「庭プロジェクト」とは、これからのまちづくりについて、建築から人類学までさまざまな分野のプロフェッショナルが、官民産学を問わず集まって知恵を出し合う研究会です。
第14回の研究会では、社会学者の南後由和さんがゲストスピーカーとして登壇しました。テーマは都市における〈ひとり空間〉の効用と、その現代都市における実例です。
「庭プロジェクト」の連載記事は、こちらにまとまっています。よかったら、読んでみてください。
端的に言うとね。
揺れ動く、パブリック/プライベートの「境界」
「ひとり空間の都市論」をはじめとするユニークな都市・建築論に取り組む社会学者の南後由和さん。「庭プロジェクト」の第14回の研究会の後半では、ゲストとしてお迎えした南後さんによるプレゼンテーション「これからの〈公共〉は〈ひとり空間〉から立ち上がる」をもとに、参加メンバーによるディスカッションが行われました。
まず南後さんの主著である『ひとり空間の都市論』(筑摩書房、2018)で「語られていない」論点として、ケアや再生産について問いを投げかけたのは、建築家の門脇耕三さんです。
「昨今は晩婚化や出生率の低下などが問題視されていますが、〈ひとり空間〉が増えていくと、どうしてもケアや再生産の問題が出てくる。そのあたりを南後さんはがどうお考えかなというのはぜひ聞いてみたいです」(門脇さん)
「おっしゃる通り、弱い『ひとり』をめぐる人たちの、つまり『ひとり』で自己完結した生活を送れない人たちのケアの問題は、重要なテーマですね。ただ、そもそもケアの問題は、たとえば孤独死や無縁社会をめぐる問題、あるいは『社会的処方』といった形で、既にいろいろ議論がなされていました。とりわけ東日本大震災のときには、良くも悪くも『みんな』という言葉が台頭するようになりましたよね。
もちろんそうした議論の切実さはわかりますが、一方で、『ひとり』をめぐる議論を、単に市場のニーズに還元されない形で確保することが重要なのではないか。そう思って、あの本では当時あまり注目されていなかった〈ひとり空間〉の問題と都市の関係の歴史的な変遷、さらにそれが情報化によってどう変容しているかについての話を中心に扱いました。『みんな』の空間のレイヤーと、〈ひとり空間〉のレイヤーは、それぞれ個別化して乖離し、なおかつ商業空間に囲い込まれて市場の原理に覆いつくされています。ですからそれらの交わり方や、それらの間にどういった建築やパブリックスペースがあり得るのかということを考えていきたいんです」(南後さん)
「みんな」の空間と〈ひとり空間〉の新たな交わりや「間」を考えるという話題は、さらに「境界」に関する議論へと展開していきます。
「『ひとり』でいる空間とそうではない空間がスイッチングできる境界についての議論にも踏み込んでいきたいです。今日も南後さんからはいろいろ境界的な理論が出てきて面白かったですが、コロナ以降の新しい境界というものが考えられるのではないかと思っています。たとえばバーチャル背景も、一種の私的な空間がもう一度パブリックに接続するときの境界じゃないですか。スイッチングできるような境界やその多重性、あるいは視覚的境界とそうではない境界……そうした議論がさらに高い精度でできると、より都市設計にもフィードバックしていけるのではないかと思いました」(門脇さん)
「プレゼンテーションでも引用したゴッフマンの議論には『表舞台』と『裏舞台』という言葉があって、それはまさに境界の話です。『裏舞台』というのは、これまで秘密であったりプライベートの場所として隠されている領域を指します。それがコロナ禍以降、たとえば初対面の人ですら、Zoomで背景が見えたりすると、その人がどんなインテリアの部屋で生活しているかがわかったりする。そのような裏舞台を覗き見する・覗き見られる感覚というのが、コロナ禍におけるオンライン会議やリモートワークの普及において起きてきた。物理空間と情報空間を横断しながら、パブリックとプライベートの境界が書き換えられつつあるのだと思います」(南後さん)
乗り物、あるいは「聴覚」から立ち上がる〈ひとり空間〉
続けて南後さんに質問したのは、デジタル・ファブリケーションや3D/4Dプリンティングなどの研究者・田中浩也さんです。まず田中さんは「モビリティ」という観点から問いかけました。
「最近、僕個人としては自転車に乗る機会が増えたのですが、車に乗っているときには個人の空間が増えるという議論もありますよね。乗り物に乗っているときの〈ひとり空間〉というのは、南後さんのなかでどのような位置づけなのでしょうか?」(田中さん)
「乗り物としての〈ひとり空間〉への欲求というのは、地方のほうがより顕著かなと思います。今日は主に都市における〈ひとり空間〉についてお話してきたのですが、地方のほうが商業空間化されている〈ひとり空間〉が少ない。かといって地方にいる人が『ひとり空間』に対する欲求が少ないかというとそうではなくて、たとえば家族と暮らしていて、お父さんが『ひとり』になりたい時間に個室があればいいけれど、個室がない場合もある。そうすると『ひとり』になりたいときは、車を運転してどこかに行くことでリフレッシュする、といったこともあるでしょう。
そうした乗り物について考えるときに浮上してくるのは、速度の問題です。都市には、車の速度、自転車の速度、歩行の速度など、さまざまな速度がある。そして車の場合だと、ひとつの物理的空間の中で〈ひとり空間〉が完結するのに対して、『歩く』や『走る』などのほうが、都市における環境的なエレメントや物理的なエレメントと、人間の身体との相互作用という点において、〈ひとり空間〉のあり方に多様性が生まれるのではないかと思います」(南後さん)
さらに田中さんは「視聴覚」という観点からも質問を重ねます。
「もう一つは視覚と聴覚の話なのですが、オンラインでのコミュニケーションが増えて、聴覚のやりとりがよりきめ細やかになったと思うんですよね。音をどう遮断するかというのは、Zoom空間においてはけっこうキーになってくる気がしていて。たとえば、オンライン会議のときに誰かがマイクをオフしていないと、周りの喧騒がぶわーっと入ってきてみんな嫌じゃないですか。逆に自分がしゃべるときは、周りが静かな場所じゃないと、雑音で迷惑をかけてしまう。
リアルな空間では視覚を優先してきたかもしれないけれど、Zoomがメインになってからは、音や周辺の雑音といったノイズをどうマネジメントするのかということがすごく大事になっていて、ここ数年で知らぬ間にそうしたスキルが高まっている人も少なくないと思うんです。そう考えると、オンライン空間では聴覚的な〈ひとり空間〉の隣接空間があり得るのではないかなと」(田中さん)
「音の遮断に関しては、個室内個室である『近隔型』の事例が当てはまりますね。先ほど紹介したひとりカラオケも防音ですし、駅前にあるSTATION WORKのも視線だけでなく音を遮断しています。視線以外の遮断、音の問題というのは、たしかにこの2020年代においては面白いトピックだと思いますね」(南後さん)
〈ひとり空間〉は政治的に擁護しうるか?
終盤では評論家 / PLANETS編集長の宇野常寛が、〈ひとり空間〉の持つ政治性について問題を提起しました。
「僕は都市の〈ひとり空間〉がケアや福祉の観点から〈ひとり空間〉が批判されるということに、正直に言えば居心地の悪さを感じています。本人の選択の結果としての『孤独』と望まれない『孤立』との区別が、なかば意図的に忘れられている議論も多く、南後さんの〈ひとり空間〉を都市の多様性の観点から擁護する議論は、とても大事だと感じました。
その上で僕から付け加えたいのが、〈ひとり空間〉の政治的、社会的な重要性です。たとえば端的に、現役世代の特に女性に偏りがちな家事負担を軽減するために重要なのは、家事をアウトソーシングするサービスの発展で、これは南後さんの発表にあった〈ひとり空間〉の機能と大きく重なります。
安価に家事や育児をアウトソーシングできる単身世帯のためのサービスの充実が、結果的に家事労働におけるジェンダーギャックを解消する、という側面は過小評価してはいけないと感じました。『ひとり』でも生きていける都市環境こそが、政治的、社会的に自由かつ平等な社会に近づくということが積極的に評価されてもいいのではないでしょうか。少なくとも『ご近所』の人間関係に依存するようなモデルよりは、手厚い再分配を前提にサービスで家事や育児や介護をアウトソーシングできる環境のほうが、フェアで安定性があることは疑いようがないと思います」(宇野)
さらに宇野は〈ひとり空間〉をめぐる政治性の議論を、公共性にかかわる問題まで発展させていきます。
「都市にはなぜ『ひとり』でいられるパブリックスペースが必要なのか。その仮説の一つとして、『ひとり』で生きられるパブリックスペースというものは、人間のポジティブな市民化を促すのではないかと思っています。僕は、人が人と話しているときは意外と公共性に接続しないと思っています。このとき接続しているのは、むしろ共同性であることのほうが、SNSを通じてあらかじめ『ふるい』にかけられてしまうこともあり、圧倒的に多いはずです。むしろ、今日においては孤独に事物と接続する状態のほうが公共性に接続するのではないかと。
以前この研究会でも紹介してもらった田中さんのサーキュラーエコノミーの取り組み(参考:ポスト・スマートシティの都市を構想する──「デジタルものづくり」から考える|田中浩也)が面白いと思うのは、ゴミを捨てるときは実は『ひとり』だからです。ここではゴミの分別という行為にゲーミフィケーションを施して、市のサーキュラーエコノミーに巻き込もうとしている。この『ゴミ捨て』は意識の高い市民同士が『対話』するものとはかなり異なっていて、直接的には他の人間ではなく事物としかかかわっていない。そして、否応なく人間が出してしまう「廃棄」という行為でそれが行われている。田中さんはそれを「静脈」的なアプローチと形容するわけですが、ここには「ひとり」だからこそ接続できる公共のモデルがあるように思います。この視点から、もっと大きな声で都市には「ひとり」で過ごすための場所や、そのインフラが必要なのだと主張することができるのかもしれないと思います」(宇野)
「たとえば都市計画や建築計画の場合だと、かつては『住民参加』や『プロ市民』といった議論があり、近年はワークショップなどを通じたコミュニティデザイン、さらには社会実験のような形に変わってきています。公共空間の変化に『関与』できる層という意味合いで言うと、たしかに広がってきている。
けれども、たとえコミュニティデザインや社会実験であれ、そのコミュニティやプロジェクトに関わっている人とそうではない人たちの境界があって、そこから取り残されたり、それに関与できなかったりする人たちがいる。そうした人たちが、自分たちが住んでいる市とのつながりであったり、そこに対してのシビックプライド的な意識をどう持ちえるのか、そういった人たちをも含めた都市政策や自治をどう考えるのか。
このような観点を踏まえると、コミュニティありきやコミュニティデザインありきで出発するよりは、いまの宇野さんの言葉を借りれば、『ひとり』に関係した事物から出発する、バラバラな『ひとり』に解体した次元から、どうそれらをつなぎ合わせることができるかを考えることに関心がありますね」(南後さん)
[了]
この記事は小池真幸・徳田要太が構成・編集をつとめ、2024年10月3日に公開しました。Photos by 蜷川新。