまとう』ということをめぐるすべてが、ファッション研究の対象であってほしいという想いを持っています。もしかしたら、『ファッション』という言葉は適切でないのかもしれませんが」
ファッション業界の動向を見ても、近代社会の共通認識としての「ファッション」解釈にはゆらぎが生じているとわかる。アメリカのジャーナリストTeri Aginsが2000年に刊行した『The End of Fashion: How Marketing Changed the Clothing Business Forever』をターニングポイントとして、ファッションデザイナー主導の権威主義的な「ファッション」は終わりを告げ、消費者起点のマスマーケティングを重視したものになっていく旨が論じられるようになったという。2018年にも同テーマのアンソロジー論集『The End of Fashion: Clothing and Dress in the Age of Globalization』が刊行されており、依然として議論は重ねられている。
いわゆる「ファッションセンス」と呼ばれるような見た目についての感性だけでなく、身体感覚やメディア接触といったさまざまな回路を通じて、我々はファッションの価値を判断しているという話は、日常的な感覚からも納得がいく。何も「エシカル消費」というキーワードを挙げずとも、連日メディアで報道される、ユニクロや無印良品と新疆ウイグル自治区の人権問題をめぐる議論を目にすると、「このままファストファッションを使い続けてもいいのか?」と逡巡してしまうこともある。
(※)プチプラ……低価格帯のファッションブランドを指す言葉。「安くてかわいい」「手に入りやすい」といったニュアンスで使われることが多い。
デザイナーやブランドではなく、アーキテクチャからファッションを読み解く
身体感覚からメディアでの表現まであらゆる要素に影響を受けながら、ファッションにおいて、「価値」がいかにして作られていくのか──これが、藤嶋さんが研究者として向き合っている問いである。
ファッションにおける価値生成のプロセスとして、まず思い浮かぶのは、ファッション誌やテレビを通じたものだろう。しかし、藤嶋さんが研究対象として主に注目しているのは、空間メディアだ。ショーウィンドーやファッションショー、そしてミュージアム(博物館や美術館)といった空間メディアも、ファッションの価値生成を推し進める装置として、重要な役割を果たしてきた。それにもかかわらず、テキストメディアや映像メディアに比べて、研究が増えてきたのは近年のことだという。その担い手の一人が、藤嶋さんというわけだ。
修士論文では、ミュージアムにファッションという対象がいかに導入され、批判と対峙してきたかを分析した。博士課程においては、ファッションブランドが訴えたいメッセージが空間メディアでいかにして表現され、またオーディエンスとのインタラクションを通じて、ブランドへの憧れや欲望がいかにして湧き上がっているのかを分析し、日本で既製服が普及していく際にミュージアムやショーウィンドウ、ファッションショーが果たした役割を、ファッション産業史における表象空間の変遷という観点から研究している。
他方、文芸誌や学術系論集などの商業出版においては、デジタルメディアを介したファッション価値の形成についても論じている。たとえば、2018年9月に刊行された『ポスト情報メディア論』には、身近なファッションアイコンとしてのインフルエンサーを読者モデルとの連続性から考察した「着こなしの手本を示す:読者モデルからインフルエンサーへ」を寄稿。「ファッション×テクノロジー」は、理研AIPに所属していた担当教官の導きで機械学習の応用研究にかかわるようになって始めたテーマだというが、コンテンツよりもアーキテクチャへの関心が強いのは、空間メディアの研究とも一貫した志向性だ。ファッション研究においては、ファッションをオブジェクト・衣服そのものから捉える視点と、現象・構造から捉える視点に二分されるというが、藤嶋さんは後者寄りの手法を採っているというわけだ。
「私はデザイナーやブランドそのものに関しては、買うのは好きでも、研究者としてはあまり分析対象としていないんです。ファッションの歴史は、『誰々がコルセットから解放した』『誰々のショーがすごかった』というように、デザイナーの歴史として語られる側面が強い。もちろんそうした観点も重要ですが、私はその背景にどんな環境やテクノロジー、規格があったのか、すなわち人に基づいた神話では語られていないけれど、人の営みに影響を与えていた要素に強い関心を持っています。ですから、ミュージアムの研究をしていた修士時代はたまたまハイブランドの実践を扱っていましたが、正直そこにはこだわっていません。デジタルプラットフォームやAIといった最新テクノロジーがファッションの価値に与える影響に興味があるのも、そうした関心の範疇です。ミシンや化学繊維が出てきたことで生まれた産業構造やサイクルがあったように、ファッション史はテクノロジーの歴史でもありますから」
ファッション研究が進まない複層的な要因
ファッション研究には、アカデミアにおいて比較的軽視されてきたという歴史がある。日本でファッション研究の認知を広めた立役者の一人である哲学者・鷲田清一も、1995年に刊行した『ちぐはぐな身体──ファッションって何?』において、ファッションは「つねに軽薄なもののシンボルあつかいされてきた」がゆえに、哲学を中心に研究対象としては軽視されている点を憂慮していた。藤嶋さん自身も、2019年6月にファッション批評誌『vanitas』に寄せた論考「ファッション研究史とファッション産業史の交錯点――日本における研究展開の駆動力としての産業 」で、ファッション研究に対する否定的なまなざしが現存する点を指摘している。我々の生活にとってこれだけ身近でありながら、研究対象として重視されないのはなぜなのだろうか?
「あくまでも私個人の解釈ですが、ファッションという移り変わりの激しいものは、研究対象として扱いにくいのだと思います。美術や手芸、民族衣装のように伝統的な価値と結びついているものとは違って、日用品であるがゆえにコロコロ変わってしまい、フレームワークが立てづらい。さらにデザイナーブランドならともかく、特に量産品なんて、どこまでを研究対象に含めるかを決めるのがすごく難しい。ハイブランドの研究をする人はいるかもしれないけれど、ファッションデザインとしてファストファッションの研究をする人はなかなかいません。ポピュラーカルチャーゆえの難しさ、とも言えるかもしれませんね。量産品としての服の研究は、経済学やマーケティングの観点からはなされている一方で、ファッションとしての観点からはとても難しいと思うんですよ。社会学においても、ファッション誌やファッション好きの人が集まる都市空間は研究対象になっているものの、ありふれた日常の服を捉えること、服が好きでない人を扱ったケースはまだまだ少ないと思います」
マンガやアニメといったサブカルチャー研究のように、もともとアカデミアでは周縁的な扱いを受けていたものの、徐々に研究が進んでいく分野もある。ただ、ファッションはマンガやアニメとは異なり、家政学や美術史など、複数の分野で少しずつ、断片的な研究の蓄積がある。それゆえに、たとえば日本マンガ学会のように、領域をクロスオーバーする研究体系を新しくまとめ上げるのが難しいとも藤嶋さんは見ている。
さらに、ある種の「切迫性のなさ」も、ファッション研究が進まない要因の一つかもしれないという。新しい領域であるにもかかわらず注目度を増しているAI研究のように、倫理的に間違った使われ方をすることで、最悪のケースでは死者が出てしまうようなリスクは、ファッションには一見ないように思われる。環境問題や労働問題といった深刻な課題をはらんでいる一方で、日常的にはリスクが見えにくいという性質も、研究が進まない一因なのではないかと藤嶋さん。
日用品ゆえの移り変わりの激しさ、量産品ゆえの難しさ、他分野で少しずつ研究の蓄積が散らばっていること、生死にかかわる切迫性がないこと……こうした複層的な要因によって、ファッションはアカデミックな研究対象としては重視されていないのが現状だ。しかし、冒頭でも触れたように、ファッションは日常生活において誰もが関わりを持つものである。研究対象として軽視されているままだと、何か大切なものを見落とすことになってしまわないだろうか。
「ファッションを研究しなくても死にはしないかもしれないけれど、より良い文化のあり方を考えていくうえで、多様な研究が展開されたほうがいいとは思っています。特に最近はサステナビリティの議論も社会的重要度を増す中で、人の生活のすぐそばにあって、人の欲望と直結しているファッションの研究は、いままで以上に必要となっていくのではないでしょうか。そして、ファッション研究を進めるために、研究の拠点を確立していくことが大事だと思っています。いまはファッションを扱う教育機関といえば、基本的には専門学校か、伝統的に家政学を扱ってきた学科、そして美術史や哲学の中で少しだけ出てきたくらいです。ただ、たとえばリトゥンアフターワーズのファッションデザイナーである山縣良和さんが東京藝術大学にファッション科を作るための活動をされていたり、コンピュータービジョンの分野でファッションがデータ分析の対象となっていたりと、様々な方面から展開が見られはじめています。学会のような場所もそうですし、アカデミアの内外や文理の壁をクロスオーバーさせて、研究や議論のプラットフォームとなる場所を作る。そうすることで、ファッションスタディーズというまとまりとして、蓄積と体系化を進めていくことが大事だと考えています」
テック企業で働く人文系研究者──「アカデミシャン」の枠を広げる
「アカデミア内外のクロスオーバー」というのは、藤嶋さん自身が実践していることでもある。彼女は大学院での研究に加え、自然科学の総合研究所である理研AIP、そしてテック企業であるZOZOテクノロジーズにも籍を置いている。理研AIPではパートタイム研究員として勤務。ZOZOテクノロジーズでは、ファッション×テクノロジーにまつわる情報発信を行うメディア「Fashion Tech News」の運営に従事しながら、共同研究や新規事業開発プロジェクトのドキュメンテーションも行っている。
「当初は民間企業への就職は想像もしておらず、これが研究者のキャリアパスとしてどうなのかは、正直まだわかりません。事業に対して自分のような存在がどのような価値を生み出していけるのかについても、まだまだ模索中です。これまでもドメイン知識のある方が民間就職するケースはあったと思うのですが、文系の“研究者”としてどのように貢献していけるのかは、まだまだ考え続ける必要があるでしょう。でも、人文系研究者の選択肢として、オーソドックスに大学教員になる以外の選択肢がもっと増えてもいいのではないかと、個人的には思っています。私も最初は、民間就職は研究の道を諦めることであるかのように感じていました。でも、いまの環境で働くうちに、認識が変わってきました。いまでも自分は研究者だと思っていますし、非常勤講師も務めていますが、自分の中での“アカデミシャン”の定義が広がっていった感覚があるんです。考えてみれば、自分の身近にいる理系の研究者はすごく柔軟なキャリアパスを歩んでいますし、いま研究室がある東京大学情報学環には社会人院生もたくさんいます。アカデミアの外に行くというよりは、アカデミアの範囲を広げていくような感覚で、さまざまなかたちで研究を続けていく選択肢が増えていくといいのではないでしょうか」
昨今は、Amazonやウーバー・テクノロジーズが経済学者を雇用したり、国内でもSansanのデータ統括部門「DSOC」(Data Strategy & Operation Center)やサイバーエージェントのAI研究部門「AI Lab」において社会科学系の研究者が起用されたりと、文系アカデミック人材の民間登用が少しずつ進んではいる。しかし、藤嶋さんのような人文科学系の研究者を雇用するケースは、かなりレアだろう。
テック企業に身を置く人文系研究者として、藤嶋さんがいま考えている人文知の展開の仕方は「研究者側からのパッケージ化」だ。たとえば、ダイバーシティの表象で広告が炎上することを事前に防げるように、個人レベルでのアドバイザリーを超えて、何か仕組みやパッケージを作るというアイデア。たしかに、炎上による損失規模に鑑みると、未然に防ぐための投資は企業としての経済合理性にもかなっているだろう。実際、人文知を活かしたビジネスを展開する企業が少しずつ現れはじめており、国内では博士による人文知提供のプラットフォーム「QES」、人類学的手法を活かした調査・コンサルティング会社「ideafund」などがある。こうした「パッケージ化」が進んでいけば、冒頭でも触れたポスドク問題の解決に寄与する、一つの糸口になるかもしれない。
「ありのままが美しい」?──ポジティブ“すぎる”ことがはらむ怖さ
研究者として欲望が形作られるアーキテクチャの解明に取り組む一方で、藤嶋さんはもう一つ別の問題に、文筆によって向き合っている。それは「生まれてしまった欲望といかに付き合っていくか」という問題だ。研究で取り扱っているメディア論や産業史といったメタ的な視点ではない、藤嶋さん個人の身体感覚にもとづいたファッションにまつわるエッセイを、文芸誌・思想誌やマス向け媒体で執筆している。
その背景には、そもそも藤嶋さんにとって、ファッションがきわめて実存的な問題だった過去がある。
「私は研究者を志す前、学部生のときくらいまではずっと、ファッションデザイナーになりたかったんです。学部時代にはロンドン芸術大学セントラルセントマーチンズに留学してファッションデザインを学びましたが、商業ファッションのスピード感のある制作が、頭でっかちにコンセプトばかり考えてしまう自分には合わなくて、研究者としてファッションにかかわるほうに切り替えたんですけどね。私にとってファッションは、幼少期からすごく重要な対象でした。特に幼少期から20代くらいまでは、自分が凡庸な人間であることにすごくコンプレックスがあって。だからこそ派手な服を着たり、ロリータやパンクといったニッチなカルチャーのコミュニティ入ったりすることで、『変わった人』の称号を得ようとしていました。服や装いは、自分のアイデンティティにおいて大事な問題だったんです」
『ユリイカ』2019年8月号の巻末エッセイ「脂肪の塊、「私」と私だったもの。」、『現代思想』2020年3月臨時増刊号での論考「身体を受け入れること、身体を手放すこと。――ボディポジティブは誰のために、そして誰を突き放すか。 」、そして朝日新聞での「ありのままが美しい」というムーブメントについてのコメントでは、ブランドやメディアが作り出す「理想的な身体」の権力性について書いていた。従来の美の定義から外れ、プラスサイズの体をありのままに愛そうというムーブメント「ボディポジティブ」が、結局は「美しさ」という単一の価値基準に回収されてしまっている旨を、藤嶋さん個人の美容整形の体験やコンプレックス感情に根ざして批判的に論じている。いわゆる紋切り型の“リベラル批判”ではない、藤嶋さん自身の実存的な感覚に根ざして書かれた、心打たれる試論だった。
「もちろんプラスサイズはポジティブで良いものだと心から思っていますし、研究として取り扱っていたら『ポジティブであるべきだ』と言っていたかもしれません。でも、ポジティブすぎることが持つパワーの強さへの違和感を覚えて、自分が置いていかれてしまっている気がしたんです。『自分に自信を持とう』という言い方ではなく、もっと個人の自己満足の部分、足元の欲求や欲望に目を向けてあげたほうがいいのではないかなと。誰かに会う時に好きな服を選ぶことへの楽しさとか、新しい服に袖を通すときの嬉しさとか、彼氏が欲しくて痩せたくなる気持ちとか、そうした個人的な気持ちを『異性の目線が…押し付けられた規範が…』という大きなフレームワークだけに回収させるのは、自分自身の経験も消化できないように感じています」
自身がファッションをめぐる欲望に大きくアイデンティティを規定されてきたからこそ、藤嶋さんはそうした欲望を肯定することも大切にしているのかもしれない。苦しみにつながる欲望を生み出す構造を批判することはもちろん必要だが、批判したからといって、リセットボタンを押せるわけではない。すでに生じてしまった欲望を自然に肯定できることもまた、必要な生の技法なのだ。
「美容整形をした人の葛藤や複雑な生い立ちについてのルポなどを読むと、容姿にすがることが人生におけるある種の救済になっている人がいることもまた事実だとわかる。かつての私もそうでした。もちろん、そうした思考はルッキズムと紙一重で、マーケティングによって形作られる欲望は苦しみの強化につながりうるので、慎重になるべきだとは思います。しかし、果たしてそれが全部なくなったら幸せになれるのかと考えると、そんなことはない気がしています。ありふれた欲望やそれにすがって生きてきた人たちを置いてきぼりにしないでいたいんです。欲望が楽しさにつながっているところもあると思うので、ほどよい頃合いに戻してあげたい。他者の容姿にあまり踏み込むべきでないという認識を広めていき、自分の身体にもう少し寛容になるための、やわらぎのようなものを作っていきたいんです。このトピックに関しては研究として向き合うことが難しいと思っているので、あくまでもエッセイとして書いています。もっとも、こうした書き物のほうが研究より反響があるんですけどね(笑)」
お金を稼いだり、豊かに暮したりしたっていい。大きなものと小さなものをつなぐ感覚
アカデミアに商業誌、そしてテック企業と、〈横断〉的に探求を続けている藤嶋さん。ロールモデルのような存在はいるのだろうか? まず一人、先ほど紹介した藤嶋さんの論考が掲載されているファッション批評誌『vanitas』編集委員である蘆田裕史の名前を挙げてくれた。京都精華大学で准教授を務めながら、批評誌をはじめ学会以外の議論の場づくり、また本と服の店「コトバトフク」の運営も手がける人物だ。明確な研究拠点がないファッションの世界で、自発的に場作りに取り組む蘆田の存在はロールモデルとなっているという。それに加えて、「生き方のロールモデル」として、意外な人物たちの名前が出てきた。
「すごくふわっとした話になってしまうのですが、民間企業に入ってから関わっている人たちには、とても刺激を受けています。アカデミアでの就職を目指しているときは、『お金がほしい』『豊かに暮したい』と言うこと自体がよくない、研究者として生き残っていくためには諦めなければいけない考えだ、といった感覚がありました。でも、民間企業に入ってから出会う人たちの生き方に対する考え方に触れて、考えが変わったんです。より良い給料や環境のために転職することは当たり前で、生活をより豊かにすること、目標ややりたいことに折り合いをつけて生きていくことも大切なんだなと。人は毎日、家族やパートナーといったさまざまな人との関係性の中で生きていくものですし、そこにはいろいろな選択肢があるべきだと思います。SNS上でも身近な人間関係でも、成功した人の声が大きく見えますが、研究から離れた人たちの生活も続いていく。かつての私は『就職できなかったら終わりだ』と考えていたのですが、もう少し柔軟に、専業の大学教員ではない選択肢もあっていいのではないかなと思うようになりました。特にいまは副業や兼業ができる会社や、裁量労働制やフレックス制を採り入れている会社も増えています。先ほどのボディポジティブの話にも通じますが、大きな正義や理想と、目の前の身近で起きていることとの折り合いは大切だと思うんです」
〈おそらく、一つの内閣を変えるよりも、一つの家のみそ汁の作り方を変えることの方が、ずっとむつかしいにちがいない〉──『暮しの手帖』初代編集長であり、衣食住という生活を守ることに心血を注いだ、花森安治の言葉である。藤嶋さんの「大きな正義や理想と、目の前の身近で起きていることとの折り合い」についての言及を聞き、この花森の言葉が思い起こされた。これは筆者の憶測だが、花森が「暮し」に徹頭徹尾こだわった背景には、彼が戦時中は大政翼賛会宣伝部の一員として、国民を「大きなもの」に向かわせてしまった苦い経験があるのかもしれない。藤嶋さんが民間企業に入って得た気づきからは、かつて花森が説いたような、大きなものから「生活」を守ることの重要性が浮かび上がってくる。
欲望が形成されるプロセスをメタ的に研究しながら、作られてしまった欲望との付き合い方への目配りも忘れない藤嶋さんが持っている、大きなものと小さなものをつなぐ感覚。それこそが、〈横断〉的に生きていくために必要なのかもしれない。そもそも「界隈」や「業界」なんてものは、便宜的につくりあげた概念、「大きなもの」にすぎないのだから。
[了]
この記事は小池真幸が聞き手・構成をつとめ、2021年6月24日に公開しました。photo by 高橋団
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