友人のカメラマンと一緒に、久しぶりに横浜に出かけてきた。
 目当ては横浜港近くに展示されている全高18メートルのガンダムだ。18メートルというのは作中の設定通りの大きさで、これは言ってみれば「実物(もクソもないのだけれど)大のガンダム」ということになる。10年ほど前にもこのサイズのガンダムが造られてお台場で展示されていたのだけど、この横浜のガンダムはあのお台場のガンダムとは違う。このガンダムは「動く」のだ。

▲元町・中華街の駅で待ち合わせた僕たちは間違えて、1本横の道路を歩いてしまった。そこからはガソリンスタンドの向こうに小さくガンダムが見えた。ガンダムを僕たちの日常のスケールで感じること。18メートルというのはこういう大きさなのだと、その日いちばん強く感じたのはこの瞬間だった。(写真:蜷川新)
▲山下公園を通り抜けるとガンダムドックが見えてくる。この建物にはコラボカフェや限定プラモデルのショップが併設されている。(写真:蜷川新)
▲横浜のガンダムは1時間に1回この格納庫(ガンダムドック)からせり出してきて「起動実験」を行う。人が乗り込まない、建築物としての巨大ロボットがそこにはあった。(写真:蜷川新)

 もちろん、「動く」と言っても首や手足の関節が運動するだけで、歩くわけではない。それどころか、このささやかな運動性能と引き換えにこの横浜のガンダムは自立することすらできずに、常に半分格納された状態で支柱に支えられている。そのガンダムが1時間に1回「起動実験」と称して、その屋外格納庫から半歩踏み出して、手足や首を動かす。それは小さな、ささやかな運動で、まさに起動実験を思わせるような「動かしてみる」ことそのものを目的にしたものだった。僕がこう書いてしまうと、もしかしたら「なんだ、そんなものなのか」と思う人がいるかもしれない。しかし、だとしたらそれは大きな間違いだ。奇妙なことに聞こえるかもしれないけれど、僕はこの小さな、ささやかな起動実験に逆に心を掴まれたのだ。横浜のガンダムにとって、ゆっくりと半歩足を踏み出すこと、腕を胸のあたりまで上げることはたぶん、いや、間違いなく大変なことだ。それがそのぎこちない動きから、とてもよく伝わってきた。あの大きさのものを少しでも動かすことがどれだけ困難なことか、いま、僕たちがこうしたものにつぎ込むことのできる技術と時間と予算を総動員して、やっとこれだけ動かすことができる──あの横浜のガンダムはそれを自由に「動けない」ことで伝えてくるのだ。アニメーションが動くことで伝えることとは、まったく異なるものを横浜のガンダムは自由に「動けない」ことで伝えてくるのだ(そのぎこちなさが演出ならば、尚のこと素晴らしいと思う)。
 そして、やっとのことで足を踏み出し、腕を上げるあのガンダムを見上げることで、僕は思った。僕たちにはまだたくさん、たくさんやるべきことが、実現すべきことがある。横浜のガンダムは「できない」ことで、「できない」のだけれど全力で「できる」ことまでやって見せてくれたことで、そう思わせてくれたのだ。

▲全高18メートルの巨大ロボットが、目の前で動く。そうすると人間は一瞬だけ、自分のことを忘れてただ呆然とする。まったく役に立たない、ただ夢を見せるためだけのロボットが、それを実現する。(写真:蜷川新)

▲このガンダムは武器を持たない。それが平和的で、人にやさしくて素晴らしいなんてことはさすがに思わない。しかしアニメの中の(そしてプラモデルの)ガンダムが敵を倒すためのものであったこと、敵を倒すために身体を拡張するためのものであったことの意味はとても大きいはずだ。乗り込むこともできない、敵を倒すこともできない、だからこそ生まれているこの大きな、大きなガンダムの魅力について考えたのがこの文章だ。(写真:蜷川新)

 それともうひとつ。考えたことがある。
 モビルスーツというのは、いや、そもそも日本のアニメーションにおいて一大分野を築いてきた(人工知能の夢を追求するものではない)人型の兵器としてのロボットとは、身体拡張の快楽、とりわけ少年の成長願望に訴えるものだった。鉄人28号からマジンガーZ、そしてガンダムからエヴァンゲリオンまで──少年が、博士や軍の司令官である父(的な存在)が作り上げた虚構の身体を操ることで、大人たちの社会に参加するという構図を反復しているのはそのためだ。かいつまんで述べれば自動車やオートバイに20世紀人が見出していた鋼鉄の身体を操る快楽をロボットに取り入れたのがマジンガーZで、父に導かれた社会化の契機であると同時に母胎回帰への欲望という矛盾するものを同じ機体に重ね合わせることで思春期のゆらぎを表現したのがエヴァンゲリオンだ。
 では、その中間にあるガンダムとは、モビルスーツとは何か。それは、こうした身体拡張の快楽が自己選択や自己表現に結びつけられたものだ。それまでの日本のロボットアニメが描いてきた身体拡張の欲望が、軍事兵器という決して自分のために作られたものでは「ない」もの(工業製品)を使いこなし、成果を上げることによって充足される。つまり(丸山男的に述べれば)「である」ではなく「する」ことで実現される。「ぼくが、一番ガンダムをうまく使えるんだ」というアムロの自意識はそのことを示している。これらの身体拡張の欲望は、戦後日本のもつ少年性(マッカーサーの述べる「12歳の少年」の抱える敗戦国であることのコンプレックスや、マチズモへの屈折した憧れ)と結びついていたものだった。
 しかし、モビルスーツは「ガンダム」の続編群の中で徐々に戦後日本的な少年性を消失し、むしろ(まるで今日におけるSNSのアカウントのように)現代人の肥大した自意識の表現として(富野由悠季による『機動戦士Zガンダム』から『機動戦士Vガンダム』までの続編群など)、あるいはもはや成熟を必要としない美少年キャラクターの全能感を表現するアクセサリーとして(『新機動戦記ガンダムW』『機動戦士ガンダム00』など)多様化していった。
 詳細な議論は、僕が以前書いた『母性のディストピア』という本に論じてあるので、それを読んでほしいのだけれど、ここで重要なのはむしろ、横浜のガンダムの巨大さはそういった身体拡張の欲望を結果的に遠ざけていることだ。

 作中の設定通り全高18メートルのガンダムを前にしたとき、自動車やオートバイのもつ身体拡張の快楽を人間が感じるのは難しい。それはまず、巨大な建築物として僕たちの前に顔を出す。半格納された状態からゆっくりと起動して、そしてやっとの思いで半歩足を踏みだし、腕を振り上げるあのガンダムを眺めていると、それが僕たちの拡張された身体でもなければ、依り代でもなければ、アバターでもなければ、ソーシャルメディアのプロフィールアイコンでもない構造物であることがよく分かる。
 それは個人の全能感を擬似的に実現するものではなくて、むしろ僕たち人類全体の、現実にはまだここまでしかできないという不全感を共有するものだ。そしてだからこそ、いつかもっとできるようになりたいという夢を共有できる。それは、大人たちの子供じみた夢の結晶なのだ。

▲横浜出身の友人はこの20年で、横浜の港近くはがらりと変わってしまったと言った。そこには何もなかった。土地の記憶(歴史)ごと、忘れ去られようとしていた場所だった。そんな場所が、きれいな公園に生まれ変わった。いろいろなものを封印することでとても、気持ちのいい場所になった。そんな港の片隅にいま、ガンダムが立っている。

[了]

この記事は、2021年1月21日に公開しました。